Two Nymphs
「………………ん」
「…………さん」
「……お兄さん」
おぼろげな意識の中から、俺を呼ぶ声がする。しかし、元来寝坊助な俺は、自分の目が容易に覚めない事を自覚しているから、その程度ではとてもとても……夢現で再び寝返りをうち、声のする方向から顔を背けた。
「ね?全然起きないでしょ?」
「本当だ……お寝坊さんなんですね」
呆れたような声。そうさ、俺は眠るのが三度のメシより大好きさ。そして腹が減ると、メシを食う事が睡眠より優先してしまう単純人間なんだ。
「それじゃ、お兄さんを起こすのには特別な処置が必要なんですね」
「ま、まあそうなのかな」
………………言っておくが起きないぞ、俺は。
「それじゃあ……起きてくれないと、唇にキスしちゃいますよぅ?」
「駄目、それだけは駄目ぇ!!」
「本当だと思ったの、瑠璃ちゃん?それにどうしてそんなに慌ててるの?」
「……もーっ、どうしてそんな嘘をつくの~?」
……目が覚めているという意味では、もうとっくに起きている俺ではあるが……この二人のやり取りは、聞いていて非常に可愛らしい。瑠璃も愛菜ちゃんも、歳相応の……いや、今の水準からいったら、相当に純粋な子達なんだ。
「嘘なんか言ってないよ。これ以上起きなかったら、お兄さんに逆シンデレラやってもらいますぅ」
「な、なんなの?それ……ひょっとして、王子様が白雪姫のキスで目覚めるの?」
「ううん、お兄さんが白雪姫の役で、私が王子様の役!!」
「もう、なんなの?それ……逆になってないじゃない……」
「ぷ」
もう堪らない。思わず噴き出してしまった。二人の掛け合いがあまりにも可愛らしくて……
「あ!お兄ちゃん、起きてる!!」
瑠璃が驚いた顔で叫んだ。あれだけ騒いでいて、起きない奴がいると思っているのか、こいつは。
「ほんとだー。お兄さん、早く起きて下さいよぅ。龍志さんなんて、とっくに起きてるんですよ?」
愛菜ちゃんは、俺の身体をゆっさゆっさと揺さぶった。その度に、見えている天井がぐらぐら揺れた。
「え……」
むっくりと身を起こすと、俺の右隣を見た。確かに、そこには几帳面なあいつらしく、丁寧に畳まれた布団があった。時計を見ると、まだ7時前。夏休みにこんな早起きとは……小学生みたいな奴だな。
「で、あいつは何処に行ったんだ?」
「さぁ……でも、随分と動きやすそうな服装で、走ってここを出ましたから……きっとジョギングにでも行ったんじゃないですか?」
龍志がジョギング……か。あいつは確か、日本に来る前はサッカーをやっていたと言ってたっけ。ドイツは勿論サッカーの本場。そこでやってるくらいだから、結構な腕を……サッカーだから足かも……していたのかも知れない。でも、日本で止めてしまった理由は何なんだろう。
「それにしても……二人とも龍志に負けず劣らず早起きだな……」
「何言ってるの、お兄ちゃん!昨日、おじさんとおばさんがどこかに連れて行ってくれるって言ったの、忘れたの?」
そういえばそうだった。昨日、落ち込んで海から帰ってきた愛菜ちゃんを見かねて、おじさん達が申し出てくれたんだっけ。本当にこの子は愛されているんだな。甘やかされているのとは違う、温かい目で見られている、そんな絶妙な距離。
そういえば、その愛菜ちゃんはといえば……
「どうしたんですか?お兄さん」
いつものように、大きな悪戯っぽい瞳をくりくり動かし、俺を観察している。そう、昨日の事などなかったかのように、いつもと同じ。
つまりこれは……「私は昨日の事は忘れて、いつもと同じように振舞っているのだから、皆さんも昨日の事は忘れてください」という無言の意思表示なんだろう。
その意図を汲んだ俺は、もう昨日の一件は無かったことにすると心に決めた。こんなにいい子があれほどまでに取り乱すんだ。他人が土足で踏み込んでいい領域ではあるまい。
「分かった、起きるよ」
欠伸をしながら立ち上がると、瑠璃と愛菜ちゃんは一斉に顔を背けた。………………その瞬間、俺も再びシーツの中へ気まずい思いで潜り込む。もちろん「朝特有」の事情だ。未だ一人暮らしのときの癖が抜けていない俺は、粗相をしやすい人間と罵られても仕方があるまい。
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洗面所でてきぱきと……本人はそのつもりでも、ハタから見れば、のそのそとやっているように見えるだろう……顔を洗い、ごりごりと首を鳴らして、身体をほぐす。
すると、龍志が汗で変色したTシャツを手に洗面所に入ってくるところだった。
「龍志……走りに行ってたんだって?」
龍志は、はぁはぁと荒い息をつきながら、そのTシャツの裾でで流れ落ちる汗をぬぐった。その拍子に、意外に筋肉質の腹筋がちらりと見えた。シャツが汗で濡れていない面積の方が小さいから、ロクに拭けていない。この汗の流れている量を見るに、相当な距離を走りこんできたものと思う。
