第一王子の解毒(おまけ)
アルバートは幼い頃から王位を継ぐ者、万民の上に立つ者として教育されてきた。
教師たちはよく、未来の国王に必要な資質を美辞麗句を用いて並べたて、アルバートにはそれらが備えられていると惜しげもなく褒めそやした。
だからアルバートもそれを信じ、賢くあること、高潔であること、慈悲深くあることを金科玉条とし、また、そうあり続けるための努力を自分に課してきた。
だから、それが異常な光景だと気付くのは、それほど遅くなかったはずだ。
アルバートには生まれが5ヶ月しか違わない弟がいた。
側妃の息子で、たいした後ろ盾もなく、今ではその側妃もいない不遇の弟が。
彼は、王族としての能力を何一つ備えていないどころか、人としての能力にすら欠けていると烙印を押されていた。
それほど無力な弟ならば、慈悲深い心をもって守られているはずではないのか。
アルバートの疑問に、答えてくれる大人は誰一人いなかった。
答えてくれるはずの大人たちが、弟の不遇を笑い、見て見ぬふりをしていたのだから。
尊敬していた教師が朗々と正義を語った口で、幼い子供を嘲う姿を見た時の衝撃は、同じように幼いアルバートの心に小さくない傷を付けた。
そして、異常な光景その全ての中心にいたのはアルバートの母だった。
母が避けているのか、アルバートがニコラスと直接顔を合わせたことは、ほとんどなかったが、ある年になって王宮で園遊会が開かれることになった。
貴族の子供たちによる小さな社交界という名目で開かれたその催し物には第一王子であるアルバートと、そして第二王子であるニコラスの参加も決まっていた。
園遊会の日になって会が開かれると、アルバートのもとには同じ年頃の子供たちがすぐに集まってきていたが、ニコラスはずっと一人きりで本を読んでいた。
自分と彼のそんな違いにもやもやとしたものを抱えながらも、園遊会はそのまま何事もなく過ぎていき、やがてお開きの時間が迫ろうとしていた時だった。
ある一人の少女がニコラスに暴言を吐いたのである。
見かけからして傲慢そうな少女は、ニコラスが読んでいた本をあざ笑い、扱き下ろした。そのせいでニコラスが逃げ出すようにして会場から出て行ってしまった。
王族への暴言は罰せられることをアルバートは知っていた。それなのに暴言を吐いたはずの少女は何のお咎めも受けなかった。
次の園遊会が開かれ、少女はまたしてもニコラスに突っかかり、何度となく彼を貶したが、少女はやはり何の罰も受けなかった。
証拠があるわけではなかったが、アルバートはそれが母の仕業だと思った。
母がマルティナ・オルブラントを使って、ニコラスを卑しめているのだと。
だが、アルバートには何もできなかった。
園遊会の時だって、その場にいてその光景を見ていたのに、弟であるニコラスを助けるために、自分の体を動かすことはできなった。
三度目の園遊会から、アルバートは参加しなくなっていた。逃げたのだ。他の大人たち同様、見て見ぬふりをすることにしたのである。
そうしてアルバートは己を知った。
自分に王たる資質などなかったことを知ってしまった。
もしあるのなら、不遇の弟を助けられる賢い方法を思いつき、高潔な精神をもって大人たちを諫め、慈悲深い心からニコラスに声をかけることができたはずである。
それなのに自分は逃げた。
無能どころか、卑劣な人間の一人にすぎなかった自分を思い知らされて、アルバートの王道は失望によって閉ざされた。
そもそも弟の何が、母の神経にそれほど障ってしまったのか。
同い年に生まれたからと言っても、何の後ろ盾もない無力な子供のはずである。
理由が分からないからこそ、彼に対する理不尽な行いは、母への不信感となってアルバートの中に降り積もり続けた。
アルバートの母の実家は、この国で一番の権力を持っている。
そのため、執政府は母の実家との結びつきが強すぎて、国のあり方を大きく歪めているらしい。
