夏近づかばこそ
時は流れ、七月上旬。瑠璃と和解してから二ヶ月が過ぎた。梅雨明けも一両日中と噂され、気の早い蝉がその鳴き声を競う。龍志はウチにちょくちょく遊びに来るし、瑠璃も愛菜ちゃんを連れて来るようになっていた。俺と瑠璃の関係は、理想的な仲の良い兄妹として浸透している。全てが上手く行っていた。相変わらず親父は帰ってこないが、もうそんな事はどうでもいい。このまま関係を維持していきたい、俺は切実にそう願っていた。
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期末テストの影が真近に迫っていたある日。この日も、瑠璃が愛菜ちゃんを連れてやってきた。どうやら、家でテスト勉強をするつもりらしい。
「お邪魔します、お兄さん」
「ああ、いらっしゃい」
いつもの様にお茶を入れていってやる。ついでに俺に解る範囲で勉強を教えてもやる。
「さてと、今日はこれくらいにしておこうかな。瑠璃ちゃんは?」
「私も丁度キリの良いところだから」
愛菜ちゃんはぱたりとノートを閉じ、うーん、と可愛い伸びをした。瑠璃もそれを真似てから、二人で顔を見合わせてけらけら笑い合う。ふふ、良い風景だ。それにしても随分と親しい関係になったようだ。最初にウチに連れてきたときは、どちらかというと瑠璃の方が愛菜ちゃんのパワーに押されている感じもしたが。
時計はまだ七時前だったが、立ち上がって窓の外を覗くと、まだ日が残っている。アスファルトが夕日でオレンジ色に染まっていて、その上に長く黒い電柱の影が伸びていた。…夏、なんだな。
「テストが終ると、とうとう夏休みですねえ、お兄さん」
愛菜ちゃんはいつの間にか俺の隣りに立ち、同じく窓の外を見つめながら言った。
「そうなんだよな…ほんとにテストの事は考えたくもないよ。ま、夏休み前の試練と思えば、何とか…ね」
「くすっ、お兄さんは、夏休みは何かご予定があるんですか?」
「いや、特には……友達と山でキャンプする位かな」
このキャンプ話は、遠藤から持ち上がったものだ。彼女の家にはキャンプ用具が一通り揃っているらしく、夏にはよく親戚連中で山に行っているそうだ。用具の心配がいらないなら、と例の仲良し男女グループもかなり乗り気で、テスト終了後に本格的に話を進める予定だ。
「そうなんですか。あの、実は、私の叔父夫婦が海で民宿を営んでまして。中学生の思い出に、海水浴に行こうかと瑠璃ちゃんと相談しているんです。そこで、お兄さんもお友達を誘って一緒に遊びに行きませんか?」
なるほど、宿の手配をしなくていいからそりゃ楽だ。……ちょっと待てよ、民宿って愛菜ちゃんは最初からお泊りするつもりのようだ。
「愛菜ちゃん、外泊いいの?お父さんお母さんが反対しない?」
「はい、平気です。知り合いの民宿ならいいって事で、許可は既にとってありますから」
「でも男と一緒だよ、それでも平気なの?」
「心配ないです、ウチは放任主義ですから」
「そこまで言うんだったら…ま、いいか。それじゃあ行くよ。心当りが一人いるから、そいつを誘ってみる」
「じゃあ、決まりですね。日程は決まり次第連絡しますから。それでは、お邪魔しました」 愛菜ちゃんはショートボブの髪を、ぴら、と揺らして頭を下げた。それにしても礼儀正しい子だ。これなら誰とでも仲良くなれそうだ。
「瑠璃ちゃん、また明日ね」
「あ、待って、外まで送っていくから」
部屋を出て行く愛菜ちゃんと瑠璃の後ろ姿を見ながら、良い友達が出来て本当に良かったと、しみじみ思ってしまう保護者モードの俺だった。
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愛菜ちゃんが帰ってから、俺達は夕飯(鶏の竜田揚げがメイン)を喰いながら海へ遊びに行く話で盛り上がっていた。
