第四話
翌日、駅前で待ち合わせた樹里に腕を組まれカラオケへ行った。
相手の前でだけフリをすればいいんじゃないか? と、その腕を離そうとすると「どこで誰が見てるかわからないから!」とさらにきつく絡めてくる。
薄暗いカラオケボックスの中にはすでにそいつが待機していた。
茶髪をワックスで後ろに流し、俺同様目つきの悪い男がふんぞり返ってる。
すると、そいつは俺を見るなり姿勢を正して頭を下げてきた。
初めて見る顔だと思ったけど、話を聞くと中学時代に俺がそいつをボコったらしい。全く記憶になかった。
それを知った樹里が唖然としていたけど、諦める約束をして和解。話すと結構いいヤツで、そいつの友達が数人合流し、結局五時間歌い続けた。
「ありがとね、優輝」
すでに時間は二十時半を過ぎている。霧雨がかすかな音を立ててパラついているけど傘を差すほどではない。街灯の光に照らされた雨粒が白っぽく見えた。
樹里は傘を持っていたが差さずに俺と並んで歩いている。隣の家だから送っていく手間も省けて楽だ。
「この一回は高いぞ」
「わかってるよ」
いつもみたいなゆっくりな口調で樹里が笑いながらそう零した。
ふと、俺の左腕に樹里の少しだけしっとりした右腕が絡みつく。お互い霧雨で少し濡れているのだが、その腕が妙に熱く感じてビックリした。
「ねえ、本当につき合っちゃおうか?」
柔らかく微笑む樹里を見て目を疑う。いつもはもっと豪快に笑うのに、今日は雰囲気が違うように見えたのだ。なんだかこう、キラキラした感じ? 雨粒のせいなのかもしれない。
はにかんだようなその表情に思わず目を見張る。すると照れくさそうに樹里が目を泳がせた。
「冗談だろ?」
「冗談に聞こえる?」
再び樹里を見ると、真剣な眼差しをしていて息を飲んだ。
杳子より少し背が高い。こんな時でも思うのはあいつのことだった。
そっとその腕を放し、少し距離を保つと「ふふっ」と小さな笑い声がした。
「冗談だよ。ウチの親、優輝のことよく思ってないしね。そっちの親もそうでしょ?」
スキップをしながら俺の少し前を樹里が歩き始める。
確かに俺の親は樹里をよく思っていない。だけど根はいいやつだし、友達として好きだ。
それに親がどうこう言おうと好きなら反対されてもその思いを貫くだろう。
悪いことをしたような気がして、それ以上何も話せなかった。そしてそれをわかったのか樹里もひと言も話さなかった。
雨音が妙に耳につく夜だった。
**
その日の二十二時。
樹里と一緒にいるところを杳子に、そして拓哉にも見られていたことを知った。
そして、もう眠れるから今後は電話をしてこなくていいと、杳子がまくし立てるように早口で言う。
『毎日わたしのほうが先に寝てるし、必要ないでしょ?』
『――お似合いだったよ』
――必要、ない。
そうだよな。もう杳子は大丈夫だって思ってた。俺なんか必要ないよな。
わかってたよ。そんなこと。だけど言葉にされると、やっぱり少しだけ切ないよ。
早々に電話を切ろうとする杳子を引きとめ、今日だけつき合えと言うと素直に応じた。
そう言った杳子の声が少し震えているように聞こえたのは俺の自惚れだろう。
いや、本当に震えていたとしたら俺を怖がっている。それしかない。
樹里のことは弁解するつもりはなかった。だって俺に女がいたって杳子には全く関係ないのだから。
俺のことなんてなんとも思っていない。弁解するだけ虚しくなるはず。
これが最後の電話になる。
そう思ったら話したいことが次から次へとあふれ出してきた。
小学生の頃、杳子の家でよく遊んだ思い出。オヤツにはよくおばさん特製のコロッケが出てきた。
あれが大好きで出てくるたびにたくさん食べた。
前日のおかずの残りのコロッケも俺がいつももらってた。
俺が遊びに行った時、すでにオヤツ代わりのコロッケが無くなってた時は本気で悲しかった。
おばさんが「また作るからね」と頭を撫でてくれたけど、食べたくて唇を噛みしめていたら杳子に手招きをされた。
そしておばさんがキッチンに消えた間に「優くんにあげる。ママには内緒だよ」と、テーブルの下からコロッケが一個乗ったお皿を取り出したのだ。
杳子も大好きなはずなのに、自分の分を俺にくれた。
うれしくて、うなずきながら急いで食べた。杳子は笑ってそれを見ていた。
ここの家は暖かいって小さいながらに思っていた。だから俺は小埜家のみんなが大好きだった。
そんな話をすると、杳子は小さく笑った。
『そんなの覚えてない』
杳子にとってはその程度のことかもしれないけど、俺は本当にうれしかったんだ。
同じ家なのに全然違う。いつ帰っても誰もいない冷ややかな俺の家とは大違いだった。
コロッケだってそうだ。家の食卓に並ぶ買ってきたものより杳子の家のコロッケはいびつな形だったけど、母親の手作りなのがうらやましかった。そして何よりおいしかった。
そんなことは恥ずかしくて言えないけど、感謝の気持ちは今でも忘れていない。この家の家族になりたい、本気でそう思っていたんだ。
きっとその頃から、俺は杳子が気になっていた。
スマホの向こうが無音になる。杳子の反応がなくなった。
もう話すこともないだろう。
よく眠れるように、祈るような気持ちで眠りの歌を小さく歌う。音痴だけど許してくれよと心の中で思いながら。
「おやすみ、杳子」
返事が戻ってこないことはわかっている。
俺の役目はこれで終わり。
杳子が眠れればそれでいい。もう順平のために流す涙はないと思っていいはずだ。
そうじゃないと、俺は――
喉元からこみ上げてくるような何かを一度だけ飲み込む。それなのに。
「好きだ」
溢れ出した思いが零れ落ちる。
伝わっていないとわかっていても、なかったことにするようにすぐに通話を切った。
口にしたらだめだと思っていたのに、つい出てしまったその言葉。
そうした時点で誤魔化せなくなる、自分の心に嘘をつけなくなるのはわかっていたのに。
一番のばかは、俺だ。