第二王子の毒見06
一日遅れました。どうしても一本にしたくて。R15描写あり。
翌日、アルバートからリリア・アウリアに何を言ったのか詰問されたが、沈黙で押し通した。それで何かあったことを察したらしいアルバートはそれ以上何も聞かなかった。
ニコラスは、マルティナが次に出席するのはどの夜会かを、マルティナの侍女と書状で打ち合わせをしなければならなかったので忙しかった。
もうアルバートに何を言われようとも決行しようと、幽閉塔にて最後の確認をするため、その翌朝には落葉苑へ遠乗りに出掛ける。
その帰りに、前方から駆けてくる馬があった。
何か起こった緊急時の早駆けとして、配備されている衛士だった。
そしてニコラスの緊急には、マルティナの登城も含まれており、彼はオルブラント候令嬢の来訪を告げに来た。
それは、およそ3ヶ月ぶりの登城だった。
すぐさま馬を走らせ、自分の執務室へ向かおうとしたが、馬に乗った後である。
軽い身支度を私室で調えてから、ニコラスは彼女との逢瀬へと向かった。
一縷の望みは、しかし、ただちに打ち砕かれる。
マルティナはニコラスの部屋ではなく、王太子の執務室に向かったと彼女を案内した下官、コンラッドから聞かされ、その足でアルバートの執務室へと切り返す。
執務室の前で衛士の制止にあったが、無理やり振り切って乗り込んだ。
アルバートのいる執務机の前に立った、彼女を見付ける。
たちまち顔を強ばらせ顔ごと背けるマルティナに、ニコラスの神経は逆撫でされた。
背後では、衛士が許可のない入室にニコラスを諫めていたが、彼の私生活を人より多く知っていたので、それを教えて黙らせた。
衛士の鼻の先で扉を閉め、アルバートのもとへ歩き出す。
「思ったより遅かったな」
「遠乗りに出ていました。それより、さっき何を隠しました?」
机の上でアルバートが裏返した用紙を、目敏く見つけていた。
「……見ない方が良い」
「見せてください」
「――…私は忠告したからな」
アルバートはため息をつきながら書状を差し出す。
知っている筆跡で綴られた文面には、マルティナが望む将来の展望が記されていた。
彼女は、この国を出て、遠い外国へと嫁ぎたいらしい。
「兄上、席を外してください」
「……ここは、私の執務室だが」
「外してください」
アルバートが再びため息をつく。
ゆっくりと机から立ち上がり、自分の部屋から退出していった。
部屋に残ったのは、ニコラスとマルティナの二人きり。
マルティナを前にした今、ニコラスにはもう、幽閉塔の事など頭になかった。
今ここで、彼女を逃すことの方が何よりも耐え難かった。
よりにもよって国外にまで逃げ出そうとするとは。
何がそんなに気に入らないのか。遠い見知らぬ土地で、誰とも知らぬ相手と結婚した方がましだと思えるほどのことなのか。それとも―――
それとも、誰か他に気に入った男が出来たから、その男と共に出て行きたいのか。
この数ヶ月の間に、マルティナと接触した男たちは7人。
庭師と庭師の見習い。
それからバルト子爵の小倅と、キース・クランシー。ノルディス・オーウェン。レイモンド・カバネル。オルガ領のコルベール侯爵。
ずいぶんな数が彼女に言い寄ったが、特に庭師の見習いだ。
その男から貰った花の種を、彼女は今でも大切に育てているという。
だが、その時、マルティナの視線が扉へと流れた。
彼女の瞳に逃走の色を見た瞬間、ニコラスの中で何かが外れる。
距離をいっきに詰めた。
「花は咲いた?」
「……?」
彼女からの反応は薄い。
「そんなに、あの見習いが気に入った?」
それでも違うならと、一人ずつ名前を挙げていけば、無防備に見上げてくる彼女の白い喉が視界に入る。
ニコラスの両手が首筋に伸びていた。
「本気で、二度と会わないつもりだった?」
彼女は一昨日、そうやってニコラスを傷付けた。
「心変わりしたの?」
何をしているのか。分かっている。マルティナの首を絞めている。
殺しなんてしない。気絶させればいい。頸動脈を圧迫するだけだ。
だけど知っていた。医者でもない自分はおそらく失敗する。
失敗すれば彼女は死ぬ。
死ぬ。彼女が。
死ねば、もう二度と逃げられることはない。
死ねば、もう二度と唇が開かれることもない。
