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悪役令嬢の毒  作者: ぶちこ
本編
6/18

悪役令嬢の毒06

R15描写あり


 通されたのは、王太子の執務室。


 まさか政務の合間に呼び出されたのかと、ひやひやしながらウィスターナ王国の第一王子であり次期王位継承者アルバート・ギル・ウィスターナの前まで引き出された。


 金髪碧眼のその人には、言いしれぬ既視感がある。

 それがゲームのせいなのか、ニコラスの異母兄だからなのかは判断がつかない。


 アルバート殿下は下官たちをさがらせ、そうそうに人払いをした。

 彼からは歓迎するムードは全く感じられず、厳めしい皺を深く眉間に刻んでいる。


 「君は、この書状に何を書いたのか、ちゃんと分かっているのか?」


 話し始めるやいなや含みを持たせた言い方に、ばくばくと小心者の心臓が暴れるが、精一杯気丈に振る舞って、あごを突き上げた。


 「もちろんです。非常に残念なことですが、この国では私の価値は理解されないようですので、この才色を真に発揮し、活用できるところへ参りたいのです」


 そのまま、ただただ卑しめる言葉をはき出そうとしたが、手を挙げて制止された。

 頭痛でもするのか、アルバート殿下は自らの額をおさえる。


 「また面倒なことを……」


 小さくつぶやき、長いため息をつく。


 まだまだ色々と言い終えていないので、いつ切り出そうかそわそわとタイミングを見計らっていたが、その機会は永遠に訪れることはなかった。


 突然と執務室の外が騒がしくなった。


 扉の前の衛士が、招かざる訪問者を押しとどめているような会話が聞こえたあと、執務室の扉がノックもなく開かれた。


 両扉を開けて登場したのは、もう二度と会いたくなかった人。


 ぐっと奥歯をかみしめて動揺を押し殺す。

 現れるなり視線をくれたニコラスは、いつもの冷たい笑みをさらに鋭くする。


 たまらず目線を外すと、アルバート殿下が机の上の書状をゆっくり裏返すのが見えた。


 扉の前でなおも諫言を重ねる衛士に、ニコラスが振り向く。

 何事かをささやけば、衛士が顔色を無くし、動かなくなった。


 扉が衛士の鼻先で閉められ、ニコラスは一直線に兄王子の執務机へと歩き出す。


 「思ったより遅かったな」

 「遠乗りに出ていました。それより、さっき何を隠しました?」


 「……見ない方が良い」

 「見せてください」

 「――…私は忠告したからな」


 アルバート殿下はため息をつきながら書状を差し出す。

 書面の上を滑るニコラスの目が、3往復もしないうちに細められた。


 「兄上、席を外してください」

 「……ここは、私の執務室だが」

 「外してください」


 有無を言わせぬ物言いに、アルバート殿下は再び長いため息をつき、執務机から立ち上がる。


 私は内心で悲鳴を上げた。

 アルバート殿下を引き留める言葉を心の中で叫ぶが、当然の如く届かない。


 無情にも執務室を出て行く背中が、とどめとばかりに両扉を閉めていく。

 完全な二人きりになった。


 部屋から王太子まで追い出したというのに、ニコラスはすぐに話し出さず、こちらの様子をうかがうように、じっと見ている。


 きっと腹の内を探っている。


 十中八九書面に綴った内容についてだろうが、ニコラスにしてみれば渡りに舟のはずだ。婚約破棄が成立すれば、リリア・アウリアと晴れて結ばれることが出来る。


 だからこそ、アルバート殿下を追い出さないで欲しかった。


 彼なりに気を遣ったつもりなのかもしれないが、ニコラスしか居ないこの場所で、ニコラスを罵っても意味がない。

 マルティナがニコラスの前から消えるためには、第三者による断罪が必要だったのに。


 ぐっ、と手の平を強く握り込む。


 第三者なら、まだ扉の外にいる。衛士が必ず一人は残っているはずだ。

 だが、衛士一人に罵声を聞かせたところで不敬罪に処されるだろうか。


 すると、胸くそ悪いことに、とっておきの妙案が浮かんでしまう。

 ニコラスに乱暴されたと、衛士に取り縋ってわめき散らせばいい。


 確実に事は大きくなる。それこそ王太子が駆け戻って来ないといけないほど、大きなスキャンダルになる。


 しかしだ。そんな事をすれば、一時的とはいえ不名誉極まりない醜聞をニコラスになすり付けてしまうことになる。


 したくなかった。やりたくなかった。逃げ出してしまいたかった。


 ―――逃げよう。


 最善の策を見いだした気がして、両扉に視線を投げた時、ニコラスが動いた。

 ゆっくりと足を進め、近づいてくる。


 たった数歩で対峙するが、距離がやたらと近い気がしてたじろぐ。


 「花は咲いた?」

 「……?」


 言葉の意味は分かったが、何を指して言っているのかが分からなかった。


 「そんなに、あの見習いが気に入った?」


 見習い。

 そう言われて、思い浮かぶ顔は一つだけ。庭師の見習い少年。


 「それとも、バルト子爵の小倅?」


 今度は誰だか分からない。

 ニコラスが、さらに一歩の距離を詰めてきた。


 「それとも、キース・クランシー? ノルディス・オーウェン? レイモンド・カバネル? オルガ領のコルベール侯爵なんてのもいたね。ずいぶんな数に言い寄られて、そんなにちやほやされたかった?」


