デビルズハニー
はちみつの日という事で、一日で書き上げた勢い任せの短編です。
僕の彼女、愛川蜜姫はとにかく可愛い。
甘い栗色をしたふわふわロングの髪は天使の輪が輝いて、くりんとした長い睫毛に縁取られた瞳は極上の飴玉のよう。赤ちゃんみたいな柔肌は真珠の如く艶やかで、形の良い唇は常にぷるんと潤った魅惑の薔薇色。小柄で華奢な愛らしいその身体には一切の無駄な脂肪は無く、上品な猫を連想させる可憐さとしなやかさを兼ね備えている。
まさに絶世の美少女と呼ぶに相応しいそんな彼女を、学校の皆は名前から捩って『ハニープリンセス』と呼んでいる。
そんな『ハニープリンセス』と、容姿成績家庭環境その他諸々が『平凡』の二文字で全て評価出来るこの僕、伊藤和徳が何故付き合っているのかというと、それは一ヶ月ほど前に遡る。ーーえ? ただの惚気になるんじゃないかって? いやいやそんな事は無い。結構大変な話なんだ。だから聞いて欲しい。きっと退屈はさせないからさ。
***
その日も僕はいつもと変わらず、平凡な学生生活を送っていた。
慣れ親しんだ教室で慣れ親しんだ友人達と休み時間をだらだらと満喫する。昨日発売したゲームがどうだったとか今日の放課後はカラオケにでも行こうかとか、そんな他愛のない話をしていた。それは僕達のグループだけではなく、教室のあちこちで何人かが固まって同じような話をしている。そしてその中で一際目立っていたのが、
「ねーねー、愛川さん! 雑誌みたよ! 街角で声かけられたとか凄いよねー!」
「ほんと? やだ、恥ずかしいなあ……でもありがとう」
「一番可愛かったよー! 流石はハニープリンセス!」
「やだやだ、そのあだ名はやめてってば!」
子猫が甘えるような可愛い声が教室に軽く響いて、何人は其方に目を向けた。僕もつい見てしまう。
そこにははしゃぐ女子達に囲まれながら、両頬に手を添えて恥ずかしそうにはにかんでいる愛川さんの姿があった。
「……可愛いよなあ、愛川さん」
「ああいう子を天使っていうんだよなあ」
「可愛すぎるよなあ……」
思わず僕が漏らした呟きに、一緒にいる友達たちも次々に言葉をこぼす。
愛川さんの可愛さは最早人間離れしているとしか思えない。美の女神が人間界に転生してきた姿だと言われたら信じるしかない程に魅力的な彼女をぼんやりと眺める僕。
そんな時、転機は突然訪れた。
放課後になると僕は図書室にいた。決して自習とか立派な事の為じゃない。
何かしらの委員会に入っていなくてはならないというこの学校の規則に則って、僕は図書委員会に所属しているからだ。そして今週は僕が図書室受付の当番なのだ。
といっても、この学校の図書室の使用率は低い。どれくらい低いかというと、不真面目な図書委員が以前一週間丸々受付をさぼったのにも関わらず、苦情が一切寄せられなかったくらいだ。
しかも委員会顧問が「先週誰も図書室の鍵を取りに来なかったけど、当番が風邪でも引いてたのか?」と言ってきて初めて判明した。それくらいに此処の図書室は需要が低い。
(……暇だなあ)
そんなわけで僕は誰もいない図書室で暇を持て余す。本を読んだらいいじゃないかと思うかもしれないけど、僕は読書で時間を潰せるタイプでは無い。図書委員に入ったのもジャンケンで適当に選ばれたからだ。
壁の時計が指し示す時刻は下校時間にはまだ遠い。電池残量が不安にならない程度にスマホでもいじっていようかと思った時、
「うわっ? ……何だ、風か」
突然目の前を紙が飛んできて、驚いた僕はつい声を上げた。そしてカウンターの内側から出て、飛んできた紙を拾い上げる。
それは随分前に全校生徒に向けて配られた、学校内の色々なお知らせが記載されたプリントだった。毎月頭に配られるそれは生徒にとっては大抵どうでもいい内容で、貰った瞬間に不要となる。恐らく前に図書室に来た生徒にとっても不要だったから適当に放置していったのだろう。
