忘れ形見
前に自身が運営していた小説サイトからの転載です。登録は随分前にしていたのですが、バックアップの意味も込めて、当初書いていたものとは大幅に改稿し、出来れば一話からやり直したいと思います。
睡眠を悦しむことは、人間に与えられた特権である。
俺、矢島亮太郎は、夢うつつの境界にたゆたっているかのような、限りなくふわふわでぽわぽわの、まるで綿飴のような思考の中でそう結論づけた。
ぴんぽーん。
……動物に必要不可欠な、そもが生命を維持するための、しかしほとんど義務と言い換えても差し支えない欲求を、如何なる質で・如何なる環境で・如何ほどの時間・という、もはや崇高とも言える高みに持っていった我々人類は、その他の所行はいざ知らず、少なくとも睡眠に関しての飽くなき探求だけは、全宇宙の生きとし生けるものに対して誇れる偉業だと思うのだ。
ぴんぽーん。
……生存競争厳しき大自然の中で命を育む動物達にとって、睡眠という行為がどれほど危険か。睡眠のための姿勢を取ることも、睡眠して意識を落としていることそのものも、考えるまでもなく、種の存続の為に営む日常と同じく、外敵との『斗い』に他ならない。生きるために死の危険に身をさらさねばならない……何という皮肉!
それに比べ……まあ地球の各所でその至高の一時を妨げられている人々も居るだろうが……命の危険にさらされることなく睡眠を悦しめる境遇のなんと素晴らしいことか!!人類最高!
ぴんぽーん。
……などと、自慢じゃないけど只でさえ回転の鈍い俺の頭脳が、起き抜けで余計に回らないせいもあって、名言とも妄言ともつかない結論をわざわざ導き出してから覚醒してしまった。目下の問題を解決し、至高のひとときである睡眠を再び貪るため、俺の居城……即ちぬくぬくのベッドからノソノソと身体を抜き出すが、あまりの寒さに身震いしてしまう。本当にもう春なのかと疑ってしまうほど室内の空気が冷たい。身を切るような寒さという表現がぴったりだ。日付上ではとっくに四月だが、四月に入ったここ数日は特別冷え込みやがる。三月末まであたりはいかにも本格的な春の到来を思わせるような陽気が続いたから、すっかり油断してしまった。おかげで、麗らかな陽気に誘われ、慎ましやかな蕾をほころばせた桜も、本格的な開花の寸前で大幅な減速を余儀なくされたそうだ。そんな状況でも、一度春が来たと信じ込んだら暖房を入れないのが俺の一つの正義だ。非常にささやか且つ自己満足的なことではあるが。
ひとつ大きなあくびをして、姿見で取り敢えず最低限の身だしなみが確保されていることを確認する。身だしなみと言っても、上下パジャマ代わりのジャージをきちんと着ているかを観ただけに過ぎないが。この家に身だしなみを注意してくれる人間は、自分の他には居らん。お気楽な一人暮らしを満喫するためなら、炊事洗濯等の家事一般を一人でこなさなければならない事との交換条件など易いものだ。
ぴんぽーん。
さて姿見に映っているのは、いかにも起き抜けで機嫌の悪そうな、剣呑な目つきの金髪・短髪男。その短髪をもってしても俺の寝相には無力で、堅そうな髪の毛の先がところどころ明後日の方向を向いていたりするが……見ようによってはそういう髪型に見えないこともないから許容の範囲内だろう。半分はだけたパジャマの胸元からは、そこそこの厚みの胸板が覗いている。二年前にこっちに来てからと言うもの、そうそう大した鍛練を積んだ覚えも無いのだが、これはやはり、幼少からこちらに出てくるまで祖父に仕込まれていた武道の――今となっては貯金としてしか残っていない――鍛錬の賜とでも言っておこう。一応食事のおおまかなカロリー計算はしているつもりだし、週三回程度のジョギングは欠かしたことが無い。怠惰な生活を送りかねない一人暮らしの帰宅部員としては、そこそこ健康に留意している方とは言えまいか。
