想い
それから……日が傾くまで、俺達は川で遊び、たらふくバーべキューを食べた。水上のおばさん達は、この材料までも金を掛けたらしく、どう考えても焼肉にして食うのがもったいないような上質のモンだ。油が乗っていて、肉そのものが柔らかい。グラム幾らになるか想像も付かないようないい肉だった。
キャンプの場所にはしっかりとテントを張って、日陰を確保してくれている。日焼けした身体に、冷たい川の水が心地よかった。泳がなくても、河原の石に腰掛け、脚を水に入れているだけで心地良い。澄んだ水が石にぶつかり、弾け飛んだ飛沫が顔に掛かるのが清々しかった。
瑠璃も愛菜ちゃんも龍志も、幸せそうに清流と戯れている。それを見守る水上夫妻の顔も、まるでそれが全員が我が子であるように、満たされていそうな、とっても柔和な微笑みを浮かべていた。
帰りの車の中では、俺と運転手の叔父さん以外の全員がすやすやと寝息を立てている。俺も心地よい疲れから瞼が重くなるが、どうにも眠れない。
「亮君は眠らないのかい?」
バックミラーをちらりと見たおじさんと目が合った。俺が眠れない事に気が付いたようだ。
「帰ったらすぐお祭りに行くんだろう?今の内に、少しでも眠っていた方がいいんじゃないかい?」
「そう思うんですけど、何だか眠れなくって……」
「はは、ごめんね、荒い運転で」
「いえ、そんな意味じゃあないんです」
「そうかい?」
おじさんはしばらく黙々と運転していたが……
「亮君」
急に、俺を呼んだ。
「はい?」
しかし、おじさんは返事をしない。おかしいなと思っていると……
「愛菜をよろしくね」
と、他にも言葉を付け足したそうだったのだけど、それだけを短く言ったきりだった。
その言葉が、俺にはとても重く聞こえ……
「分かりました」
と、それなりの覚悟を持って答えた。
・
・
・
「漣」に着くと、全員での浴衣着付け大会が待っていた。指導するのは、もちろんおばさん。あれやこれやと駄目出しをしながら、なんとか俺と龍志も浴衣姿に変身した。帯を締めれば、『正しい日本の夏っ!』という気分がいよいよ盛り上がってくる。
瑠璃と愛菜ちゃんはもちろん隣の部屋だから、おばさんはこっちの部屋と隣の部屋を慌しく往復している。そしてしばらくの間、隣の部屋に篭りきりになったかと思うと……突然、襖が開いた。
「おお……」
「わぁ……」
俺と龍志は、思わず感嘆の声を上げてしまった。そこには、きちんと浴衣を来て、髪を結い上げた二人の美少女が、面映げに立っていた。
「どうですか?お兄さん……似合ってますか?」
愛菜ちゃんが、頬を染めて聞いた。愛菜ちゃんのは、藍色の生地に色鮮やかな朝顔が咲いているベーシックな奴だ。
「うん、似合ってるよ」
もちろん、素直な感想な感想だ。いつも元気な愛菜ちゃんが、今ばかりはしおらしく、立派に日本女性の顔になっていた。瑠璃はというと、愛菜ちゃんの背中に隠れてもじもじとしている。
「お兄さん、聞いてあげてください。 瑠璃ちゃん、浴衣来たの初めてなんですって。似合ってますよね?ほら瑠璃ちゃん、ちゃんと前に出て」
愛菜ちゃんは、そっと瑠璃の肩を押した。そうして俺の前に出た瑠璃は……美しかった。色白の肌が、浴衣の白い生地と良く馴染んでいて、涼しげな印象を受ける。可愛らしい金魚の柄が、純白の生地の上で泳いでいた。
「ああ、とってもよく似合ってるよ、瑠璃」
何の飾り気もない言葉だけど、今はそれだけしか浮かんでこなかった。あまりの美しさの前には、言葉など無力だから。
「良かったよ、気に入ってもらえたみたいで。娘のお古の浴衣を仕立て直した物だけど、寸法も丁度だったね」
「本当に……採寸したかと思うくらいです。ありがとう、おばさん……」
愛菜ちゃんは、ぺこりと頭を下げた。瑠璃もそれに倣う。俺も龍志も後に続く。
「なんだいなんだい、そんなに改まっちゃって……いいんだよ、これくらい。あたしだって、着てもらうのが嬉しくてやってるんだから、さ」
おばさんも、眩しそうに俺らを見ていた。
「ささ、そろそろ行っておいで。この時間に出れば、露店を冷やかしている内に花火が始まるだろうよ。あ、そうそう、花火が終わったら、その脚で温泉に行っておいで。話はつけてあるから、手ぶらでいいよ」
「すみません、何から何まで……」
「いいってことさ。さ、早く行かないと、いい見物場所を取られちまうかもよ?」
「はい。行ってきます」
つくづく……ここに来てから甘えっぱなしだな。明日には帰ってしまうとはいえ、何か俺達に出来る事はないんだろうか?いや、俺達じゃなくて、俺だけでもいいんだが……
外に出ると、おばさんの言うとおり、ちらほら浴衣を着た人たちが歩いていて、丁度いい時間らしい。静かな波の音の合間に、草履を擦って歩く音も合わせて響いていた。
愛菜ちゃんが先に立って、神社までの道を案内してくれる。神社は、坂の途中にある「漣」よりもずっと上にあるらしく、慣れない草履では歩くのにも一苦労だ。見ると、龍志も瑠璃も同じらしい。殆ど足を引きずるようにしている。愛菜ちゃんはというと……相変わらず、俺達のペースを見つつ、ひょいひょいと軽快に坂を上っていった。はぁ……元気だなぁ。年寄り臭い台詞がつい口をついてしまうほど、この坂は辛かった。
・
・