飛んできた方向を見れば、窓が少しだけ開いていた。忘れないうちに鍵を閉めてしまおうと思った僕は其方に足を向ける。そして窓を閉めようとして何気なく外を見た。
(あれ? 愛川さんだ……)
今更だが此処は二階で、下の方に見えた小さな栗色の頭を見つけた僕は呟く。
どうやら愛川さんは掃除当番だったらしい。いつも教室に置いてあるゴミ箱を両手で抱えて、よたよたとふらつきながらもゴミ置き場へと向かっている。
転ばないといいけど、と思いながらその様子を何となく見守っているうちに愛川さんは無事に到着して、
「っ、どっこいしょおおっ!!」
非常に逞しい掛け声と共に、あの儚げな細い片足でゴミ置き場のドアをドカッと蹴り開けた。その拍子にスカートがひらりと捲れ上がって、瑞々しい白桃のように柔らかな太股が惜しげもなく晒される。突然の眼福だった。
「あー……重たいったらありゃしない。つーか分別しなさいよ……。誰よ、カップラーメンの容器とか捨ててんの。馬鹿じゃないの?」
端正な顔を不機嫌そうに歪めて何やらぶつぶつ言いながら、ゴミ置き場にゴミ箱の中身を盛大にぶちまけていく愛川さん。
ゴミ箱が空になったのを確認すると再び片足で器用にドアを蹴り閉め、そして喧嘩後の不良のように首をぐるぐると回して、
「……あ」
「ど、どうも……」
一部始終を見ていた僕と目が合った。
お互いに彫刻のように固まること、およそ数秒。先に人間に戻ったのは、
「きゃあああああ!!?」
車に轢かれかけた猫のような悲鳴を上げた愛川さんだった。
***
誰もいない図書室で美少女と二人きり。
まるで純愛小説のワンシーンのようだと何処か他人事のように感じていた僕を現実に引き戻したのは、
「……見たのよ、ね?」
向かい側で顔を真っ赤にしながら僕を睨みつけている愛川さんの声だった。
ばっちり見て聞いてしまった僕が今更その問いにしらを切れるわけもなくて、素直に「……見ました」と頷けば、愛川さんは「うああ……」とこの世の終わりを知ったような呻き声を漏らしながら頭を抱えてうなだれてしまった。
「ええと、その……」
今まで抱いていた印象と遙かに違う愛川さんを突然知ってしまった僕は、何て言ったらいいか分からなくてとりあえず濁った言葉をこぼす。
そんな僕に愛川さんはどう思ったのか知らないが、顔をがばっと上げて勢い良く身を乗り出してきた。
「アンタ、私がこういう奴だって言いふらす!?」
「え、いや、あの」
「言っておくけど誰も信用しないわよ? 皆、私に完璧騙されてるんだから!」
「あの、愛川さん」
「皆から嘘つき呼ばわりされたいなら言いなさいよ! 『愛川蜜姫は猫かぶりだ』って!! 言いふらせるもんなら言いなさいよっ!!」
「落ち着いて、愛川さんっ!!」
今にも飛びかかってきそうな剣幕で怒鳴り始めてしまった愛川さんを落ち着かせるべく、僕は精一杯の大声を出してテーブルを力一杯に叩く。ばんっと予想以上に大きな音を立てて揺れたテーブルが壊れやしなかったかと一瞬不安になったが、この行動は愛川さんを我に返すには充分だったらしい。
愛川さんは丸い肩をびくっと竦ませると、へたり込むようにだけど再び席に着いてくれた。
「……僕は別に、そんな事言いふらす気は無いよ」
「え?」
「だって言いふらしたって誰も得しないし……」
「…………」
そう、もしも僕がこれで『愛川さんって実はキャラ作ってたんだぜ』なんて周囲に言いふらしたって何も得をする事がない。僕が嘘つき呼ばわりされるか、愛川さんが肩身の狭い思いをするだけだ。マイナスな結果しか見えない行動をどうして進んで取る必要があるのだろうか。
それが僕の心からの言い分だったのだが、どうやら愛川さんは信じきれないらしく、普段は大きくまあるい瞳を疑わしげに細めて僕を睨んでいる。まあ今までろくに話した事が無い相手に秘密を知られてしまったのだから、疑心暗鬼になるのも無理は無い。