何をどう歪めているのかまでは、アルバートにはまだ理解しきれなかったが、たとえそれを理解しても、何の力もない自分にはきっと何もできないのだろうと、アルバートはくだらない己の未来すら見通してしまった。
何よりアルバートを失望させたのは信頼できる人がいないことだった。周りに沢山の人はいたけれど、誰も彼もが母の手先のように見えて信用ならなかった。
日を追う毎に無力さを痛感し、やがて何事にも無気力になっていったが、それにすら無頓着になりかけていた時、アルバートに一人の側仕えが声をかけてきた。
その男は、もともと弟の乳兄弟で名前をコンラッドといった。側妃が亡くなった後、アルバートの母が引き抜いて、今ではアルバートの側仕えしている。
それ故にあまり好感の持てる男ではなかったが、彼はアルバートに、もし弟君のことで悩んでいるのなら、きちんと相談できる方との縁を取り持つことができると言ってきた。
半信半疑だった。しかしコンラッドは、その相談すべき人物の背景や、育った環境など事細かに説明してくれたうえ、必ず信頼にたるお方だと大口を叩くものだから、破れかぶれに会ってみようという気持に傾いた。
コンラッドがいうには、彼は現職大臣にある人で、王家と同じくらい古い家の出身者らしい。その彼との面会日時や場所までコンラッドは手配してくれた。
だが、その男と実際あってみても、アルバートはほんの少しずつしか胸の内を打ち明けられなかった。
それなのに、その男は根気よく耳を傾けてくれた。足りない語彙もきちんと拾い上げ、子供だからとおろそかにしない意思の疎通を交わしてくれたうえ、最後には目に涙して話を聞いてくれた。
彼には志を同じにする同志がいた。彼らは、何の力もないアルバートの力になりたいと、彼の前に膝を突き、臣下の礼をもって迎え入れてくれた。
アルバートに、王たる資質が再び見出された瞬間だった。
さっそく弟を助けるにはどうしたらいいかと尋ねたが、それはまだ早いと諭された。
いま弟を庇えば、正妃との対立を内外に示してしまうことになりかねないとして止められ、けれど、あなたの弟君は必ず助けると固く約束をしてくれた。
将来アルバート殿下に何かあった時のスペアは必要ですから。と、そのあとに続いた言葉には驚いたが、弟君をアルバート殿下の弱点にしないよう、周りにはそう言って納得させるようにと戒められ、もっと賢しく立ち回ることも覚えるようアルバートは教えられた。
それからは、勢力拡大に奔走する。それにもコンラッドが一役買っていた。
現体制に不満や疑問を持ちながらも、動けずにいた貴族たちを的確に抜き出してくれ、彼らを引き込めるだろう材料の提案までしてくれた。
バラバラだったものが、ひとつに集まったことでそれなりの勢力に育った。
それを足がかりに、今度は母の実家を切り崩しにかかる。
母の実家と完全に手を切っては、執政府が機能不全を起こしかねない。
だから少しずつこちら側に取り入れ、ゆっくりと無力化するしかなかったが、またしてもコンラッドが活躍してくれた。彼は、ほんの少しの情報から貴族たちのアキレス腱を掴んでくるのが非常に上手かった。
しだいに勢力はいや増し、アルバートが王太子に擁立される頃には正妃勢力と肩を並べるまでに大きくなった。
ようやく準備が整った。
ようやくアルバートは、弟ニコラスを守れるだけの力を手に入れたと、一人の王族を軽んじてきた衆目の前でニコラスを庇うことが叶い、そして、母との決別を明確にした。
これによって中立の立場を保っていた貴族たちが大きく揺れたが、出来るだけこちら側に流れるよう、内側から賛同を呼びかけるまわし者をけしかけたりもした。
そうして立太子後の、新たな政権準備はおおむね順調に動き出した。
今までの不遇を詫びるように、アルバートは王族にふさわしい環境をニコラスに用意していくが、そのひとつだったマルティナ・オルブラントとの婚約破棄に着手した途端、なぜか助けたはずの弟から手酷いしっぺ返しをくらうことになった。