 そこで気が付いた。

 ニコラスが挙げ連ねた人名は、出席した夜会で声をかけてきたナンパ野郎どもだ。


 どうして、と疑問が口を衝く前に、ニコラスの両手が首筋に伸びてきて、喉から出かかった言葉を霧散させる。


 「本気で、二度と会わないつもりだった?」


 一昨日、自分が口にした言葉を遠くに聞いた。


 「心変わりしたの?」


 ニコラスが怒っている。

 見慣れたはずの冷笑に、見知らぬ激情を垣間見た気がして、思考が空転する。


 彼は怒っているのだ。私の首を絞めるほどに。


 真綿で首を絞めるとはいうけれど、まさにそんな指使いで喉が絞められていく。

 じわりじわりと込められていく力に、息が詰められていく。


 ニコラスに殺されるかもしれない。

 場違いなほど穏やかに耳打ちした脳裏の言葉を、心が鷲づかみにした。


 ああ、なんてこと。そうすれば―――




 ソ ウ ス レ バ 永遠ニ 消エナイ 傷ヲ 彼ニ




 身の内のおどみが、灼け焦げる。

 けぶる熱気が肺に押し寄せ、ざらつく不純物が呼気を震わせる。


 毒の昇華なんて、どのみち毒なのに、うす汚い歓喜が止まらない。


 このまま殺してくれるなら、間違えなく人生最大の至福に満たされるだろうと確信した瞬間、彼の両手は、気道を圧し潰す力を弱めてしまう。


 肺が勝手に酸素を求めて咳き込み、視界が一気に明るくなった。


 落胆と批難を込めてニコラスを見上げれば、無表情と呼べる顔がすぐ側にあった。

 その瞳に、浅ましい胸の内を見透かすような強さを見た。


 きっと、喜んでいるのが顔に出ていたのだ。


 だって彼の手は今なお首を放してはいない。出方を窺っている。拷問だと思った。殺したいほど憎いくせに、殺してくれない。泣きたくなった。


 後頭部を掴まれたと思ったら、唇に噛みつかれた。


 痛い。

 下唇を歯でしごかれ痛かったが、直後に舌で三度舐められ、ちゅぷりと吸われる。


 何が起こったのか、よく分からなくて、見える距離まで離れたニコラスの顔を眺める。

 彼の唇には紫紺の口紅が付いていた。それを自分の舌で舐め取り、あの冷たい目をして笑う。


 腰に腕を回され、強引に歩かされるものだから、足が何度ももたついた。

 ソファの座面まで引きずり込まれ、クッションの上に組み敷かれる。


 ニコラスの手が、こめかみや頬を撫でるようにして髪を後ろへ流した。

 その指で唇に触れ、くにくにと感触を確かめると、ニコラスの開いた口が迫ってくる。


 生温かく濡れた舌が、また唇を舐め出す。

 ひとしきり舐め回して満足したのか、今度は唇同士を重ねて甘噛みのように食まれる。


 ニコラスの手がスカートの裾を捲り、ボリュームのあるパニエの中を探り出す。


 同時に、背中とソファの間に差し込まれたニコラスの手が、背のボタン留めを外し、ドレスの上半身をあり得ない早さで引き脱がした。


 太腿の内側を撫でられる感触と、剥き出しになったコルセットを見付けて、ようやく自分がおかしな状況にあることを頭が認めた。


 ニコラスに奪われたドレスを引き寄せて、体を隠そうとすれば、身動きでそれを察した彼に見下ろされる。


 目と目が合って、とたんに羞恥と混乱が押し寄せる。

 特に、ニコラスの行動は意味が分からなさすぎて怖かった。


 「あ」とか「う」とか声を漏らしながら、震える体を縮こまらせる。


 ニコラスの笑みが深まった気がした。