しかし信用してもらわないとどうしようもない。どうしたものかと僕が内心で首を傾げた時、僕を睨んでいた愛川さんが突然席を立った。
「……見張らせなさい」
「え?」
「アンタの事、信頼していいか判断する。だから今日から私の目の届く範囲にいなさい。分かったわね?」
「え!? いや待って、それって」
「じゃなきゃ、アンタに『恋人になれって図書室に連れ込まれて脅された』って言いふらしてやるわ」
絹のように滑らかで綺麗な栗色の髪をふわりと掻き上げながらそう言い放った愛川さんの目は、本気と書いてマジだった。
学校中のアイドルである愛川さんと、ただのしがない男子生徒Aである僕。どちらの方が周囲からの信頼や発言の影響力があるかなんて言わずもがな。
「……分かった。気が済むまで見張っていいよ」
肩を落として頷いた僕に、愛川さんは花のようににっこりと笑った。
ああ、やっぱりどうしようもなく可愛いなあ。
***
見張る、といっても具体的には何をする気なんだろう。愛川さんとしても僕にべったり付きまとうわけにも行かないだろうし、教室で遠くから眺めてくる程度かな。
そんな暢気な事を考えて帰宅した翌日も僕は普通に登校して授業を受けて、特に変わった事も起きずに昼休みを迎えたので「ああ、やっぱり見張るなんて勢いで言っただけだったんだな」とか思った矢先に事件は起きた。
「あの……伊藤くん。お昼、私と一緒に食べない?」
僕の後ろで、友人が飲んでいたお茶を噎せるのが聞こえた。
慎ましやかな胸の前で恥ずかしそうに指をもじもじと絡めながら、どんなモデルもアイドルも白旗を上げるであろう完璧な上目遣いで僕を見つめているのは、紛れもなく『ハニープリンセス』の愛川さん本人だ。
「迷惑、かな……?」
驚愕で静まり返った教室なんて微塵も気にする様子もなく、愛川さんは不安そうに小首を傾げて僕を見る。
端から見たら愛らしいチワワが懇願しているように見えるだろうし、昨日までの僕だったら同じ事を思っただろう。でも今の僕には分かる。
(『断ったらどうなるか分かってるわよね?』って言ってるね、うん)
つい遠い目になりそうになる、が、断る術が無い僕が笑顔を浮かべて頷けば、愛川さんは不安そうな顔をぱあっと一変させて「良かったあ……!」と薔薇色のマシュマロのような微笑みを浮かべた。そして僕の片腕を見た目はそっと、しかし確実な力を込めながら掴んだ。
「じゃあ、行こう?」
「え? 教室で……」
「ふふ、今日は天気がいいから外が気持ちよさそうだね!」
僕に何も言わせないつもりらしい愛川さんは片手に自分の鞄を提げて、もう片手で僕の腕をしっかと掴んだまま教室を出ていこうとする。
咄嗟に鞄を手に取って引きずられていく僕が最後に見たものは、呆然と僕達を見送るクラスメイト達の姿だった。
***
「あー、お腹空いた」
「…………」
愛川さんに引きずられて着いたのは、図書室だった。
僕の腕を解放した愛川さんはうーんと伸びをして一番近くの席に座る。僕は掛ける言葉を探すのを諦めて、とりあえずドアの鍵を内側から閉めておく。と、がちゃっという音が鳴ったと同時に愛川さんが僕を見た。
え、僕なんか不味い事したのかな。
「……どうしたの?」
「いや、……何で閉めたの?」
「え、だって人が来たら、愛川さんが困るでしょ?」
「……まあ、うん」
そうね、と言って愛川さんは僕から目線を外す。
何か言いたげな愛川さんに僕は首を傾げたけど結局答えは分からなさそうで、このまま立っていても仕方ないから愛川さんの向かい側に腰を下ろした。鞄の中から弁当箱を取り出して蓋を開ければ、冷凍食品と母お手製のおかずが半々くらいに詰められた中身が顔を出す。
ふと愛川さんの方を見れば、可愛らしい大きさの丸い弁当箱に、これまた可愛らしい量で色鮮やかな中身が綺麗に詰められていた。
「美味しそうっていうより可愛いね、愛川さんのお弁当」
「お弁当を可愛いって言われたって嬉しくないわよ」
「そうなの?」
