第四章 玉座の選定Ⅸ
それから六日経った日の事である。ブリュンヒルトがルブリンに戻ったことを聞くとレオとイーダは二人して大聖堂のブリュンヒルトを訪れた。レオとイーダは事態を把握するまで直接会うことを避けるようにしていたから、これはかなり久しぶりの会合であった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、お話を伺いたいのですが」
レオが開口一番に云うとブリュンヒルトはにこやかに笑いながら応じた。
「ええ。もちろん構わないが」
「父上とどんな話をなさってきたのですか」
「お二人の結婚についてよ」
ブリュンヒルトがあっけらかんとして答えるので、レオとイーダはどう話を続ければいいのかわからず困惑した。少なくとも、二人にとって無条件に非難するようなことではないが、自分たちに無断で進められたという点に関しては不満もあったのである。
「ゼリグ王はほとんど無条件でご結婚を認めたわ。と、云っても今はルブレシアもまだごたついているし、しばらくは婚約という形になるけれど」
無言の二人が口を開く前に、ブリュンヒルトは穏やかな口調で、しかし主導権を握るようにしっかりとした口調で畳み掛けた。
「あの……ブリュンヒルト様」
これは、優しい眼差しを持ちながらも、どこか男勝りな覇気を纏った、イーダらしくないか細い声だった。
「何かしら、イーダ殿下」
「このような話、父が認めるわけがありません」
イーダの脳裏に思い浮かぶのは、ハルガリアの父王、ヤノーシェのことだった。野心家であるヤノーシェが、ルブレシアとリヴォニアの同君連合を喜ぶ筈もなかった。ルブレシアは小国で、リヴォニアは中堅の軍事国家であり、単独での力はハルガリアに大きく劣る。しかし、ルブレシアとリヴォニアが連合すれば人口五百万人の大国が誕生することになる。そのようなことを、ヤノーシェが認めるとは思えなかったのである。
「ヤノーシェ王の意向が、あなたにはそんなに大切かしら?」
イーダの言葉は、半ば、ブリュンヒルトがいつものように誰かを――ここでは父ヤノーシェを説得してくれることを期待してのことだった。しかし、ブリュンヒルトは母親のような厳しさを垣間見せた。
予想外のブリュンヒルトの言葉に、イーダが黙り込むと、レオが代わって口を開こうとしたが、ブリュンヒルトはそれを片手で制止ながら続けた。
「あなたはまもなく、このルブレシアの女王となるのよ? ルブレシアの女王としてこの結婚は最良の選択肢だと思うけれど」
ハルガリアではなく、ルブレシアの国益を重視するとすれば、ハルガリアとの同盟よりもリヴォニアとの同盟を重視することは、確かに間違いではなかった。
「…………」
しかし、祖国と父からリヴォニアとレオに乗り換える、ということに対する抵抗感はそうそう消えるものではなく、イーダはそれに答えることができなかった。
「さらにいえば、そんなことよりも、あなた個人として、この結婚をどうしたいのか、それに尽きるわ」
「私は……」
ブリュンヒルトの問いに、イーダはひねり出すように声を発っしようとして、それでもその声が静かに萎んでいきそうになった。だが、その声が完全に消え入る前に、レオの強い言葉が空気を揺らした。
「俺はイーダと結婚したい。嘘偽りない俺の気持ちだ。イーダ」
初めてレオは自分の気持ちを明白に口にした。それは強い追い風となってイーダの気持ちと決心を後押しし、イーダの胸にあった強い迷いをも吹き消した。
「私も……私もレオと結婚したい」
それは、レオのような力強さのある声ではなかった。いつもの凛然としたイーダの声でもなかった。嬉しさで喜びで泣き出しそうな女の子の声だった。
「イーダ……」
レオとイーダが、見詰め合った。二人の瞳は互いのそれだけをしっかりと写している。そんな様子を見て、ブリュンヒルトは苦笑しながら告げた。
「と、まぁ、その辺の事は二人っきりのときにやってもらうとして……」
「「――っ」」
レオとイーダはより顔を真っ赤にしながら視線をすばやくブリュンヒルトに戻した。最も、それでも視界の隅にある互いを気にしていることは明らかであったが、ブリュンヒルトはそれには触れないで話を続けた。
「ルブレシアがリヴォニアに出した条件である貴族たちの権益の尊重、ルブレシアの併合禁止、キリシア教徒の権利の尊重、帝国との講和、レオ殿下即位後のイーダ殿下のリヴォニアにおける統治権、リヴォニア王位の女子継承を認めること。これら全てをゼリグ王は承諾したけれど、レオ殿下の方は依存ないかしら?」
「問題ない」
貴族たちの権益の尊重とルブレシアの併合の禁止、キリシア教徒の権利の尊重は、最も基本的な条件であり、異論の挟みようがない。