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ひぃひぃ言いながら坂を上っていくと、人がどんどん多くなっていって、神社の場所は直接知らなくとも、その人の列に付いていくだけでOKだ。辺りには露店も沢山出ていて、子供連中がそこに群がっていた。
ライトアップされた方向に近づいてゆくと、目の前に大きな鳥居が現れ、いよいよ祭りの中心近くへとやってきた事を知らせてくれた。
参道を歩く間にも、人出はどんどん増えて行くばかり。ともするとはぐれてしまいそうになるほどだ。
「瑠璃、離れるな!って……い、居ねぇ!?」
言ってるそばからこれか。きょろきょろと辺りを見回すと……居た居た、ヨーヨー掬いの露店前で、子供が遊んでいるのを楽しそうに見ていた。あいつめ、いつの間に……瑠璃の際立った美しさのお陰で、こんな人ごみの中でも見つけることが容易なのは救いだが。
俺が傍に行く前に、龍志が既に瑠璃を発見していたようで、瑠璃の手を引いて戻ってきた。
「おい瑠璃、勝手に動くなよ。こんな所でまともに逸れたら、探すのに一苦労なんだからな」
戻ってきた瑠璃に言ってやった。瑠璃の体格じゃあ、一旦逸れたら人ごみにもみくちゃにされる事は目に見えている。自分から探し回るのも疲れるだろうから、結局は目立ちやすい場所でじっとしているしかないのだ。そんなの、時間の無駄だ。
「ごめんなさい……楽しくって、つい……」
瑠璃の言った「楽しい」は、常人のそれより大分重かった。父親を亡くしただけではなく、その前にも、色々と辛い事を経験して来たという事が想像ながら見えてきた今、こういう何気ない平和にも感激している瑠璃を見ても、それは仕方がないと思う。でも、それとこれとは、ね。
大いに反省する瑠璃。そこへ龍志が、
「まあまあ亮……さあ瑠璃ちゃん、僕と一緒に行こう」
と、瑠璃の手を取り、歩き出した。その動作は余りにも自然で、少しの間、それが龍志にとって異質な行動である事に気付かなかった。
瑠璃の手を取り、奥へと歩いていく龍志。その姿を見た瞬間、俺の胸の中に、なんとも形容しがたい感情が発生した。こんな感情……人生初かもしれない。初めての感情を言葉で言い表せるはずもないが、あんまり心地のいいものじゃない事は確かだった。それが瑠璃に向けられたものなのか、龍志に向けられたものなのかも区別できない。ひょっとして、俺自身に向けられた可能性もある。とにかく、不思議だった。どういう心境の変化か、龍志に積極性がでてきたのは、大変いい事だが……
その瞬間、右手を誰かに握られる感覚で我に返った。見ると、傍らで愛菜ちゃんの小さな手が俺の手を引いている。恐らく俺と20cm以上は身長差のある愛菜ちゃんだから、常に俺を見上げる形になるから、顔が良く見える。その表情は……あくまで優しく、そして少し恥ずかしそうに微笑んでいた。
俺も微笑み返し、手も握り返す。
「俺らも行こうか」
「はいっ!!」
極上の笑顔を返すこの子は、何から何まで本当に極上だ。
・
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その後、俺達は露店を巡って歩いた。昼間、あれだけバーベキューを食ったのだから、腹には何も入らないと思っていたが……いざこうやって、焼きとうもろこしやら焼きイカやらお好み焼やら焼きそばやらカキ氷やらわた飴やらベビーカステラやらフランクフルトやら唐揚げやらりんご飴やらの……ゼイゼイ……露店からの香りを吸い込むと、どうにも押さえが利かなくなる。どうやら、昼間食いすぎたと思った分は、水遊びをしている間にこなれてしまったらしい。
しかしどれもこれも美味そうだ……おばさんは、こうなる事を予想して、敢えて夕食を用意しなかったんだろう。
俺達は、各人食べたいものを1つから2つ選んで、それを皆で分け合うことにした。こうすれば、皆で色々な味を楽しめる。俺はチヂミと唐揚げ、瑠璃はお好み焼とバナナチョコを、龍志はジャガバターと焼きそば、愛菜ちゃんはフランクフルトとカキ氷をオーダーした。で、それらを両手に抱えて……適当なスペースを見つけて食べる。
……ま、まぁ普通の露店の味だよな。この手のものは、雰囲気も味つけのひとつになるんだから。瑠璃と愛菜ちゃんは、仲良く分け合って食べている。……年頃の女の子がチョコバナナやらフランクフルトを頬張る姿は何とも……まぁ周りにはあまり人がいないし、本人達は楽しそうだからいいや。
……と、俺はそこで妙な気配を感じた。俺達ではない誰かが、こちらを見ている。常人には恐らく分かるまいが……武道の鍛錬を積んでいる俺には、明確に悪意を持つ感覚に鋭い。それと分からぬよう辺りを見回すが……さしもの俺とて、夜目が利くわけではないから、茂みの中にでも潜まれていては姿を見る事は出来ない。ここは参道の露店が立ち並ぶ所からはやや外れていて、周りは茂みだらけだから、身を隠す場所はいくらでもあった。
(気になるな……とはいっても、こちらからどうする訳にも行かないが……)
なんとなくその視線が不安ではあるが、俺の気のせいである可能性もある。ま、俺が付いていれば平気だろう。
