「報酬」は不意に
のオーケストラ。
入道雲。
刺すような日差し。
逃げ水。
熱帯夜。
蚊取り線香。
スイカ。
海。
山。
川。
日本の正しい夏、あるべき姿。
日本の正しい夏なら当り前だけど、暑い!!入道雲は彼方の空を覆い、かといってこちらに雨を降らせる雰囲気は無い。空は何処までも抜けるように蒼く、俺の心を弾ませる。
…と、夏にこんなにセンチになるのには訳がある。実は去年は曇天続きの冷夏だったんだよ!!それじゃあ暑い夏も大歓迎しようってなもんだ。
そんなこんなで、涼を取りに喫茶館へと足を運ぶ。家にいるのも時間がもったいない気がするし、瑠璃は、愛菜ちゃんと水着を買いに街に出かけて行ってしまった。龍志の家に電話をしても誰も出ない。それだったら、喫茶館のアイスコーヒーと冷房、そして響子さんの御顔を頂こう。そうすれば、今日一日の涼が約束されるのだ。ようやく喫茶館の入口をくぐった時には、既に体じゅうの汗が尽きようかと思える程だった。
「どーもーマスター」
珍しく、目立つ場所でマスターが皿を磨いている。いつもは奥の方でサイフォンとにらめっこしてて、接客は響子さんや他のバイトの人に任せっきりなのに。ちなみにマスターはどんな人かといえば、ちょっと痩せていて、白い髭と顎髭に、白眉という言葉がぴったりの(実際、マスターの入れるコーヒーはあらゆる喫茶店の中の白眉だ)眉毛。いつもにこにこしていて、人を和ませる。年輪を感じさせる含蓄のある言葉もまた良し。そんなマスターが大好きだ。ちなみに、俺はマスターの本名を知らない。尋ねた事は無いけど、自分から申告しようともしないので、まあ良しとしておこう。
「ああ亮君、いらっしゃい」
「マスター、今日は一人?」
「いや、響子君が買物に出とるよ。ガムシロップが切れかかっていたもんでね」
「じゃあ、すぐに帰ってくるね。マスター、いつもの特製ブレンド……じゃなかった、アイスコーヒー。」
俺はカウンターのスツールに腰を下ろした。
「やっぱり。今日のお客さんがコーヒーを頼む時は殆どがアイスでね」
「なるほど、だからガムシロが急に減ったんだな」
「その通り。ところで亮君、最近響子君におかしな所はないかい?」
「おかしな……所?」
マスターは沈痛な面持ちで、ため息を一つついた。
「うん……何かこう……心ここにあらずって感じでね。接客をしている時はまだいいんだけど、ヒマになると話掛けても考え事をしていて、返事がうわの空なんだよ。響子君がここのアルバイトを始めてから結構経つけど、あんな彼女を見た事は無くてね」
俺もちょくちょくここには来てるけど、そんな姿は見た事が無いな。かといって心当りがある訳じゃなし……。
「ごめん、マスター。ちょっと分からないよ」
「そうかい?ならいいんだけど……」
ちょうどその時、ドアが開いて響子さんが帰って来た。ちりんちりんと、この季節なら風鈴と聞き間違えそうな、ドアにつけられたカウベルの音色が響く。
「ただいま。あら、亮君いらっしゃい。この暑いのによく来てくれたわね」
響子さんは、今日は白のTシャツにジーンズというかなりラフな御召し物だ。しかしスタイルが抜群な為、かなりの人目を引いた事だろう。
「暑いから、だよ。響子さんの涼しげな姿で納涼しようと思ったのさ」
買ってきたガムシロを冷蔵庫にしまいながら、俺の下種なジョークを余裕の笑みで返す。
「あら、随分御世辞が上手くなったじゃない。誰を相手に鍛えたの?」
「内緒だよ」
やっぱりいつもの、お姉様な魅力全開の響子さんだ。マスターの思い違いじゃないの?そう思い、安心して美味しーいアイスコーヒーを賞味していた矢先……。
「きゃっ!!」
悲鳴のコンマ数秒後に、何かが割れる音が響いた。
「やっちゃった……片付けないと……」
どうやら、グラスを割ってしまったらしい。カウンターを覗き込むと、響子さんが素手で破片をチリトリの中に入れていた。
「響子さん、手でやると危ないぜ。ホウキにしなよ」
「平気よ、大きい破片だけだから……」
あの悲鳴にも関わらず、マスターが顔を出さないのを見ると、外へ一服しに行ったようだ。
「痛っ!!」
言わんこっちゃない、手を切ってしまった。確かに、こう続けてドジをやらかすと、あれこれ詮索して下さいって言ってるようなもんだよな。