 抱え込んでいた両腕をあっさり奪われ、頭上に移動させられ片手で拘束される。


 残った片手が胸部の曲線をひと撫ですると、器用にも仰向けだった私の体を横向きにした。直後に、胴体を締め付けていた圧迫感が突然とゆるむ。


 この感覚には覚えがあった。コルセットの結び目が解かれた時の開放感と同じ。


 「あ……ひゃっ」


 うなじに湿った何かが押し付けられる。


 唇だ。ニコラスの唇だ。滑るように動いている。


 恥ずかして死にたくなっている合間に、コルセットの成形がどんどん意味を成さなくなっていく。


 「何をしているんだっ、何をっ」


 突然の乱入者は、王太子の声で怒号をあげた。


 背中を向けていたので顔は見えないが、さっき出て行ったはずのアルバート殿下だ。

 硬直した。こんなあられもない格好をニコラス以外に晒してしまうなんて。


 ふわり、と何かが体にかけられる。よく見るとニコラスの匂いがする上着だった。


 「見てたんですか」

 「やけに静かだから様子を窺ったんだ。そうしたら人の部屋で……」


 頭を抱えているのが見なくても分かるような呻き声だった。


 不意に浮遊感を感じれば、ニコラスに横抱きにされていた。

 彼は意外にも軽々とした足運びで、執務室にあるもう一つの扉へと向かう。


 「ちょっと待て。そこは仮眠室だ」


 扉を開ければ、アルバート殿下の制止どおり、そこには仮眠を取るために用意されただろう簡易なベッドが置かれていた。


 ニコラスはその簡易ベッドではなく、一人用のソファに私を下ろした。


 部屋まで付いてきたアルバート殿下をニコラスは押して返し、そのまま一緒に部屋を出ていく。


 「コンラッドはどこですか?」

 「外にいるだろ、たぶん」


 開けっ放しの扉から二人の声が聞こえてくる。


 この隙に、はだけた衣服を整えようとしたが、コルセットを一人で直すのはかなり難しいうえ、髪も相当乱れていることに絶望する。


 向こうの部屋では、廊下へ出る方の扉が開く音がして、ニコラスが口にしたコンラッドを呼んでいた。


 「お呼びですか?」

 「洗面用のお湯と布、あと化粧道具を用意してほしい。内密に」

 「かしこまりました」


 コンラッドらしき男は是非もなく頷いたようだが、アルバート殿下が疑問を挟む。


 「化粧道具?」

 「彼女をあのままでは帰せないでしょう」


 きっと私のことだ。そんなに酷い状態なのかとうろたえる。

 彼らが仮眠室に戻ってくる音がして、思わず隠れる場所を探してしまった。


 「この先は、兄上は控えてください」

 「ベッドのある部屋で、二人きりになどさせられるか」


 「実の弟が信頼できないんですか」

 「できると思うのか?」


 「……彼女の身なりを整えてやるだけです。不埒なことはしません」

 「アホか。女中を呼べ。女中を」


 「いいんですか。ここは兄上の執務室で仮眠室ですよ」

 「…………」


 王太子の仮眠室に半裸の女。して、その正体は第二王子の婚約者。


 王太子付きの女中がペラペラ喋るとは思えないが、うっかり口を滑らさないとも限らない。あまつさえ、王太子もまた婚約者のある身だ。


 アルバート殿下は屈服したらしい。


 「扉は開けさせてもらうからな」


 いたく不満気な声を背にして、ニコラスが一人で仮眠室に戻ってくる。


 すでに椅子から立ち上がって部屋の隅まで逃げていたが、それをニコラスに見付けられると、彼は目を細めて距離を詰めてきた。