「お兄ちゃん、心当りって誰?龍志さん?」
「ああ、あいつなら暇そうだからな。瑠璃も知らない奴よりはいいだろ?」
「うん。楽しみだなあ、どんな水着着ていこうかな……。良く考えたら海へ行くの久しぶりだから、水着持ってないのよね」
「そんなに思案して、誰に見せるんだ?龍志か?」
「ちがうもーん!!単なる自己満足のためだもん」
おいおい。
「ね、おにいちゃんは私にはどんな水着が似合うと思う?」
何の気無さそうに聞かれ、素直に瑠璃の体形を想像する。
瑠璃の水着かあ……。瑠璃はスタイルはいいけど胸だけは発育途中だからな。胸を強調しないようなデザインなら何でも似合うと思うが……
「そうだな……あんまり派手じゃない物だったらいいんじゃないか?」
「そう?テストが終ったら愛菜ちゃんと水着を買いに行くの。おにいちゃんのアドバイスを参考にするから、楽しみにしててね」
「なっ、どうして俺が楽しみにしてるって判るんだよ!!……あ」
「あー!!赤くなった。やっぱりね。どうして判ったか教えてあげよっか。答えは簡単、おにいちゃんが、「えっち」なひとだから!!」
瑠璃は、自分の皿を流しへ置くと、呆気に取られている俺を後目に風呂場へと消えていった。
あいつめ、俺をからかいやがったな。考えてみりゃあ、家に来てから三か月が経つけど、からかわれるなんて初めての経験だ。外見上は、もはやフツーの歳相応の女の子になった。あの時からは考えられないほど、よく笑うしよく喋る。学校でもうまくやっているらしい。そうだよ、それでいいんだよ、瑠璃。お前には、常に笑顔でいてもらいたい。
こんな事を考えている時だけ、俺はいっぱしの保護者の真似事が出来るようになっていた。
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きーんこーんかーんこーん。
それは、期末テストの終りを告げると同時に、夏休みへのカウントダウンも告げるチャイムであった。一番後ろの席の生徒が答案用紙を回収し、監視の先生がドアを開けて出ていくと、そのドアから教室の中の緊張した空気が排出され、代わりに緩みきった空気が流れ込んできた。 俺も皆と同様に気が抜けてしまい、机の上に突っ伏した。
「亮!!どうだった、出来の方は」
龍志が弾んだ声で話し掛けてきた。コイツ、テストが終わった直後だというのに元気だな。いや、終わった後だから元気なのか。
「ん、まあまあだな。龍志は……その声の調子からしてあらかたfeel so goodってところか?」
「うん。久々に満足のいく結果が出そうだよ。それよりさ、今日この後にキャンプの打ち合せをしておこうって遠藤さんが言ってたよ。モスかどっかでさ」
「早くねーか?終業式まで一週間はあるんだぜ」
「駄目だよ、予定は早めに決めておく方がいいに決ってるじゃないか」
何故だか、龍志はキャンプ計画に入れ込んでいる。きっと、大勢で遊びに行くのが嬉しくて仕方がないんだろう。一年の頃はかなり無口だったからな。龍志を慕うコは数知れど、実際に声を掛けられている場面は殆ど見た事が無かった…特に同級生からは。きっと、帰国子女という色眼鏡で、みんなとの距離が無意識の内に離れて行ってしまっていたんだろう。でも、俺がちょくちょく話掛けていたり、友達達との話の輪に入れてやっていた為か、二学期の終り頃にはすっかり打ち解けるようになった。そして、俺を唯一無二の大親友と言ってくれる様にまでなったのだ。無論、俺もそう思っている事は言うまでもない。
「うーん、まあいいか。他の予定が入ってからじゃあ遅いもんな」
