第一章 会遭 Ⅲ
「そっちへ行ったぞ!」
息の上がった声で、男が叫んだ。薄汚いぼろを着た、彼の巨体から、碌に手入れをしていない頭髪の毛穴から汗が吹き出て、地面に滴り落ちる。
「わかっているが、あいつ思ったよりもすばしっこい!」
「石弓は? 誰か余ってないのか!」
「もうみんな撃っちまった!」
そんな仲間の声を聞きながら、また別の男も幾分、先の者よりは余裕を持ちながらも表情に疲れを垣間見せていた。
「はぁ、はぁ……」
だが、追いかける側である彼らよりも、追いかけられる側の少女の疲労の方が推してしかるべきであった。特に激しい運動をしたことがない、ハルガリア王家の紋章が入った外套を纏った少女は、肉体的にも、精神的にも限界が近づいていた。
だが、それでも少女は走るのを止めなかった。
「っ!」
しかし、そんな少女の前に、敵の仲間が現れた。咄嗟に、少女は前へ走るのを止め、横手に抜けようとした。だが、そこにも敵の仲間が大きく迂回し、回りこんでいた。
「おっと、こっちも行き止まりだ」
「……」
「でかした」
男の一人が、野太い声でそう云った。雰囲気からして、この男が追跡者たちのリーダー格のようだった。
「さて、イーダ殿下。あなたには死んで貰わねばなりませ……ん?」
慇懃、かつ恭しいその表情を、男はあることに気が付いて、始めに、疑問へ変え、そして次に、怒りに変えて、怒鳴ろうとした。
「おい、待て、こい……」
だが、その怒鳴りは、闖入者によって遮られることになった。
「死ぬのはお前だっ!」
不意に、横手の草むらから、一人の青年が飛び出し、リーダー格の男に切りかかった。黒髪の美青年、レオである。
「なっ!」
その短い、意味の無い音が、男が放った最後の声であった。それはレオの剣が、次の瞬間には男の喉を引き裂いた為であった。男は頸部から凄まじい血雨を降らせながら、物言わぬ身体となって、地面に倒れた。レオはそれを一瞥することもなく、少女と他の男たちの間に、少女を守るように割って入った。
「何だこいつ!?」
リーダーの死に、動揺する男たちはそういいながらもレオと戦おうと武器を構えた。だが、その時既に別方向からユルギスら、他のリヴォニア人が男たちに襲い掛かってきた。
「イーダ王女を守れ!」
レオの号令に忠実に、場に躍り出たリヴォニア人は相手を切り伏せることよりも、男たちと少女の間に割って入ることを優先し、円陣を組むことに成功した。
「糞、こんなガキ共にっ!」
見るからに二十にも届いていないレオたちにまんまと円陣を組まれた男たちの一人が、苦々しくそう口にした。それに答えたのはユルギスであった。
「ふん、我々リヴォニア人は十二で戦に出る。既にいくつもの戦場を経験している我々がお前らのような山賊崩れに負けるものか」
「これで王女は安全だ。目の前の敵を倒せ!」
ユルギスの台詞に続いて、レオがそう号令を掛けた。円陣の中央に王女を置いたレオたちは味方が誰も倒れなければ、王女の安全にさほど気を使わなくとも良い状況になっていた。
そこから先の戦いは一方的であった。元来、戦闘民族と自他に認めるリヴォニア人と、もともと武器を持たないような人間をいたぶることを生業にしている男たちとの戦力差は歴然であった。数では男たちが優勢なはずではあったが、その数の差も、三十秒もしない内に逆転され、最終的に一分足らずで、男たちは全員、戦闘能力を奪われた。男たちが、ハルガリアの護衛騎士を倒すことができたのは、禁じ手ともいえる石弓のおかげに過ぎなかったのだ。
「倒れている奴で生きている奴を探せ。今回の一件の首謀者を吐かせる」
短く、あっけなかった戦闘の後に、レオはユルギスたちにそう命じて、レオは自分たちが守った少女へ話かけた。
「……イーダ王女、お怪我はありませんでしたか?」
「…………」
だが、少女はフードから、困ったような、それでいて少し焦ったような表情を浮かべるだけで、終止無言であった。
しかし、それでも、レオはそのことを不審に思うでもなく、むしろ、得心がいったように小さく笑った。
「やっぱりな……」
レオがそう小さく云った、その時、リヴォニア人の一人が警告を発した。
「殿下危ない!」
レオが声のした方を向くと、血まみれになって倒れていた男の一人が、最後の気力を振り絞ってレオに向かって飛び掛ろうとするところであった。
「ちっ」
レオが舌打ちをして、少女を庇うようにしながら、再び剣に手を掛け、迎撃しようとしたその時、一本の短剣が高速で飛来し、男の頸の後部に鋭く突き刺さった。
「かっ……」
男が、完全に絶命するのに続いて、レオやリヴォニア人たちが短剣の飛来した方向を見ると、そこには、安全の為に林に入る前に置いて来た筈の、フードを被った異教の侍女が居たのだった。