「だってお弁当ってお腹を満たす為にあるのよ? 本当はもっと食べたいわよ」
「じゃあ食べればいいじゃん」
「……アンタ、馬鹿なの? 私が豚の生姜焼きとかハムカツとか肉団子とかをがっつり食べてる光景なんて想像出来る?」
呆れ顔の愛川さんにそう言われた僕はその光景を脳裏に描いてみる。
小さな口で豚の生姜焼きを頬張る愛川さん。可愛い唇を油で光らせながらハムカツをかじる愛川さん。柔らかい頬をハムスターのように膨らませて肉団子を食べる愛川さん。そうして空っぽになったお皿を見つめて自分が食べた量に気付き、体重を気にして少し落ち込む愛川さん。いや、最後は完全に僕の妄想だけど。
「うん、普通に想像出来るよ」
「はあっ!?」
「別に何もおかしくないよ。好きな物を食べてる姿が変なわけないじゃん」
「…………」
僕の発言は、愛川さんにとってはそうとう予想外だったらしい。
ただでさえ大きな目をこれでもかと見開いて口を半開きにしている愛川さんの弁当箱に、僕は自分の弁当箱から箸先で半分に割ったハンバーグを移動させる。
それに気付いて我に返った愛川さんは、目の前の僕とお裾分けされたハンバーグをきょときょとと交互に見た。
「……いいの?」
「お肉、好きなんでしょ? そんな野菜や卵だけじゃ味気無いだろうし」
「……これくらいで信頼したりしないわよ?」
「別にそういうわけじゃないよ。ほら食べよう。昼休みが無くなっちゃう」
警戒する猫の如く睨んでくる愛川さんに苦笑で返して、僕は弁当に箸を付け始める。
そんな僕を観察するように黙って見つめていた愛川さんだったけど、少しすると大人しく自分の弁当を食べ始めた。ちまちまと食べ進めていくその姿はやっぱり可愛い。
「…………」
「…………」
お互いに話す事も無く、無言で弁当を食べていく。壁時計の針が動く音がやたら耳につく。ーーそういえば此処って飲食禁止だった気がする。でも本を読みながら食べているわけじゃないし大丈夫か。というかこれから毎日愛川さんは僕と弁当を食べるつもりなのだろうか。そんなことをしたら逆に周囲に何か言われるんじゃないかな。
そこまで考えて愛川さんの方をちらりと見たら、
(……あ、ハンバーグ)
愛川さんは最後にちょんと残ったハンバーグを丁度食べようとしていた。
弁当用ということに加え、半分ということもあってかなり小さいそれを、愛川さんは少し勿体なさそうに見てから箸先で摘んで、桜貝のように可憐な唇を開けるとぱくっと一口で食べた。そして、
(う、わ……! 可愛い……)
どんな極上のお菓子を並べたって適わないと断言出来るほどに甘く、柔らかく、可愛らしく、愛の天使かと見間違えるくらいに幸せそうに微笑んだ。
しかしその笑顔も一瞬で、愛川さんは僕の視線に気付くとむすっと眉を寄せてしまった。普通の人が向けてきたら苛つくようなそんな表情も、愛川さんがやるとどうにも小動物のように愛らしいから不思議だ。
「何よ? 今更返せとか言わないでよ?」
「そんなケチ臭い事、言わないよ」
「あっそ、じゃあ私は食べ終わったから行くわね」
そう言うと愛川さんはさっさと弁当箱を片付けて図書室を出ていこうとする。が、ふと足を止めると踵を返して僕の傍につかつかと近付き、鞄に手を突っ込むと何かを取り出して、きょとんとしている僕の目の前にそれをどんっと荒々しく置いた。
自販機でよく見かける紅茶のパッケージが張り付いた未開封のペットボトルを、不機嫌そうな顔をした愛川さんは細い顎でくっと指す。
「これ、不味いのに間違えて買ったから飲んでおいて」
「え、いいの?」
「捨てるくらいならアンタに飲まれた方がまだマシよ。ゴミは捨てといてね」
そうして愛川さんは今度こそ図書室を出ていった。
残された僕はまだ余裕があることを壁時計で確認してから弁当の残りをもぐもぐと味わう。冷えた弁当はいつも通りまあまあの美味しさだったけど、
(……あー、もう少し見ていたかったなあ)
