教室の魔物
「ねえ、知ってる?」
「えっ何、豆しば?」
「ちがーう!」
ふと聞こえてきた女子達の会話に、自然とシャーペンの動きが止まった。それまで沈黙を保っていた教室内に明るい声が響き、思わず集中を解いてしまったようだ。仕方ない、と小休憩を兼ね、うだるような暑さに気を紛らわすように下敷きをあおいだ。手汗でヨレヨレになってしまったノートから顔を上げ、黒板横の壁時計を確認すればもう午後四時を過ぎているではないか。なるほど、集中が切れやすいわけだ。思わず溜息を漏らすと、教室だけでなく誰もいない廊下にまでだらけた声が響いた。
真夏の日差しに熱せられた校舎には、自分や後ろの席に座っている女子二人のみしか残っていないと思うほど、ひどく閑散としている。なにせ今は夏休み真っ最中、学校に来る連中など補習組か部活組しかいない。そして自分はめでたく補習組として呼び出され、クーラーの無い教室で無駄に汗を掻いているのだ。進学校だから補習ぐらい当たり前なのだが、今回の補習は学期末テストの結果が悪かった連中のみが呼び出されたもの。つまり、回避可能だった補習にまんまと引っ掛かってしまったのだ。まさか成績優秀を維持していた自分が補習組に入れられるとは――人生何が起こるかわからない。
朝から弁当持ちで補習授業を受けていたが、午後からは下校時刻になるまで各自、明日の予習や夏休みの課題に取り掛かる自習状態であった。たまに見回りに来る先生も暑さにバテたのか、時間を追うごとに教室まで足を運ばなくなった。帰ってしまってもいいじゃないかと思うが、後でバレるのが目に見えている。ひたすら暑さに耐え、缶詰にされた補習組は各教室で唸ってることだろう。
「何それー、ヤダ気持ち悪っ」
「えー、面白いじゃん」
再び女子の世間話が耳に届いた。
二組では自分を含め、クラスメートの女子二人だけが補習を受けているという、他クラスより少人数かつ喋り相手がいない、非常に残念な状況であった。普段あまり女子と喋ることがない自分にとって気まずい時間が続いていた。
「じゃあさ、これはどう? 放課後に補習を受けていた子が自分以外誰も居ないはずの教室で視線を感じるって話」
「ちょっと! それ、状況が今の私らじゃん!」
「だからいいじゃない。雰囲気でるでしょ?」
「ええー、うそぉー」
興奮気味に女子トークが繰り広げられ、どうやら夏らしく怪談話で盛り上がっているらしい。お喋り好きな女子らしい話題チョイスである。
声から判断して怪談を持ちかけているのが君島麻衣、嘘くさい悲鳴を上げているのが村田メイだろう。どちらも毎度お馴染みの補習メンバーで、テストでクラスのビリッケツはいつも彼女達であった。聞いた話では二人共中学から友人だそうで、お喋りが日課であるかのようにどんな所でも喋り散らしている。今回の補習だって目的はお喋りではないかと思うほどだ。
「じゃあ、これで最後だから……ね?」
「もう……ほんと最後よ」
まあ、涼しくなるかどうかは内容次第だが、ちょうど勉強に飽きたところだ。女子達の怪談を聞くとしよう。
ワイシャツの襟元をフワフワ仰ぎながら、背もたれに深く寄りかかった。聞き耳を立て、全ての準備が整ったところ、君島の語りがスタートした。
「その人はね、私達と同じ、補習を受ける為に休みの学校に来ていたんだって。最初は何人かクラスメートが居たんだけど、先に補習が終わって帰っちゃって、今残っているのは自分一人だけ。自分も早く終わらせて帰りたかったんだけど、なかなか終わらなくて気付けば夕方になってたの。先生も帰ると言って先に教室から出ていったんだけど、自分一人になった教室に妙な視線を感じたんだって。でも辺りを見回しても自分以外誰もいるわけない。友達が自分を様子見に来たわけでもなく、もちろん廊下にだって人っ子一人もいない。校庭で部活動をしている人の声も聞こえなくなっていて、時が止まったかのように静寂が訪れたの」