ぴんぽーん。
……玄関の呼び鈴ボタンを熱心に、だが遠慮しているのかあくまで一定間隔で押し続けているその誰かについて、俺の至福の一時を妨げた犯人としての怒りよりも、呼び出しを無視してきた事への罪悪感がそろそろ勝ってきたところで、二階の自室から、わざと足音を立てて階段を下りる。玄関の向こうに居ると思われる来客は、その足音を聞きつけたのだろう、執着でもあるのかと思うくらいの等間隔で行っていた呼び鈴のアピールを中断していた。土間に降りてサンダルを履き、とどめに一つ大あくびをしてから玄関のドアをゆっくりと押し開く。果たして見えた景色は、いつも見慣れたお向かいさんの家……と、誰かの頭頂部。呼び鈴の主のご尊顔は、俺の予想よりずっと下にあった。
「初めまして、瑠璃……と申します」
そして意を決したような表情で、そう真面目くさって深々と頭を下げた彼女。そう、彼女。女の子である。身長は、175㎝の俺よりも頭一つ以上低い。しっとりと艶のある長髪を、両のこめかみよりちょっと上のあたりでくくっている。それはまあいいのだが、問題というか非常に惹かれたのは……彼女の立ち居振る舞いだった。確かに今は玄関口で姿勢良く立ち尽くしているだけだが、不安そうな表情のワリには物怖じしていない雰囲気があるし、何よりこちらを見つめるその瞳の美しさが格別だった。極めて透明度の高い湖を思わせるような、澄み切った瞳。無論本物の湖と同じような色であるはずもなく、彼女の出自を物語るようにダークブラウンの瞳の色ではあるが、それとは別の意味での透明感。どう教育を施したらこのような、意思の強さと精神の確かさを表に伝えるような『眼』を持つに至るのか?
「あの……」
「あ、ああ、ごめん」
不躾にも彼女を観察しすぎ、半ば凝視するような形になってしまった。そんな俺に不信感を抱いたのか、戸惑いがちに彼女が声を掛ける。可憐な容姿から想像するほどには高い声色ではなかったのは意外と言えば意外だ。
瑠璃と名乗る女の子はぺこり、と一礼して、
「至らないところもあるでしょうし、一緒に暮らすことにもお互い戸惑いがあると思いますが、上手く行く様に努力しますので……どうかこれから宜しくお願い致します」
と、つい「こちらこそ」と日本人そのものの返礼……というかもはや条件反射に近い受け答えをしてしまいそうになって慌てて踏み止まる。
「一緒に暮らす……だと?」
「……え?」
「ってことは、君は今日からこの家で暮らす、と。その言葉は比喩とかたとえ話とかでも何でもなく、一つ屋根の下で共に生活する、そういうこと?」
「そうなりますが……」
まるで俺の応答の方が異常であるかのような瑠璃さんの反応。
「ひょっとして……なにも聞かされていないんですか?」
そう言って、不安そうにその形の良い眉をひそめる。まるで俺が最初から全ての事情を含み置いていて当たり前という風だが……こっちと来たら聞かされていないもなにも、ここ半年ばかり親父とは音信不通……といったら大げさだが、少なくとも電話口でそれらしい話を聞いたことは……いけねえ、親父とマトモな会話をしたのも約半年前だった。手紙もたまに来ていたようだが、やれどこの国の女が良かっただのどんな怪しげなアイテムを手に入れただの、読んだだけでゲンナリくる内容ばかりだったから、最近の手紙は読まずに、公共料金等の各種領収書などを修めてある収納棚の肥やしにしちまってたんだっけ。
とりあえず瑠璃さんをリビングに招き入れ、今日のためにあつらえたと思しき新品の小さな旅行トランクを運び入れてあげてから、適当にお茶を出して落ち着かせる……いや、これらはむしろ俺のための時間稼ぎと言った方が正しいだろう。実のところ何がなにやら全く分からず、少し気まずい。瑠璃さんはといえば、戸惑った面持ちであちこちに視線を走らせている。そんな彼女を横目に、キッチン内の冷蔵庫脇、顧みようとも思わなかった郵便物等が眠っている棚の中を漁ってみると、わりと上の方に積み重ねられていたそれと思しき親父の手紙を発見した。