愛川さんのあの笑顔を思い出したら、少し美味しく感じた。
因みに愛川さんがくれたペットボトルの紅茶は普通に美味しかった。
***
「おい、どういう事か説明しろよ」
「何でお前が愛川さんに昼飯誘われてんだ?」
教室に戻った僕は薄々予想していた通り、友人達に問いつめられた。
教室内に愛川さんの姿は無い。どうやらまだ帰ってきていないようだった。
「えーと……」
僕を問いつめる友人達以外にも、教室内にいる生徒達は全員僕を見ている。これは下手に言い逃れようとすると墓穴を掘るパターンな気がする。
愛川さんの方で何か言い訳を考えてくれていないだろうか。あんなに堂々と誘ってきたんだから、何かしらの対処法はあると思うのだけど。
そう思っていたら後ろの方でドアが開く音が聞こえた。そして僕に向けられていた視線が一斉に其方を向く。
もしやと思って僕も同じ方向を向けば、レースのハンカチで手を拭きながら教室に入ってくる愛川さんの姿があった。
「……え? 皆、どうしたの?」
「愛川さん、何で伊藤と昼飯行ったのー?」
「もしかして伊藤と付き合ってるとか!?」
「えー!? うっそ、愛川さんって伊藤みたいなのがタイプなの?」
「もっと趣味良いと思ってたよー」
「え、あ、あの、皆……!?」
愛川さん本人の登場にテンションが上がったのか、さっきまで黙って僕を見ていた女子達が好き勝手に騒ぎ始める。
一方の愛川さんは最初はきょとんとしていたが、女子達の言葉や僕を囲む友人達で状況が理解できたらしく、顔色をさっと青白くさせて慌て始めた。あの様子だとどうやら何も言い訳を考えていなかったようだ。
「何か、ちょっと愛川さんのイメージ崩れたかもー」
「……っ!」
一人の女子が笑いながら冗談混じりに吐いた言葉に、愛川さんが一瞬身体を震わせたのが分かった。
それを見た瞬間、思考が真っ白になった僕は咄嗟に口を開いた。
「皆、違うよ」
「え?」
「愛川さん、僕のこの間の小テストの答案を拾ってくれてたんだ。で、あんまりにも酷い点数だったから周りに見られないようにって気遣って、昼休みにわざわざ誘って返してくれたんだ。ほら、これだよ」
そう言って僕は鞄を開けて、皺だらけになっている小テストの答案を取り出して高々と掲げてみせる。
大嫌いな数学が僕に叩きつけた点数は見事な赤色。
それを見たクラスメイト達は数秒黙った後、僕の友人達を切っ掛けに大爆笑を起こしてくれた。
「おま、何だその点数!?」
「悲惨にも程があんだろー!!」
「これは愛川さんが同情するわけだわ!」
笑い転げる友人達に僕は「うるさいな!」と蹴るふりをしたりして、何処かちくちくとしていた教室の空気を冗談一色に変えていく。
ふざけあう僕達を見て他の生徒達も笑ったり、女子達も「何だー」「まあ愛川さんと伊藤はあり得ないよねー」というような声を上げ始めてくれた。どうやら上手く乗り越えられたらしい。
「ごめんね、愛川さん。嫌な思いさせちゃって」
「え、あっ……」
「愛川さーん、明日の買い物の予定決めちゃおうよー!」
「あ、うん……」
その場に立ち尽くしていた愛川さんに声をかけ、また変に怪しまれないように僕はすぐに友人達とのふざけ合いに戻る。
そんな僕に愛川さんは何か言おうとしていたけど、女子達に呼ばれたので其方に行ってしまった。
きっと、お昼を一緒に食べる事はもう無いだろう。
もう少し大きめにハンバーグを分けてあげれば良かった、なんて思った。
***
その日の放課後は霧のような雨が降っていた。
今朝の天気予報では降水確率が半分だった事を思い出しながら、僕はやっぱり誰もいない図書室のカウンターに上半身をだらりと伏せて、下校時刻までただぼんやりと時間を過ごす。
雨の日は何だか眠くなる。このまま寝てしまおうかなと目を瞑り掛けた時、開かずのドアになってもおかしくない図書室のドアががらりと開いた。
「……愛川さん?」
