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Heart on the water

「亮くん、葵ちゃんたちと一緒にキャンプへ行ったんですってね?」

 響子さんが、俺に珈琲を運んできてくれるなり、そう言った。

 ここは喫茶館。この夏休み近は海へ山へ大忙しだった俺は、久しぶりに喫茶館の美味しい珈琲が堪能したくなり、そろそろ残りが気になりだした宿題を放り出して、お邪


魔してしまったのだ。しかし実を言うと、あの晩……響子さんをストーカーから救い出した晩だ……から、響子さんに会うのが照れ臭かった。何故ならあの時、響子さんの


「あからさまなお誘い」を振り切ってまで帰ってしまったのもあるし、ひょっとしたら、響子さんのプライドを傷つけてしまったりしたのではないか、と不安もあったから


だ。もっとも、これに関しては、俺の想像の粋を出ないけど。

「そうだよ、遠藤に聞いたの?」

「ええ。キャンプの帰りだったみたいよ」

「へぇ……元気があって大変よろしいね」

 マスター特別ブレンドを一口啜る。少し疲れた身体に、心地良い苦味が染み渡っていった。

「やだ、亮くんったらオジさんみたい」

 くすくすと笑う響子さん。良かった、特に、あの晩の事を気にしている訳でもなさそうだ。その笑顔が、何かの感情を包み隠しているものではないと思ったから。

 ふと、彼女の全く日に焼けていない真っ白な腕が目に入り、対照的に真っ黒に焼けた自分の腕と見比べた。

「響子さんは、やっぱり日焼けとか気をつけてるの?」

「気をつけてるも何も……殆ど外にすら出てないわ。ここのアルバイトと学校と家を行ったり来たりするだけだもの」

 そこで響子さんは、ちょっと腰をかがめて、椅子に座っている俺と同じ高さの視線になり、

「ね、亮くん」

俺の顔を見つめた。……ああ、何と言っても綺麗な人だな、響子さんは……彼女にお願いされたら、どんな男でも、そのお願いがどんな無理難題でも、叶えてやろうとする


だろう。

「夏が終わる前に、せめて一回くらいは泳いでおきたいの。それに、プールのチケットをペアで知り合いにもらったし、私も何とか時間を作るから、一緒に行きましょう?