買ってきたもの全てを食い終わり、時計を見ると、花火大会の開始時刻が迫っていた。見物人達は、こぞって見晴らしがいい場所に移動したらしく、露店には一時より人の入りはなかった。はは、これじゃ露天商が困っちゃうな。
「わたし、ちょっとお手洗いに行ってきます」
愛菜ちゃんが俺達から離れた。花火が始まる前に、用を足しておくつもりなんだろう。
「愛菜ちゃん、一人で大丈夫?」
「ヤだなぁ、お兄さん。お手洗いくらい一人で行けますよぉ。小さい頃からここには来てますから、場所は知ってますし」
いや……そっちの心配じゃないんだけど……ま、少なくなったとはいえ、まだ人通りも多いし、心配しすぎるのも、ね。
「お兄さん達は先に行ってて下さい。」
「いや、取り敢えずここで待ってるよ」
「だからあ、心配しすぎです、お兄さん。私だって、いつまでも子供じゃないんですから。皆さんは、先ほど言った場所に行ってて下さい」
この神社をちょっと行ったところに、余り人目につかないが見晴らしのいい、海からの打ち上げ花火を見るには絶好の場所があるそうなんだ。
「分かったよ、なるべくゆっくり行くから、早く追いついてこいよ」
愛菜ちゃんは手をふりふり、神社の裏手へと消えた。それを見て、瑠璃と龍志はごくゆっくりと教えられた方向へと歩き始めた。
……
…………
………………
何だろう、この胸騒ぎは……俺の取り越し苦労であって欲しいのだが。こればかりは、俺の力ではどうにも出来ない。
「どうしたの?お兄ちゃん……」
中々動かない俺を不審がり、瑠璃も龍志もわざわざ戻ってきた。
「気になるの?亮……」
龍志は、俺のこういうときのカンがやたらに冴えるのを知っている。知らない人が聞いたら超能力かなんかのペテンだと誤解されがちだが……結局、原理を説明できない以上、その類のものなのかもしれない。
「ああ……」
「お兄ちゃん……」
俺はじっと愛菜ちゃんの消えた方向を凝視し続けた。あっちから……強烈な敵意を感じる。いや、敵意というよりは……悪意、と言った方が正しいか。
「お兄ちゃん、行ってあげて。ううん、私達も行こう、龍志さん」
「そうだね、亮がそう言うんなら、やっぱり全員で行ってみよう」
俺の不安が伝播したのか、二人とも俺の後についてくる事になった。
神社裏のトイレには、女子用だけ行列が出来ている。しかしその行列の中に愛菜ちゃんはいない。瑠璃を女子トイレの中に入れさせて名を呼んでみるが……
「居ない……みたい。愛菜ちゃんの事だから、恥ずかしがって返事をしないっていうことはないと思うし……」
瑠璃が青ざめた顔でトイレから出てくる。これは俺のカンが当たったと考えていいのか……?こんなカンなど外れていて欲しいのは勿論なんだが。
「どうするの?お兄ちゃん……」
「取り敢えず聞き込みをしてみるか……」
考えている時間はなさそうだが、まだそう時間は経っていないから、愛菜ちゃんを見た人が居るかもしれない。
手分けして女子トイレに並んでいる人に話を聞いてみる。すると、今まさにトイレの順番の来たおばちゃんが……
「ああ、そんな感じの子が私の前に並んでましたよ。さっき、三人組の男と何事か話をした後、その人が連れて行っちゃいましたけど……方向?あっちの方へ……」
いよいよこれはまずい事になった。愛菜ちゃんの身に危険が迫っている。何かしらの悪意を持つ者達が、彼女に危害を加えようとしているのだ。
……落ち着け、冷静になるんだ……残された時間は少ない。一瞬の判断ミスが愛菜ちゃんを救えるか救えないかを分ける。
「亮……?何か……分かった……」
俺まで青ざめた表情をしているのを見て、いよいよ緊急事態であることを悟った龍志は、二の句を告げることが出来なかったようだ。
「話は後だ。俺が一人で行く」
「行くって何処に?」
「ある程度のアタリはついた。お前達は露店が集まっている所に居てくれ」
「あっ、りょ、亮!!」「お兄ちゃん!!」
それだけ告げると、俺は全力で駆け出した。ここは俺一人でいい。瑠璃と龍志にこんな事を手伝わせられない。手分けをして探した所で、相手がもし暴力的な人種だったりしたら……それこそ最悪のケースだ。
ひとまずトイレのある位置から、周囲の喧騒が静まる辺りまで離れる。まわりは既に林の中で、ここまで来ると殆ど周囲の人間の視界からは外れる。だが、相手側も目指す所は明るい場所のはずだ。そんな場所は……見回すと、遠くに電灯の点いている場所があった。倉庫か何かのようだ。祭りの中心部からはかなり離れていて、いかにも怪しげだった。……そこに狙いを定めた俺は、愛菜ちゃんが居てくれる事を信じて、そっちに疾走る。夜目の関係か、思った以上に距離があったが、構わず全力疾走で距離を詰める。緊張で時間が短く感じる所為もあるだろうが、信じられないタイムで電灯までたどり着いた。
その瞬間、確かに女性の悲鳴を聞いた。愛菜ちゃんの声だ。こんな状況でも、俺は人の声を性格に聞き取れるぐらい冷静になれるように訓練されている。間違える筈がない。身体の緊張とは別に、頭の心芯の部分の冷静さは保たれているのだ。
しかし、最悪の結果が目の前に迫っている。大男が一人倉庫の影から出てきた。横を向き、つまらなさそうな顔をしている。よそ見していた分だけ、林から出てきた俺に気付くのが遅かったようだ。
「……!!」
大男が俺に気付いた頃にはもう遅い。そいつの口を塞ぎながら当て身を食らわせる!!