帝国との講和の仲介は、未だに帝国との正式な講和が成立しないルブレシアにリヴォニアの国力を用いて講和を仲介して欲しいという条件であった。
女子継承を認める、という条項の意味は次のようなものである。それまでリヴォニアには、キリシア諸国のように女子に王位継承権を認めていなかったが、この結婚を機に認めるようにという条項であった。この条項が意味することは、レオがリヴォニアの王となりイーダよりも先に死んだ場合、その後をイーダが継承すること可能とするということである。レオにルブレシアに対する権利を認める以上、反対にイーダにもリヴォニアに対する一連の権利を認めよ、ということである。レオとしては、これら全てに異論はなかった。
「ゼリグ王の出した条件はルブレシア領内の異教の保護、リヴォニアの氏族会議とルブレシアの貴族議会の合併。おそらく、後者についてはまた貴族議会で少々議論しなくてはならないでしょうけれど」
ルブレシア領内の異教の保護については、リヴォニアが異教である以上、これを否定する道理はまずなかった。
後者の氏族会議と貴族会議の合併の狙いは、ルブレシアとリヴォニアの王だけではなくその下にある議会をも一つにしようという試みであり、ルブレシアとブリュンヒルトの提案よりも一歩踏み込んだものになっている。
「そして最後が……レオ殿下とその後継者の多重結婚の承諾」
「え゛っ?」
その声を出したのは、イーダではなく、レオであった。
「レオ……」
どうしよう、という風にレオの名前を呟いたイーダだったが、明らかに不安そうで、否定したそうな顔をした。
「ブリュンヒルト、それは不味いんじゃないのか……?」
レオがそういうのにも根拠があった。イーダにそんな思いをさせたくないと思いだけではなかった。キリシア教は多重結婚を禁止しているのである。
「リヴォニアを繋ぎとめるのは血の繋がり。それをないがしろにはできないのは、あなたもわかっているのではなくて?」
同じ騎馬民族から建国された国家とは言え、ハルガリアとリヴォニアはそのあり方が大きくことなる。中央集権が進んだハルガリアと違い、リヴォニアは未だに氏族制度が多く残っている。その氏族を抑えるための手段として結婚という名の下に人質を要求する多重結婚の制度があるのである。実際、ゼリグはレオの母以外にはそれらの妻に人質以上のものを求めなかった。もっとも、それが人質たちの幸福であるかどうかは別の問題ではあったが。
「だが……」
ブリュンヒルトの言葉は正しかった為にレオは反論に詰まった。多重結婚の制度は、人質の制度としてリヴォニア王家の維持に貢献しているだけではなかった。妻を献上する氏族は人質を王家に差し出すという支配を受ける一方で、自分の氏族に連なる王が誕生するかもしれないというメリットを得るのである。多重結婚は、このようにリヴォニアの王家と諸部族を二つの面で結びつけるための生命線とも言える糸であった。事実、ゼリグのレオの母に対する一途な態度は、諸氏族に不満を与えてしまった側面があったのである。
「わかりました。その条件を受け容れましょう」
いつになく、イーダが強い口調で云った。それはまるで自分に言い聞かせているようであった。
「イーダ……」
レオが何か声を掛けようとすると、イーダは臣下に見せるような凛とした態度でぴしゃりと言った。
「私はリヴォニア人の夫になるのですわ。ですから、そのしきたりに従うだけです」
「…・・・」
その口調は、言外にこれ以上この話題に触れるな、と云ってるようだったので、レオは黙ることしかできなかった。そんな二人をブリュンヒルトは生暖かい目で見守っていたが、やがて口を開いた。
「話は纏まったわね。とりあえず、ルブリンの議会に最後の了承をもらって、直に婚約の儀式を行いましょう」
「婚約の儀式……」
イーダが嬉しそうな声をあげた。いつもは理知的で並みの男では及びもつかない覇気をもつ蒼い瞳は夢見る乙女のように輝いていた。
そのイーダを見て、レオは愛おしさがより込み上げてきた。だから、ブリュンヒルトがイーダに僅かに羨望の眼差しを向けたことにも気がつかなかった。ブリュンヒルトは直にその眼差しを消した。
「キリシア式と東方信仰式の両方で行いましょう。リヴォニアの神官方も私に同行してルブリンに来てもらっているから、レオも安心して大丈夫よ」
「ありがとうございます」
ブリュンヒルトに礼を述べながらも、レオの頭の中は、銀髪の異教の王女のことで一杯であった。
この三日後、いよいよ婚約の儀が始まる――
玉座の選定はいよいよ次で最後です。
次の話はイーダの即位とレオとイーダの婚約の儀式です。
そして、次章、ルブレシア戦記はついにクライマックスに!