「我が業」、なかなかのモノ也
響子さんの二回目のボディーガード役を終えた後、何のアクションも起こしてこない犯人にイラつきつつ、響子さんの身に危険が及んでいないことに安堵もしていた。俺がそばに居るのを、犯人はどこかで息を潜め、見つめているのだろうか。これで諦めてくれればそれに越したことはないのだけれど…大体ストーカーという奴は とあれこれ考え出したところで、静寂は枕元に置いておいた携帯電話の着信音で破られた。目を塞いだまま、手探りで電話を探す。……あった。ぴっ、と通話ボタンを押した。
「ふああい、どちらさん?」
「亮君、私。響子です…」
そうだ。今の所、深夜に電話を掛けてくる人は、響子さんしかいない。大体俺が、何かあったらいつでも掛けてきていいよ、って宣言したんだもんな。って事は、緊急事態だろうか。ぼやけた頭の中身が、急速に覚醒してゆくを感じる。
「響子さん?どうした?」
「窓の外を見たら、いるの!!」
響子さんは、恐怖で我を忘れているようだ。
「落ち着いて、響子さん!!何がいるの?」
「人……黒ずくめの、カメラ持った!!どうしよう…」
「カギは掛けてあるね?だったら、じっとしてて。すぐに行くから」
「私、恐い!!ねえ早く、早く来て!!」
「落ち着いて!!すぐ行く!!」
電話を切ると、布団から抜け出す。こんな時の為に、Tシャツと短パンで寝てたんだ。まあ、夏でもあるしな。時計を見ると、午前二時半。とりあえず、机の上に置いておいた財布をポケットにねじこみ、なるべく大きな音を立てない様に玄関のドアを開ける。外に出ると、ねっとりとした空気が、さっきまで冷房で冷えていた肌の温度を急激に上げてゆく。それでも大汗かくのを覚悟で、響子さんのアパートへと急いだ。
そう言やあ、響子さんがしてくれたおとといのキス、まだ感触が頬に残ってるぜ。あのキスは歳下の弟分への感謝の気持ち、として深くは考えないようにした。
五分後、現地へ到着。あたりを見回すが、怪しい人影は見あたらない。響子さんの部屋のチャイムを押す。が、しばらく経っても返事が無い。しょうがないので、非礼を承知で新聞受けを開けて呼びかける。
「おーい、響子さん、亮だよ」
ややあって、ドアが開いた。
「亮君……?」
響子さんの顔は、二日前よりも更にやつれていた。
「約束通り来たよ。で、例の怪しい人間ってのは、まだいる?」
「うん。こっちよ」
響子さんは、俺を部屋の中へと導いた。何故か電気をつけていない。きっと、向こうから顔を見られるのがイヤなんだろう。響子さんが示した窓のカーテンをほんの少しだけ、向こうから確認できないくらい小さくめくってみる。見える風景は、俺が走ってきたのと反対側の、アパートの庭で、やや人目につきにくい場所だ。
「ほら、あの植え込みのとこ……いるでしょ?」
見ると、わずかに外灯が照らす、明らかに植え込みとは違う黒い物体がうずくまっている。たまに動くので、ゴミ袋の類ではない事が解った。
「確かに……人だな」
「どうする?亮君……」
響子さんは、可哀相におびえきってしまって、顔面蒼白だった。
「どうもこうも、とっちめに行くしかないでしょう。響子さんはここで見物しててくれ」
「でも、もし違う人だったらどうするの?」
「違ったって、あんな格好であんな所にいればロクな人種じゃない。念の為に、 110番の用意はしておいて。俺が人差し指をぐるぐる回す合図をしたら、電話して。じゃ行ってくるよ、いいね?」
「うん……気をつけてね」
俺は親指を立てて返事の代りとした。部屋を出て、例の箇所へと向かう。なるべく姿勢を低くし、こちらも物影に隠れながら……。相手が二階の響子さんの部屋を狙っているのなら、よほどのヘマをやらかさない限り、気づかれる恐れはないだろう。だが!!俺は、落ちていた空き缶を蹴り飛ばしてしまうという古典的なヘマをやらかしてしまった。くーっ、まだ奴に飛びかかれる距離じゃないぜ。
「!!!!」
黒ずくめの男(多分)は、ぎょっとした感じでこちらを見ると、植え込みから離れて、このあたりが人目につかない理由の一つの、さほど高くない塀に手と足を掛けた。どうやら、乗り越えて逃げるつもりらしい。そうはさせじと、俺はその後を追いかける。そして、足を引っ張ってやろうと手を延ばしたその瞬間!!