「はぁ……ハルガリアの侍女って凄いなぁ……」
リヴォニア人たちがその武技に感嘆の声を上げるのを耳にしながら、レオは、彼らリヴォニア人が驚く事を云ってのけた。
「イーダ王女、危ないからこちらへはいらっしゃらないようにいいましたよね?」
レオがそう告げた相手は、リヴォニア人たちが侍女だと思っていた少女に向けてであった。レオの言葉に、リヴォニア人はもちろん、少女の方も一瞬だけ幾分驚いたように身を固くした。だが、直ぐに
「……私がイーダ王女とどうしてわかったのでしょうか?」
そう云って、外套のを脱ぎ捨てた。そこには品と質が共に高い衣服と、何よりも”月明かりのような”銀髪があり、それが、侍女だと名乗った少女こそ、本当のイーダ王女であった事の何よりの証であった。
「イーダ王女は長い銀髪が美しい女性だという。あなたはなるべく隠そうとしていたが外套から銀の髪が少し覗いた」
レオがイーダの髪を見つめながらそう云うと、イーダは続けて尋ねた。
「それだけかしら?」
「あなたは侍女だといいながら、ルブレシア語が堪能で、こちらは王女であるにも関わらず、私がルブレシア語で話掛けても、雰囲気で意味は解しているようではあっても、喋ることはしなかった。と、云うより、ルブレシア語を喋れないようだった。余りに王女と侍女の教養がちぐはぐだ」
「なるほど……」
ユルギスたちは自分の主の観察眼に敬服したように声を漏らした。
「そして、こちらの女性は、森の中、目立つ王家の外套を纏い逃げていた。脱げばいいのにも関わらず、だ。そして――」
「そして?」
一度そこで言葉を区切ったレオにイーダが促すように問うと、レオはイーダが倒した男に突き刺さった短剣を示して続けた。
「そして、王女は多才で武芸にも秀でているという。ついでに、この短剣にも王家の紋が刻まれている」
「さすがレオ殿下。我が父からあなたの神童ぶりは耳にしていましたが、まさかこれほどまでの慧眼の持ち主とは思いもよりませんでした」
イーダの心からの賞賛を聞いて、レオはもちろん、悪い気はしなかった。だが、一つだけどうしても聞かねばならなかったことを思い出し、レオは表情と声を若干引き締めた。
「一つ聞いてよろしいか、イーダ王女」
「何かしら、レオ殿下」
レオの雰囲気が少し変わったのを感じとって、イーダも表情を少しだけ固くした。
「なぜあなたは嘘をついた?」
イーダはその問いに答える前に、自身の身代わりになってくれた少女――侍女エルネアの方へと静かに歩みより、その小さな肩を抱いた。
「だって私が王女とわかれば、あなたたちが私の身の安全を優先して、この子を助けに行ってくれないと思ったのだもの」
「……」
イーダの言葉に、レオやリヴォニア人はむっつりと黙りこくってしまったので、イーダは申し訳なさそうにレオに尋ねた。
「騙されて気を悪くしてしまったかしら?」
「いや、ただ……」
レオがイーダに答えようとしたその時、ユルギスが主の声を遮ってまで、イーダに対して大きな声を張り上げた。
「イーダ殿下、我々を見くびらないで貰いたい!」
そう云うユルギスをレオが宥めた。イーダ自身はまったくそんな様子はなかったが、ルブレシア語が聞き取れない侍女の少女の方は、ユルギスの大きな声に怯えたようでもあったからであった。
「?」
イーダはユルギスの怒りがどういうことか、いまひとつ理解できず、疑問符を顔に浮かべていた。そんなイーダにレオはユルギスほどではないないにしても、それなりに強い口調で云った。それはリヴォニア人としての誇りがユルギスを、レオをそうさせたのであっいた。
「つまり、例え王族ではないとしても、我々が困っている女子を見捨てると思うのか、ということだ」
「いいえ、今はそうは思わないわ」
レオたちリヴォニア人の心中を理解したイーダがそう、僅かな曇りもなくはっきりと口にしたのを聞いて、リヴォニア人たちは表情を柔らかくした。レオも、引き締めた表情を緩め、穏やかな笑みを浮かべた。それは、とても良い笑顔で、人を惹きつける何かが、間違いなくあった。イーダも、その笑顔に惹かれ、無意識のうちに右手を差し出していた。そして、そんな自分に少しだけ驚きながらも、次の言葉を自然のうちに紡いだ。
「よろしければ、レオと呼んでいいかしら?」
レオはイーダの白く、滑々とした手を握り締め、朗らかに答えた。
「イーダと呼ばして貰えるなら」
レオの方も、侍女を見捨てるではなく、最後には自ら救おうと林の中まで追ってきた、異教の美しい姫との出会いに運命的なものを感じざるを得なかったのだった。
運命の歯車が、かちり、と絡み合い、動き出した。
以上、第一章 会遭でした。いかがでしたでしょうか?
次は第二章、騎士試合です。
第三章からは更新ゆっりめの予定です^ ^