 ペアって事は……当然瑠璃抜きか。あいつを一人置いて遊びに行くのは何となく後ろめたいが、ペアチケットでは仕方あるまい。

「都合が悪いの?」

 ……彼女のお願いを断れる男などこの世にはいない事を、早速証明する場面が来たようだな。

「それとも……亮くんはそんなに日に焼けてるから、もう泳ぎ飽きた?」

「いやいや、そんな事あるわけない。正直、泳ぎ足りないくらいさ。いいよ、行こう。で、どこのプールなの?」

「隣の、小磯町の「オマハビーチ」よ」

「うわー……」

「広い、わねぇ……」

 数日後。俺と響子さんは、「オマハビーチ」のプールサイドに立って、思わず歓声を上げていた。この「オマハビーチ」は、大小様々なプールからなる巨大な水の遊園地


みたいなもんだ。その広さたるや、一日では遊びつくせない程の大きさだ。有名ホテルも敷地内に建てられているから、泊りがけで遊びに来いって事なのか?県下のみなら


ず、その名声は全国に轟く。俺と響子さんも名前は勿論知っていたが、高価い入場料もあって、来るのは初めてだ。

 人出も多いが、広大な敷地の中にあるプールの数も多いから、遊ぶのに人が邪魔という事はないだろう。しっかし……これだけプールがあると、どこから遊ぼうか迷って


しまうな……

「えーと……更衣室はどこにあるのかしら……?」

 あまりに広大な夏の風景に目を奪われてしまった俺は、とっとと着替えて遊ばないと時間がもったいないという、当たり前の事実を思い出した。

「隅っこの方にあるみたい。多分亮くんの方が早く着替え終わるだろうから、先にテントに行ってて」

「OK、じゃ待ってるよ」

 響子さんは、微笑んで手を振り、更衣室の方へ歩いていった。

 実にゼイタクな事に、響子さんがもらったチケットというのは、本来なら、借りるのにイチマンエンも取られるレンタルテントなどの料金なども全て込みの物だった。い


やー、これを放出した友達というのも、かなりの太っ腹だな。

 まぁ、そのテントで着替える事も出来るんだろうけど、なるべく広い所で着替えたいだろうし。ちなみに、俺は既に海パンだから、更衣室には行かずにテントの中で勢い


良く上下を脱げば、準備は完了だ。いや、テントの中にすら入る必要がないのか。ま、男子のたしなみとしてだな。

 しばらく、プールの煌きに目を細めながら、青い空を見つめる。自然の中としての大海原もいいものだけど、常に衛生管理が行き届いているプールの水の青さもいいもの


だな。どうせなら、瑠璃も連れて行きたかったが、愛菜ちゃんと宿題をする約束をしていたようで、朝から家を出て行ったし、なんと言ってもチケットは二枚しかない。

 うーん、早く泳ぎたいぜ。……とは思ったものの、日焼け跡がまだちょっと痛い。まぁ、それも夏の風物詩だと思って、甘んじて受け入れようか。この期に及んで、日焼


け止めを塗るなどという女々しい選択肢は、この俺には絶対にない!!日焼けの痛みなど、甘んじて受け入れ、屈服するものか!!