「しょうがないな、後は俺がやるからバンソーコーでも貼ってきなよ」
勝手知ったる店の中、俺はカウンターの中へ入り、チリトリを響子さんから奪った。奪ったっていうのも、そうでもしなければ、自分の傷を放ったらかしにして掃除を続けてしまうに違いないからだ。
「うん……そうするわね。ありがとう」
響子さんは、自分の調子が良くないのを自覚しているのか、控え室の方へ消えて行った。それを確認して、俺はホウキで細かい破片を集める。あらかた片付け終ったころ、響子さんが戻ってきた。えらく済まなそうな顔をしている。
「ごめんね、亮君……」
「まあ、気にしないでよ。傷はどう?」
「ん……大した事ない」
「そう……良かった」
美しい御顔を良く見ると、目が充血してたりクマができてたり、とても健康そうとは言えない。そのやつれぶりが目にあまる為、俺はとうとう、プライベートに関係するだろう事を聞いてしまった。
「なあ、響子さん。何か悩みがあるんなら、俺で良かったら相談してくれよ」
響子さんの肩がびくっと震える。歳下の男を手玉に取るのは上手くても、隠し事は上手くないらしい。
「別に悩み事なんて」
「無いなんて言わないよね?」
「…………」
しばらくの沈黙の後、響子さんはぽつりと洩らした。
「どうして分かったの?」
「そんなドジを続けて目の前で見せられちゃうと、ね」
マスターが気付いていなくても、おそらくすぐに分かっただろう。オマケにあのクマじゃあねえ。
「俺じゃあ、相談相手には力不足かい?」
「そんな事はないわ。けど……」
「ほらほら、一人で抱え込んでちゃあ解決するものも解決しないぜ。遠慮せずに……な?」
響子さんは大きなタメ息を一つついた。
「もう……負けたわ、亮君には。……実は私、ストーカーに付け狙われているみたいなの」
「ス、ストーカー?」
「うん……」
それから響子さんは、被害の数々を……思い出したくもない事も多々あるのだろう、ぽつぽつと打ち明けてくれた。ヒワイな内容の電話、ゴミが荒されている、路上での背後の靴音等……。内容が内容な為、こちらからは突っ込んで話を聞けないのがもどかしい。が、一人暮しの女性の暮しを脅かす、卑劣な野郎に対して怒りを抱くのには充分な証言だった。
「私、毎日恐くて恐くて……警察にも何だか恥しくて連絡できないで……」
俺に打ち明けた事で何かが切れたのか、響子さんはカウンターに顔を伏せて、とうとう泣きだしてしまった。その姿はあまりにか弱くて、俺にある決心をさせた。
「分かった、響子さん。今日から俺が護衛をするよ」
「亮君が……私の護衛?」
響子さんは、充血した瞳をこちらに向けた。いつもスキのない響子さんからは想像できない無防備な姿だ……こんな時に不謹慎だが、はっきり言って、歳上には見えないほど可愛い。未だに戻ってこないマスターは、ひょっとしたら俺達に気を利かせてくれているのではないだろうか。
「ああ。ボディーガードってヤツだな。四六時中って訳にはいかないけど、せめて帰り道ぐらいは」
響子さんは、ちょっと考えてから、
「やっぱり駄目よ、そんな事頼めないわ」
「ど、どうして?」
「だって、危ないもの。刃物を持ってたらどうするの?私の事で亮君を危険な目に遭わせる訳にはいかない」
要するに、俺が頼りなく見えるらしい。そんなに俺って頼りなく見えるか?
「私の事って言うけど、こうやって話を聞いちまった以上、もう一人だけの事じゃないんだよ。もっとも、俺が強引に聞き出したんだけどさ。とにかく、悪の跳梁を許す訳にはいかない」
理由はもう一つある。響子さんの素敵な笑顔を拝めないのが耐えられなかったからだ。どっちかって言うと、こっちの理由の方が重要だったりする。でもこんな事、本人の前じゃあ恥しくて言える訳ないだろ?
「……そうよね。亮君だって男の子だし、いざって時には頼りになるかな……。じゃ、お願いするわ」
「よしきた。家にいる時に何かあったら、遠慮無く電話して。これ、俺の携帯の電話番号だから。それじゃ今晩、早速任務開始と行きますよ」
「くすっ。ええ」
素敵な微笑みが俺への報酬だ。さしずめ、今のは契約料ってとこだな。頑張るぞー!!