「うん……サッカーをやめて随分経っているから、身体を動かしておこうと思ってね」
言いつつ、洗面所のコップでごくごくと水を飲み、水分補給をする。俺の知っている限り、ただの洗面所の水をこんなに上手そうに飲む人間を見たことが無い。しかも、ごくごくと音が鳴ってはいるが、あんまり喉仏は動いていない。とことん女形な男だ。
「そうか……そりゃいい心掛けだな。いつから走ってる?」
「今年の四月あたりから。最近、少なくとも二日にいっぺんは走らないと、何だか落ち着かないようになっちゃって……」
「身体が慣れてきた証拠だな、俺もそうだったよ。じいちゃんの田舎にいる頃は、毎日朝に稽古をしないと何だかムズムズして、遣り残したことがあるような気分になるんだよな……」
じいちゃんに無理やり稽古させられた当初は、イヤでイヤで仕方の無しにやっていたものだけど、成長していくに従って、なんとも思わないように、むしろ自分が進んで稽古をこなすようにすらなって行った。将来、自分の大切なものを守る為には、心身の鍛錬が何よりも必要であると、じいちゃんに繰り返し言い聞かされていたし、何より……小学校も高学年になると、自分が日に日に強くなっていくのが分かったから。
嬉しかったな、あの時は。じいちゃんが倒れる前の朝、初めてじいちゃんから「参った」の声を聞いたんだ。間に合ってよかった。俺から見れば超人に見えたじいちゃんだったけど、いつお迎えが来ても……それこそ、次の瞬間に召されても不思議ではないような年齢ではあったから。
でも、常に腰がまっすぐで、耄碌した素振りなど全く無かったから、「その時」が来るまで、じいちゃんが死ぬなんて事は考えもしなかった。……いや、正確には考えていた。今日も平気だった、次の日もまた平気だった、と毎日安堵していた。
その日、小学校から戻ると、じいちゃんは珍しく布団で寝ていた。いつもなら、起きて茶を飲んでいるか、外に出て野良作業をしている時間なのに、だ。まあそういう事もあるんだろうな、なにしろ年齢が年齢だしと思って……が、夕飯時になっても起きて来ないから、まさかと思って寝息を確認してみれば……
どうしてあの時、ちゃんと確認しなかったのだろうと後悔してももう遅い。それからしばらく……そのことばかりが頭にこびりついて離れなかったっけ。実際にはもっと早く……俺が小学校に着くか着かないかぐらいの時間に……発作を起こして亡くなっていたようだけど、小学生の俺には、割り切ることは難しかったな……
「亮、どうしたの?遠い目しちゃって」
「ん?いや、なんでもない」
「ねぇ亮……秋にマラソン大会があるの知ってる?」
「知ってるもなにも……恒例行事だろ?」
そう、10月の半ば頃、高遠高校では、毎年恒例のマラソン大会が開かれる。まぁ何処の学校でもやっているような物だから、特別珍しくは無い。学校の周りを大きく回る、約10キロのコースだが、高遠高校はやや高台にある事が災いして、アップダウンの激しい、ペースの極めて掴みづらいマラソンになる。数字上よりずっと過酷なレースになるのは、去年の大会で身体でもって確認済みだ。
「僕、あれで亮に勝負を申し込もうと思うんだ」
「は?勝負ぅ?」
実は、龍志がこういった勝負事を口にするのは珍しい。……というより、初めて見る。常に穏健派で、自分が勝利すると代わりに負ける人間が出てくると言って、よほどの事が無い限り勝つ方に行かない、日本以外ではとても認められない人間なんだ。でも、そういう控えめな所も、俺が気に入っている理由のうちの一つだ。
「亮ってさ、何でもできるよね?学校の成績っていう意味じゃなくて頭がいいし、料理もできるし、身体強健武技抜群。僕は、亮が羨ましいんだよ」
「俺はそんな人間じゃ……」
龍志は、ゆっくりと首を横に振った。
「亮自身はどう思っているか分からないけど、僕にとって亮はスーパーマンなんだ。だから僕は、何か一つでも亮に勝ってみたい。亮は、僕が超えなければならない壁なんだよ」
龍志は、俺の顔を見つめながら……熱っぽく言った。俺が……誰かの壁になるなんて考えもしなかった。しかも俺が意図せずに。
「……分かった。勝負は秋だな?俺もその時まで身体を作っておく。覚悟しろよ?」
「亮、それはこっちの台詞だよ。せいぜい、僕に置いてけぼりをくわないようにね」
そう言って、悪戯っぽくウインクをし、そしてシャワーを浴びに風呂場へと入っていった。
……ふう……龍志、俺はお前にそこまで思われるような人間なのか、自分で自信が無い。だけど……俺に挑むことで……元より、申し込まれた勝負に負けるつもりはない……龍志が何かを得るのなら、かかって来い。俺も全力で受けて立ってやるぜ。