「……む、ぐ……」
くぐもった、うめき声とも取れない小さな声を発し、大男は前のめりに崩れ落ちた。一撃必殺なんて絵空事と人は言うかもしれないが、こうして俺が実践している。
倒れた音が響かないように、男の身体をしっかりと支え地面に下ろしてから、いざ倉庫の奥へ!そこでは……俺が恐れていた通りの光景が広がる直前だった。
「なぁ、余計な抵抗はしない方がいいぜ?おとなしくしないと、ツレに洗いざらい喋っちまうぞ?」
「いや、やめてっ!!」
愛菜ちゃんがサングラスの男に両手首を掴まれ、倉庫の壁に押し付けられている。襟元から胸元が覗く程浴衣が乱れ、激しく抵抗している痕が伺える。
冷静に見ると……こいつ、昨日の海で愛菜ちゃんに絡んでた奴じゃないか!!二人が争っている傍で、その様子を好色そうに見ている悪趣味なリーゼント男も、昨日の三人組の内の一人だ。だとすると、さっき俺が片付けた大男も、こいつらの一味だろう。
「昨日は人前で恥かかせてくれやがって。今日はその礼をたっぷりくれてやる」
舌なめずりをしながらでも言わないと似合わないような下卑た台詞で、愛菜ちゃんを脅す。これ以上見ている暇は無い。
するするとリーゼント男に、腰をかがめた低姿勢で駆け寄り、
「!」
そいつが俺に気付いた時には、
どさり。
さっきの大男と同じように、たちまち地面に転がっていた。
「え?」
よもや俺が現れる事を想像だにしていなかったのだろう、サングラス男は異音に気付き、こちらを振り向く。こいつも瞬時に片付けようと思ったが、愛菜ちゃんは、サングラス男が俺に気を取られたスキに、自分の手首を押さえつけている力を弱めたのに気付いて、男を突き飛ばした。奴は長い距離をつんのめり、ようやく体勢を立て直す。その為、俺とは距離が生じてしまった。その距離、約5メートル強。
「て、てめぇ、昨日の!!」
男の反応は意外にも素早かった。一応、ケンカ慣れはしているらしい。懐に素早く手を伸ばし、中々にゴツいナイフを取り出した。いわゆるククリナイフ……ネパールの民・グルカ族が好んで用いる……だ。奴は、それを堂に入った形で構える。あくまで引くつもりはないらしい。あんな構え方をしてるって事は、万・が・一・俺を仕留めても、その後の責任を取るつもりがあるという事か。クズにもクズなりの、ちっぽけなゴミの様なプライドがあるらしい。
横目で一瞬だけ愛菜ちゃんを見ると、既に俺の傍まで来ている。愛菜ちゃんを人質に取られるような心配はない。
「お兄さん、逃げてくださいっ!」
昨日の事件で、俺が多少は武術を使うと思っている愛菜ちゃんだが、さすがに刃物を前にしては形勢が不利だと思ったようで、悲鳴に近い声で叫んだ。
「大丈夫だよ、愛菜ちゃんこそ早く逃げて」
しかし俺は、そんな状況でも至って冷静だ。
「でも、でも!!」
「死ねやああああぁぁぁ!!」
その間にも、男がナイフをかざして突っ込んでくる。本当に、人の命を奪う覚悟がお前にあるのか?人の命を奪う事の意味が、お前には理解できてるか?出来る訳がない。出来る人間など、いないと思いたい。だから、俺は少々手荒に行く事にした。
「ぁぁぁ!!」
まだ男の叫びが残っているうちに、一気に間合いを詰める。逃げるか避けるかとしか思っていない男は、当然虚をつかれる。
「!!」
ナイフを身体を捻ってかわし、握り拳でナイフを持った手を叩き、落とす!その反動で顔面に裏拳!のけぞった後頭部に上段回し蹴り!前のめりになった顎に、自分でもやった事のないくらい豪快なアッパーカット掌底!!
サングラス男は、誇張ではなく宙を舞った。そして、背中から地面に落下した。俺は地面に落ちたナイフを拾い上げ、男に馬乗りになり、ナイフを逆手に持ち替えて喉元に突きつける。
「お、お兄さんっ!?」
「ひっ!?」
よもや自分が刃物を突きつけられる立場になるとは思っていなかっただろう男は、たちまち涙目になり……辺りにアンモニア臭が漂った。
「大方、刃物をちらつかせりゃ全ての人間が自分に平伏すんとでも思ってたんだろ?怖いか?ほれ、怖いよな?今まで、お前は他人にこんな思いをさせてたんだよ。その責任を償うと共に、これ以上悪さをしないように、せめてもの情けでひと思いに殺やってやろう」
有無を言わせず、俺はナイフを振りかざす!!
「お、お兄さんやめてっ!」
「………………」
ひゅん、と刃が唸った。
直後、
どすっ。
鋭利な刃物が何かを貫く、鈍い音が響いた。
「……………………」
ナイフは、男の顔の脇の地面に突き刺さっていた。愛菜ちゃんは顔を覆い、男は哀れ口を開いたまま失神している。
……ちょっと、やりすぎちまったかな。いくらなんでもこれじゃあ、爺ちゃんが生きていたら、こっぴどいお仕置きをされる事は間違いない。
俺は男の身体を抱き起こし、ビンタをかまして強制的に覚醒させる。
「あ……う……うひっ!?」
意識を戻した瞬間、俺の顔が眼前にあるのを見て、男は息を飲んだ。
「誓え。二度と愛菜ちゃん……いや、人間に金輪際危害を加えない事を」
有無を言わせぬ口調で警告する。
「誓えと言っている。この先、再び彼女に何かあったら……それは全てお前らの所為とみなし、何処までも追いかけていって……」
俺が言い終わらぬ内に、
「何も知らないくせに!!姉貴は、こいつを生んだお陰で死ななくちゃならなかったんだぞっ!!」
男が叫んだ内容に、俺は唖然とした。姉貴……?愛菜ちゃんを生んだ……?この男の言う事が確かならば、こいつは愛菜ちゃんの叔父という事にはなるが……。その割に、昨日も今日も、とても可愛い姪とは思えないような対応だ。すっかり混乱してしまった俺は、背後の愛菜ちゃんを振り返った。
すると、愛菜ちゃんが俺の横を通り過ぎ、膝を折って、座り込んでいる男と同じ目線になった。
「正二さん……」
突然、愛菜ちゃんは男の名を呼ぶ。やっぱり、こいつは叔父さんなのか?愛菜ちゃん……。男は、彼女と視線を合わせず、顔を逸らした。
「傷ついたのは、貴方も私も同じです。だから……もう止めにしませんか?これ以上……お互いが不幸な結果に終わらない内に……」