「元気か亮太郎。まあお前のことだろうから心配はないだろうし、実のところあまり興味も無い」
なんつー言い草だ親父様よぅ。たった一人で家を守ってる息子は心配なんじゃないのかい。というか興味くらい持ってくださいよ。仮に信頼していると言いたいのならもうちょっと書きようがあるでしょうに。
「ところで、この春から知人の娘さんを預かって、矢島家に迎えることにしたから含み置くように。訪問日時は……」
俺に興味が無い云々は、親父様に取ってみれば井戸端会議の枕詞たる、最近のお天気の話程度の扱いだったようだ。まったく涙が出てくるね。しかし……しかしだな。いくらなんでも話が急過ぎやしないか。そもそも俺の方の意思はどうなってるんだという気がしないでもないが、あの親父の考えることだ、きっと俺なら断るまいと踏んだのだろう。金も権力も持たない一介の男子高校生に、拒否権など最初から存在しないのは確かだが、だからといってそれを盾にするようなことをする親父でもないだろうし。
「そういえば、そもそもがどうしてこんな事態になったのか……という根本的なことを聴いてなかった気がするな」
「え?お手紙に……書いてなかったんですか?『あのバカ息子にはワシから言っておくから、なぁ~んにも心配せずとも良いよ』と、お父さんから言われていたんですが……」
ば、バカ息子と来たか。そりゃあ親父が世間様に自慢できるレベルの、出来の良いお利口な息子をやっていると胸を張って言えないのも確かだが、実際に言葉にされると腹が立つ。だったら親父は良い親父をやってくれているのかと……しかも、「なにも心配することはない」という、なにを根拠に言っているのか知れないセリフを、満面の笑みで彼女に言ってのける親父の姿を容易に想像出来るのが、これまたなんとなく腹立たしい。結局のところ、俺は頭が上がらないんだ、あんな親父殿にでも。
「ただこの手紙には……ほら」
言うより手紙を見せた方が早かろうと、例の便せん一枚を彼女に手渡す。瑠璃さんはそれこそ目を皿のようにして、便せんの端から端までじっくりと読む……ほど文章は長くない。短く素っ気ないあの一文以外を見つけることは困難だ。もし見つけてしまったら……そっちの方がよっぽど恐いわ。案の定、眉をひそめて手紙をこちらに返す。なんだかこちらが申し訳なくなってきた。
「まあ……親父に会ったことがあるなら分かるだろうけど、あの人はどうのこうの言うより、まず行動が先に立っちまう人だから……」
有言実行じゃなくて不言実行……いや、『実行有言』……要するに事後承諾、既成事実を作ってからの事後報告という事態すら存在する。要するに現場の判断が全てを優先する、理由や許可は後から付いてくる、というアグレッシヴと言えば聞こえはいいが、ただ単に短絡的と言えなくもない、とにかく観ているこちらがハラハラするような正確の人間なのだ。俺がこのような一人暮らしをしているのも、元はと言えば一応名の通っている古学者であるらしい親父殿が、専門である南米にホイホイと出かけてしまったからに他ならない。今回の調査は大規模で、しばらく帰れないからよろしくな……という言い分があからさまに怪しかったから、もっと警戒すべきだったのだが……警戒したところで被扶養者の俺が何を言えるはずもない。