君島が意図して言葉を切ったのがわかった。
「ああもう、何か出てきそうじゃない」
村田が嫌そうに小さく悲鳴を上げた。今度は本気で怖がっているようで、声が少し震えていた。
「ふふ、これからが本番だからね」
君島は悪戯に笑いながら、続きを話し始めた。
「誰もいないってのはわかってる――でも、見られているように感じる。その人は急いで帰り支度をして、逃げるように教室から出ようとするの。だけど……得体の知れない視線はその人の真後ろから向けられていると、直感した。すぐ傍にいる、振り向けば死ぬかも知れない――と悟った」
「ねえ、ちょっと待って」
村田が遮るように口をはさんだ。
今度は何だ、と度々語りが中断されたことで、少し苛立った。
「そういう話って必ず振り向いてしまうオチだよね? 最初振り向いた時は誰もいないけど、安心して向き直った時には目の前にいるってパターン――」
「ああ――確かにそういうのもあるけど、私のは全然違うし。まあまあ、とにかく最後まで話を聞いてちょうだい」
……だとよ、村田さん。静かに聞いてろよ。
腕を組み直し、再び深く腰かけた。
「その人はね、メイの言うように振り向いたら終わりだと思ったの。振り向かなければ幽霊を視ることもないし、死ぬこともない。冷静を保ちながら、その人は教室の前側から廊下に出ることにしたの。何があろうと絶対に振り向かない、前だけを見つめながら進むと心に誓って……」
「それで?」
「うん、それでね……その人はなんとか振り返ることもなく、幽霊の居る教室を抜け出すことに成功したみたい」
「な~んだ、生還しちゃう話か。もっと変なことがあるのかと思って身構えてたのに、損しちゃった」
「まあまあ、でも幽霊も色々考えるみたいでね、どうにかして振り向かせようと色々仕掛けてくるらしいのよ」
「仕掛けるって?」
「例えば何か大きな音を出して思わず振り向かせるように仕向けるとか、知っている人の声を真似て呼び止めるとか。その人は教室を出るまでに肩を叩かれても、不気味な物音にも反応しなかったから生き延びたのね」
「うわ~、そんなことされたら絶対振り向くって」
「だよね~。あ、そういえば振り向くって言ったらさ――」
と――最後はグダグダになって、いつの間にか怪談は終了していた。話は友人のことについての会話にすり替わり、再びの男が立ち入れられない女子トークが展開された。
時計を見れば五時になろうとしている。小休憩と思っていたところ、結構休んでしまっていたようだ。下校のチャイムが鳴れば、ぼちぼち当直の先生が見回りに来るだろう。その前に引き上げた方が無難だ。
広げていたノートや課題のプリントを鞄に入れ、椅子を引きずる音と共に席を立った。
後方では未だに女子トークに勤しんでいるようで、帰るような声も聞かれない。一応、クラスメートとして一言だけ言って帰ったほうがよさそうだ。
「あ、そろそろ下校だけど……」
ごく自然に振り返り、二人のクラスメートの姿を視界に収めた。
しかし……
「ほら振り向いた…………」
「ああ~、あれだけ言って注意してあげたのに…………」
女子達は全く的外れな言葉を返し、無表情で見つめてきた。一体何なんだ、と言葉の意味を考えてドキッとした。さっきの怪談話を言っているようだが、何か意味深な感じがしてならなかった。よく見れば二人の女子はどこか生気が感じられない気もする。虚ろな瞳をピクリとも動かさず、ジッと見つめてくる視線に吸い込まれそうだった。
「前の人は逃げられちゃったけど、今度はバカでよかった~」
「そだね、案外最後は気が抜けちゃうみたいね」
二人は共に口の端でニヤッと笑った。
力の抜けた肩からするりと鞄が落ち、背筋に冷たい汗が流れていくのがわかった。
「フフフ……」
不気味な笑い声がこだました。