悪役令嬢の毒07
第一王子と第二王子が、あんなにも気安い仲だったというのを今日はじめて知った。
生まれが5ヶ月違うだけで二人は同い年だ。
そのせいで二人は比較され続け、特にニコラスは常に下にされてきた。
学習能力が低いだとか、要領が悪いだとか、何をしても不器用だとか。
なら、今日ニコラスが見せた姿は何なのだろう。
王城から帰宅する馬車の中、馬車道にゆられながら、それとなく髪に触れる。
城を出る途中、道すがら見付けた鏡をのぞいたが、いつも化粧を施してくれる侍女の腕に引けを取らないどころか、生花を挿した髪結いは、これまで見たこともないほど優美で見事な出来映えだった。
「大人しすぎて、気味が悪い」
びくりと肩が揺れる。車内には、斜め向かいに座るニコラスが居た。
髪を結い終わり、執務室を辞して、馬車に同乗するまでの間、何も言わなかったニコラスが、横柄に構えながら言った。
気味が悪いと言われた。大人しいだけで、気味が悪いと。
いや、分かっている。もうずっとマルティナらしくない態度を取っている。
不審がられるのが当然で、いちいち動揺することではない。
「どうせ碌でもない事を考えているんだろ」
いっきに毒をはき出したくなった。
けれど、ニコラスしか居ないところで罵っては、本当にただの罵倒だ。
それはもうしないと、決めたではないか。
喉まで出かかった毒を呑み込むために、質問を質問で返した。
「あなたこそ何を考えているの。私にあんな事をして」
「……あんなこと? あんなことって?」
「だから―――」
察しの悪いニコラスに言い返そうとして―――しようとしたが、今日起こった出来事の光景や感触や、その他諸々が生々しく蘇ってきて頭が沸騰した。
二の句が継げなくなった私に、ニコラスは目を細めると冷たく笑った。
「――だ、だ、だって。リリア・アウリアはどうしたの?」
「……リリア・アウリア? なんでその名前?」
半ばやけくそで投げかけた言葉を、ニコラスは不可解そうに受け止めた。
本当に不可解そうな顔で言うニコラスは、動揺や後ろめたさを全く感じさせず、こちらの方がかえって戸惑ってしまう。
「君の言っているリリア・アウリアは、オーデール公の迷路園と一昨日の夜会で会ったアデル子爵家の養女でいいんだよね?」
「え、ええ。そうよ」
「……できるだけ内々にしたからまだ知らないはずだけど、あのお門違い女は、昨日をもって社交界を追放処分になったよ」
「………………え?」
追放処分? リリア・アウリアが? マルティナ・オルブラントではなくて?
「品行に問題があって……まあ、明け透けに言ってしまえば、婚約者のいる複数の男に言い寄っては迷惑行為を繰り返したあげく、実家からの叱責も聞く耳持たずで、アデル子爵がとある片田舎に療養送りにした。それで事実上の社交界追放」
「……複数の、男?」
そういえば、ゲームでの攻略対象は他にもいた気がする。
忘れていた。ニコラスしか見ていなかったので、すっぽりと抜け落ちていた。
思い出してみれば、ゲームでの攻略対象者は現執政府の中核を担っている子息ばかりだったはずだ―――あれ、確かアルバート殿下も…?
だとしたら大問題だ。
王太子の婚約者は、渓谷を挟んだ山岳国家の第一王女殿下なのだ。一歩間違えれば最重要同盟国と外交軋轢を生んでいた。
内々にしたのもそれが理由だろう。たぶん療養送りにしたのも……
同情心は全く湧いてこない。
ニコラス以外の男にも言い寄っていたなんて、同情の余地があるわけがない。
ただ、どうしてそんな貴族世界の常軌から逸する奇行を彼女はしたのだろうか。
次々と貴公子を落としていくなんて、まるでゲームみたいに―――
まさか、彼女も…?
事実はもう確かめようがないけど、もしそうなら、ますます自業自得だ。
私のニコラスを取り巻きの一員にしようとするなど、絶対に許せる事じゃなかった。
「それで、どうしてリリア・アウリアが出てきたの?」
ニコラスが訝しげに言葉を重ねてきた。
返答に窮する。
ゲームとか、前世とかを知るはずもないニコラスにしてみれば、今日の出来事を差し置いてリリア・アウリアのことを持ち出したのは、確かに不自然だったかもしれない。
「……え、えと。ほら、色々言われたから気になって」
「ふーん」
全く納得のいっていない顔でニコラスはつぶやいた。
何故か、私の方がうしろめたい気分になってくる。
しかしである。リリア・アウリアがニコラスの運命の相手ではなかったのなら、ニコラスは本当に一体どういうつもりで私にあんな事をしたのか。
あんな、あんな―――令嬢としての記憶が、卑猥な言葉を拒絶する。
あんな破廉恥で、劣情に堕とし込む行為!