守ろうとしたはずの弟から、どうしてなのか逆に脅されてしまったアルバートは、しばらく放心状態から抜け出せなかった。
そんなアルバートの肩に、下官となったコンラッドがそっと手をかける。
ニコラスの乳兄弟だったコンラッドは、ニコラスの正体を知っていた。
無能どころか、人の領分を超える能力を何度も目にしてきているらしく、そのうえ、ニコラスの頭の中には子供の頃から作り上げている有力貴族を対象にした人間観察の観察結果なるものがあるらしい。
なにその子供。怖い。
ぽつりとこぼれた心情を感じ取ったのか、コンラッドはゆっくりと頷いてくれた。
それから色々と聞き出していけば、今までコンラッドの手柄だと思われてきた働きのほとんどはニコラスの助言あってこその成果だということが分かった。
いわばニコラスの協力もあって現在の地盤を築けたのだから、文句があるわけではないのだが、どうしても釈然としないものをアルバートは感じてしまう。
弟から礼を言われたかったわけではない。
そもそも弟から助けを求められたこともないし、言ってしまえばアルバートの独り善がりでやったことである。
だが、やはり、アルバートは釈然としなかった。
だから八つ当たりも兼ねて、有能な賢弟殿に政務の様々な雑事を回すようになったし、有力貴族の観察結果なるものを自分にも教えろと言い迫った。
さらには、自分が後顧の憂い無く玉座につけなければ、次のお前にお鉢が回ってくるのだぞ。と逆に脅し返してやった。
ただ、それでもまだひとつ疑問が残っていた。ニコラスがどうしてマルティナ・オルブラントとの婚約破棄を嫌がったのかアルバートには分からない。
最近は大人しくしているように見えるが、ニコラスの前では変わらず悪態をついていることをアルバートは知っていた。
「どちらがどちらをいたぶっているのか、ちゃんと見ていれば分かりますよ」
アルバートの疑問に答えたのはコンラッドだったが、そのどこか不穏な答えにアルバートはしばらく二人を注視するようにした。
するとマルティナ・オルブラントは、ニコラスが関わっていない時は、存外大人しいことに気付いた。
ちゃんと立場をわきまえるし、礼節に欠いたこともしない。ニコラスのいない場所には、あまり顔を出さないため気付かなかっただけなのだ。
マルティナ嬢のニコラスに対する思いは歪んでいた。
おそらくニコラスしか見えない。それなのに、その思いを素直に伝える言葉と方法を完全に逸してしまっている。
完全に自滅の道を突き進んでしまっている。
そしてニコラスは、その全てを承知しているのだろう。
知っていて、ただ傍観しているのだ。
コンラッドの言う通りだった。どちらがどちらをいたぶっているかなど明らかだった。
しかもニコラスは何もしていない。
何もしていないで、彼女をひたすら追い詰めていっている。
彼女の自業自得である部分が大きいのだろうが、アルバートは空恐ろしいもの感じずにはいられなかった。
知ってしまった弟の性癖に、アルバートはとやかく言うつもりはない。
他人様に迷惑さえかけなければ、多少人と違う趣味があってもかまわないと思うし、下手に手を出して、ニコラスの不興を買うのは割に合わなかった。
あたかも歪な行為に耽っているような二人の関係は、誰にも咎められることなく続けられるように思えたが、彼らの間に一度、亀裂が入った。
あれだけ頻繁に王宮へと通って来ていたマルティナ嬢が、突然ニコラスに会いに来なくなったのである。
ニコラスは、冷静にしながら取り乱していた。
まず仕事が手につかず、考え事に長い時間をかけるようになり、行動が直接的になった。
ついには落葉苑の幽閉塔を使用したいと言い出し、あの時は本当にアルバートを焦らせた。一週間だけの使用だと言って、半ば強引に要求を呑まされたが、結局ニコラスは信用に値しない男の本能を露呈してくれたので、幽閉塔の使用権は永久に凍結された。
