笛の音
「己は君たちを遠いところへ連れて行ってあげられるだろう。どう足掻こうが、君たちは己についてくる――なに、無理矢理ではないさ。君たち自身の意思で、そう決めるんだ、己の意思はそこにはない」
笛吹き男は村の子供たちにそういった。
小麦が重たげに穂を垂れる頃だった。黄金色の大地が広がっていく時だった。
子供たちの間で囁かれる男の言葉。それを知らない者はもう誰一人としていない。
彼らの両親が男との約束を破ったことも、男がそれに怒り「大切なものを奪う」と叫んだことも既に知られている事実だった。
男は言った。
どう足掻こうが、君たちは己についていくだろう、と。
このまま村にいる時とは違う道が目の前に開けるから、それを求めて保護されている圏内から抜け出そうとするだろうから。
少女は知っている。子供たちのほとんどがここから出て、新しい世界に向けて足を踏み出すことを。ちっぽけだった行動範囲が、遥か遠くまで広がっていく未来のことを。
しかし彼女がたくさんの可能性のある彼らの未来を思い描くことは出来ても、自分の、彼女自身のそれを思うことは出来なかった。彼女にとって、村を出ることは到底叶わないことで、出来たとしても確率はなきに等しい。
そのことを承知していたからだった。
少女はそっと息を吐く。
生暖かい吐息は空気にとけて、消えていく。
人は来なかった。用がない限り誰も来ないだろうし、風景は何も変わらない。
少女は小麦畑の端を移動していた。やがて止まり、そこを眺めた。
この時季、この場所が彼女のお気に入りの場所だった。
眺めながら、もし自分に縛りがなければどうしただろうかと考える。
もし自分に、歩いていける自由があればどうしただろうかと考える。
不自由な足に旅は出来ない。足手まといは自由になれない。
悲しいことに、少女には走り回る自分を想像することが出来なかった。
何故なのだろう、と考える。
外を駆け回る少年たちはたくさんいる。
外を駆け回る少女たちも多くいる。
その中に自分を溶け込ませることはできないのだろうか、と考えて気付く。
自分の夢はこんな近くにあった。
「悩み事?」
不意に、声がした。
少女の隣人で、少女と同じような境遇を持った、年上の少女。
彼女もまた、自由がない一人だった。
「リリさん」
彼女は、リリという名の少女はその声の方を向いて、口だけでにこりと笑った。
目は、笑わない。いや、彼女は目で笑えない。
杖をつきながら、近づいてきた。足元をゆっくりと確かめながら、歩く。
「あの男のことを考えていたの?」
何でこっちの考えていることを当ててしまうのだろうか。
もしかしたら、彼女には色や形を見る目を犠牲にして心を読む目を授かったのかもしれない、と思うことがある。
「最近、ずっと思っていない?時間があと少ししかないから」
そう、笛吹き男が村を出る気のある子供たちに集まるように言った日時は明後日の、深夜だった。
その日はもう近い。少女は焦っていたのだ。
自分が置いていかれることに、同じ年の子供たちに、何かの先を越されてしまうことに。
リリは小さく微笑んだ。
「焦っているのね」
そして、こう言った。
「大丈夫、時間はたっぷりあるわ――あなたが十分に考えられるくらいは」
*
リリはそう言ったが、少女にとってそれはあっという間だった。
その日はやってきてしまった。
大人たちは、子供たちがそわそわしているのにも気付かない。
傍目にはいつも通りの毎日が始まり、終わる。
しかし少女には一つだけ、違うことがあった。
あの小麦畑で、笛吹き男に会ったのだ。
大人たちに追い払われ、少女を含む子供たちに村を出る話を持ちかけて以来だった。
「共に来るか?おまえはお前自身の新しい世界を見れる」
断定する言い方だった。少女は何か言わなければと思いながらも何も言えなかった。
「……無理にではないが」
この男は知っていたのだ、と思う。
自分の視界から、見た目が同じな騒々しい同年代の少年少女たちがいなくなること。それが意外にも心を空虚にさせてしまうと。
目をきらきらさせる子供の中で少しばかり悲しくなった自分のことを。
「たかが村から出るくらい、じゃない」
悔し紛れに言い返すと、それでも新しい世界には変わりない、と薄く笑われた。
確かに、外は新しい世界だった。
村よりも光に溢れているという街を、出来れば見てみたいとは思う。
それは十分に魅力的だった。
しかし自分の答えもまた決まっていたのだと少女は思う。
その表情を見て何かを理解したのか、笛吹き男は最後に言った。
「己は、――」
*
「よかったの、ついていかなくて」
彼らの背を見ながら、リリは問う。
「……」
希望に満ち溢れた子どもたちは遠くに消えていく。
