悪役令嬢の毒01
今なら分かる。
『彼女』は、彼のことが好きで好きで大好きで、空回ってしまっただけなのだ。
彼は、兄王子とは比べるべくもないほど、非力な能力しか持っていなかった。
『兄君のようにとは言わない。せめて王家の恥にならぬようにしなくては』
『あの歳にもなって、まだ文字も書けないとは。アルバート殿下は、とうに修学されていたぞ。兄弟でこれほど違うものか』
『可哀想に。母親の卑しい血筋のせいね。あの子全ての責任ではないわ』
そんな悪意のやり取りは日常の光景で、幼かった『彼女』は、大人たちの口から放たれる毒を何の疑問ももたずに飲み込んでいた。
不遇の第二王子と、侯爵令嬢の『彼女』がはじめて出会ったのは、王族を中心とした上位貴族の令息と令嬢が集う王宮の園遊会だった。
チェスやカード、読書会やお茶会など、小さな社交界として用意されたその会は、当然として王子や王女に子供たちが群がっていた。
ただ一人、第二王子を除いて。
親から言い含められたのか、吹聴される陰口を本気にしたのか、実に分かりやすい子供たちの態度は、そのまま侯爵令嬢として招待された『彼女』にも当て嵌まった。
関わるつもりなんてなかった。
たまたま向けた視線の先に彼が居たのだ。
丸テーブルに一人で座って、本を読んでいた。
彼が第二王子だと分かったのは、王族の衣装を着ているのに人が寄りつかなかったからで、遠巻きに囁く声に混じって『彼女』も彼をながめた。
髪や瞳は平凡なブラウンだったが、意外にも綺麗な顔立ちをしていたから、余計に興味をそそられてずっと眺め続けていれば、ページをめくる所作や、どこか憂いを帯びた雰囲気に、どんどん目を惹きつけられた。
ずっと同じ場所には居られなかったから、観賞場所を移しながら、ひたすら見つめていたが、やがてお開きの時間が差し迫って居ても立ってもいられなくなった。
せめて、どんな本を読んでいるのか、それだけでも聞いてみようと意を決し、第二王子のテーブルに近づいたが、そこで予想外のことが起こってしまう。
予想より早く、まるで気配を察知したように彼がこちらを振り向いたのだ。
目があった途端、頭がのぼせ上がり、思考が空転し、完全にてんぱった。
『まだ文字が読めないって本当なの? 信じられない。何その絵本、赤ちゃんみたい』
口から飛び出したのは、体に慣れきった毒の言葉だった。
緊張で裏返った声は、あたかも嘲笑のように聞こえただろう。
『彼女』の見かけも好ましくなかった。
アイスブルーの豊かな髪に、紫紺の瞳。
加えて、マルティナは自分に似合うと思い、瞳と同じ紫紺の口紅を付けていた。確かに似合っているのだが、そのせいで傲慢な発言にぴったりな外見をしていた。
室内が水を打ったように静まりかえったのだから、きっと皆に聞こえていたに違いない。
やがて、くすくすとせせら笑う声が聞こえてきた。
彼は傷ついたように顔を伏せ、本を抱えて駆け出すと、部屋から逃げ出していった。
呆然と立ちつくす『彼女』を、その場に置き去りにして。
その後、まがりなりにも王の子を衆目の前で扱き下ろしたことは問題になったが、子供のしたこと、王子だと気付かなかったことを盾に、親が勝手に弁明して、うやむやにされた。
それから『彼女』は、大人の言うことを素直に聞けなくなった。
第二王子に対する、ああも露骨な誹謗中傷が飛び交っているのは、彼の母が何の後ろ盾のない側妃だったせいと、不幸にも、正妃の子である第一王子と5ヶ月しか生まれの違わない同い年だったせいだと知ったのは、多分この頃だ。
それでも『彼女』は、次の園遊会で彼に謝ろうとした。
はじめて口にした毒は苦くて、いつまでも舌に残っていたから、どうにかして拭い去りたかった。
それなのに彼は、わずかに眉を寄せただけで、完膚無きまでに『彼女』を無視したのである。
子供心に傷付いた。
同じか、それ以上の方法で彼を傷付けたことなど一瞬にして忘れ、傷付けられた幼い心は、即座に報復に出た。
『ねえ、どうして文字が覚えられないの? 簡単じゃない。どうして出来ないの?』
『貴方のお友達はどこ? こんなに沢山いるのにどうして一緒に遊ばないの?』
『ねえ、どうして何も言わないの? 声が無いの? 病気なの?』
他の子供たちが聞いているのは分かっていたが、止められなかった。
私を傷付けたのだから、それ以上に傷付くべきだと、その時は思っていた。