何をしているのか。
わけの分からない拮抗がニコラスを苛む。
張り詰められ、互いを裂き合うだけの思考が錯綜しながらバラバラと崩れていく。
取り返しの付かない所まで落ちる瞬間を目前にした時、彼の耳は震えるようにして漏れた呼気を拾った。
あえいでいたはずの唇が、笑ったように見えた。
いや、笑っている。
酸欠状態に頬が上気し、うっすらと涙が浮かぶその顔で、紫紺の唇を微笑みにしか見えない形に歪めている。
理不尽な暴力を受けているはずなのに、眼前の絞殺者を歓喜を持って迎え入れようとしている女がニコラスの手の中にはいた。
手と指の力が一気に抜ける。
咳き込みながらも見上げてくるその瞳が、今度は落胆を伝えてくる。
泣きそうな顔で伝えてくる。
―――ああ、やはり。
ニコラスは思う。
―――やはり、彼女は真性だった。
感情が吹き出した。
腹の底にこびり付いていた錆が毒で溶かされ、本性が噴出するのをニコラスは止められなかった。
もうずっと見つめてきたあの毒を、噛みつくように貪った。
しごき落とすように歯で甘噛みし、舌先でねぶるように毒を舐め取る。
このうえなく柔い肉を唇で喰めば、ぷちゅりと音が鳴った。
いったん離れ、口紅の乱れた顔でぽかんと見つめてくるマルティナに情欲がわく。
自分の唇に移った毒を舌で舐め取った。彼女の毒は脳をとろかす酸の味がする。
ソファへ連れ込み、押し倒して、顔から首、肩、胸、足、太股を順番に撫でさする。
相手がほとんど無抵抗なことをいいことに、好き勝手に色々としていたが、
「何をしているんだっ、何をっ」
忽然と邪魔が入った。
いつの間にか戻ってきていたアルバートが、満面の怒りを湛えて立っていた。
マルティナの肩と背が丸見えになっている。急いで上着をかけながら文句を言った。
「見てたんですか」
「やけに静かだから様子をうかがったんだ。そうしたら人の部屋で……」
アルバートが頭を抱えて呻いた。
執務室の扉の外で待機していたのだろうか。待機していたのだろう。
ニコラスも思うところがあったが、それよりもマルティナを抱え上げ、執務室にあるもう一つの扉へと向かう。
慌てたように制止を入れるアルバートは無視して、仮眠室の一人用ソファに彼女をおろした。執務室に取って返し、アルバートに乳兄弟の居場所を聞く。
「コンラッドはどこですか?」
「外にいるだろ、たぶん」
執務室の外へ出れば、顔色の悪い衛士の隣に立っていたコンラッドに洗面用の湯と布、それと化粧道具を頼む。
仮眠室へ戻ろうとすると、アルバートまで付いてきた。
「この先は、兄上は控えてください」
「ベッドのある部屋で、二人きりになどさせられるか」
「実の弟が信頼できないんですか」
「できると思うのか?」
「…………」
そういえば、とニコラスは思い出す。
幽閉塔使用の件でアルバートに何もしないと言っていたのに、結局はこの体たらく。これでは、即答されても致し方ないのかもしれない。
「彼女の身なりを整えてやるだけです。不埒なことはしません」
「アホか。女中を呼べ。女中を」
「いいんですか。ここは兄上の執務室で仮眠室ですよ」
「…………」
アルバートは屈した。
「扉は開けさせてもらうからな」
負け惜しみのような台詞を吐くアルバートを置いてマルティナの所へ戻ると、彼女は壁際まで隠れるようにして逃げていた。
迷路園の時とは全く違う何かにあおられるようにして、さらに追い詰めるように腕の中に囲った。
「ここで聞いているからな。行いには細心の注意をはらえ」
間の良すぎるアルバートに、ため息が出る。
自分で脱がせたコルセットを、必要以上に時間をかけて締め直し、上着を着せる。
頃合いを見計らったかのように洗面用の湯と布、化粧道具を持ってきたコンラッドから一式を受け取り、マルティナの化粧に取りかかった。
一度全ての道具に目を通してから、それぞれ用途に見当を付ける。
きちんと紫紺色の口紅もあったことから、コンラッドが選り分けてきたのだろう。
化粧は思いのほか楽しかった。
肌に色を乗せる間、彼女の目線がやたら泳ぐものも面白かった。
そして唇。色々と致したため、少し赤くなっていたが、紫紺の口紅を添えると見事に全体が締まった。
―――舐めたい。