拒絶したのに、それでも頭は沸騰した。
思考を切り替えることができず、ニコラスと同じ空間にいることが耐え難くなる。
狭い馬車の中で、精一杯ニコラスから距離を取ろうと窓際に張り付いた。
車窓の景色を見るふりをして、ニコラスを横目にする。
思いっきり目があった。反射的に顔ごと背けていた。
流れる景色だけで視界をいっぱいにしていたけど、一瞬だけ反対側の窓にニコラスの姿が映り込む。彼もまた窓の外を向いてしまっていた。
沸騰していたものが、冷や水を浴びせたかのように沈静していった。
ニコラスは、自分から切り出すつもりが全く無いように見えた。
もしかしたら、このままうやむやになるのかもしれない。
それでいいのか。いいわけがない。そんなことになったら、きっと食事も喉を通らなくなって、眠れない夜を過ごすことになって、今度こそ衰弱死してしまう。
こくりと喉をならすが、口も喉もからからに渇いていた。
それでも、
「――どうして、あんなことをしたの」
か細い声が出た。
返事は、返ってこない。
同じ質問をしたのがいけなかったのか。それとも車輪の音に掻き消されたのか。
だとしたら、もう一度言わなければいけないのか。
ふっ、と笑う声がした。
機嫌をうかがうように覗き見れば、視線が合って上機嫌に目が細められる。
「どうしてね。それは、どちらかといえばこちらの台詞だね」
ニコラスは足を組み直し、背面へ深く寄り掛かると、勿体つけるように手を組んだ。
「君はさ、どうしてそんなに僕が好きなの?」
かちんっと固まった。
彼は今、何と言ったか。誰かが誰かを好きだとか言わなかっただろうか。
「そういう結論に至るでしょ、普通。君はさ、毎度毎度人を扱き下ろしてくれるけど、いつも一人で突っかかってくるよね。徒党を組むのは大嫌い。というか、自分以外の有象無象があざけっていると、ものすごい形相をして睨むよね」
そんな事をしている自覚はなかった。
けれど、していないと断言できるほど、己を律していた自信がない。
思わぬ指摘に、頬に熱くなるのを感じた。
「貴族には必須条件だろう人脈作りも省みず、僕を見付ければ走りより、話しかけるのも僕ばかり。そして何故だか、正妃がことさら吹聴していたアルバート兄上と比較される話は一切持ち出さない。情勢が変わってからは猫を被るようになったけど、二人きりになれば、いつも通り毒を吐いて。でもさ、それって意味ないよね。君はすでに周りから孤立していて婚約者しか頼れる人間はいなかったのに、そんな相手を傷付けて君に何の得があったのか……まあ、だいだい想像はつくけど。ご苦労様」
情勢が変わっても、マルティナがニコラスを貶し続けたのは、どのみち破談になるならと、何も想われないよりはマシだからと、憎まれてでも自分を刻みつけたかったからだ。
それすら見透かされた気がして、自制心がざわつく。
「だけどさ、その想い人にさんざん無視されて、もらえる言葉も定型文の挨拶ばかり。始まりから終わりまで放置されているのに、毎回毎回懲りもせずに立ちはだかってくるってどうなの。しかも、その陰では王族のパートナーに相応しい能力を身につけるためとしか思えない、いち令嬢には過ぎた勉学量を何年にもわたってやってのけたりとか。どうしてそこまで出来るのか理解に苦しむ。今日なんて殺されかけたのに嬉しそうに笑ったりして。ホント、もう病気のレベルだよ」
「――っ」
ニコラスの言葉が胸に突き刺さる。
かつて同じような台詞を吐いたくせに、恥知らずにも傷付いて、毒を吐く口を止められなかった。
「とんだ思い上がりをされているようね。私があなたに気があるなんてふざけた話あるわけないじゃない。私の理想はもっと高いところにあるのよ。あなたみたいな――あなた、みたいな……」
とっさの貶し言葉が出てこない。
しばらく使っていなかったから、なまってしまったのか。
口を閉ざしたり、また開いたりを繰り返してしまい、言い訳には不自然な時間が経った。
「……昔から思っていたけど、その唇って毒を塗ってるみたいだよね」
ニコラスの指摘に不意を突かれる。
「さっき舐めたから、ずいぶん抜けたみたいだけど、毒」
きわどすぎる揶揄に、完全沈黙した。
羞恥のせいか、敗北のせいか、どちらかわからない感情に頬が上気する。
ニコラスは、それを冷笑しながら見ていた。
いつもと変わらない冷たい目が、何故だか今になって、違う意味を持っているように見えた。
「それでさ、考えたんだよ。どうして君は僕を好きなのかって。もしかしてだけど……君は、いじめられる方が好きなんじゃないの?」
一瞬何を言われたのか分からなくて、きょとんと彼を見返した。
そんな精一杯の拒否反応などまったく意に介していないように、ニコラスは笑う。
