悪役令嬢の毒02
前世の記憶を取り戻したのは、三日前。
王宮の執政府である正殿、太陽殿に設えられた第二王子の執務室。
王族の18歳ともなると、ニコラスも行政の一端を担うようになっていたが、厚かましいマルティナは、仕事場だろうと堂々とおしかけて、紫紺に染めた毒々しい唇にふさわしい言葉を撒き散らしていた。
その時だった。
「婚約者が訪ねてきてあげたというのに、本当に気の回らない男ね。今までどんな教育を受けてきたのか知れるものだわ」
『うわ。すごい上から目線。何様のつもり。不敬罪じゃないの、コレ』
失笑を含んだ女の声は、頭の中から聞こえた。
驚いて周囲を見渡してみるけれど、ニコラス以外は誰もいない。
何より、他人の声という気がしなかった。
「そ、それより、来月の式典用に宝飾品を贈る話はどうなったの。婚約者から何も贈られないまま、この私を衆目の場に立たせるつもりなの」
『何それ。王子様にたかる気満々だよ。ビックリだよ』
「たか、いえ……そうではなくて」
『ぺらぺらとホントよく喋る。っていうか台詞が多くて面倒くさい。小物っぷりの演出には丁度いいけど、ちょっと冗長っていうか。えと、何って言ったけ、この―――』
「『――悪役令嬢』」
声が重なった。
がたり、と椅子から立ち上がっていた。
動揺のあまり、数歩うしろへ後ずさる。
突然起こした不審な行動に、ニコラスが眉根を寄せてこちらを見ていた。
ああ、ニコラス。ニコラス・イード・ウィスターナ。
この人を知っている。
この人の未来を知っている。
この人は、近い将来に運命の少女と出会い、生まれついた呪縛から救われるのだ。
清廉なるその少女は、人見知りで気難しい彼の繊細な心を開き、ついには私という毒をも打ち払って、二人は固い絆で結ばれる。
そして私は、王族に対する不敬を問われ、実家もろとも制裁を受ける。
爵位の剥奪はまぬがれたが、婚約破棄はもちろん、今後王族との付き合いから遠ざけられることは確実となっため、両親からも疎まれるようになった。
そして、ついには自領の片田舎に追いやられ、事実上の社交界追放に処される。
目の前が真っ暗になった。
思い出したシナリオのせいか、前世の記憶が負担だったせいか、私の頭はそれ以上の思考を拒絶するように意識を失った。
それから三日間も寝込んでいたらしく、目覚めた時には自宅のベッドだった。
とても奇妙な感覚だった。
ゲームの世界だなんて、全く実感が湧かない。
もしかしたら、私の頭が異常をきたし幻覚でも見せたのか、でなければ、突然予言者の力に目覚めたのか、もしくはその両方か。
別に何だって良い。予言でも、発狂でも、ゲームでも。
どのみち私の未来は変わらない。
だって、もう手遅れだ。自ら破滅の道を選んだのだ。
せっかく、マルティナとは言えない人格と記憶を手に入れたけれど、何の解決にもならない。
いや、そんなことはただの言い訳だ。マルティナの行いは、私の行いで、こうして違う人格が混ざり込んでいなければ、間違いなく同じ道をたどっていた。
だからこそ、もう止めたい。
これ以上、ニコラスを傷付けるのは止めるのだ。
自分がそう思えるようになったことが、せめてもの救いだった。
私は『彼女』と同じ毒に侵されているけれど、私はもう『彼女』じゃない。
彼のトラウマとして残ることで、歪んだ自己承認欲求がどれだけ満たされようとも、私はやらない。
このまま何もしなくても、いずれは不敬罪に問われるだろう。
片田舎に引っ込んで慎ましく暮らすくらいで許されるのなら、罰としては軽すぎるくらいだ。
ニコラスに償いをしたい気持ちもないわけではないが、マルティナが何かした分だけニコラスの心の平穏が乱される気がした。
その時が来るまで、何もしない。
世界が一転したベッドの上で、私はそっと心に誓った。