だが……今までこの手の話にありがちな、怪しげな海外土産を送ってこなかった代わりに、まさか女の子を送ってよこすとは。しかしあの親父殿といえども、まさか何も考えずに『とある境遇』の女の子を引き取ってきたわけでもあるまい。……しかしこの世には知らない方が良いこともある。その証拠に、瑠璃さんは伏し目がちの俯きがちになった。一瞬だが経緯を尋ねて後悔しそうになったが、同じ屋根の下で暮らすという以上、今のうちに事情は知っておいた方がいいだろう。それにしても……顔を俯けると、瞼を縁取る睫毛が非常に長いのがわかる。その睫毛の艶やかさもさることながら、やや水分を帯びて滑らかに光っているのも彼女を美しく見せる要因の一つかも知れなかった。……どちらかというと沈んでいる表情を美しいと言ってしまったら、ひょっとすると不謹慎だろうというのは分かっているだけど。
そして意を決したように、桜色の小さな唇から紡がれる、安穏と暮らしている高校生の俺には耳を疑うような原因。曰く、戦場カメラマンである彼女の親父さんは、あまり治安のよろしくない地域の真実を伝えるべく取材をしていたところ、外国のジャーナリストに好意的とは言えない武装勢力の魔の手にかかって……という、残酷すぎる、しかしこの地球上で起こっている紛れもない現実。そういえばテレビのニュースでそんな事件があったことをおぼろげに覚えている。そう、おぼろげ、だ。地球の裏側で起こっているような、それこそ普通の日本人にとっては非日常そのものが、まさか自らの日常に干渉してくるとは夢にも思うまい。いや、その可能性はあれどもただ目を逸らして、耳をふさいでいただけでもある。そこにあるのはただ確率の問題だけだ。
「……私の本当の父とお父さん……今の……は、学生時代から連んでいて、それはもう……それこそ怪しげな噂が立つくらいに仲が良かったそうで、お互いが別の道を歩むようになり、やがて二人がそれぞれ妻を迎え子供を授かる段になってもその友情は不変で……その友情は、『お互いとても安全とは言えない地域を駆ける仕事をしているのだから、万が一お互いの身に何かがあった時は、残されたどちらかがその子供の面倒を見る』という約束を交わしたほどだったそうです」
「つまり、俺たちの意思は関係なく、事前に取り決められてたってコトだったのか……」
しかし事情が事情だけに否定するのも難しい。それに親父と瑠璃さんの父親との友情を無碍にするようで気が引ける。ひょっとしたらこちらのそういった心遣いさえ計算に含まれている気がしないでもないが。
「……瑠璃さん、君の方は別に何とも思わないの?こうやって……以前はどこに住んでいたのかはしらないけど、見知らぬ土地に一人でやってきて……」
しかし、それは尋ねるまでもなかったことだ。住み慣れた土地を離れ、友人だって居ただろうに引き離される。それが如何ほどの精神的ストレスになるかは誰にだって分かるだろう。それにも関わらず自分の父親がどうにかなってしまうという状況において、他の親類縁者を頼らず父親の友人に引き取られるという選択肢を取らざるを得なかった理由は……それこそ、現状俺と瑠璃さんの関係に於いて土足で踏み込んでいい領域ではあるまい。俺も父親の他に頼れそうな親戚縁者を挙げてみろと言われたら……瑠璃さんを通して、自分という存在の不確かさを思い知らされるに至るとは思わなかった。その小さな身体に降りかかった不幸を自分に置き換えてみたら……過酷すぎて『お気持ちお察しします』なんて軽々しく口に出来ないくらいだ。
「私……他に行くところが無い……というより知らないんです。私の本当の父は、自分の進むべき道をあくまで譲らなかったが為に勘当も同然に実家を飛び出て、他の親戚とは元より疎遠、そんな不安定なものに頼るくらいだったら、唯一無二の親友に全てを委ねる以上の方策を知らない……そんなことを言っていましたから……」
