第二王子の毒見02
王宮の園遊会でニコラスは、本を読むフリをして、誰がどこの子供でどういう性格をしているのかと観察していたが、子供は成長すると顔つきが変わることが多いので、そこがネックだとか何とかそんなことばかり考えていた。
お開きも間近になった時、背後に気配を感じて振り返る。
そこには、ニコラスと同じ年頃の少女が立っていた。
彼女は、見かけからして異彩を放っていた。
アイスブルーの髪に紫紺の瞳。
それだけでもかなり珍しい。そのうえ、彼女は唇に紫紺の口紅をつけていた。
一瞬にして目が唇に惹きつけられ、
『まだ文字が読めないって本当なの? 信じられない。何その絵本、赤ちゃんみたい』
と、その唇に相応しい毒が吐かれた。
こんなにも堂々と正面きって罵倒されたのは初めてで、ニコラスは面食らう。
だが、周囲がさざめくように笑い出したのに気付き、即座に頭を切り換える。注目を浴びている状況で自分がどういう行動に出るのが最善かを割り出した。
結果、傷付いたような顔をして退場するのが良いと判断して会場を抜け出す。
これで正妃の御機嫌も取れただろうし、はじめて対面した少女―――リンゼル領オルブラント侯爵の娘、マルティナ・オルブラントの相手をせずに済んだ。
ニコラスは、初対面の相手とは基本的に口をきかない。
どういう人間か分からない内から接するのは危険だと、その身を以て学んだ経験があるからである。
その後、まがりなりにも衆目のある場所で王の子を中傷したことが問題になったらしいが、すぐに揉み消された。誰の手によるかは考えるまでもないことだった。
次の園遊会はすぐにやってきた。
そして何故か、マルティナ・オルブラントもすぐにやってきた。
もう初対面ではないとはいえ、やはりほとんど知らない人間である。
ニコラスは眉根を寄せ、無言を通すことで拒絶を示したが、彼女は引き下がらず、むしろ、余計に怒りを買ってしまったようだった。
『ねえ、どうして文字が覚えられないの? 簡単じゃない。どうして出来ないの?』
『貴方のお友達はどこ? こんなに沢山いるのにどうして一緒に遊ばれないの?』
『ねえ、どうして何も言わないの? 声が無いの? 病気なの?』
立て板に水のように捲し立ててくる。
これだから良く知らない人間と関わり合いたくないのだと、ニコラスは心の中で嘆息した。
しかも、彼女の憤慨は一向におさまらず、いったいいつになったら気が済むのか、園遊会が開かれているあいだ中、ずっと側に張り付いて悪口雑言を繰り返した。
それからは、どう考えても根回しされているとしか思えない遭遇率でマルティナ・オルブラントと顔を合わせることになった。
ニコラスは常と変わらず、彼女という人間の観察に終始していた。
不可思議な少女である。
何が気にくわないのか、毎回毎回ニコラスに突っかかってくる。
人目があるというのに、歯に衣着せない直接的な言動を繰り返していては、自らの品位をも著しく下げてしまうだろう。彼女の親は、どうして放置しているのか。
正妃に言い含められて、あえて見て見ぬふりをしているのか。
おそらく、そちらだろう。
ただ、彼女自身に正妃の息がかかっているのかは疑問だった。
何故なら、自分以外の誰かが横やりを入れてくると、激しい剣幕で睨み付けるし、どうしてなのか絶対に徒党を組んで押しかけない。
何より、兄王子であるアルバートの話題を一切持ち出してこないのだ。
裏に正妃が居るなら、必ずやらせるだろう兄王子との比較を一度たりともしないのは、どう考えても不自然だった。
とにかくもう、ニコラスの全存在が気に入らないから攻撃してくるという、品位も社交性も何もかも投げ打った捨て身の戦法―――でないのだとしたら、彼女の観察結果はいくら考えても、あるところに帰結してしまう。
―――彼女は、高い確率で、自分に特別な感情を寄せている。
導き出した結論を、ニコラスはどこまでも真面目に受け止めていた。
特別な感情。その中でも思慕は、人を際限なく愚者にさせるという。
実際、恋の駆け引きや痴情のもつれというやつで、複数の男女が平常心を欠いた状態に陥るところを、ニコラスはいくつか見てきている。
さらには、傾国の美姫とか、貴賤結婚の末の心中だとか、多少の脚色はあれど歴史書にまで残される一大事となっているだから動かしようのない事実である。
そして人間の子供には、好意を寄せる女性に構ってもらいたいから、いたずらをするという少年期特有の求愛行動があるという。
彼女は少女だが、その求愛行動を女性だけがしないとは言い切れないだろう。
子供全体のサンプルがまだ不足しているので、これに関してはもっと判断材料を集めてから、再検証する必要があるが。