「お待たせ、亮くん」


ぺち。


「い痛゛っ!!!!」

「だ、大丈夫、亮くん!?」

 響子さんが不意打ちに、一番日焼けの酷い背中の辺りを叩くと、俺のさっきの心意気も一気にくじけそうになった。

「だ、大丈夫……ヒリヒリするけど」

「そんなに痛いの?今日もいい天気だから、気を付けたほうがいいんじゃない?」

「大丈夫大丈夫。今年は、冬まで日焼け跡が残るまで身体を焼こうと思ってたから」

「そう……?」

 心配げな響子さんを安心させるべく、自分でギリギリ手の届く所で背中を叩いた。痛っ!!!!くないぞぉぉぉ。

「ほれ、この通り」

「分かったわ。無理しないでね」

 俺がやせ我慢をしているのは分かっているだろうが、一応納得はしてくれたらしい。

……

…………

………………

 それにしても、だ。響子さんの水着姿、予想はしていたけれど……とっても綺麗だ。女性の誰もが羨むような、完璧なぼでぃ。ちらりと拝見した所、カップは……でぃー


?俺の概算によると、スリーサイズは上から89・56・88というすばらしい数値が弾き出されました。しかもそれを包むは、シンプル・イズ・ベストな上下黒のビキニだ


。イヤらしい目で見るのが失礼に当たる程、神々しかった。本当はもっと見ていたいけど、そんな目で見るのは、響子さんだってイヤだろうし、こっちはこっちで照れがあ


るから、どうしてもちらちらとしか響子さんと視線を合わせることが出来ない。でも、そんな心理も、響子さんにはとうにお見通しだろう。その証拠に、何だか全てを理解


したような、優しい微笑みを浮かべているから。

「くす。亮くん、ちょっとくらいなら見てもいいのよ」

 ほらね。背中を向けた俺に、からかうような言葉を掛けてくる。今の状況で、その言葉は意地悪だよ、響子さん。

「本当に……見てもいいのよ。身体を見られたくも無い相手を、プールに誘うと思う?」

「そ、そうだけど……」

「亮くんって、本当にカワイイ。あの時、身体を張って私を助けてくれた人とは別人みたいよ」

 思わず頬が熱くなる。俺だって経験は積んでるつもりだが、「超」が付くほどの美人に「可愛い」なんて言われたら、気恥ずかしいやらちょっと悔しいやらで、何とも言


えない気分になってしまうではないか。

「……じゃ、代わりに私が亮くんの身体を見させてもらって良い?」

「え?」

「だって……亮くんって、いい身体してるんだもの。服の上からじゃ分からなかったけど、かなりの筋肉質なのよね……殆ど脂肪が付いてないから、着やせするのも尤もね


 そう言いながら、俺の腹筋をつつこうとする……

「わわ、何してんの」

「え?見事に割れてるなって……私、こんな腹筋始めて見たわ」

 ……何だか響子さんの表情がうっとりとして来た様な……

「はは……ひょっとして、響子さんって筋肉フェチ?」

「そうかも知れないわね」

 あっさりと肯定してしまった。まあ、人の嗜好は人それぞれだけど……

「……なーんてね。びっくりした?」

「な、何だよ、嘘か……」

「本当よ」

 響子さんは悪戯っぽくそう言って、少し走ってから

「ほらー亮くん、早く泳ぎましょ」

 と、手を振って俺を呼んだ。

 ……響子さんって、お茶目だよな……それとも、プールに来た開放感ではしゃいでるのかな?いずれにせよ、彼女にこんなお茶目な一面があるとは知らなかった。今まで


は、優しいお姉さんという目でしか見ていなかった俺は、人と付き合うという事は、日々人の新たな一面を発見していく事だという当たり前の事実に、今更ながら気付いた。

「あははー♪」

「うふふー♪」

 輝く水の中で、俺達は時間を忘れてはしゃぎ回る。周りの人間など目にも入らず、ただ二人だけで戯れあった。……まあ、第三者から見れば非常に能天気でお目出度い男


女に見えるかもしれないが、とにかく理屈抜きで楽しかった。

「はぁはぁ……響子さん、そろそろ……腹が減らない?」

「はぁはぁ……そ、そうね……一旦上がりましょうか」

 時計を見ると、時刻は12時過ぎ。腹が減るのも尤もだ。泳ぎ始めたのが10時頃だから、腹が減るまでその事実に気付かない程ノンストップ・ハイテンションで遊んで


いたとは……しかし確かに、響子さんと遊ぶのは楽しい。「超」美人と一緒に居るという心理的効果もあるんだろうけど、掛け値無しに響子さんと話をするのは楽しかった


。今まで、喫茶館の中でしか話した事はないし、アルバイトの途中という事もあってか、そう長話をせずに顔見知りになってしまった。すでにその時から、珈琲と共に響子


さんとの世間話を楽しみに喫茶館に通っていたんだけど、それは多分に客と店員の関係の延長だったような気はする。しかしこうして親しく接してみると……会話の節々に


彼女のインテリジェンスが光る。俺の他愛ない質問にも淀みなく答え、また俺に話を振ってくる。鈍いオツムではこうは行かない。頭の良い女性は、俺の好みのタイプの一


つでもある。というか、それが先ず絶対条件だな。

 他の男の視線を釘付けにして止まない、完璧な女性の響子さんを、今俺が独り占めしているという事実は、俺のちっぽけな自尊心を十分満たしてくれるどころか、溢れて


流れ出てしまい、もったいなくて仕方がない位だ。

 水の中からプールサイドにてを掛け、身体を引き上げようと思ったところで、思ったように力が入らないので、少し戸惑った。それもその筈、泳ぎに行くという事で、割


りとしっかりめに摂ってきた筈の朝食も、胃の中には全く残っていない。泳ぎ疲れもあって、全く力が出ないのも当然だ。見れば、響子さんもちょっとしんどそう。何とか


プールサイドに上がり、水の中の響子さんに手を差し伸べる。

 それを見た響子さんは、眩しそうに俺を見てから、ぐっと手を掴み、

「ん……わわわっ!?」

 俺を水の中へ引っ張り込んだ。


どっぼーん!!