何やかんやあり、どうやら元の鞘に収まってくれたらしいが、完全に巻き込まれただけのアルバートは、それからしばらくは精神からくる気怠さが体に残された。
とはいえ、全くの無駄骨だったわけではない。
先述の一騒動によって、アルバートとニコラスはある取り引きを交わした。
ニコラスにレイゼルト公爵領を与える代わりに、アルバートが即位するまでの間、彼はアルバートの望みにかなった働きをするというものである。
それからは、やたらやる気になっているニコラスによって、後顧の憂いを取り除くための立案や手引き書の作成がされまくっているので、こちらの精査が全く追いつかない状況である。
だからアルバートは今まで以上に忙しい。
それなのに、彼はマルティナ嬢が登城したと聞いて、わざわざニコラスの執務室へと足を運んでいた。
第二王子の執務室、両扉近くにいるはずの衛士が、やけに離れたところにいる。
アルバートに従っていた彼の下官や衛士を、同じくその場で待たせた。
「ニコラスっ、ニコラスっ!」
執務室の扉をがんがんと叩いてやる。
ノックもなしに入る方がよほどのっぴきならない状況になるため、致し方のないことだった。
かなりの時間をおいてから、扉が半分ほど開かれた。
「――――なんですか」
不機嫌な顔を隠しもしないニコラスが、扉の間から睨んでいた。
彼は上着を着ていない。しかも唇には、見覚えのある紫紺色の口紅が付いている。
ニコラスの肩越しに視線を流せば、ソファの背からドレスらしき裾の散乱が見えていた。
「……何度も言うが、政務の合間にいかがわしいことをするな」
「この程度で済ませているのは、誰のためだと思っているんですか」
「自分のためだろ」
「そうですよ」
いけしゃあしゃあと言ってのけるニコラス。
「……私の望みにかなった働きをすると言っていなかったか」
「してるでしょ。そちらの処理が追いついてくれないだけで。想定していた進行の四分の三しか消化できていませんよ。働いてください」
「その口だけには言われたくない」
視線に気付いたのだろう、ニコラスは自分の口に付いていた口紅を指で拭う。
マルティナ嬢を与えておきさえすれば、ニコラスは大人しい。
この考えは、だいたい正しかった。
だが、与えられれば食べるという自然の摂理を失念していた。
だからこうして必ず邪魔が入るのだと学習させておかないと、周囲のことなど忘れていつか一線を越えかねない。
少なくともニコラスが絶対に手を出さないと、もう一度信用できるようになるまでは、定期的に警告を入れに行かなければならなかった。
もちろん、こんなことは王太子であるアルバートがする仕事ではない。
「……お前がコンラッドを遠ざけたせいで、私が駆り出されるはめになったことを忘れるなよ。私がここに来れば、その分王太子の仕事が遅れることもな」
そう、本来ならコンラッドの役目だった。
だが、マルティナ嬢との逢瀬を邪魔されるのを煩わしがったニコラスが彼女が登城する時間を見計らって、コンラッドに外せない用事を割り当てるようになってしまったため、日々の予定を簡単には動かすことのできないアルバートが政務の合間をぬって直々に警告を入れに行くようになったのである。
ニコラスは不平不満を如実にながらも「わかっています」と言葉にしたので、アルバートも、ひとまずはそれで良しとする。
なんだかひどい毒気に当てられた気分になりつつも、アルバートは己の執務室へと引き返すことにした。
執務室前の廊下にさしかかった時だった。
「――アルバート」
不意の呼びかけに振り向けば、そこには二人の侍女を従え、ひと目で身分の高い人だとわかる女性がいた。
この国で今なお最高位の身分を誇っている女性。
「……母上」
建国祭の日を除けば、まともに顔を合わせるのは一年ぶりだった。
前触れもない不躾な訪問に、衛士が前に出ようとしたが、アルバートが手で制す。
「……どうされたのですか、このような場所で」
アルバートの母は、硬く表情のない顔で口を開く。