 自ら壁際に逃げてしまったことを後悔する。熱を感じるほど近づいたニコラスは、壁に手を付き、腕の中に囲い込んできた。


 たまらず壁に身を寄せ、顔を伏せる。耳に吐息がかかる。


 「ここで聞いているからな。行いには細心の注意をはらえ」


 扉の方から声がしたが、開いた扉に姿は見えない。


 小さくため息をついたニコラスに壁の方を向かせられた。


 ドレスとコルセットの隙間に、背後から入ってきた手がひと撫でふた撫でと妙な動きをしたが、すぐにコルセットの紐を締めにかかった。


 ゆっくりと胴体が締められていく感覚に、声が出そうになるのを堪える。

 ひとつひとつ丁寧な力加減が、どうにももどかしい。


 手持ちぶさたにあった両手を壁にやって、引っ掻くように力を入れる。そうやって遣り過ごしながら、コルセットの締め付け具合を感じ取り、後どれくらいかを目算する。


 けれど、そんな油断を突いたように、ぎっ、と瞬間的な力がかかって肺の空気が口からあふれた。


 「――はぅっ」


 「……おい?」


 怒気を含んだ声が、離れた場所から飛んでくる。


 「コルセットを締めているだけです。下品な妄想はやめてください」


 悪びれもなくニコラスは言い、コルセットの紐を固く結んだ。

 それからドレスの上半身を引き上げ、背にあるボタンを下から留めていく。


 頃合いを見計らったように、執務室の扉をノックする音が聞こえ、言い付けを終えたコンラッドが恭しく入室するのが聞こえた。


 ニコラスに腕を引かれ、再び一人用のソファに座らせられる。

 彼はそのまま執務室の方へ消え、コンラッドと軽く言葉を交わしていた。


 「というか、お前。化粧なんてしたことあるのか」

 「あるわけ無いでしょ。でも、まあ、大体わかりますよ。コルセットも言うほど難しくありませんでしたから」


 アルバート殿下の横槍を軽くかわし、ニコラスは陶器に入ったお湯と布、そして化粧箱を持って戻ってくる。


 それらをソファ横の丸テーブルに置いて、手ずから布を湯に浸し水気を絞りはじめた。


 戸惑った。本当にニコラスが化粧を施すのか。


 あごを取られ、上を向かせられる。温かいおしぼりを押し当てられ、柔らかな手つきで顔を拭っていく。


 ほんわかと温かなものが顔をくるみ、何だかんだでほっとした気分がわいてくる。


 ニコラスは次に化粧箱の中から櫛を取り出し、ほつれた髪をほどいて梳いていくと、それをひと纏めにして、顔にかからないようにした。


 実際に化粧を施す段階になっても、ニコラスは化粧箱から的確に下地用のおしろいケース選び、孔雀石のアイシャドウと真珠のチークという、マルティナの化粧法を順次選び取っていく。


 ニコラスはラグに跪いたばかりか、顔を近づけ、顔に触れてくるので、化粧を施される間は、まぶたが閉じたり瞬いたりとせわしなく動いた。


 仕上げの口紅に、どうしてか紫紺色の口紅が化粧箱の中に収めてあった。


 他の化粧品と同じように手際よく唇に乗せられてゆき、これで終わりだと思ったのに、手が止まって視線を上げれば、ニコラスがじっと唇を見つめていた。


 彼の親指が唇の下をなぞった。

 一瞬にして、口紅が落ちてしまった原因が思い出されて、体が強ばる。


 予想なのか、期待なのか、頭の中を占めていた光景に反してニコラスは立ち上がった。

 背中に流していた髪を持ち上げ、ほつれ髪をなでつけ始める。


 まさか、髪のセットまでっ!