男はがっくりとうなだれ……何も、言わなかった。
「……お願いです、正二叔父さん……」
「叔父さんなんて呼ぶな!!」
「ごめんなさい……でも、見てください、これを。最近見つけたんです……」
愛菜ちゃんは、袖からある紙を取り出し。男に見せる。それを震える手で受け取り、読んだ男は……ぽろぽろ涙を流し始めた。当初とは余りに違いすぎる反応に、今度は俺のほうが狼狽せざるを得なかった。
「今度出会ったら渡そうと思ってたんですけど、機会がなくて……昨日はあんな形でしたし」
「俺は今まで……何をやってたんだ……馬鹿みたいじゃないか……姉貴……どうしてもっと早く伝えてくれなかったんだ……」
そう搾り出すように言うと、だん!だん!と地面を叩いた。俺はただ、それを呆気に取られて見つめるだけだった……
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しばらくして、俺は愛菜ちゃんを伴って、瑠璃達と別れた場所へ戻った。もちろん戻る前に、崩れた浴衣を最大限直してやってからだ。どこにも破れた部分はないし、汚れも手ではたけば落ちる程度だったから助かった。
「お兄ちゃん!!愛菜ちゃん!!平気だったの!?」
俺の姿を認めた瑠璃と龍志が駆け寄ってきた。
「ごめんね、心配掛けちゃって。自分であんな事言っておいて、道に迷っちゃったの。転んじゃったりして、もう大変」
「そこで俺が偶然見つけたわけだ」
ここに来る途中に、申し合わせていた通りに答える。愛菜ちゃんも、あんな事があったのに平静な顔をして言った。女は生まれながらにして女優、か。ともかく、この件は俺達だけの胸に留めておく事にした。もう始末のついた事を話して、二人に余計な心配を掛ける必要もないだろう、という判断だ。
「良かった……何ともなくて」
瑠璃が胸を撫で下ろした。大事な友達に何もなかった事が本当に嬉しかったんだろう。実際には何かが起こりかけていたんだが……
「そうだね、亮のカンが外れてよかったよ。じゃ、行こうか。早くしないと、いい場所が取れないよ」
「そうですね、行きましょう、お兄さんっ」
さっきまでの事を微塵も感じさせず、いつもの笑顔で俺の手を引く愛菜ちゃんは、本当に強い女の子だ。こんな強い子が瑠璃の友達とは、心強い限りだ。
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花火は、とても美しかった。打ち上げ場所がかなり近いから、炸裂とそれほど時間がズレずに、ずん……と重低音が腹に響く。沖の船上から打ち上げられるそれは、宇宙まで……つまりこの世の果てまで嫌な事を打ち上げ、粉々にしてしまうかのようだった。実際、そうしてくれればいいのに。そうだ、その時には、嫌な事が大きければ大きいほど、炸裂する花火も大きければ、気分も晴れるだろうな。
隣で花火を見上げる瑠璃、愛菜ちゃん、龍志。その顔に、色とりどりの花火が照り返している。その楽しげな顔も、俺にはとても貴重なものだった。
・
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花火は約一時間で終わり、俺達は混雑を避けるため、その場にしばらく留まり花火の余韻を楽しむと共に、周囲の見物人がある程度引けてから移動した。
「さて……おばさんが言ってた温泉はどこだっけ?愛菜ちゃん」
「はい、私が案内しますから、はぐれないで付いてきてくださいね」
「ふぁーい」
全員が能天気に答えた。間近で花火鑑賞なんてなかなか出来る体験じゃないから、みんなその素晴らしさに脳が溶けているようだ。
………………と、歩き出したはいいが、結構遠い。神社を出て、登りになっている歩道を歩く事しばらく……距離と時間的にはたいした事はないが、その傾斜がきつくて、余計に時間が掛かったような気にさせる。
「ここですよ、みなさん」
愛菜ちゃんのその言葉をどれほど待ちわびた事か……!!ものの数分だけど。見ると、かなり小さい温泉宿のようだった。もう9時を回っているから、温泉が開いているかどうか心配なんだが……
玄関まで行き、愛菜ちゃんがインターホンを押した。看板には、「汐見荘」とある。
「こんばんはー。水上です」
そう言うが速いか、中からどたどたと慌しい足音が。続いて、玄関を開けて顔を出したのは、頭髪が大分後退している、人の良さそうなおっさんだった。
「はいはい、奈緒子さん(「漣」のおばさんだ)から話は聞いてますよ。タオルやなんかはこっちで用意してあるから、ゆっくりしていってね」
「すみません、こんな遅くに」
愛菜ちゃんが頭を下げると、おっさんは激しく手を振り、それを制止した。
「いやいやいいんだよ、奈緒子さんには昔から世話になってるんだから」
慌てぶりが怪しい。おばさん恐るべし、だ。
ともかく、お言葉に甘えて、案内されるがままに温泉の脱衣場へとやってくる。他の客の姿は見えない。本当に俺達の貸切になったしまった様だ。龍志は、豪快に浴衣を脱ぎ始めた。……良く考えたら、俺は着付けの仕方を知らないぞ。ま、どうにでもなるか。夜道は暗いから、いざとなれば……はだけたまま帰るか?
俺も龍志に倣い、ばばっと脱ぎ捨て、カゴに入れる。視線を感じたので、振り返ると……龍志が指をくわえて俺の裸を注視していた。
「うわわっ、なんだよ龍志、俺をじっと見ちゃって……」
こいつ、前々から線が妙に細くて、男らしさを全く感じないと思っていたが、まさかそっちの趣味が……!?
「うん……亮って、本当にいい身体してるな……と思って、さ」
ああぁ、じょ、冗談だと言ってくれ!!
「考えてみれば当然だよね。僕達が初めて出会った時から、亮は武道の達人だったんだから。その頃から、ずっと鍛えていたんだろうね……」
……俺達の出会いも、路地裏で龍志が不良どもに女の子と間違われて絡まれていた所を助けた所から始まったんだっけ……何だか俺って、トラブルを引き寄せる星の元に生まれてるみたいだな。
でもな、龍志。そんなうっとりとした表情をしていたら、お前の容姿じゃ冗談じゃ済まされなくなるぞ!?