また騒ぎになるかと覚悟したが、特に何も言われず違和感を感じたが、その違和感はそれほど時間をおかずに、正妃の取り計らいだと知って解消された。
それからは、まるでそう根回しされているように、『彼女』と彼は顔を合わせるようなったが、それでも徹底的に無視を決め込む第二王子に彼女も意固地になり、ことさら毒を撒き散らした。
ただ、それでも彼に対して出来ないことがあった。
兄王子との比較である。
第二王子を傷付けるには、第一王子と比較が最も効果的だと知っていたし、実際に何度か言いかけたことがある。
けれど、彼の前で別の男の話をすることに、どうしても抵抗感があったため、それを口から吐き出すことはできなかった。
しかし、だんだんと『彼女』の八つ当たりに便乗するように、面白半分な子供たちが第二王子を煽り立てるようになる。
やがて王宮の園遊会に第二王子は来なくなった。
子供たちに悪影響を与えるとして、忌避されたのだ。
それから間もなくのことだった。
侯爵令嬢である『彼女』が、第二王子の結婚相手として推し出されたのは。
でも、すぐに気付いた。それが、第二王子を蛇蝎の如く嫌っている、正妃の嫌がらせであると気が付いて、その日の夜は枕を濡らした。
ひとつだけ好転したことがあるとすれば、婚約者となった『彼女』を、彼は完全には無視できなくなったことだろうか。
婚約者という立場を得て、はじめて顔合わせに呼ばれた日、彼は完璧な作り笑いを貼り付けて『彼女』を出迎えた。
忌々しいものを突き刺するような、冷たい目。
嫌われている。
それは、あまりにも当然のことすぎて、それほど動揺せずにすんだ。
澱んで濁りきった毒は、きっとすぐには消えない。けれど、時間をかければ少しずつ濾過していけるかもしれない。そんな目論見も少なからずあった。
時間が解決してくれる。1年後には。2年後には、3年後4年後……結婚した後なら。
実に甘い算段は、いたずらに時間を消費していくだけだった。
そうこうしている内に、彼の兄である第一王子が王太子として擁立された。
第一王子は、弟である第二王子を身を挺して庇いはじめ、実母である正妃とあからさまに対立するようになる。
時間切れを突きつけられた。
きっと近いうちに、婚約の破棄を申し渡されるだろう。
『彼女』は、正妃の嫌がらせで宛がわれた婚約者なのだから。
結局、何も変えられなかった。
二度と会えなくなるかもしれない。このまま忘れ去られるのかもしれない。
それとも、子供時代の嫌な思い出として残るだろうか。残りたいと思った。どんな形だろうと、彼の記憶から消えたくない。
だから、最後の悪あがきをする。
何も想われないよりはずっとマシだからと、憎まれて終わること選んだ。
今までと変わらず、むしろ、より汚い方法でなじるようになった。
成人したからには、衆目のある場所で第二王子を罵倒するわけにはいかない。そんなことをすれば、たちまち処罰され、ニコラスの側にいられる時間が減ってしまう。
だから、人目のある場所ではきちんとした淑女を演じるようにして、誰もいなくなったら、いつも通り毒を吐くという陰険な方法を使った。
それでも兄王子との比較は出来なくて、だから、ことさら彼の人格を責めた。
人見知りで気難しい性格の人だったから、それも一役買っていた。
時勢におもねって、手のひらを返したように大人しくなったマルティナを白い目で見る人は多かったけれど、そんなことは彼女の眼中になかった。
ゲームでプレイした時は、あまりの小物ぶりに単なる舞台装置としてしか『彼女』を認識していなかったけれど、実際にそうなった経緯を追体験すると、吐き気を催わさずにはいられない。
なんて酷い女なのか。
自身の毒にまみれるあまり、自身まで溶かされてるというのに、ぐずぐずと爛れること良しとして悦に入ろうだなんて、なんて醜い女。
自己中心的でエゴイストで救いようがない。
本当は好きだったなんて、今さらどう言い繕っても信用などしてもらえない。
なんて馬鹿な女。
『彼女』―― 侯爵令嬢マルティナ・オルブラントの別人格として目覚めたはずなのに、涙が止まらない。
今なら分かる。『彼女』の気持ちが。
私も同じ。彼のことが好き。好きなのに。貴女と同じ毒に侵されている。
流行りものを書いてみたくて。
※9/23 内容を少々変更しました