・
・
・
その夜。喫茶館のバイトが終った響子さんと、店の前で落ち合う。マスターは喫茶館二階の自宅へ、俺らの身の安全を願ってから帰って行った。
「よし、では行きますか」
「頼りにしてるわ、私のボディーガードさん」
「了解!!それで計画なんだけど…取り合えず俺は、響子さんの後ろをちょっと離れて歩いて様子を見るから。何かあったらすぐに叫ぶなりして」
「分かったわ」
俺は響子さんの後を、20メートル程遅らせて歩く。響子さんの家まで、曲り角は極力排してもらった。角を曲った瞬間に襲われては護衛の意味がないからな……もっとも、犯人を挙げる事ができればなお良しだけど。
こつこつこつ……
アスファルト舗装の遊歩道に響子さんのローファーの音が響き渡る。未だ、何らかの動きは無し。今初めて知ったんだけど、響子さんも二握川べりの遊歩道を歩くらしい。ここは夜になると、結構暗くて女性の一人歩きは危険だ。けど、そばは住宅街だし、俺が護衛している状況ならば一本道で見通しが良く都合がいい。
ぎーこぎーこ……
不意に、後方から自転車を漕ぐ音が聴こえて来た。俺は緊張に身を堅くする。響子さんとの距離を5メートル程、早足で縮めた。15メートルの距離からでも、響子さんが緊張しているのが判る。だんだんと音が近付いてくる……。俺はまだ振り返らない。そして背後にまで迫った時、ばっと振り返り、相手を視野に収めた。ところが……。
「君、君。何をやっておるのかね?」
何と、相手は人の良さそうなおっさん警官だった。
「あ、あの、俺……」
「最近、この遊歩道で痴漢が多発しておるという通報があるが……ひょっとして……」
ヤバイ、このままじゃあ俺が痴漢にされちまう!!響子さんを呼んで誤解を解いてもらわないと……。
「ちょ、ちょっと響子さーん!!あ、あれ?」
やんぬるかな、響子さんは既に40メートルは先に行ってしまって、薄暗い外灯では姿を捉えるのがやっとだった。
「ちょっと交番まで……あっ、こら!!待て!!」
警官が視線を逸した隙に、俺は脱兎の如くダッシュした。幸いな事に、警官の自転車を漕ぐスピードはメチャ遅い。こんなんじゃあ、いざ捕り物となった時に不安だ…とにかく今は、あの警官の心配をしている暇はない。しばらく全力疾走すると、響子さんに追い付いた。と思った矢先に、今度は何と、響子さんが猛ダッシュを始めた。
「あ゛!!待って!!」
それからというもの、たっぷり200メートルは追いかけっこを楽しんだ。したかったかどうかは別にして。俺が警官に追われながら、響子さんも何かに追われるように(俺が追っかけてる?)逃げる。それにしても、響子さんの足の早い事早い事!!おかげで、響子さんを捕まえた頃には一汗も二汗もかいた後だった。
「響子さん、待って!!俺だよ、亮だよ!!」
手を掴んで叫ぶと、ようやく響子さんは落ち着きを取り戻した。
「あ、亮君?ごめんなさい、私、てっきり……」
まったくもう。何はともあれ、俺は警官の嫌疑を晴らす事ができた。何故お互いが離れて歩いていたのかと聞かれたが、ケンカの最中だったという事にして、ストーカーの件は伏せておいた。警察は色々とアテにならないからな。この後、俺は響子さんのすぐ隣を歩くようにした。響子さんのアパートの前までやってくると、
「亮君、今日はお疲れ様」
「ははは、お互いにね」
取り合えず、今日の所は動きが見られなかったな。まあ、それはそれで良しとしておこう。
「俺は帰るけど、何かあったらすぐに電話してよ。携帯だから深夜でも構わないからさ」
「うん……」
「じゃ、おやすみ」
「あ、亮君!!」
「なに?」
「今日はありがとう……。そうだ、ちょっと耳を貸して」
「ん?ああ」
俺は言われた通りに、耳を響子さんの口元へ近付ける……。すると……。
ちゅっ。
湿った柔らかい感触が、頬に伝わった。
「え?」
響子さんは顔を離すと、小さく手を振って自室へ消えていった。でも、今のって……キス……だよな。どういう事なんだろう……俺は、そのキスの深意が解りかねていた。