せっかく引いたのに、そんな衝動がわき上がってきて見つめてしまう。
無理やり目をはなして、次は髪結いに取りかかった。
目に付いた花瓶の花を数本だけ部屋の主から貰うが、その主が口を出してくる。
「何だ、身支度は終わったのか?」
「いえ、髪結いがまだです」
「髪だけか? ならもう私が居てもいいだろ。お前たちには話がある。髪結いがしたいなら、しながら話せ」
アルバートは仮眠室へ入ろうとするが、ニコラスは道を譲らなかった。
「何だその顔。駄目だからな。時間がかかりすぎなんだ。こっちは忙しい身の上なのに執務室を占領されているんだぞ。さっさと用件を済まさせろ」
ニコラスを押しのけて、アルバートは仮眠室へと立ち入ってくる。
立ち上がって出迎えるマルティナを一瞥し、自分のベッドに腰を下ろす。
マルティナを再びソファへ座らせてから、花瓶から抜き取った花の茎を一本ずつ残り湯で洗い、水滴を拭いはじめる。
「それで、お前たちはどこまで“話し合う”ことが出来たんだ?」
切り出すアルバートの目は、確実にニコラス一人を見ていた。
彼からは、ひしひしと伝わってくるものがあった。
幽閉塔の使用許可は、やはり出すわけにはいかないと、言外に伝えてくるようだった。
「先ほどは、余所様の内輪ごとに立ち入るのは野暮だと思って引き下がったが、それが大きな間違いだったと思い知らされたので、口を挟ませて貰うが、もういい加減にしろ。特にお前だ、ニコラス。この3ヶ月お前はどれだけ私に面倒をかけた」
ニコラスは答えなかった。
「そうか。忘れたというなら、思い出させてやろうか」
「ところで兄上、レイゼルト公爵領の件はどうなりました?」
「は? レイゼルト?」
「そうです。前に話したレイゼルト公爵領の住処についてどうなりました?」
「どうって……あれを本気で言ってたのか」
「どうなりました?」
「どうもこうも、そんな余力はない。時間も人手も足りない。情報が精査できない。よって優先順位は覆らない。もっと時機を考えろ」
「報告書と手引き書を作りました。あとでお持ちします」
「…………おい」
「それで納得できたら、正規の手続きをお願いします」
「――お前は」
「兄上、こうしましょう。あの場所を確保できたのなら、これから先、兄上が玉座に昇られるまで、貴方の望まれるとおりにします」
「…………」
アルバートの頭の中で様々な打算が、瞬く間にはじき出されていることだろう。
玉座まで確約された協力。新しい執政府の構築。レイゼルト領攻略の手引き書。たかだか貴族の娘一人。良心の葛藤。王太子として選ぶべき選択。自分が口を出してこじれる可能性。幽閉塔のことをマルティナに語るリスク。彼女さえ与えれば弟を御せるかもしれない期待。かけられる面倒との差し引き。即位まで要される年数の逆算。
ニコラスが考えただけで、それだけあがるのだから、アルバートの中ではもっと複雑に絡まる損得勘定があるかもしれない。
アルバートは何か言いたげな目でマルティナを見た。
ため息をつき、ニコラスとマルティナを交互に見つめ、またため息をつく。
そして、思考するのに疲れたような様子で肩をすくめた。
それだけでニコラスは、アルバートが取り引きに応じたことを悟る。
どこか憑きものでも落ちてしまったようなアルバートは、一言二言とりとめもない話をしていたが、すぐに己の務めを思い出したらしい。
「あー、それじゃあ、私は仕事にもどらせてもらう。お前らはそれが終わったら、ちゃんと帰れよ」
そう言ってベッドから立ち上がり、自分の仮眠室から引き上げていく。
マルティナと二人きりに戻った室内で、ニコラスは何事もなかったように彼女の髪結いを続けた。
見事な出来映えに仕上がったマルティナを侯爵家の家まで送り届けるため、馬車乗り場まで彼女をエスコートしていく。
その途中、二人の後ろをコンラッドが付いてきていた。
アルバートから言付かっているのだろう。
ニコラスが、マルティナを良からぬところに連れ込まないように見張るようにと。
しまいには、
「アルバート殿下より言い付かりまして、帰りの馬車はこちらが用意いたしました」
そう言って、王族用の公馬車が馬車乗り場に横付けされる。
これでは目立ちすぎて、いかがわしい場所には絶対に近寄れないだろう。