 派手な音を立てて、頭から水没する。不意だったから、鼻に水が入っちまった。慌てて水の上に出ると、響子さんはけらけら笑っている。そのあまりの陽気さに、さしも


の俺も呆気に取られてしまうのだった……。

「しっかし、何でもかんでも高いよな、値段が」

「そうねぇ。夏が書き入れ時……と言うより、秋になったら休業状態になるから、今の内に稼いでおきたい気持ちは分かるんだけどね」

 そう、こういうところは何をするにも金が掛かる。その上、料金も割り増し感ありありだから、余程金を持っているときじゃないと、ジュースすら飲まないケチな小市民


になりかねない。

 一応、俺は親父に養ってもらっている身だし、アルバイトもしてないから収入は無いに等しいが、そこは親父だ。こういう時の為に、普段の仕送りとは別の「接待費」の


様な枠で金を貰っているから、容赦なく金を落としてやろう。それに、一人暮らしの苦学生な響子さんにそうそう金を出させるわけにも行かない。しきりに遠慮する響子さ


んを説得するには少々骨が折れたが、何とか飲食代は俺が出す事に同意してくれた。

 美人の為に金を使ったといえば、あの親父も無駄遣いと怒るどころか、

「そうだそうだ、男はすべからく女性に貢ぐ生きてるんだぞ。お前も中々女性の扱いがわかって来たようだな」

 とかなり独りよがりの価値観で褒めてくれるだろう。

 テントの中、勿論日陰で、買ってきたホットドッグやら何やらを頬張る。何しろ腹が減っているから、腹に溜まる物が食べたかった。

 ……そういえば、こうして日陰で休んでいると、時折テントの中に入ってくる風が、少し涼しい。そう、8月も半ばを過ぎ、どちらかと言えば終わりに近い。今年の夏は


沢山遊んだと思うけど、まだまだその手を休めるつもりは無い。遊んで遊んで遊び倒してやる覚悟だ。……もっともそうなると、犠牲になるのはお勉強の方なんだけどね。

 遊んだと言えば、小学生までの時間を過ごした、山形での夏がそうだった。あの頃は、野山を駈けずり回って、川で魚を捕まえて……それこそ、朝から晩まで遊び続け、


夜は疲れ果てて眠ってしまう毎日を送っていたっけ。時には、まだ暗いうち……夏の暗いうちだから4時頃だろう……から、じいちゃんの野良作業を手伝った事もあったな


。当時は、それを面倒臭いと思うこともあったけど、畑その場で食べた生暖かいスイカの味は格別だった。他にも、じいちゃんの畑には、キュウリやトマトも生ってたな…


…それも美味かった。生命の恵みって感じだった。今となっては全てが懐かしい。こんな事を考える辺り、俺って山形にいる方が合ってたのかな……別に、今現在に何の不


満もない筈なんだけど……漠然と、瑠璃は田舎は好きかな、なんて考えてみる。

「亮くん、今、何を考えていたの?」

「ん?ちょっと田舎の事を、ね」

「そう……とってもいい思い出だったのね」

「……どうしてそう思うの?」

「だって……素敵な目をしていたもの。懐かしそうで、それでいてちょっと寂しそうで……」

「そ、そうかな」

 て、照れる。意識してやった事じゃないだけに、余計に。既に氷だけになったコーラを啜って、大きな音を立ててしまった。

 響子さんは、そんな俺を見て、優しく微笑むのだった。……敵わないな、響子さんには。やはり、まだまだ女性の扱いに関しては、俺はハナタレ小僧ですね、親父様。

 飯を食い終わり、小休止を挟んでから、再び猛烈なペースで泳ぎ始める。かなり流されるプールや、暑いのに温水プール、ジャグジーのようなものから高飛込みまで……


この時などは、響子さんのビキニのトップが外れそうになって大慌てした。


 そうしてどれ位経ったのか……気が付けば、もう西の空が茜色に染まっていた。

「思いっきり遊んじゃったわね」

「そうだね……二年分は遊んだような気がするよ」

 まだまだ人は多いけれど、俺たちは午前中から泳いでいただけあって、既にクタクタになりかけていた。しかしそれも心地良い。泳いだ後の疲れは、普通に陸上で運動し


た時の疲れとは一味も二味も違う。恐らく、地上では使わないような筋肉を思い切り水の抵抗で酷使するからだろうな。

 プールから上がり、重たい足を引きずって更衣室へ向かう。こうしてみると、さしもの俺も運動不足を実感する。龍志との約束、「秋のマラソン大会デガチンコ勝負」を