それからもマルティナ・オルブラントが一方的に空騒ぎをする日々が続くが、だんだんと彼女に便乗する子供たちが増えてくる。
中にはマルティナ・オルブラントの気を引きたくてやっている少年も見受けられたが、彼女の眼中に入っていないどころか、あからさまな睥睨によって威圧する始末。
そんな彼女の有り様に、時折、狂気めいたものを感じた。
貴族に必要な社交性を省みていない態度は相変わらずで、これではいずれ友人という人脈を失うはめになる。すでに友人らしき姿を見なくなっていたから、自分でも気付いているはずだ。
それなのに、第二王子へ毒を吐くことをやめない。
短期間の激情ならまだ分かる。しかし、時間を置き日を跨いでも継続される激情は、異常だ。それも、好意を抱いているかもしれない異性に対してである。
まだ子供だから。それで片付けることはできるだろう。
だが、先述した歴史書の人物は、ある種の執着と思いこみによって突き抜けてしまった人間の例である。そしてそれは、恋愛感情だけに限った話ではない。
我が身を投げ打ってでも一つのことを突き詰める。それは、後世に名を残すほどの偉業、もしくは悪業に身を落とす、人間の中でも異端とされる人種だった。
そういう類の人種が居ることは本の中だけで知っていたけれど、実物に会ったことは無い。もし彼女が本当に特異性を表した人間なら、これほど貴重なサンプルも無かった。
これからはもっと注意深く観察する必要があるかもしれないと、会うのが楽しみになっていた矢先、ニコラスは子供たちに悪影響を与えるとして王宮の園遊会から追い出された。
興味の対象から引き離され、ニコラスはかなりの不満を抱いたが、それから間もなくして、マルティナ・オルブラントが第二王子の婚約者として推挙された。
どうやら正妃のお膳立てらしく、この嫌がらせにニコラスは心から感謝した。
これで何かしらの催し物がある度に、彼女は婚約者として同伴することになるだろう。あの正妃のことだから必ずそう仕向けるはずである。
そうして、マルティナ・オルブラントとの顔合わせの日、ニコラスは上等な獲物を手中に収めたような気分で彼女の前に立った。
婚約者の関係を結んでから数年の月日が経ったが、マルティナは変わらず毒を吐き続けていた。
裏を返せば、それだけの間、彼女の求愛行動は繰り返されたことになるが、もはや少年期特有のあれこれだけでは語ることはできまい。
彼女はいわゆる、真性なのだろう。
他の何にも見向きせず、本当に一つのことしか見えていない。
彼女は、ニコラスしか存在しない世界に住んでいる。
それだけ情熱を傾けている相手に、何がどうこじれてしまったのか暴言を吐きつづけ、その先に待つのは破綻しかないと分かっているだろうに、けれど、やめられない。
これを病的と言わず、何というのか。
貴重なサンプルが本物だったことにニコラスはもちろん満足していたが、しかし、ここに来て彼はある壁に突き当たっていた。
マルティナをこのまま第三者の視点で観察し続ける自信がないのだ。
ニコラスは人の審美眼において造詣が深い。美が人間にあたえる力は絶大だとして、顔かたちの比率や、理想的な見目姿の割合を熟知していた。
そんな彼をおして理想的と言わしめるほど、マルティナは美しかった。
波打つアイスブルーの髪は、触れて溶けないのが不思議なほど細く透明で、深まる宵の瞳はなだらかに下がり、瞬きする度に夜の香りが匂い立つ。
肉感的な曲線を描くようになった肢体は、いつも暗褐色のドレスに包まれていて、その真珠の肌をいやおうなく際だたせる。
だが、やはり何を置いても魅せられるのは、あの唇だろう。
紫紺の色を乗せ、ひと目で人を誘う、この上なく柔い肉。
彼女の情熱は、いつも唇からこぼれてくる。
そんな、聖書に書かれた肉欲の化身“夜の女王”を体現したような女が、ニコラスを見付けるなり側近くに駆け寄ってこようとするのだ。
見るだけで、声を聞くだけで、不埒な欲が湧いた。
最初こそ肉体的成長にともなう生殖本能が作用しているせいだとして意識の外にやろうとしたが、若い本能を理性だけで抑え込むのは、どうにも難しかった。
なら手を出せばいい。
最後の一線さえ越えなければ問題ないはずである。
悪態をつくばかりの彼女が、性的に迫られたらどういう反応をするのか。それはそれで興味深いし、客観的な思考を妨げる欲求不満が解消されるなら一石二鳥だった。
けれど、ニコラスはそれをしなかった。
理由は分かっている。
ニコラスは、マルティナを“観察”するのが楽しいのだ。
夜に君臨すべき女王のような女が、男一人に気を病むほど執着し、じわじわと破綻の道を突き進んでいる有り様を見ているのが楽しい。
ジレンマに苦悩する彼女の胸の内を想像すると、たまらない高揚感に包まれる。