ばちっ!!
と音がして、目の前に火花が散った。意識が遠くなって行くのは解ったが、その後の記憶は無かった。
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気がつくと、目の前に響子さんの心配そうな顔があった。響子さんの顔と一緒に天井も見えるところから言って、俺は響子さんの部屋に寝かされているらしい。そんな当たり前の事に気づくのに、いやに時間がかかった。
「う……一体俺、どうしちゃったんだ?」
「あの人を捕まえそうになったら、亮君が急に倒れるんだもの。刃物で刺されたんじゃないかと思ってびっくりして……急いで下りてきたのよ。大変だったんだから、亮君を担いで階段を昇るの」
「そうか、心配かけてごめん」
「うん……でも、良かった、亮君が無事で。何処にも傷が無いって分かったら、私……安心しちゃって…」
そう言って、響子さんは目を拭った。泣かせる程心配させてしまったようだな。それにしても、あの火花が散る様な感覚といい、一瞬で気絶しちまった事といい、どうやらスタンガンを食らってしまった様だ。用意周到と言うか何と言うか……そこまでして響子さんのプライベートを覗きたいなんて。今度会ったら目にものを見せてくれん。
「ねえ、亮君……本当にごめんなさいね、私のせいで危ない目に遭っちゃって……」
「何言ってんだ、響子さんが謝る必要なんて無いよ。謝んなきゃならんのは、頼りにならないクセにボディーガード役を買って出た俺の方だし、それよりもっと謝って欲しいのはあのボケの方だ。それに、気にしないで。こういう事も有り得るという覚悟も出来てるから」
「うん……。そう言ってもらえると助かる。ありがと……亮君って優しいのね」
「いや……そんな事ねえよ」
なんとなく照れ臭くなった俺は、少し休んでいけという響子さんの言葉を振り切り、家に帰る事にした。
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次の日(といっても、日付的には同じ日だけど)の夜、俺はまた響子さんを送りに喫茶館へやってきた。入口の前に立つと、ちょうど響子さんがマスターに挨拶して出てくる所だった。
「よっ。じゃ行こうか」
「ねえ、亮君……」
「何?」
響子さんはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「私、考えたんだけど、やっぱり警察に相談する事にしたわ」
「えーっ、どうしてさ?犯人の目星もついたっていうのに」
「だからよ。これ以上亮君を危険な目に会わせる事はできないわ」
「そんな、俺の事は気にしなくていいのに」
俺の言葉を聞くと、響子さんは強い調子でこう言った。
「気にしないなんて、人でなしみたいな事できる訳ないじゃない!!もし亮君に何かあったら、私は瑠璃ちゃんに何て弁解すればいいの?」
「……」
「きっと、私の手で何とかして見せるわ。もう、怯えて暮らすのはいやだもの」
そうまで言われちゃあ、俺には返す言葉も無い。しかし、今ここで響子さんを守ってやれないのは、非常に悔しい。あの時スタンガンを食らったのは、俺の気の緩みから来る完全なミスだ。たかがストーカー、追い詰めれば簡単に音を上げるに違いないとタカをくくっていた、驕り高ぶった俺の。
「お願い。分かって、亮君」
言い聞かせる様に、俺の瞳から視線を逸らさない。自分の身が危ういと言うのに、俺の事を気遣ってくれる響子さん。優しくて…強い女だな。
「……分かった。じゃ、せめて今日だけ。今日だけは送らせてくれ」
「……いいわ」
かくして、ラストチャンスをもらった俺は、一計を案じた……という程のもんじゃないけど、響子さんとの距離を大きく空けて歩く事にした。夜目からは確認しづらい距離を取る事によって、響子さんを半ばオトリのようにする訳だ。ちょっと心苦しいが……ま、犯人が何等かの行動を起こさねば、ジ・エンドなんだけどな。
さて、了解をもらって歩き出す。しかし、遊歩道を過ぎても何も起きず、内心俺は焦り始めていた。くそっ、昨日の今日だからか?くそ、くそ!!拳を血がにじむ程握りしめる。俺は、たかが変質者の類にさえも無力なのか?親しい人を助ける事も出来ないのか?地団駄を踏みそうにさえなったその時!!前方で響子さんが、例の黒ずくめの男に羽交い絞めされ、口を塞がれているのが見えた。そこは回りが林に囲まれていて、街灯の明かりも届きにくい遊歩道随一の危険地帯だ。
(ここで来たか!!)