すでに前科のついてしまったニコラスは何も言わず、マルティナと共に乗り込んだ。
馬車が走り出し、一定のリズムを刻む蹄とゆれる車輪の音だけが車内には響く。
マルティナはずっと上の空だった。
時々自分の髪を撫でながら、思案げに空中をながめている。
この3ヶ月、避けられてばかりでまともに視界に入れられなかったマルティナを見ながらニコラスは言う。
「大人しすぎて、気味が悪い」
びくりと彼女の肩が揺れた。
「どうせ碌でもない事を考えているんだろ」
わざと挑発的な言い方をしたのに、マルティナはきゅっと唇を引き結び、何かを堪えるように体を強ばらせた。
反応が薄いというか、毒を吐くことを我慢しているように見える。
「あなたこそ何を考えているの。私にあんな事をして」
「……あんなこと? あんなことって?」
「だから―――」
先ほどの性的行為を思い出したのだろう。
マルティナは顔を真っ赤に染めて、押し黙ってしまった。
性的に迫られたらどういう反応をするのか、前に考えたことがあるが、ずいぶんと初な反応が返ってきてニコラスは目を細める。
あんなことをしたのだから、当然といえば当然なのかもしれないが、彼女本来の顔はこちらなのかもしれないと思うと非常に興味深かった。
「――だ、だ、だって。リリア・アウリアはどうしたの?」
「……リリア・アウリア? なんでその名前?」
予想外の名前にニコラスは眉を顰める。
「君の言っているリリア・アウリアは、オーデール公の迷路園と一昨日の夜会で会ったアデル子爵家の養女でいいんだよね?」
「え、ええ。そうよ」
「……できるだけ内々にしたからまだ知らないはずだけど、あのお門違い女は、昨日をもって社交界を追放処分になったよ」
「………………え?」
目を丸くするマルティナに、ニコラスはリリア・アウリアが療養地送りになった顛末の、その表面だけ掻い摘んで説明する。
「――それで、どうしてリリア・アウリアが出てきたの?」
マルティナはとても分かりやすく目を泳がせた。
「……え、えと。ほら、色々言われたから気になって」
「ふーん」
全く納得はできなかったから、ニコラスは探るようにマルティナを見つめた。
マルティナの顔がまた赤くなる。
何もしていないのに赤くなるからには、何か破廉恥なことでも考えてしまったのだろう。
この場にいることが耐え難いとでも言うように、狭い馬車の中でニコラスから距離を取るように窓際へと張り付いた。
ちらりと一度こちらをうかがうが、目が合うと顔ごと背けた。
その行動が少しニコラスの感情をざわつかせたが、マルティナが心変わりなどしていなかったことは、さきほど確かめたばかりである。
そう。やはり彼女の執着は自分にあることに間違いはないと、ニコラスは思う。
しかし、彼女が心変わりしたかもしれないと疑心にかられた後だからこそ、その妄執にいくらか思う部分も出てくる。
今まで考えてこなかった。いったい自分の何がそれほどに執着されているのかと。
改めて考えると、ニコラスの彼女に対する行いは酷いものである。
マルティナの懊悩する激情を知っていたのに、ずっと放置していたのだから。
彼女の執着に当て嵌まる理由を考えながら、ニコラスは窓の外を見ていた。
「――どうして、あんなことをしたの」
聞こえてきたのは、馬車道の音で掻き消されてしまいそうな声だった。
マルティナが赤い顔をしながら、こちらをうかがってくる姿に、ニコラスはやけに攻撃的な気持ちがわき上がってくるのを感じた。
「どうしてね。それは、どちらかといえばこちらの台詞だね」
窓に寄り掛かっていた姿勢を改めて、彼女へと向き直る。
「君はさ、どうしてそんなに僕が好きなの?」
ぴしりと固まる彼女を見て、ますます気持ちが高まる。
「そういう結論に至るでしょ、普通。君はさ、毎度毎度人を扱き下ろしてくれるけど、いつも一人で突っかかってくるよね。徒党を組むのは大嫌い。というか、自分以外の有象無象があざけっていると、ものすごい形相をして睨むよね」
また赤くなる。けれど、今度の羞恥は自らの痴態を指摘されたからだろう。
それがニコラスには、やたらかわいく思えた。