だから、安易に手を出して彼女の懊悩を晴らすようなことをしたくない。
―――嗜虐趣味。
いや、嗜虐ではやや強みがありすぎる。
何故なら、ニコラスは何もしていない。
マルティナが一人で突っかかってきては毒を吐き、勝手に自滅していく姿を眺めているだけである。
あえていうなら、毒を愛でる趣味だろうか。
どのみち性的倒錯の一種に違いはないが、もはや客観的な思考など、生殖本能を取り去ったところで出来るとは思えなかった。
これもある種の執着である。広義的に捉えるなら恋愛の分野に振り分けられるだろう。
その事に気付いた時は、なかなかどうして驚きだった。
自分にもそんな人間味のある部分があったのかと、苦笑した。
このまま毒を愛でていれば、ますます毒されていく気がしたが、もう手遅れのような気もして、ぐずぐずと爛れていく毒を飽きもせずに愛で続けた。
そんな風に、ニコラスはニコラスなりにマルティナとの楽しい日々を送っていた。
一抹の変化が起きたのは、兄アルバートが王太子に擁立されてからだった。
この頃くらいになると、さすがに初対面だからといって口をきかないわけにもいかず、貴族らしい笑顔の仮面を被って、それなりに人付き合いもしていた。
だから気付いていた。
兄王子であるアルバートが実母の正妃と反目し、腹違いの弟ニコラスを庇って、彼に対する誹謗中傷を牽制しはじめたことを。
ニコラスは、これが愉快ではなかった。
そもそもアルバートがニコラスを囲ったのは、まったくの善意からではない。
自分に何かあった時のための体のいいスペアとして王太子勢力に組み込んでおきたかっただけである。
ニコラスは無能だとされているが、そんなもの兄王子の意思を遂行する執政府をしっかり作っておけば、あとは周りが動かしてくれるものである。
それは為政者として褒められるべき打算であって、ニコラスもそこに不満はない。
問題は、アルバートがニコラスの婚約者を快く思っていないことである。
ニコラスとマルティナの婚約が、正妃の嫌がらせで行われたことは公然の秘密として扱われている。
アルバートはそれを正そうとしているのだ。
顔を合わせる度、婚約破棄に関して話を詰めてこようとするので、忙しい兄上を労るフリをしてやんわりと断っていたが、こちらの事情など知りもしないくせに外側から見た関係だけで判断して、後からちょっかいを出してくることに腹が立っていた。
真っ正直にマルティナと婚約を破棄するつもりはないと言っても良いのだが、そうすれば確実に理由を求められるだろう。
ニコラスとマルティナの関係は、口で説明するにはあまりにも複雑で込み入っている。何より、いくらニコラスがマルティナを好ましく思っていても、アルバートが彼女の魅力を理解できるとは思えなかった。
だがアルバートは、殊勝な弟が遠慮していると思ったのか、かえって口煩くなり、さらには勝手に話を進めだしたので、ニコラスは強硬手段に出ることにした。
王太子勢力に名を連ねる大臣から小役人にいたるまで、洗いざらい不正を暴き出し、それらをまとめた報告書を兄王子に提出した。
まだ息のある正妃勢力に、これらを密告されたくなければ、自分たちのことには口を出すなと叩きつけた。
やりすぎたと反省したのは、そのすぐ後である。
ちょっと頭に血が上ってしまって、冷静な判断ができていなかった。
無能だと思われていた第二王子が、王太子本人も把握していなかった身内の汚点を暴き出したのだ。
彼を取り巻く環境が、がらりと変わってしまうのは火を見るよりも明らかだった。
アルバートは、ニコラスの要求通りマルティナとの婚約に口を出さなくなったが、ニコラスを見る目を完全に変えてしまった。
守るべき弟ではなく、活用すべき弟になっていた。
それはもう満面の笑みで仕事を押し付けてくるのだ。ばかりか、ニコラスの頭の中にある主要貴族の観察結果を、自分にも教えろと迫り寄ってくる有り様だった。
なぜ知っているのかと問いただせば、どうやらコンラッドがばらしたらしい。
断ってやろうともしたが、アルバートは自分が後顧の憂いなく玉座に就けなければ、次はお前にお鉢が回ってくるのだぞ。と逆に脅してきた。
さすがは立太子されるだけの人物だけあって一筋縄ではいかず、ニコラスは生まれて初めて自分の兄を小憎たらしいと思った。
ともかく、これで婚約破棄の危機は去ったものだとニコラスは考えていた。
王太子勢力の間では婚約破棄の噂がまことしやかに囁かれていたが、そんなもの好きさせておけばいい。
マルティナがそれぐらいで怖じ気づくはずがないことは分かりきっていた。
その日も、いつもと相変わらず毒を吐きながら執務室に居座っていたから、想像もしていなかった。
彼女は突然と取り乱し、当惑するニコラスの目の前で糸の切れた人形のように倒れたのだ。