概ね俺の想像したとおりだったようだ。他の親戚と全くの疎遠なんてものがあるのかとも思ったが、たとえば……親父さんの実家が伝統的な家業で、しかも親父さんは長男なのに家業に背いて学者の道を進もうとしたことが家長の逆鱗に触れ……といったところはあり得る話だろうか。この辺りではもうピンと来ない理由だが、所謂名家というものが存在し、未だ幅を利かせているような土地なら可能性は……。しがない高校生に考えつく理由なんて、そこらへんくらいのもんだ。
「分かったよ。元より俺には反対する気なんかこれっぽっちもない。ただちょっといきなりだったから驚いちゃって、色々と聞いてみたくなっただけなんだ。それで不安にさせちゃったり悲しいことを思い出しちゃったりしたらゴメンな」
できる限り優しく、心の底からの気持ちを打ち明けたつもりだが、どの程度伝わっただろうか……自慢じゃないが自分の弁舌に自信があるとは言えない。だが一応の効果はあったようだ。
「ありがとうございます……」
と、短く言って頭を下げる瑠璃さんの目尻には……また透明な雫が。いかんな、彼女はどうも精神的に疲れているように見える。無理もないか、瑠璃さんの行き届いた躾を観るに、相当愛情を注がれていたことは想像に難くない。その父親を急に喪って平気で居られるなんてあり得ないのだから。
「だからもう堅苦しいのは止めにしようぜ。そういうことなら俺と瑠璃さ……瑠璃は今日からこの地球上唯一無二の兄妹なんだから。な?」
強がりというか自分へ言い聞かせるためでもあった。正直なところ、見ず知らずの女の子が急にやってきて『兄妹になりましたからよろしく』なんて言われちゃあ混乱/戸惑わない方が不思議だ。だが、俺はその諸々の複雑な感情をひとまず置いておいて、この子を温かく迎え入れようと決意した。どうしてそんな気になったかと言えば、多分俺も……結局のところ『家族の温もり』に飢えていたのだから。俺は故あって幼い頃に、東北に住む父方の祖父の家に預けられ、六年前に祖父が亡くなるまでのおよそ八年間を二人で暮らした。祖父は躾に厳しく寡黙な人で、確かに孫への愛情をたっぷり注いで育ててくれたのは理解できたつもりだったのだが、なにしろ当時の俺は甘えたい盛りの年齢だっただけに、それをきちんとかみ砕いて感謝できるようになったのはつい最近のことだ。だから祖父の記憶と言えば『畏怖すべき存在』というのが第一に立っていて、一緒に暮らしていても、緊張こそすれ心を落ち着けて温かく暮らすというものとは無縁だったのだ。それだけに、自分の『家族』という単位への渇望は、自らが思っている以上に強かったらしい。だからこそ、自分に妹という家族が出来ると知れた瞬間、こんなにも心が躍った自分に一番驚いた。例え本当に血が繋がって居なくとも、籍が入っているのならそれは紛れもない『家族』だ。実際の血の繋がりはどうあれ、書類上でも本物の家族として登録されれば、きっと心の底から『本当の家族』になれると思う。それは予感や期待というよりも思い込みに近いが、自分が心に決めたことは曲げないという自信も思い込みもある。何より……俺を頼ってくれているのだから、応えなければ人間としてウソだろう。
「これからお互い、細かなところですれ違いや誤解も生じるだろう。喧嘩することだってあるかも知れない。でもそれは……必ず乗り越えられる。俺たちは兄妹、家族なんだから」
兄妹。
当の瑠璃さ……いや瑠璃はどう思っているだろうか。今日出会ったばかりの男を素直に兄と認められるだろうか?まず無理だろう。父親を喪ったという大きな悲しみが癒えているとはとうてい思えないし、住み慣れた土地を引き払ってここまでやって来た、その緊張と不安は如何ほどか。だからまずは俺の方から誠意を持って接したい。俺にこれほどの決意を促したのは、やはり『家族』という繋がりだった。
「だから」
俺は姿勢を正し、
「宜しくな」