どうやら、人が回りにいなくなったと思い込み、行動に出たらしい。無論、俺の存在には気づいていない。大方、薬でもかがせて、林の中にでも引っ張り込もうってな魂胆だろう。案の定、男はドラマでしか見た事のないような光景、ハンカチを響子さんの口元にあてがいそうになっている。しかし、響子さんは暴れてなかなか上手くいかない。そのうちに、俺と男の距離50メートルを、6秒というスピードで追い付いた。アドレナリンが体に満ちているのか、体育でタイム計測をした時より、数段早い様な気がする。
「くっ……」
男は、響子さんを突き飛ばす様に、乱暴に解放した。彼女は二、三歩よろめき、草むらに尻餅をついてしまう。だが、俺にはそっちに注意を払う余裕がない。男はすぐさま逃亡を計った。だが、カメラやなんやら沢山首からぶら下げた、その足取りはいかにも重く、すぐに足をもつれさせ、転倒した。俺は一歩二歩と間合いを詰めて行く。その歩みに合わせて、男の手が懐に伸びる。そしてスタンガンを取り出し、俺に向ける。電極の間で、不気味な青白い光が数回弾けた。威嚇のつもりらしい。だが俺は、そんなネタバレした手品のような脅しに怯える程ヤワな人間じゃない。今までの不埒な行いに対しての怒りからか、自然と大股で男に歩み寄る。
「亮君!!」
響子さんが尻餅をついたまま叫ぶが、俺には半分聴こえていない。そして!!あと一歩という距離で、男がスタンガンを突き付けてきた!!
「うおおおーっ!!」
男の声が辺りに響く。
俺は微動だにしない。普通の人間には、ただ単に棒立ちになっているとしか映らないだろう。
しかし…。
次の瞬間、スタンガンと男の体は、別々の方向へ吹っ飛んでいた。
これぞ、曳水流合気柔術、裏水弾き!!
素手対刃物時用の技だ。
「うぐっ!!」
背中から落ちたらしい、どすんという鈍い音と、男の苦痛の声がした。しかし、これで終りじゃない。俺は、男の腕の関節を極めて動きを封じる。
「いてて!!くそ、離せ!!」
「アホ、お前が言い訳できる状況かどうか、見て分からないのか?今すぐ警察呼んでやってもいいんだぞ!?」
男は、それを聞くとぴたりと抵抗を止めた。
人相を隠すマスクに手を掛け、引っぺがす。中から出てきた顔は何と……!!
「さ、佐竹ぇ!?」
学校で、なんだかんだと俺にちょっかいを出してくる、あの佐竹だった。
「亮君、知合いだったの?」
尻の汚れを払ってから、響子さんが俺の背に隠れるように尋ねる。
「ああ、佐竹って言ってね。何かにつけて俺を陥れようとしてる変なヤツなんだよ。全く、俺を社会的に抹殺して、誰が得を」
「遠藤だよ!!」
「え?」
俺の言葉を遮った、遠藤という名に戸惑った。何で遠藤が出てくるんだ?