そこに立っていたのは、やっぱり相変わらず誰とも見間違う筈のない可愛さを持つ『ハニープリンセス』の愛川さんだった。
しかし、そのどんな精巧な人形も劣るであろう整った顔には、今にも泣き出しそうで怒り出しそうな複雑な感情がありありと浮かんでいる。そしてその表情のままで、愛川さんはカウンター越しに僕の胸ぐらを乱暴に掴んで引っ張った。
ぐっと息が一瞬詰まったけど、愛川さんの髪からふわりと香った薔薇のような甘い匂いに、些細な息苦しさなんてどうでも良くなった。
「どうしたの、愛川さ……」
「あんな風に庇われたって、私はアンタを直ぐに信頼しないわ!」
間近で怒鳴りつけられて、耳の奥がつんとした。
だけど愛川さんの勢いは止まらない。
滑らかな頬を真っ赤に染めて、煌めく瞳を潤ませて、少しでも乱暴にしたら壊れてしまいそうな華奢な身体を震わせながら大きな声を張り上げる。
「私、ずっと可愛いって言われてきたわ! でもそれだけよ!! 頭が良いわけでも運動が出来るわけでもない! 少しでも見た目のイメージと違う事をしたら幻滅される! 私には見た目しかないのよ!!」
叫びはどんどん涙声になっていく。
僕の胸ぐらを掴む小さな白い手が震えて、遂に愛川さんの双眸から透明な宝石達がぽろぽろと生まれ落ちた。
「アンタだってそうなんでしょ!? さっさと言いなさいよ! 『愛川さんのイメージと違って幻滅した』って言いなさいよ!!」
今までで一番の大声でそう怒鳴った愛川さんはくたりと俯き、迷子になった子鹿のように肩を震わせる。カウンターに点々と出来ていく涙の跡はまるで小鳥の足跡だった。
それを見ていた僕は、すっかり力を失って僕の胸ぐらを握りしめているだけになった愛川さんの両手をそっと包み込む。
そうすると愛川さんは驚いた様子で顔を上げてくれた。涙と鼻水で濡れてしまっているのに、どうしてこんなに可愛いのかな。
「確かに愛川さんの本性は、イメージと違ったよ」
「っ、なら!」
「でも僕はドアを足で開ける愛川さんも、本当はお肉が大好きな愛川さんも、素直にお礼が言えなくて代わりに紅茶をくれる愛川さんも、今こうして癇癪起こしてる愛川さんも、普段の猫かぶりな愛川さんも、本性丸出しの愛川さんも、全部がどうしようもなく可愛いと思ってるよ」
そう言って僕が首を傾げてみせれば、愛川さんはこれでもかと目を見開いて言葉を詰まらせた。
きっと愛川さんのこんな表情は僕以外に見たこと無いんだろうなと場違いな優越感にこっそり浸りながら、僕は乱れてしまっている愛川さんの髪をそっと撫でて整えてあげる。
その序でに濡れた頬から涙を掬ってみると、愛川さんは戸惑うように僕を上目遣いで見てきたので、僕は思わず笑ってしまった。
「だって僕が好きなのは『ハニープリンセス』じゃなくて、愛川さんなんだからさ」
***
ーーさて、以上が僕と愛川さんの馴れ初め話でした。
僕達がこの後どうやって付き合うまでに至ったのかも話そうかなと思ったけど、愛川さんの可愛さをこれ以上話すのは何だか惜しい気がするから、各自脳内補充でお願いしようかな。ーーえ? 何処が大変な話だったかって? いやいや大変だったさ。
だって愛川さんはやっぱり、とんでもなく、いつだって可愛いんだから。
僕の心臓が常に大変だったんだよ。冗談抜きで。
まあそれに関しては今でも、きっとこれからもずっとだから良いんだ。
ーーおっと、愛川さんが来たみたいだ。それじゃ僕はこれで。話を聞いてくれてどうも有り難う。あと僕の話を聞いて愛川さんの事を可愛いと思うのは仕方ないし自由だけど、好きになるのだけはやめてね。これだけは約束だよ。
「ちょっと! デートの時くらいしゃきっと出来ないの?」
「ごめんね。愛川さんが可愛いからついデレデレしちゃうんだ」
「……ばっかじゃないの、ほんと。一回、頭の中診てもらいなさいよ」
甘い見た目と辛辣な中身。
僕の彼女は一口知ったらどんどん癖になる、世界一可愛いお姫様だ。
END.