深く頭を下げた。今のところはこのくらいしか己の覚悟を相手に伝える術を思いつかない。
「……はい。こちらこそこれから……宜しくお願いします」
そして瑠璃もそれに応えるように深々と、それこそテーブルに頭をぶっつけそうになるくらいに頭を下げる。一方的に自分の想いをぶつけすぎたかも知れないという疑念は残るが、とにもかくにも……姿勢を戻した瑠璃は目尻に浮かんだ水滴を拭って、少しだけ悲しそうな貌は残したまま、そう言って微笑んだのだった。だから、少しは想いが伝わったのだと信じたい。
それにしても、自分の涙を視られたことに気づきはにかむようにしている瑠璃は……
……とっても可愛いじゃないか。
さて、瑠璃を空いている部屋に案内したり(故郷から送った家具の類は後日配送されるらしい)、食事などの各種当番をてきぱきと割り振ったりしているうちに、貴重な春休みの一日があっという間に消化されようとしていた。今の今まで、休みの日は太陽が天高くにまで昇ってから目覚めるような、目を覆わんばかりに典型的自堕落な一人暮らしを甘受していたこの身に、一体どのような変化が起こるかは皆目見当が付かない。が、目の前で夕食の宅配ピザを熱そうに口に運ぶ瑠璃を観ていると、案外何とかなるんじゃないかという、楽観的な方向に傾いていった。これがちょっと……色々危うそうな子だったら他にも色々と気を回す必要もあっただろうけど、短いながらも今まで接してきた限りでは、極めて躾の行き届いたとても良い子という印象ばかりが残る。緊張しているからか受け答えはややおどおどとしているが、返答の内容そのものは非常に明快で淀みがない。家を簡単に案内している間の立ち居振る舞いも、身体に一本線が通っているかのように、背筋がきちんと伸びている。そういえば彼女は何歳なんだろう。大人びた物腰からは、俺とせいぜい二つ下程度の違いとしか想像出来ないが、或いはもっと離れているかも知れない……というのも、彼女が小柄だからだ。実年齢が知れなければ全国平均の体格と比較する由もないが、少なくとも小学生でもこのくらいの体格の子は居るだろう。そもそも女子の方が一般的には成長が早いからな。
リビングのソファに再び腰を下ろした瑠璃に、
「そういえば学校は何処に通うことになったんだ?そこらへんは親父が手配してくれなていなかったらお手上げなんだけど……」
そう尋ねてみる。あくまで『学校』とだけ。体格から年齢を推し量れない以上、こういう物言いをするしかない。そもそもがどうしてそこまで年齢を尋ねるのに遠慮をしなければならないのかとも思えるが、おそらく……あまり意味はない。自分の眼力を確かめるのが恐かっただけかも知れない。それにしても、この子は姿勢が良い。俺も一応祖父から厳しく躾けられた方ではあると自覚しているから言うのだが、実にほれぼれするくらいだ。廊下を歩いている時も背筋がぴしっと張っていて、身体の軸が前後左右に必要以上にぶれない。実際にやってみると分かるのだが、姿勢に気をつけながら歩くというのは単純に見えてなかなか疲れるものなんだ。それこそ無意識のレベルで叩き込まれていないと、あっという間に背筋が曲がってきてしまう。ソファに座っていても、きちんと両脚を揃えて不用意に股を開くこともない。……決して脚ばかりに目が行ってしまっているわけじゃないからな。
さてここまで第一印象が良いと、指先をウェットティッシュで拭う仕草すら優雅に見えてくるから不思議である……我ながら流石に思い込みが強すぎるのではと思わないでもないのだが、そんな軽薄な先入観が確信に変化しつつあるほど、瑠璃の立ち居振る舞いに惹かれ始めていた。
「その事なんですけど、転入手続きはもちろん、制服や教科書の手配も全ておじさ……お、お義父さんが予め手を回してくれていたようなので……あとはそれらを受け取って、私が直接学校に行くだけだと仰ってました」