「僕も、強くなりたいな、亮みたいに……」
ぼそ、とつぶやく。
「いざという時に、大切な人を守れる勇気と、力が欲しい」
「龍志……」
俺達は、トランクス一丁のまま、しばらく立ち尽くしていた。掛ける言葉が見つからない。ひょっとして、さっきの事に感づいているのだろうか。
「さ、そんなところに突っ立っていないで入ろう。汗を早く流しちゃいたいよ」
「あ、ああ……」
今の、龍志のいつになくシリアスな表情は……何だったんだろう。何かを決心した、そんな表情にも見えた。
・
・
・
脱衣場から中に入る。すると、その途端に夜空が見えた。実に見事な露天風呂だった。それも、宿の規模にはちょっと不相応なくらいの大規模なものだ。周囲の岩などの掃除も行き届いていて、非常に清潔感がある。周囲はあくまで静かで、虫の声しか聞こえない。時折水滴の落ちる音すら粋に聞こえた。
掛け湯をしてから、湯に浸かる。湯の色は乳白色で、いかにも身体に良さそうだ。これなら瑠璃も喜んでくれるに違いない。硫黄の臭いも、いかにも効用が有りそうで尚良しだ。龍志も、湯をすくって肩に掛けている。早くも色白の肌が紅潮して来て、鎖骨の辺りが妙に艶かしい。これでは、趣旨を鞍替えしてしまう人間がクラスメイトの中に居るという噂も、一笑に付す事はできないか。
「いい湯だね、亮……」
「ああ、全くだな」
しばし肩までつかり、伊豆に来てからの疲れを癒す。疲れといっても、不快の類ではなく、あくまで心地の良いものだ。散々泳いで気をもんで……それから解放された気の緩みからついウトウトしそうになった時だ。
脱衣場の扉が開き、人が入ってくる気配がした。俺らの他にも客が居たのか……と言うより、貸切じゃなかったのか?その疑問は、やってきた人物を見た瞬間に晴れた。確かに、俺達4人の貸切ではあったな。
「る、瑠璃に愛菜ちゃん!?」
「え?あ、わっ!」
龍志は慌てて湯に潜った。このにごり湯では、そりゃキツいんじゃないか?……と、他人の心配をしている時ではない。
「ヤ、ここって……こ、混浴……」
瑠璃が引きつった表情でつぶやく。二人ともバスタオルを胸の上で巻いていたから、勅直視しないで済んだが……俺達は、どうやらおばさんに仕組まれた、という事らしい。脱衣場は別々でも、中はひとつの作りだったのか。道理で、男湯一つにしては広すぎると思ったんだ。
「わ、悪い!でも、最初に言っておくが、お、俺達だって知らなかったんだからな」
何も誤る必要などないとは思うのだが、なんとなく後ろめたい事は確かだ。くそー、おばさんめ!温泉の事を聞いたとき、やけにニヤニヤしてたのはこの事を考えてたんだなー!!日本伝統文化万歳だっ!!……うわっ、そう言えば龍志が湯の中から上がってこない!!
「おい龍志、出るぞ!!」
「ぶくぶく……ふぁい~」
絵にしたらぐるぐる目になっていそうな龍志を抱き抱えて湯から上がろうとした時……
「待ってください。折角だから、皆でゆっくりしていきませんか?」
大胆な提案をしたのは愛菜ちゃんの方だった。
「ちょ、ちょっと愛菜ちゃん……」
瑠璃が咎めるが、
「瑠璃ちゃん、混浴っていうのは日本の文化だよ?それを否定しちゃうの?」
「で、でも……」
もっともな理屈で瑠璃を攻め立てる愛菜ちゃん。そうだそうだ!!混浴は日本の大事な文化だ、裸の付き合いだ!!……一緒に入りたいのか、俺。とはいったものの、混浴だからといって露骨にはしゃぐのも勿論みっともないが、あからさまに恥ずかしがるのも何だかなぁ、という気はする。昔の銭湯なんかは混浴当たり前だったと言うし、なら昔の日本人は厚顔無恥だったのかというと、勿論そうではないのだから。
「お兄さん達が良ければ、一緒に入っていきましょう?ね、瑠璃ちゃん」
まぁ、男としては勿論依存はないわけで、女の子の方が堂々としていてくれれば、こちらもやましい気にもならず、この素晴らしい湯に浸かっていけるわけだ。
「ほら瑠璃ちゃん、こうして入れば大丈夫よ。湯煙で殆ど見えないし、一旦中に入っちゃえば、お湯の中は何も見えないし」
愛菜ちゃんは、背を向けてバスタオルを取り去り、岩の上に置いたかと思うと、派手に湯に浸かった。
「愛菜ちゃんがそう言うなら……」
瑠璃は渋々納得したようで、愛菜ちゃんに倣って、俺達に背を向けバスタオルを取ってから、湯に肩まで浸かる。それでも綺麗な背中は十分に見えた。海で見た背中もいいけど、今のほうが、余計な水着の部分が無いだけ数倍は美しく見える。
落ち着きを取り戻した龍志も、その光景に見とれていた。いいよな、こいつは。こんな表情をしても、ちっともイヤらしく、みっともなく見えない。
ぶふぇー、と全員が親父臭い溜息を吐き出し、くつろいだ。ともすれば、極楽極楽と言いかねない。瑠璃と愛菜ちゃんが入湯してきた時の慌てふためきぶりは何だったんだろうと思うぐらい、皆でゆっくり、湯の中に色々様々な疲れを溶かしていった。
「どうだー、瑠璃、露天風呂ってのも、なかなかいいもんだろー。」
近くに居るんだから、大声など出す必要はないが……脳の血管が緩んで、そこら辺の感覚が鈍ってしまっているらしい。ま、俺達の貸切だし。
「うん、さいこー」
瑠璃は、空を見ながら短く答えた。俺達三人も、それに釣られて大空を見上げる。夜空には、都会では決して見ることが出来ない位の星空が、俺達を見下ろしていた。満天の星空に、極上の温泉。日本人と生まれたからこそ味わえたと思いたいゼイタクだ。そんなゼイタクを味わった瑠璃は、家に帰ったら、「もう温泉じゃなきゃお風呂に入らない」とか言い出さないだろうな。無論ありえないけど、そんな可愛い我儘を言って俺を困らせる瑠璃を想像すると、ちょっと楽しくなってしまう。
俺は、顔を下ろした。他の3人は、まだ空を見上げたままだ。俺は、この三人とこうして遊びに来れた事を、本当に楽しく、嬉しく思う。それも、この17の夏に。一生忘れられない夏になる事は疑いようがなかった。