龍志には大分先んじられたが、まだ秋まで時間はある。今から走って、身体を作ろう。……龍志にとって超えるべき壁が、あまりに脆い砂の壁であるなどという事が無いように。
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全員が揃った所で、叔母さんが朝食を盛ってくれた。相変わらずの豪華な山の幸、海の幸で、これをまともに客から金を取ったら、高級旅館も真っ青な勘定書きになりそうだ。改めて、目の前に座っている叔父さんと叔母さんに感謝する。
「ところであんたたち、今日はどうするんだい?なにか予定でもあるのかい?」
気が付けば、ここに来てからもう三日目。明日にはここを発たなければならない。楽しい時の経つのは早いものだ。……昨日のあの件を除いては。
「いえ、そうですね……今日の夜は、祭りと花火大会があるんでしたよね?」
花火は地元の開催するやつだから、あまり大規模なものではないが、なかなか風情のあるものだと聞いている。近所の神社のお祭りも、夏という気分に浸るには欠かせない。まるで、俺達が遊びに来るのに合わせた様なタイミングだ……と、いうより、花火の時期に招いてくれたんだろう。わざわざ観光の目玉がある繁忙期に、俺達を快く迎えてくれた水上夫妻には、どんな言葉でのお礼も相応しくない。
「昨日までは海で泳いでばっかりだったから日焼けが痛いし、花火の時間まで山にでも行ってみようかと思ってるんですが……」
「そうかい。じゃあ、皆で川にバーベキューでもしに行かないかい?実はもう、あんた達が遊びに来てくれることが分かってから、金網とか炭とか一式揃えてあるんだよ。ウチの人が先走っちゃってねぇ」
叔父さんは、ごほんと照れ臭そうに咳払いを一つして、見ていた新聞で顔を隠した。「本当ですか!?有り難いですよ、何処に行こうか迷ってた所ですから。正直、海で泳ぐ以外に考えてなかったですからね。皆、どうだ?」
顔を向けて同意を求める。勿論全員が大賛成。元より、俺達にとっては渡りに船なのだ。異論などあるはずが無い。
「決まりみたいだね。じゃ、朝御飯を食べたらすぐに出ようか」
「あ、それと……」
俺はちらりと、瑠璃と愛菜ちゃんを見て言った。
「叔母さんが話してた温泉なんですが……」
昨日の狼藉者達のせいで、楽しみにしていた温泉も行くような気分ではなくなってしまった。どうしても、瑠璃に温泉の気持ちよさを堪能してもらいたい。
「ああ、それならもっといい所があるよ。そこの旅館よりも奥にあるから、行くまでにちょっと時間がかかるけど……後は行ってのお楽しみだね。露天風呂だからいい景色だよ、とだけは言っておくよ。花火大会の後にでも、汗を流しに行っておいでよ」
おばさんがヤケにニヤニヤしてるのが気になるが……余程いい温泉なんだろう。 「へぇ……露天かぁ、そりゃ楽しみですね。でも、そういう所って早くに閉まっちゃうんじゃないですか?」
「その点については心配ないよ。あたしが一声掛ければ、途端に24時間営業の貸切に早変わりさ」
うう、どんな声の掛け方をするんだろう。愛菜ちゃんに聞いたところ、叔母さんは方々に顔が利くらしいから、そこの温泉の主人はどんな秘密を握られているやら……あまりに恐ろしいし、哀れだから考えないでおこう。
水上夫妻のご好意のお陰で、今日も楽しく過ごせそうだ。こうまで思われている愛菜ちゃんは、実に幸せな子だ。
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さて、「民宿 漣」とボディサイドにロゴの入ったマツダ・MPV(初代)に乗せてもらい、「漣」を発つ事約20分。渓谷沿いの曲がりくねった車道をゆっくりとしたペースで走る。海が近いかと思えば、それだけ走るともう上流に近い。辺りに既に民家は少なく、車道の脇は鬱蒼とした森だ。どことなく、俺の育った山形に似ている。
「ここらへんはね、オレらが子供の頃、良く遊んだ場所なんだ。夏休みともなれば、それこそ一日中遊びまわっていたもんだよ」
野生児だった俺は、図らずも野山で駆けずり回っていた小学生の頃を思い出していた。夏になれば、そりゃあもう遊んだもんさ。あの頃の思い出は、今でも俺という人間を形成している上で重要な位置を占めている。
「へぇ……あれ?でも、叔父さんの実家って「漣」ですよね?って事は……「漣」から、ここ以上山奥まで遊びに通ってたんですか?」
「そうだよ。昔の子供にとっては、これ位の距離はなんでもなかったよ。せいぜい、自転車で一時間半位だし」
十分遠いよ!!と突っ込む気にもなれなかった。俺の野生児ぶりなんて、昔のエネルギッシュな子供にしてみれば、都会で育ったひ弱なお坊ちゃんと何ら変わりは無いだろう。……今の時代に生まれてよかった……のか?