「貴族には必須条件だろう人脈作りも省みず、僕を見付ければ走りより、話しかけるのも僕ばかり。そして何故だか、正妃がことさら吹聴していたアルバート兄上と比較される話は一切持ち出さない。情勢が変わってからは猫を被るようになったけど、二人きりになれば、いつも通り毒を吐いて。でもさ、それって意味ないよね。君はすでに周りから孤立していて婚約者しか頼れる人間はいなかったのに、そんな相手を傷付けて君に何の得があったのか……まあ、大体想像はつくけど。ご苦労様」
今度は少し泣きそうな顔になった。
ニコラスは、それにも高揚を覚える。
「だけどさ、その想い人にさんざん無視されて、もらえる言葉も定型文の挨拶ばかり。始まりから終わりまで放置されているのに、毎回毎回懲りもせずに立ちはだかってくるってどうなの。しかも、その陰では王族のパートナーに相応しい能力を身につけるためとしか思えない、いち令嬢には過ぎた勉学量を何年にもわたってやってのけたりとか。どうしてそこまで出来るのか理解に苦しむ。今日なんて殺されかけたのに嬉しそうに笑ったりして。ホント、もう病気のレベルだよ」
その言い様には、さすがにたまりかねたのか、キッとマルティナが顔をあげる。
「とんだ思い上がりをされているようね。私があなたに気があるなんてふざけた話あるわけないじゃない。私の理想はもっと高いところにあるのよ。あなたみたいな――あなた、みたいな……」
やっといつもの顔に戻ったかと思ったが、彼女の気勢はたちまち削がれていく。
毒の唇をぱくぱくと何度か開閉するが、結局何の言葉も出てこずに、かなりの時間が経ってしまった。
まるで毒気を抜かれてしまったかのような彼女に、ニコラスはそのまま思ったことを言ってみる。
「昔から思っていたけど、その唇って毒を塗ってるみたいだよね。さっき舐めたから、ずいぶん抜けたみたいだけど、毒」
彼女はついに絶句してしまった。
それから、とても恥ずかしい負け方でもしたような顔で微かに肩を震わせはじめる。
ものすごく、嗜虐心をそそられた。
「それでさ、考えてみたんだよ。どうして君は僕を好きなのかって。もしかしてだけど……君は、いじめられる方が好きなんじゃないの?」
きょとんとした顔が返ってきた。言葉の意味が伝わっていないような顔だった。
よほど自分の中にない言葉だったのだろう。
けれど、これまでの彼女を見ていると、それほど見当違いな話でもないはずだ。
それに―――それなら、どうして自分を好きなのか。その疑問も解ける。
それをそのまま言葉にして伝えた。
そして、彼女がどんな反応を返すだろうかと待ってみる。
「そ、そんな、そんな。そ、い、じめられて、うれしい、なんて、人はいないっ」
あのマルティナ・オルブラントが、盛大にどもってしまった。
ずっと一線を引く形で彼女を見てきたけれど、もしかしたら、自分はとても勿体ないことをしたのではないかとニコラスは思う。
「そうだね、今はそれでいいよ。その辺はこれから証明していけばいいし。君の毒がそうそうと抜けきっても楽しくないし」
小さく笑うように言ってから、ニコラスはふと気付いた。
どうして自分はこんなにも挑発的な喋り方をしているのだろうか、と。
それまで自分と彼女はどういう会話をしてきたかを思い出そうとして、そういえば、マルティナとは会話らしい会話をしていなかったことを思い出す。
やはり勿体ないことをしていた。
今までは、取り澄ました顔や、どこか苦悩している顔ばかりを見てきたけれど、こんなにも表情豊かなら、もっと早くにこうしていればよかったかもしれない。
「まあ、そういう点も踏まえて、しばらく王宮に押しかけて来なかったのは結局なんだったのか。その謎が残るわけだけど……3ヶ月前に倒れてからだよね。見舞いを出さなかったから乗り込んでくると思ったのに、来なかったよね」
マルティナは困惑気味にして押し黙る。
「心変わりしたんじゃないなら、やっぱり、口さがない連中が言いふらしていた婚約破棄の噂が原因?」
彼女は答えない。
ニコラスの想像通り、やはり簡単には答えるつもりはないらしい。いや、答えられないと言った方が正しいのかもしれない。
きっと進退窮まる理由があって、ニコラスから離れようとした。
けれど、彼女が本当にニコラスから離れたかったとは、もう絶対に思えない。