交わした以上、無様な姿を晒さないように、そろそろランニングを再開した方がいいな。マラソン大会までおよそ2ヶ月弱だから、何とかなる。やってやろうじゃないか。

 帰りのバスに乗り、椅子に身を任せていると、心地良い眠気がやってきた。目標のバス停まではそれ程離れていないから、このまま寝てしまう訳にもいかない。気合で眠


気に打ち克つ。

「流石に眠く……なる……響子さん?」

俺の隣、窓側の席に座っていた響子さんを見るが……窓に頭を預け、すでに穏やかな寝息を立てていた。ま、無理も無いか。今日の響子さんは、とってもはしゃいでいたし


な。


すー、すー……


 規則正しい呼吸は、彼女が本気で眠っている証拠だ。……こうして寝顔を見ていると、俺とそう歳の変わらない少女に見える。人間、睡眠の時までは演技が出来ないだろ


うから、これが本当の響子さんの姿なのだろう。さっきお姉さんぶられたのが悔しくなるような、あどけない一面を見た気がした。

 このままずっと寝顔を見ていたい気持ちにさせられるが、降りるバス停が近づいてきたので、優しく肩を叩いてやると、

「んん……」

 長い睫が揺れ、物憂げに目を覚ました。

「もうすぐ響子さんの降りる所だよ」

「いつの間にか眠っちゃってたのね、私」

「うん。今日は、ゆっくり寝た方がいいよ」

「………………そうする。また、遊びに行きましょう?」

「うん。今度は瑠璃も誘ってやってね」

「……………………」

 響子さんは、何故か悲しそうな表情で長く沈黙した後、

「ええ。じゃあまた、喫茶館で」

 と、いつもの笑顔に戻り、手を振ってバスを降りていったのだった。……何だったんだ、今の沈黙は?俺、何か……理解に時間を要するような事言ったかな?

 バスが発車し、バス停の近くで振り返り、車内の俺に手を振る響子さんの姿が後方に消えていった。

 帰り道、通り道でもないのに脚が勝手に喫茶館へと向かってしまうのを、自分で制御する事が出来なかった。響子さんはいない、と分かっていて脚が向かうという事は、


俺が彼女目当てに通ってるんじゃないという証拠だな、うんうん。

 からんころろん……と、ありがちなカウベルの音をさせて喫茶館の扉を開く。中には、マスター一人で裁ききれる位の客しかいない。俺以外にも……いや、俺は違うんだ


った……響子さん目当てで通い詰めている客が多いのかもしれない。

「おや、亮くん。今日は、響子君はいないよ」

「マスター……」

「いや、冗談冗談。それでも、普段より客が少ないのは確かだけどね」

「そんな気がする。マスター、いつもの」

 マスターは、相変わらず見事な手つきで豆を挽き、あっという間に珈琲を高そうなカップに落とし始めた。

「そういえば響子君は、友達とプールに遊びに行くと言っていたっけ。余り日に焼けてないといいけど。背中の日焼けは、寝る時に辛いからねぇ」

 響子さんは俺と行ったんですよ、と言う前に、

「急な出費があるから、少し多めにバイトの時間を入れて欲しいって言うから、何だと聞いてみれば、「オマハビーチ」のチケットだって言うじゃないか。あそこのチケッ


トは高いからねぇ。苦学生の響子君からすれば、相当厳しい値段だったんじゃないかな」

 ……え?

 だって、あれは「友達から貰った」んじゃなかったのか?

「でも、その「オマハビーチ」のチケット代を出すくらいなんだから、きっと大事な友達だったんだろうねぇ。あの子は、本当にしっかりしたいい子だからね」

 ……そういう事か。響子さん、俺が恐縮すると思って黙ってたんだな。最初から「友達に貰ったもの」だと思い込んでいた俺は、響子さんが働いて買った事実を知らずに


はしゃぎ、親父の金なのに自分が飲食代を払っていた気になっていた訳だ。それにしても……響子さんがそこまでしてくれる理由は何なんだろう……普通に考えれば、あの


時、ストーカーから救った礼なんだろうな。



 響子さんの心遣いが身に染みたのか、いつものスペシャルブレンドは、いつもよりも苦く感じた。

「今日は、豆の量をやや多めにして、苦味を強調してみたんだけど、どうだい?」

 何も知らないマスターは、相変わらず穏やかな笑みで、珈琲を啜る俺の感想を待っている。

「……今日は、これくらいが欲しかった気分なんだ。丁度いいよ」






 ああ、俺は本当にまだまだ甘ちゃんですよ、親父殿。



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