 少しのあいだ髪をもてあそんで、それから何かを見付けたように歩き出す。

 目で追えば、扉の近くのコーナーテーブル、花の生けられた花瓶の前で止まる。


 「兄上、この花は今日の?」

 「…ああ、ここのは日ごとに取り替えられている。それが?」


 「では、いくつか頂戴します」

 「何だ、身支度は終わったのか?」


 「いえ、髪結いがまだです」

 「髪だけか? ならもう私が居てもいいだろ。お前たちには話がある。髪結いがしたいなら、しながら話せ」


 アルバート殿下は仮眠室へ入ろうとするが、ニコラスが良い顔をしなかったらしい。


 「何だその顔。駄目だからな。時間のかかりすぎなんだ。こっちは忙しい身の上なのに執務室を占領されているんだぞ。さっさと用件を済まさせろ」


 ニコラスを押しのけて、アルバート殿下は仮眠室へと立ち入ってくる。

 身についた習慣からか、私は立ち上がって出迎えていた。


 ちらりと一瞥されたが、特に言葉はなく、彼はベッドの上に腰を下ろす。

 一方でニコラスは、立ち上がった私の肩を押してソファに座らせると、花瓶から抜き取った花の茎を一本ずつ残り湯で洗い、水滴を拭いはじめた。


 「それで、お前たちはどこまで話し合うことが出来たんだ?」


 アルバート殿下が切り出したが、ニコラスは黙ったまま自分の手を丁寧にふき終えると、目的の髪結いに取りかかってしまう。


 ここは私が答えるべきなのか。

 だが、よくよく考えてみれば、話し合いはされていない。されたのは―――


 カッと頬が熱くなり、俯いた。言えない。言えるわけない。


 二人が何も言わないので業を煮やしたのだろう、アルバート殿下が一人で続ける。


 「先ほどは、余所様の内輪ごとに立ち入るのは野暮だと思って引き下がったが、それが大きな間違いだったと思い知らされたので、口を挟ませて貰うが、もういい加減にしろ。特にお前だ、ニコラス。この3ヶ月お前はどれだけ私に面倒をかけた」


 名指しされたニコラスは、しかし、黙々と手作業を続けている。


 自分の髪がどうなっているのか分からないが、ニコラスは生花を使って編み込んでいっているようだった。


 「そうか。忘れたというなら、思い出させてやろうか」

 「ところで兄上、レイゼルト公爵領の件はどうなりました?」


 「は? レイゼルト?」

 「そうです。前に話したレイゼルト公爵領の住処についてどうなりました?」


 「どうって……あれを本気で言ってたのか」

 「どうなりました?」


 「どうもこうも、そんな余力はない。時間も人手も足りない。情報が精査できない。よって優先順位は覆らない。もっと時機を考えろ」


 「報告書と手引き書を作りました。あとでお持ちします」

 「…………おい」


 「それで納得できたら、正規の手続きを願いします」

 「――お前は」


 「兄上、こうしましょう。あの場所を確保できたのなら、これから先、兄上が玉座に登られるまで、貴方の望まれるとおりにします」

 「…………」


 二人の間で交わされた取り引きは、一人だけを置き去りにして決着した。


 分かったのは言葉の端々に含むところあったぐらいで、私の知らない政治の世界で成立した会話は、アルバート殿下の当初の目的すら退けてしまったらしい。


 何か言いたげな殿下の視線が私に向けられる。だがそれだけで、もう忠告や説教までされることはなかった。


 ため息をつき、ニコラスと私を交互に見つめ、またため息をつくと、脱力しきった様子で、ニコラスの手元をただ見つめはじめた。


 「……にしてもお前、やたら器用だな。どうなってるんだその髪」

 「一から説明されたいんですか」


 「いや、ぜんぜん。……あー、それじゃあ、私は仕事にもどらせてもらう。お前らはそれが終わったら、ちゃんと帰れよ」


 そう言って、アルバート殿下はベッドから立ち上がり、自分の仮眠室から引き上げていった。


 二人っきりに戻った室内で、ニコラスは静かに手作業を続ける。

 迷いのない手つきを肌で感じる。


 私は、胸の内にうずまく違和感に気付いた。






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― 新着の感想 ―
[良い点] マルティナが男の欲をそそるような、それでいて上品な傾国の美人で、でも男を理解できないあどけない少女のような一面もある、そういうところがむちゃくちゃ好きです‼️好きな人を罵りたい、いや虐めら…
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