それから更に数分程車に揺られる。周りの景色はどんどん緑が深まっていき、殆ど対向車ともすれ違わなくなった。
「よし、ここから近道を行こう」
叔父さんが宣言するや否や……獣道としか思えないような木々の間をすり抜けてゆく。がりがりと木の枝がMPVのボディを引っかく音が車中に響くが、叔父さんは意に介さない。
「ここからは揺れるから、喋らないで口を閉じていた方がいいよ」
言うが早いか、途端に視界が激しく上下し始めた。
おおおおおお、ここれれははすすごごいい!!
確かに、これで無駄口を叩こうものなら、舌を噛み切ること請け合いだ。ただ、皆にはそんな心配は無用だったらしい。なぜかって……俺と水上夫婦以外全員、青い顔をして俯いていたから。
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そのまま小刻みな上下動を体感すること数分……個人的には数時間もの時間に感じたが……急に目の前の木々が開けた。そして広がるは、渓谷に挟まれた、穏やかな清流。
「うわー……」
あまりの美しい景観に、青い顔をしていた方達もすぐさまそっちに目を奪われ、気分を悪くしている暇などなくなった。
おあつらえ向きに開いている河原に車を止め、外に出る。ここまで来ると流石に潮の香りはしないけど、その代わりに今度は胸いっぱいに木々の香りを吸い込むことが出来る。ああ、自然って本当に素晴らしい。
「亮、一人で休んでないで手伝ってよ」
見ると、龍志が水上夫妻に率先してバーベキューの荷物を運び出している。
「何もお前一人でやらなくたって、瑠璃や愛菜ちゃんにも手伝ってもらえばいいだろ?」
龍志が重そうに持っていたクーラーケースを支えてやりながら聞くと、両手の塞がっている龍志は、顎である方向を示した。
「うわー、すっごく綺麗なみず~」
「冷たくて気持ちいいね、愛菜ちゃんっ!!」
そこでは、二人の妖精が水面で、服のスソを濡らしながら戯れていた。愛菜ちゃんはパンツのまま水に入っているし、瑠璃はスカートを腿の辺りまで上げて、綺麗な脚をむき出しにしている。
二人の妖精が跳ね回るたびに、清い水滴が弾け散る。きらきらと輝くそれらは、二人の美少女の笑顔を何百個にも増やして映し出していた。
例え自分が画家や写真家でなくとも、何かしらの形で残しておきたいと思えるような美しすぎる光景だった。……そうだ、俺には、人間には、最強の記憶媒体があるじゃないか。そう、脳への記憶だ。
俺はその光景を、記憶に永遠に留めておくために、しばらく見入ってしまった。
「と、亮も見とれてしまうような二人に、こんな力仕事頼めると思う?」
「……頼めねぇ……」
「でしょ?力仕事で疲れさせるより、ああやって遊んでもらっている方が、僕達にとってはよっぽど有り難いよ」
「ま……それもそうか」
確かに瑠璃には、この先なるべく苦労をして欲しくない。だって、苦労は今までの、14年という短い時間で散々してきたろう事は想像に難くないからだ。あいつの精神面の年齢不相応さから言って、父親である岩戸教授を亡くすという不幸よりも前に、更に辛い思いをしてきたのではないか、と。
例えこんな些細な苦労でも、あいつにはもうして欲しくない。甘やかしすぎと言われようとも……だ。俺のそんな甘えなど、瑠璃の方で拒絶するだろうが。
愛菜ちゃんにも同じような事が言える。昨日のあの取り乱しようからして、その出生自身が辛い事だったように思う。それだからこそ、水上夫妻は彼女を愛し、そして守ってあげようとするのだろう。
そんな二人を、俺も守ってやりたい。あの笑顔を、二人の最高の女の子を。その為に出来ることがあるのなら、俺は何でもするつもりだ。
そう俺に覚悟させるほどの人間なんだ、あの子らは。