「そうそう、善は急げってね。じゃあ他のみんなにも伝えてくるね」
龍志はウキウキした様子で佐伯達に話をしに行った。あんなに喜んでるんじゃあ、水を差す様な事は言えないよな。
放課後、俺達は駅前のモスバーガーでキャンプの第一回打ち合せをした。第一回といっても、話合いはとんとん拍子に進んだので第二回は苦労せずに済みそうだ。とりあえず、場所は伊豆の方という事と、日程は八月の盆後三日間に落ち着いた。後の細かい持ち物分担はまた後日にして、会を御開きにする。帰り際、俺は龍志に声を掛けた。
「龍志、実は瑠璃の友達のコの叔父さん方が海で民宿をやっててな。遊びに行く事になりそうなんだけど、来るか?」
「他に誰が参加するの?」
「まあ、民宿ってだけに小人数で、つまり俺と龍志と瑠璃とその友達、愛菜ちゃんって言うんだけど、そのコと四人だけだ」
それを聞くと、龍志は目を輝かせながら激しくうなずいた。
「行くよ行く!!絶対行く!!是が非でも!!」
「わ、判った。詳しい事はまた伝えるから」
「うん。楽しみにしてるよ。じゃあね、亮」
「おう、また明日」
あんだけ喜んでくれると、誘った甲斐があったというもんだ。
後日、愛菜ちゃんから電話が入り、日程は二泊三日、お盆前と決まった。さらに、キャンプも正式に決定した。梅雨明け宣言もこの日にあった。いよいよ夏だぜ。
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きーんこーんかーんこーん……。
10時40分、そのチャイムは鳴った。学級委員が号令を掛け、帰りのホームルームを終える。いつも見慣れた光景のはずが、今日は一味も二味も違う。そう、夏休みだ。学校生活最大のイベントの一つである夏休みが始まったんだ。俺は龍志を伴って昇降口を出る。相変わらずの強い日差しだけど、今日位は文句を言わないでおいてやろう。
「あーーー、とうとう夏休みかあ。明日から四十日、有意義に過ごさないといけないね」
龍志も空をまぶしそうに(実際まぶしいんだけど)見上げた。
「全くだ。今年は海に山、そういう意味では申し分の無いサマーライフ・プランだな」
「うん。来年は受験で忙しくなりそうだし、今年くらいは遊んでおかないとね」
受験という言葉に俺の耳が反応した。
「受験って龍志、お前まさか他の大学に入るのか?」
「あ……うん」
高遠高校は私立長州根大学の付属校で、幼稚園からのエスカレーター式で何の苦労も無く(親達は金銭面で苦労するだろう)大学まで進学できる。俺は、親父に勧められて高校から入った。他に目ぼしい学校も無かったし、親父も珍しく熱心に勧めるもんだから、ここに決めてしまった。きっと、入試の結果が悪くてもコネでなんとかなるとでも思ったんだろう。親父は俺の学力を全く信用していなかったようだ。
「普通は驚くよね。でも……私大ってお金かかるでしょ?僕はずーっと私立の学校だったから、せめて大学ぐらいは国立にしよう、ってね。仮に浪人になっても、予備校に行かずに自宅で勉強する。これ、まだ親にも相談してないんだ……打ち明けたのは亮が初めてだよ」
はっきり言って、相当なショックをだった。俺がただ漠然としか進学を考えていなかったのに、龍志は既に自分の考えを持って、己を甘やかさずに受験戦争に身を投じる覚悟だったなんて。
「ねえ、亮、亮!!」
「あ、ああ、なんだ?」
「平気?何だかぼーっとしてたけど」
「い、いや何でもない」
龍志と別れてからも、俺は自分の進路のあやふやさに不安を抱かずにはいられない。
俺は何がしたいんだろう?
俺はどうすればいいんだろう?
一度、親父と腹を割って話し合う必要が有りそうだった。
そして俺の「心」とも……。