「それだと、どうして僕を好きなのか。その疑問も解ける」
彼は笑う。嗜虐者の顔で笑っている。
特殊な性癖を言い渡されたことにようやく気が付いて、けれど、否定の言葉は動揺のあまりわなないた。
「そ、そんな、そんな。そ、い、じめられて、うれしい、なんて、人はいないっ」
「そうだね、今はそれでいいよ。その辺はこれから証明していけばいいし。君の毒がそうそうと抜けきっても楽しくないし」
まるで取り合う気のない返事が返ってくる。
いったい全体これはどうしたことなのか。
だって可笑しいではないか。こんな人を食ったような振る舞いをするニコラスなんて私は知らない。
私の知っているニコラスは、突然卑猥なことをしたり、正面から言い負かしたり、あまつさえ、辱める言葉など吐いたりしない。
それなのに、どうしてだろうか。
ニコラスの豹変ぶりに幻滅することができない。
王者然として人を見下ろし、被虐趣味にまで貶められようとしているのに、彼が差し出す性的倒錯にくらりと傾いてしまいそうな自分がいる。
うろたえた。
本当にニコラスの言うとおり、私は昔からニコラスにそういうものを求めていたのだろうか。だから、あんなにも彼に構って欲しかったのだろうか。
「まあ、そういう点も踏まえて、しばらく王宮に押しかけて来なかったのは結局なんだったのか。その謎が残るわけだけど……3ヶ月前に倒れてからだよね。見舞いを出さなかったから乗り込んでくると思ったのに、来なかったよね」
うろたえたばかりのせいか、彼の口調がやけに人を責めた言い方に聞こえた。
「心変わりしたんじゃないなら、やっぱり、口さがない連中が言いふらしていた婚約破棄の噂を鵜呑みにして来なくなったの?」
それで間違ってはいない。けれど、正しくもない。
全てを説明することは到底できなくて、唇を引き結ぶ。
ニコラスが、また冷たい目をして笑っている。
「とりあえず何が言いたいのかというと、たとえ君が一人でぐるぐると思い悩んで、碌でもないことを企んでみたところで、今後、僕達の婚約が取り消されることはどうあっても無いから」
「――ど、どうして」
「僕が見てて楽しいから」
「…え?」
「恋しくて仕方のない相手に毒を吐くなんて、自滅の道を突き進む君を眺めているのは、とても楽しかったけれど、そろそろ別の遊び方を試してもいいかもしれない」
背筋から走った何かが、体中を駆け巡る。
冷たい目の正体が分かった気がした。捕食者が獲物をいたぶる時の目だ。
「君の方こそ、どうしたって逃れられないんじゃないの? 殺されたいほど入れ込んでいる男から離れて生きていけるの?」
確信を持った言い方だった。
あの時、死の際にあって喜んでしまった姿を見られてしまっている。きっと、どう言い繕っても説得力はない。
けれど、それではマルティナ・オルブラントが本来迎えるはずだったエンディングから大きく逸脱してしまう。
この期に及んで前世の記憶にこだわろうとした私に、ニコラスは何を感じ取ったのか、狭い車内で腰を上げ、向かいの席に膝と手をかけた。
「余計なことは考えなくていいから、これまで通り3日を置かず王宮へ会いに来るといいよ。そうしたら」
覆いかぶさるようにニコラスが迫る。
彼を見上げて固まるだけだった私の頬に、長く綺麗な手が添えられ、唇と唇が触れる距離まで近づいた。
「ご褒美に、口紅を付け直してあげる」
吐息と熱が上皮をわずかに掠る。だが、それだけでニコラスは離れていった。
あからさまなオアズケを示唆した彼は、何食わぬ顔で自分の座席へと戻る。
遊ばれている。
付け直してあげるなんて、偉そうな物言いで私が釣られると思っている。
「わ、私を――ニコラスは、私をどうしたいの?」
彼は面白がるだけで、答えてくれない。
欲しい言葉をねだるように続けた。
「――どう、思っているの?」
「さあ? どうだろうね」
情愛の一言すら零してくれない。
もしかしたら、私をいたぶることが好きなだけなのかもしれない。
ニコラスが望んでいるのは、絶対に逃れられない歪な関係なのだとしたら、この先、成婚を果たしたとしても、ニコラスから愛を囁かれることはないのかもしれない。
そうやって苦しめて、私からあふれてきた毒を舐め取るのだろう。
「……嫌い。ニコラスなんて嫌い」
くつくつと、笑う声がする。
「3日後が楽しみだね」
ニコラスの愉悦に満ちた声に、たまらず顔を伏せた。
そこに、うっすらと上がる口角をひそませる。
3日間、きっと私は苦悩して、待ち焦がれて、熱と鬱を繰り返して、
そして、会いに行くのだろう。
毒に侵されている。
これにて本編は完結です。
たくさんのブクマ、評価、感想ありがとうございました。
でも、もう少しだけ続くんじゃよ。