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……極上の湯だったのはいいが、困った事が一つ。余りにいい湯過ぎて、龍志と瑠璃が湯に負けそうになった事だ。何しろ温泉は温まりが速い。家庭の水道水風呂と同じ感覚で入っていると、すぐにのぼせてしまうから、注意が必要だ。と言っても、俺も危うく忘れかけていたから、注意しようと思った頃には、既に遅かった。
「りょお~、ぼくら、さきにあがって、まってるね~」
「おにいひゃん、わたしも~」
懸命な判断だ。倒れないうちに、二人は露天風呂から出て行った。……よく考えると、そうなったらここに残るのは、俺と愛菜ちゃんの二人きり……さっきまでは4人でいたから気にならなかったが、いざ二人きりになると……緊張する。さりげなく、そろそろ俺も出ようかと思った頃……
「お兄さん」
愛菜ちゃんが、湯煙の向こうから俺を呼んだ。表情は見えない。
「なんだい?」
「この三日間、どうもありがとうございました」
湯煙で良くは見えないが、どうやら律儀に礼をしたらしい。
「え、何が?」
「色々とご迷惑をおかけしてしまって……」
「いやいや、だから何が?」
白々しいとは思ったけど、俺としては、困っている大切な知り合いを助けただけだ。人間として、当たり前の事である。
「お兄さんには本当に感謝してます。危険な目にもあわせましたし……」
「だから、何てことないって。どっちかって言ったら、感謝するのは俺等の方だよ」
本当を言えば、愛菜ちゃんの生い立ちがかなり気になっている訳だが……こうして、俺も手を下してしまっている以上、すでに関係者と言ってしまってもいいだろうが、それでも俺の方から事情を聞くなんて下種な真似が出来る訳無いじゃないか。例え、それが愛菜ちゃんの事をもっと理解する上で重要だとしても。
「お兄さん……」
じゃばじゃばと水の音。気がつくと、湯煙が立ち込めていても分かる位に、愛菜ちゃんが近づいてきていた。
「ななな、なんだい?」
「お兄さん、昨日の海であんな事があっても、あの人の事を1回も聞きませんでしたよね。私……すっごく嬉しかったんです」
「………………」
「あの後、どう説明したらいいか悩んだんですよ。でも、お兄さんは何も聞かなかった。瑠璃ちゃんも龍志さんも」
「あんな事になるくらいだもの……きっと、本人には言いにくい事じゃないかっていうのは、俺達なら全員が分かるよ」
「……はい」
俯く愛菜ちゃん。………………ここは、俺が受け止めてやったほうがいいのかな……きっと、自分の中だけでは解決できない思いだってあるんだろう。結局、自分が聞きたがりなのを、そういう解釈で包んでしまう事にした。それに、その所為で、いつ彼女が沈んでしまうか分からない。人間、誰しも常に笑顔で居られる訳はないけど、その回数や原因が減るに越した事は無い。
俺は覚悟を決める事にした。例え、愛菜ちゃんの話す事がどんなに辛いものでも、彼女の力になってあげたい。
「悩みを抱えていたって、自ずと限界はある。晴れない思いだって、だれかに打ち明ければ重荷が外れる事があるかもよ。話してごらん、愛菜ちゃん。君の抱えている全てを」
愛菜ちゃんの目を見ながら、真摯に、誠意を込めて言った。……それが伝わったのだろうか、彼女は小さく頷いた。
「……正直に言います。私……私……」
しかし、愛菜ちゃんはそこで躊躇した。やっぱり駄目か……?でも、言ってくれた。
「私の両親は、実の兄妹なんです」
………………ヘビーだった。とてつもなく重い。その事実を聞いただけで、これまでの愛菜ちゃんと彼女の両親の苦難が想像できた。でも、話を聞いてやると言った手前、受け止めてやらなくてはならない。ここで投げ出しては、愛菜ちゃんがまた傷つく。
「どういった経緯があるかは、今となっては知る由も有りませんが……ともかく二人は私を授かり、そして……この世に産んでくれました。でも、当然今の世の中ではタブーです。いったい、どれほどの苦難を乗り越えようとしたのか分かりません。でも……最後は乗り越えられませんでした。二人して、遠く離れた土地で、飛び降りて心中しました。私が1才になるかならないかの頃だったそうです。両親は3人兄妹で、あの正二さんは、兄妹の末っ子です。やや歳の離れたお姉ちゃんに、随分と懐いていたようで、それだけに私が出来た事にはショックが大きかったようです。正二さんも、その混乱の中で……」
グレていった、か。それにしても、愛菜ちゃんは淡々と話すな……。そうする事で、極力自分の感情を押し殺そうとするかのようだった。
「私は、幼い頃から親戚に……今の家に預けられました。そこでは、両親は既に亡くなったとしか聞かされていませんでした。そこで、親戚という漣のおじさんとおばさんを紹介されたのですが……」
そこで言葉を切り、ぐっと何かを溜め込み……
「二人は、親戚どころではなかったんです。私の……祖父と祖母でした」
………………正直、俺はここまで話を聞いた事を後悔し始めていた。俺の人生経験では、あまりにも重すぎる。でも……聞かなくちゃ。俺が聞くと言ったんだから。
「初めてそれを知ったのは……そんなに前じゃありません。10才くらいの時かな……正二さんに伝えられて。泣きもしませんでしたよ、あんまりワケが分からなさ過ぎて」
……。
「それを理解できる年頃になってから泣きました。ワケが分からない方がよっぽど良かったのに」
…………。
「漣に行く度、どれだけおじいちゃん、おばあちゃんと呼びたかったか……」
………………。
水上夫妻は、自分の孫を素直に孫と呼べずに、愛菜ちゃんは、自分が全てを知っていると水上夫妻の深い傷をまたえぐり返してしまうと考え、おじいちゃんおばあちゃんと呼べずに……
お互いがお互いを思いやり、気遣えば気遣うほど、悲しく見える……愛菜ちゃんの笑顔と、それを見守る水上夫妻の慈愛に満ちた微笑みを思い出して、その裏側に隠された思いを考えて、泣けそうになってきた。慌てて湯で顔を拭う。
「でも……偶然見つけたんです、あの手紙を」
今日、叔父の正二に見せた奴の事か……?