その顔がリリや少女を振り返らないのは、少女たちの姿が見えないからだった。
「あなたは、もう自由になれるのよ。生きていた頃のようにはならないから」
言外に立てることを示されるが、少女はかぶりを振った。
少女の脳裏に浮かぶのは、およそ五十年前のこと。
それを覚えているものは、何も言えない少女たちと、かつては少年だったあの笛吹き男だけなのだろう。
村人たちの中で知る者はもういない。
少女はあの日のことを思い返す。
村を出て、険しい山道を登っていた。
当時は手すりなんてものもなかったし、道の整備もされていない危険な道だったが、そこしか通れるところはなかった。
少女は足が悪いのを無理して少年少女についてきた。
一人の、幼馴染の少年に手をひかれながら、集団の中で必死に登った。
同じように、最後尾で頑張っているであろう年上の少女を時折振り返る。
『リリさん、大丈夫?』
『……気にしないで、あなたは自分のことを考えて』
リリもそこにいた。彼女は目が見えなかった。
足取りはおぼつかない。それでも、外の世界が見えなくとも、矢張り彼女も自由になりたかったのだろう。何も見えない目であるというのに、そこには強い意思の光があったように、少女には感じられた。
大丈夫。わたしは自由になるから。
彼女は言ったが、その瞬間。
大きく足を踏み外し、足元にあった地面が突如大きくひび割れた。
あまりに突然の出来事で、それに反応できたのは丁度後ろを向いていた少女くらいで。
盲目の少女は周りが見えない状況の中で、必死に手を伸ばした。
足が不自由な少女もまた、その手をつかもうとして、その時つながれていた少年の手が離れたのを感じた。
走れなかった。
しかし動いた。彼女を助けるために、少女は彼女を追った。
空に浮いたのを感じる。そのまま落ちて、ついに彼女の手をつかんだ時。
それが少女の、生きている時の最後の記憶だ。
「同じことが、繰り返されているわね」
リリは夜空を見えない目で眺めながら、言う。
五十年前、そして今。
もしかしたら百年前もそうだったのかもしれない。五十年後もそうなるのかもしれない。
少女にはそのことについては、何も分からない。何故彼が少女を見ることが出来たのか、何故彼が笛吹き男になっているのかも、分からない。
彼女たちは死んだ後、二人で一緒に村に戻った。後に見つけられた本体は、村人たちの手により葬られた。その時、家族たちの泣く姿を少女は見て、家族たちの泣き叫ぶ声をリリは聞いた。
ある意味では自由だったが、それでも二人は村から出なかった。
二人は自由の真の意味を、理解した。
だから仲間だった彼らのその後も知らなかった。
――それなのに。
「彼、だいぶ年とったわね」
何故、この人は分かってしまうのだろう。
あの笛吹き男が、かつて少女の手を引っ張ったあの少年であることに気付くのだろう。
そう思いながら、返答する。
「……そうですね」
迷っているのでしょう、とリリは言った。
確かにそうだった。
結局、出した結論をいつまでも悩み続けている。
自分はあの男に、否、あの少年についていくべきなのか。
話し方や容貌は変わっていたが、あれは確かに彼だった。
しかし、一方で思うのだ。
「でも、もう決めたんです」
「何を?」
彼には彼の道行きが、少女には少女の道行きがそれぞれにある。
だから、その道が少年時代に分かれてしまったなら、彼とはきっと相容れない。
今出会い、彼に少女が見えていたとしても、少女は既に実体として存在しないから。だから、彼が彼の道を歩み終えるまで、少女は待つことにした。
「彼の邪魔はしたくなかったから。わたしは此処にいて、彼をずっと待ってる」
村に居続けたのに特に理由はなかったが、彼女は五十年をかけて、ようやくそこに理由を見出した。それがこの数時間で、少女の決めたこと。
リリは、暫くしてから答えた。
「わたしには、正しいことは言えないわ。でもね、」
いつものように、微笑んだ。
「アメリー、正解は一つではないのよ。わたしたちは、本当の意味で自由なの
だから。あなたは歩こうと思えば歩ける。わたしも、見ようと思えば見れるのかもしれない」
しかしリリでさえも、その場にいない限り二人が交わした言葉を知ることは出来ない。
少女は、アメリーは、黄金に輝く小麦畑の前で、少年が最後に言った言葉を思い返した。
「己は、きっとまた君に会える」
「きっと此処に帰ってくる」
「だから――きっと、待っててくれないか」
昔から、彼が何かしらの好意を持っていることは知っていたし、もちろん少女の方もそうであったから、少女の答えは、決まっていた。
「待ってる。ずっと」
子供たちはもう、見えない。
笛の音も、聞こえない。
知るのは二人の少女と夜空だけ。
彼に何故少女が見えたのか、は謎です。




