SS小話
以前、活動報告で書いた『悪役令嬢の毒のSS』です。
報告欄に埋もれそうだったので、本文に移しておくことにしました。
※新作ではないです。1年くらい前のです。ごめんなさいです。
【悪役令嬢の口紅】
マルティナは、ニコラスの気を引くために口紅の色を変えてみることにした。
愛用する紫紺色ではなく、真新しい赤色の口紅を唇に乗せてみる。
あまり似合う色ではなかったけれど、たまにはこういう気分の一新も悪くない気がした。
もちろん、口紅の色に合わせてドレスや髪飾りの色合わせも変えていく。
鏡で何度も確認して、納得のいく出来になってからいつものように登城して、ニコラスのいる執務室へと向かった。
しかし、ニコラスは執務机に向かって書き物をしていて、マルティナが部屋に入ってもすぐには視線を上げなかった。
ひと区切り付いたのだろう、ようやく顔を上げてマルティナを視界に入れたニコラスは、マルティナの期待通り、わずかに目を見張って変化に気付く。
どきどきとするマルティナの目の前で、ニコラスは目を細めていった。
彼の眼差しが嗜虐的に冷たいのはいつもの事だが、それにも増して鋭利なものを光らせているような気がした。
ニコラスは、無言だった。
執務机の上で手を組み、探るようにマルティナを視線で射貫いてくる。
何も言われないプレッシャーに、マルティナはすでに一杯一杯だった。
きっと怒っている。そう思った時、ニコラスが動いた。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、ゆっくりと距離をつめてマルティナの前に立った。
言いしれぬ気迫に物怖じしていれば、やや乱暴に顎を掴まれ上を向かされ、思わず震えてしまいそうになる。けれど、降ってきた口付けは予想以上に優しかった。
すっかり覚え込まされた柔らかな感触に、ほっとしながら応えようとした時、彼の唇はあっさりと離れていく。
知らず閉じていた目を開ければ、ニコラスの口にはいつものように口紅が付いた。
「……―――」
思ってもいなかった光景だった。
ニコラスに付いた口紅が、いつもと違う赤い色をしていたのだ。
見知らぬ色が、ニコラスの唇にまとわり付いている。
まるで―――まるで、他の女と唇を交わしたかのようだった。
マルティナの受けた衝撃もおかまいなしに、ニコラスはもう一度顔を近づけてきた。
反射的に、顔を背ける。
抵抗の意志を見せれば、顎を掴んでいた手は簡単に外された。
マルティナは、どうして自分が抵抗したのか分からなかった。
だがすぐに、他の女とキスした口で触られたくないという、自分勝手もはなはだしい感情からと気付いた。
ごちゃ混ぜになった頭でニコラスを見れば、彼の唇にはけばけばしい色の口紅が、未だ我が物顔で居座っている。
突発的に湧き上がる、どろりとした衝動に動かされるまま、マルティナは両手をそこに伸ばしていた。
ニコラスの口を、自分の指と手の甲を使って懸命に拭う。
「――痛い」
力加減が出来ていなかったのだろう、顔をしかめたニコラスに両手首を取られた。
そのまま上に持っていかれ、ぶらさがるような格好になる。
見上げた視線の先では、冷えた眼差しがマルティナを見下ろしていた。
ニコラスは全く悪くない。
なのに、口紅の色が違うだけで心変わりされたような気になった。
おかしいのは自分だと分かっているのに、胸を灼け焦がすような激情が押し寄せてきて、勝手に涙が溢れてくる。
見られたくなくて下を向いたら、涙が一粒二粒と床に落ちていった。
「…………わかったなら、もうするな」
声は、さほど怒気を感じさせなかった。
マルティナは言葉の意味を飲み下すよりも先に、こくこく頷いていた。
すると、両手首を掴んでいた手は放され、代わりに顎全体を覆うように手が差し込まれ、もう一度上を向かされる。
ニコラスは何をするでもなく、ただ見ていた。
まだ止まらない涙がポロポロと頬を流れていくのを、ただ確かめるように眺めている。
ふと、薄い笑みを浮かべ、親指の先で頬を撫でた気がした。
けれど、気がした時にはニコラスの手は離れていた。
そして、その日は、それだけで終わりだった。
いつも通り化粧を直し、紫紺色の口紅を付け直してもらえたが、それだけで有無を言わさず家に帰らされたのである。
きっとお仕置きなのだろうと、帰りの馬車で今日のことを重く振り返るマルティナは、今後、何があっても口紅の色だけは変えたりしないと心に決めた。
【終わり】
という、ありふれた日常回でした。