それでも彼女が理由を言わないなら、ニコラスだって説得しようがないだろう。だとしたら無理やり聞き出すことに、どれほどの意味があるのか。
だいいち、もう答えは出ている。
「とりあえず何が言いたいのかというと、たとえ君が一人でぐるぐると思い悩んで、碌でもないことを企んでみたところで、今後、僕達の婚約が取り消されることはどうあっても無いから」
「――ど、どうして」
「僕が見てて楽しいから」
「…え?」
「恋しくて仕方のない相手に毒を吐くなんて、自滅の道を突き進む君を眺めているのは、とても楽しかったけれど、そろそろ別の遊び方を試してもいいかもしれない」
つい正直に口が滑ってしまったせいで、マルティナがどこか怯えた表情を見せた。
怯えているのに、ニコラスはその顔も良いと思ってしまう。
そういう色々な表情を見たい。引き出したい。 試したい。
でも今は、それより大事なことがあると言葉を続けた。
「君の方こそ、どうしたって逃れられないんじゃないの? 殺されたいほど入れ込んでいる男から離れて生きていけるの?」
これが全てを語っていた。
マルティナが何を思って、ニコラスから離れようとしたかは分からない。
けれど、彼女は絶対にニコラスから離れては生きていけないだろう。
彼女だって自分で分かっているはずだ。あの時に彼女の答えは出てしまっているのだから。
それなのにマルティナはこの期に及んでも何かを躊躇うような顔を見せるから、ニコラスは腰を上げた。
「余計なことは考えなくていいから、これまで通り3日を置かず王宮へ会いに来るといいよ。そうしたら」
腕の中に囲むように、マルティナへと迫る。
見上げてくる彼女の頬に手を添えて、唇と唇が触れる距離まで近づいた。
「ご褒美に、口紅を付け直してあげる」
ニコラスが喋るせいで彼女と彼の唇がわずかにかすった。
しかし、それだけでニコラスはマルティナから離れていく。
まるでお遊びのような関係を示唆されたせいだろう、彼女の顔には苦悩の色が浮かんだ。
ニコラスはそれに充足感を覚えてしまう。
豊かに色を変えるマルティナの表情も見たけれど、やはりその顔がニコラスを一番たまらない気持にさせた。
その顔が、彼女の身の内に毒を生み出す。
「わ、私を――ニコラスは、私をどうしたいの?」
どうしたいか。そんなことは決まりきっている。
とうとう彼女の毒を口にしてしまったのだ。まともで居られるはずがない。
一度でも味を知ったからには、気の済むまで舐め尽くし、跡形もなくぐちゃぐちゃに噛みつぶして、全てを飲み下してしまいたい。
けれど、ニコラスはまだ、それを自分に許すわけにはいかない。
「――どう、思っているの?」
「さあ? どうだろうね」
脳をとろかす彼女の毒。あれは本当に人を際限なく愚者にさせる味だった。
馬鹿になるのはかまわない。ただ、歴史書に載るような馬鹿をやらかす前にニコラスはアルバートとの約束を果たさなくてはならない。
彼を、この国の国王に据えなくてはならない。
「……嫌い。ニコラスなんて嫌い」
わざと曖昧にしたせいで、マルティナから何とも可愛らしい毒が返ってきた。
思わず笑ってしまう。
「3日後が楽しみだね」
そう言うと、マルティナは懊悩する顔を俯かせてしまった。
さすがにやりすぎたかと思えば、そこにうっすらと上がる口角を見付ける。
彼女の中に新しい毒がじわりと溢れてきたのを見た気がして、ニコラスも密かに笑った。
せっかく目の前に脳をとろかせる毒があるというのに、今は節度を保たなければならないというこの状況が、ただただもどかしい。
でも、いつか。
きっとそれほど遠くない未来、誰にも邪魔されない場所が手に入る。
そうすれば何にも煩わされることなく、彼女の毒を味わい尽くせるようになる。
そのためにもアルバートを一日でも早く国王に押し上げ、その見返りにニコラスはレイゼルト公爵領をもらい受けなくてはならない。
本当に一日でも早い即位が望ましいだろう。
ニコラスがまだ、稚戯のような戯れだけで我慢できる内に。
口紅ほどの毒で、まだ保つ内に。
番外編、これにて完結です。
あともう一つ、兄王子視点で後日談的な話をあげたいと思います。
2、3日お待ち下さい。