「お前が遠藤と親しくしているのを見て、俺は矢島の追い落しを企んだ。矢島の信用が失墜すれば、遠藤は自ずから離れて行くと思った。ただ、それだけだ!!」
観念したのか、佐竹はぺらぺらと聞かれていない事まで喋った。
「おいおい、それだったらウチ矢島家に狙いを絞ればいいじゃないか。なぜ響子さんを?」
「お前は予想以上にスキの無い奴だった。そこで別の、矢島にからむ人間から切り崩して行こうと思案していた。そんな時に、お前が喫茶館にいて、この人と親しげに喋っているのを偶然見かけたんだ。ひょっとしたら、いいネタになるかも知れないと……」
「それで響子さんを付け狙ったのか。大体な、俺と遠藤はつきあってる訳じゃないんだぜ?遠藤に対してその気があるんだったら、態度で示せばいいじゃねえか」
「そ……そうなのか?いいのか、俺が遠藤に手を出しても」
「手を出す……ねえ。言い方は悪いが、まあそういう事だ。それにしても、「ひょっとしたらネタになる」ってだけで、良くこんな事ができるな。暇な奴だ。警察のご厄介になるリスクを犯してまでした事だからな…大した覚悟であった事は買うが…やっぱ人に迷惑かけちゃいけねぇよ…。さてどうする、響子さん?」
すると響子さんは、つかつかと佐竹に歩み寄る。何をするのかと思ったら、その目の前にしゃがんだ。
「キミ……」
響子さんの語り口はあくまで優しい。まるで、全ての罪を許そうかと言わんばかりに……。
「もうこんな事、絶対にしないって約束できる?」
「はい……」
「本当に?」
「はい。本当です」
響子さんは、佐竹の目をじーっと覗き込んだ。そして……
「分かったわ。目が嘘をついていないから、信じても良さそうね。じゃ、行ってもいいわよ。あ、ネガか何かある?あったら一応もらっておくわ」
すると、佐竹は素直にポケットからいろいろな物品とフィルム二本を差し出した。これは、今までに集めた証拠フィルムらしい。家の机にしまっておくよりも、自分で持ち歩いていた方が安全だからか。全てを差し出すと、佐竹は最後に一言詫びを言い、去っていった。
「いいのかい、放っておいて」
「うん……あの子がそう言うんだから信じるしかないわ」
俺は、睡眠不足になる程悩まされた男を、あっさり許してしまう聖母のような彼女の寛大さに、心の中ですっかり平伏してしまった。
「それにしても私、亮君を見直しちゃった」
佐竹の姿が見えなくなる迄見送った後、響子さんが振り向いて言った。
「そう?」
「ええ。だって彼、吹き飛んだわよ。細身に見える亮君に、そんな腕力があったなんて……」
「あはは、あれは力じゃないよ。「技」だ」
「技?」
「そ。相手の重心を崩して、投げる。その「技」さ」
俺は小さい頃、山形に住んでいた親父方のじいちゃんの家で育てられた。小学五年生の春までの事だ。その時に、半ば無理矢理に教わったんだ。このじいちゃんというのが質実剛健を絵に描いたような人で、若い頃は海軍の士官として戦艦(筆者注:長門)に乗っていたらしい。そんなじいちゃんだから、武芸を粗方空んじていても不思議じゃない。結局、預けられてから十年はみっちりしごかれた。そうして憶えたのが、この曳水流合気柔術って訳だ。一度ケンカに使って大勝ちして帰ったら、チクリが入っててえらく怒られたっけ……その技は人を活かす技だ!!とか何とか。そのじいちゃんも、俺が小学生を卒業する前にあっさり亡くなった。病と歳には、さすがに勝てなかったようだ。
響子さんのアパートの前まで送っていくと…
「亮君…今日は本当に有難う…」
見ると、響子さんの視線が熱い。じっとしていると、魅入られそうになるくらいに。
「ま、まあ、事件が解決しそうで良かった。兎に角響子さんに怪我が無くて何よりだよ」
「うん…ね、亮君…良かったら、家へ上がっていかない?」
「え」
思ってもみない申し出に、俺の心は正直、揺れ動いた。揺れ動いたけど、傾きはしなかった。俺はただ、当たり前の人助けをしただけだ。
「いや、やめとくよ。もう夜も遅いしね」
「そ、そう……」
「じゃっ!!」
響子さんが二の句を告げぬうちに、俺はダッシュで駆け出した。もしあのまま、部屋に上がっていったら…という事を考えなかったわけじゃない。でもそれだと、報酬が目当てで響子さんを助けたのを認めてしまう事になる…少なくとも、俺はそう思う。俺は只…響子さんの曇った顔が見たくなかっただけさ。俺の力で不幸を免れる人が居るのなら、その笑顔を信じて生きて行けるのだから。