「やっぱりそれくらいはやっといてくれてたか……まあ当たり前と言えば当たり前かも知れないが。それでどこに通うんだって?」
「丘の上の……市立東和吉中学校っていうところなんだそうです。お義父さんが仰るには、その……あの……ええと……さんの……出身校だから、場所を案内してもらえ、と」
どうも様子がおかしい。上目遣いに俺を見て、もじもじしている。いったい何がそんなに戸惑うことがあるのだろう……と思ったら、理由に思い当たった。俺をどう呼んだらいいものか迷っているんだろう。だがそれもそのはず、ほんの数時間前まで面識のなかった人間と、いきなり兄妹として暮らせなどと言われたら……俺だって戸惑わずに居られる自信は無い。
「俺のことは是非……」
そう口を開き掛けて固まってしまった。どう呼べと俺は言うつもりだったのだろうか。冷静に考えると結構……その、なんだ。俺は一人っ子だったから、第三者からの呼ばれ方なんてほんのわずか数えるほど、捻りもなく『亮太郎』或いは愛称の『亮』の一文字、と相場は決まっていた。近所の人の良さそうなおばあちゃんからは『りょーちゃん』なんて呼ばれていたこともあったけどな。人間は他人から個々の名前を呼ばれることにより、己の存在を数多いる人間の中の特別な一個体として認識する……とはたった今俺が考えた言葉だが、人間の関係性の中で、こと日本語話者に於いて、呼び名が担う役割は軽くないはずだ。そう考えると、結論は……一つしかない。瑠璃もそう思ったのだろうか、
「お兄ちゃん、と呼ばせてもらってもいいですか」
お兄ちゃん。
柔らかそうな耳朶まで赤く染めてのそのひとことで、胸を射貫かれない元一人っ子など居るだろうか。しかも、まさしく俺の求めていた言葉だったもんだから、嬉しいやら恥ずかしいやら。
「も、もちろんもちろん!それはとても嬉しい」
自分の頬がほころぶのが分かる。いくらなんでも喜びすぎというのが伝わったのか、瑠璃もほんの少し、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「良かった……ちょっと馴れ馴れしかったかなと思ったので……でも他に適当な呼び方も思いつきませんでしたし」
瑠璃はあくまで奥ゆかしい。もっと無口で取っつきにくい子かと思ったけど、こうしてサシで向き合っていると、否応なく会話せざるを得ない状況ということもあるのだろうけど、意外に会話が成立している。
「……そう決まったからには、今後俺と会話するときはもっと摧けた感じで……つまり敬語は使わないで欲しいな。なんだか堅っ苦しくて。だいたい兄妹ってそういうもんだろう?江戸時代じゃあるまいし。な、瑠璃?」
さりげなく下の名前だけで呼んでみる。強引すぎたかと思ったけど、瑠璃は賢い子だ。俺の意図を酌んでくれたのか、
「はい……うん、分かった、お兄ちゃん。これから……宜しくお願いします……するね」
今まで手に取っていた皿をテーブルの上に置き、きちんと手を膝の上に揃えてから、小さな頭をぺこりと下げるその姿が愛らしい。さっきの大仰な礼から考えると、この短時間で少しは馴れてくれたと思いたい。
冷めないうちにピザを頬張りながら、明日からの新しい生活に想いを馳せる。きっとそれには、少なからぬ困難と、それより遙かに大きい喜びが待っていることだろう。そして俺たち兄妹なら、それらと上手く付き合っていけるに違いない。
それにしてもこの一日で大きく様変わりした俺の日常。人生って、何時環境が変化するか分からんもんなんだなあ。肝に銘じておこう。
第一話如何だったでしょうか。実のところコレを書いたのも割と前でして、今書くとまた違ったものになる可能性がありますが、ひとまずコレで。