「まだ、あの子供を飼っているのですか」
「……母上、ニコラスはもう成人の儀を済ましておりますよ。それに私の弟です。今では政のひとつを担ってもらうまでになっています」
「今すぐおやめなさい。あれは……あれはきっと害になります」
アルバートは、わずかに目を見開いた。
どうして突然そんなことを言い出すのか。
ニコラスが政務に関わるなど、今に始まったことではない。
けれど、すぐにその理由には思い当たった。
これまでは雑事の処理や書類整理のようなことをやらせていたが、今のニコラスは、かなり表だって行動している。立案書や手引き書にはニコラスの名前が書かれているし、官吏を直接指示したりなど政治の根幹に自発的に関わってしまっている。
母は、それを耳にしたのかもしれないとアルバートは察した。
そして、彼女がいったい何を憂慮してここまで来たのかも推察された。
アルバートは、考えをまとめてから話し出す。
「……母上、私は幼い頃、貴女のしていることが理解できませんでした」
「…………」
「けれど、貴女がニコラスをあれほど卑しめ――いえ、恐れていた理由が今ではよく分かります。私も時々、弟が怖くなる」
彼女の肩に力が入るのを見て取って、アルバートは言葉を選び直した。
「ニコラスを理解するのはなかなか難しいです。アイツの考えていることは、いつも歩みが早すぎてすぐには追いつけませんから。なんでも、私をさっさと国王に押し上げて、自分は隠棲したいらしいですよ」
「…………」
「ですからニコラスが、私を弑そうなどと考えていることは絶対にありません」
彼女は、わずかに顔を伏せた。
それから何の言葉もなくアルバートに背を向けてしまう。
毅然と立ち去っていく背中が廊下の角を曲がるまで、アルバートは彼女の後ろ姿を見送った。
アルバートは政務に戻ろうとしたが、どうにも身が入らなかった。
一枚の書類に目を通し、サインするまでにやたら長い時間がかかった。
そうしている間にかなり時間が経っていたのだろう、今度はニコラスが執務室をたずねてきた。
さきほどまで淫らな行為に没頭していた人間とは思えない、淡々とした態度で己が推し進めている政略の進行具合の報告をしてくる。
「さっき母に会った」
アルバートは、自分でも気付かぬうちに口にしていた。
ニコラスは書類から目を上げ、アルバートに目をやる。
「……そうですか」
「お前を飼うのはよせと言われたよ」
「……こちらは、いつでも野放しにしてくれてかまいませんが」
「羊の皮を被った猛禽類に首輪がないとか、怖すぎるな」
小さく笑ってから、アルバートは事のついでに聞くことにした。
「お前、正妃の事をどう思っている?」
ニコラスは特に反応のない顔した。そして、ほとんど考えた様子もなく答える。
「そうですね。私に人間というものを教えてくれた最初の人、ですか?」
「まるで興味がないな」
「無いですね」
即答すぎる言い様に、アルバートは苦笑するしかない。
これで徒口は終わったと、ニコラスは手にしていた書類に目を戻したが、ひと拍置くと再びアルバートに視線を移した。
「亡くなった私の母の事を気にしているんですか?」
ぎくり、と肩をゆらしてしまう。
ニコラスは、わざわざ人の心情を的確に突いてくることが時々ある。
アルバートはためらったが、やはり言うことにした。
「―――……お前、覚えているんじゃないか。その…その時のことを」
「ええ、覚えていますよ。母が心と体のバランスを崩して、日に日に弱っていく姿を。頼れるものなど何もなく、失意のうちに亡くなるその日まで」
「…………」
「兄上、もし私が、母の死は自分のせいだと思っているとしたら、どう思います?」
アルバートは耳を疑った。
「そんなわけがあるか。お前、あの時は5歳にもなっていなかったはずだろ」
「そうですね。でも……兄上は、覚えておられないと思いますが、兄上と初めてお会いした時、正妃と側妃の間に決定的な溝を生む原因を作ったのは私なのですよ」