「今の家の、戸籍上の両親から、貸し金庫の鍵を渡されたんです。誰からのものとも言わずに。14歳の誕生日、二ヶ月前に……その中に入っていたのがあの手紙です。もう擦り切れる程、暗記するほど読みましたよ。私と両親を繋ぐ唯一の物ですからね」
……。
「要約すると……先ずはお父さんの文です。何も残してやれずに済まない。お前を一人にして済まない。でも、私達はお前を愛していた。それだけは覚えておいて欲しい。私達がこの世で愛した証が、お前だったという事を。それと、正二には迷惑を掛けると思う。もし何かあったら、この手紙を見せてやって欲しい。お前の姪にはなんの罪も無い、と。次にお母さんからの、正二さんへの文です。正ちゃんへ、残された愛菜の力になってあげて下さい、貴方にとっては、可愛い姪でありましょうから……私達の残した唯一の証なのです。お願いします、と」
見ると、愛菜ちゃんは泣いていた。これでよかったんだよな。これで……胸のつかえが取れたんだよな。愛菜ちゃんの傷を……蒸し返す事になってないよな?
「ありがとう、話してくれて。でも良かったと思うよ。愛菜ちゃん、キミは胸を張って生きていい。だって、お父さんとお母さんが愛し合った証である事は、誰にも、どんな方法でも覆せない確かなものなんだから」
ありきたりの事しか言えないが、でも、それしか感じられない。本当に愛していなかったんなら、手紙の上でも愛しているなんて書くだろうか。当事者の愛菜ちゃんの心に、あれだけ入り込んだのだから、いかに手紙といえどもニセの言葉では、こうまではいかない筈だ。
「それで時間が経ったら……おじいちゃんと呼んでみればいい」
「……はい」
「全ては時間が解決してくれると思う。君がこの世に生まれてきた意味を分かっているなら」
「はい……」
それ以上は言葉が続かなかった。俺だって、母親の顔は知らないけれど、両親は俺の誕生を喜んでくれたと思いたい。例え産んだ本人がどう思おうとも。だって、出産なんて、男だったら気絶するくらいの痛みを伴うって言うんだぜ。そんなん、生半可な気持ちで産めるわけ無いじゃないか!!
「ありがとう、ございました……私、これから、両親に、あ、い、された……おも……い」
もうセンテンスになっていない。俺は、そっと愛菜ちゃんの両肩に手を置いた。良かった、これで、また一人の人間をすく……う?
「………………!」
気が付いたときには、もう、愛菜ちゃんの唇が、俺の唇と重なっていた。しかし、それはすぐに解かれた。あまりに短い瞬間だったから、まるで現実感がなかった。
「今は、これくらいしかお礼が出来ませんけど……もし、おじいちゃん、おばあちゃんと呼べて、正二さんとも分かりあえたら……その時は……」
「んん?何?」
最後の方は良く聞こえなかった、というよりは、よく聞かなかった。何度も言っているように、俺は何かの見返りが欲しくて人助けをやっているんじゃない。だから……いいんだ、これで。たとえ白々しいと言われようとも、だ。
「さ、もう出ようか。瑠璃達が心配してるといけないし、俺達ものぼせちゃうよ」
強引に湯から出る。
「そうですね……きゃっ!!」
「どうした……あ!」
忘れてた、愛菜ちゃんは至近距離だった!!そういう大切な事を忘れる俺は、本当にどうしようもない奴だと自分でもイヤになる。でも……それでも、人助けは出来るんだなぁ、と、少しだけ嬉しくなった。
「何ニヤニヤしてるんですか!!出るんなら早く出てください!!」
「ご、ごめーん!!」
ちょっとだけ不機嫌になった愛菜ちゃんは、それでもちょっとだけ微笑んでいた。
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翌日。俺らは予定通り「漣」を発つ事になった。駅まで見送りに来てくれたおじさんとおばさんの顔は、いつもと変わりがない。変わったのは、それを見る俺の方だろう。
発車時刻も間もなくに迫ると、愛菜ちゃんは涙を浮かべていた。
「また、来年も来ますね!!」
「ああいいよ、また皆でおいで。その時も、たっぷりサービスしてやるからね!!」
つられて、おじさんとおばさんも涙している。これなら、おじいちゃんおばあちゃんと呼べる日は近そうだ。
見れば、短い付き合いであったのに、瑠璃と龍志も、瞳が潤んでいた。はは、来ようと思えばいつでも来れるのに……大袈裟な奴らだな。ぐすん。
「亮くん、瑠璃ちゃんを守ってやるんだよ!!」
「大丈夫、心配しないで」
「瑠璃ちゃん、今度来る時は、好き嫌いをなくしておいで。じゃないと、大きくなれないよ」
「はいっ!!」
瑠璃が、強く頷く。
「龍志ちゃん、あんたはそのままでいいよ」
「ど、どうして僕だけ……」
最後にオチを付けてくれる辺り、この夫婦は本当にいい人たちだ。この旅行中、何回そう思ったか分からない。
そして列車が動き出すと……水上夫妻は、俺達が見えなくなるまで手を振り続けていた。離れがたい、万感の思いを胸に……
だけど、夏はまだ終わらない。まだ俺らには、この夏が過ぎ去る事を考えて感慨深くなる余裕などないのだ。
俺は、瑠璃とお互いにもたれあって目を閉じる愛菜ちゃんを見ながら、自分も目を閉じた……
「二人とももう寝ちゃったよ……亮、僕も亮の膝枕で眠りたい……いいでしょ?」
「御免被る」