「…どういうことだ?」
「私が常識はずれのうえ世間知らずだったため、少々やらかしてしまいまして、正妃の御機嫌をいちじるしく損ねたんです。
御機嫌をいちじるしく損ねたんです。あとは場所とか、タイミングとか、色々と不運なことが重なって、事は起こってしまったのです。そのひとつひとつに原因を求めるなら、最後にいきつくところは、母は私を生んだから死んだ。でしょうね」
「……いや、違うだろ。要因はあったかもしれないが…でも、やっぱり、違うはずだ」
「そう思われるなら、そのお気持ちを、兄上は自分にも当てはめてください」
「…………」
「貴方の母上が、私の母を殺したのかもしれない。兄上の中でそれを動かすことは、おそらく出来ないのでしょう。でも、兄上がそこに責任を感じるということは、私が私の母を殺す原因を作ったことにも責任を感じなくてはならないことになりますよ」
「……屁理屈を」
「じゃあ、こう言いましょう。どうしようもなかったのです。私たちが5ヶ月違いに生まれたことも、弟の方が規格外な能力に生まれたことも、物心も付かぬ内に出会わされたことも。これにどうやって責任をもてというんですか」
畳みかけるように言ってくるニコラスに、アルバートは愉快とは言えない困惑感におそわれた。
「全く納得できないのに、丸め込まれている気がするのは何故なんだ」
「丸め込もうとしていますから」
「…あのな」
「一応、こうして論拠を並べておかないと兄上は納得しないと思ったんです。こんなこと、本当なら改めて言うことでもないですから」
「……?」
ニコラスは、手にしていた書類を執務机に置いた。
それとなく姿勢を正し、アルバートを正面に見ながら語り出す。
「兄上。私は、貴方を恨んだことは一度もありません。母のことも貴方に責任はありません。何度も言うようですが、本当に全てがどうしようもないことでした」
神妙にかしこまってしまったその姿に、聞いている方も居住まいを正されるような気持ちになる。
「それなのに、この件について一番責任の無いはずの兄上が、いつまでも気に病まないでください。そうして憂鬱そうにされてしまうと、とても面倒くさいので」
「――――――…………最後の一言、言う必要あったか?」
ニコラスは確信犯的な笑みで笑った。
「だって、こういう事は本心から言わないと意味がないのでしょう?」
「――――」
いけしゃあしゃあと―――本当に、いつもと変わらない調子で言ってのけるものだから、アルバートも言葉を失ってしまった。
「……いや、待て。騙されないぞ。つまり要点だけを言えば、お前にとっては正妃のことも兄のことも、どうでもいいって事じゃないのか」
「せっかく順序立てたものを、的確に掻い摘まないでください」
やはり悪びれた様子もない彼に、アルバートはため息をついた。
彼が慰めるようなことを言ったのは、ここで王太子に悩まれると仕事が滞るから、発破をかけたかっただけ。ニコラスのことだから、充分あり得る事である。
アルバートは、よく見れば同じ顔の特徴をもっている自分の弟を見上げた。
彼にしてみれば、全てはもう終わってしまった過去のことなのだろう。
だから、本当に何とも思っていない。
本当に。
「でも、まあ……お前の本心とやらは、有り難く受け取っておくよ」
「そうですか。それなら委細かまわず、さっさと即位してください」
「結局そこに行き着くな、お前は」
「弟のかわいいワガママですよ。叶えてください」
「私利私欲にまみれたワガママを、かわいいとか言いたくない」
軽口でしかない遣り取りなのに、アルバートはどこかで小気味よく感じていた。
それくらいには、胸のわだかまりが解けていた。
だから、ニコラスが際限なく発案してくる無茶な要求を却下するため、アルバートは、政務に戻ることにした。
思ったよりしんみりした内容となりました。
本当は「第一王子の毒中り」というサブタイだったんじゃよ。




