第四章 玉座の選定 Ⅴ
ルブリンからほぼ正確に北西に300kmほど進んだところに位置するエルヒゲンは、人口六万人に達する大都市であり、その規模はルブレシアの王都ルブリンの三倍に達する。経済的にも良く発展し、帝国北部からルブレシアや聖剣騎士団領、あるいは海を越えて魔族たちと交流する為の拠点として巨万の富が集っている。
このエルヒゲンを居城として周辺を統治する勢力こそがエルヒゲン女子修道院である。女子修道院とは言っても、エルヒゲン女子修道院は帝国有数の大諸侯の地位を有している。具体的には、帝国の十七の軍区のうち、第十四軍区のほぼ全土を掌握しているのがエルヒゲン女子修道院なのである。帝国が内乱に突入し、他の軍区がその実態を失う中で、エルヒゲン女子修道院が統治する第十四軍区だけはまとまりを維持しているのだ。
エルヒゲン女子修道院の統治する第十四軍区の人口は八十万人に達し、軍区外に女子修道院の持つ領土を合算すればその勢力の人口は百万人にのぼる。これは女子修道院の勢力が帝国の人口の一割を占めることを意味する。また、聖剣騎士団領の人口が八十万人、ルブレシアの人口が九十万人であることを考えれば、エルヒゲン女子修道院は事実上、独立した国家並みの国力を有するといってよかった。
そのエルヒゲン女子修道院の頂点に君臨する人物は、当然の事ながら女性であった。ワインで染め上げたような暗い紫がかった紅色の髪と、戦場で纏う黒い甲冑から紅紫<マジェンタ>・黒<シュバルツ>と渾名されるその女性の名はアウレリア・カロッサといった。今年で二十四歳になる、まだ若い、長身の美しい女性の統治者である。
エルヒゲンの中央部にある、まさしく城塞そのものとしか言いようのない、エルヒゲン女子修道院の本館でアウレリアは来客を迎えていた。
「久しいな、リィナ殿。先の公会議以来か」
修道女、それも院長を勤める人物とは思えないほど若々しく、男味のある口調で、アウレリアは旧知の人間に起立して挨拶を交わした。
「お久しぶりでございます、院長閣下」
アウレリアを訪れた客は、ブリュンヒルトの腹心のリィナだった。リィナは挨拶と同時に丁寧な動作でアウレリアに頭を下げ、自分とほとんど同年の女性に敬意を表した。
「同い年だし、所詮は私も修道院の院長に過ぎないのだから聖女様付きの聖職者であるリィナ殿がそう頭を下げる必要はないさ」
さばさばとアウレリアがそう言うと、リィナは首を振って静かに答えた。
「いえ、私は書類上は一回の司祭ですから」
そんな堅いリィナの態度にアウレリアは紅紫の髪を掻きながら、取り合えず執務用とは別においてある応接用の机を指し示し、座るように求めた。リィナもこれは受け入れ、しっかりと下座に着席した。それに続いて、アウレリアも椅子に座った。
「それで、わざわざ今日、ここに来られたのは聖女様のお使いかな?」
「はい。ですが、今日、院長にお会いする私はブリュンヒルト様の使者としてだけではありません」
「と、いうとどういうことかな?」
見てもらった方が早い、と言わんばかりにリィナは胸元から一通の封筒を差し出した。大きな胸だなぁ……とアウレリアは思ったが、リィナはそんなアウレリアの様子には気がつきもせずに続けた。
「こちらをご覧ください」
妙に生暖かいその封筒の温度が気になったが、蝋印を見てアウレリアは気持ちを引き締めた。それは聖女のものだけではなく、アウレリアが想像していたよりもずっと巨大な力の象徴がいくつか記されていたからだ。
「ほぅ……奴らも随分と敵を作ったものだな。確かに、ルブレシアのジグスムント王の死去以降、聖剣騎士団が妙な動きをしていることは私の耳にも届いている」
封から文書を取り出し、それを読みながらアウレリアはそう言った。
「はい。ブリュンヒルト様の見立てではここ今月中に戦が始まると考えているようです。それで、その文書の件、いかがでしょうか?」
リィナが問うと、アウレリアは大仰に両手を広げる仕草をしながら答えた。
「いかがも何も、このエルヒゲン女子修道院はキリシア教会と帝国に臣従する諸侯だ。この命令を断る理由がない」
「ですが、同じキリシア教徒と戦うことになってしまいますが、それはエルヒゲンの方針に沿わないのではないのですか?」
アウレリアはその質問を聞くと、双眸に獰猛な鋭い眼光を走らせた。
「私は無益な戦いは好まん。が、そろそろこの修道女の服を纏うのも飽きてきた頃だ」
口調は冗談じみているが、鋭利な眼光はそのままなので、並大抵の人物ならば、縮込みあがりその言葉にどう応えてよいかわからなくなるに違いなかったが、リィナの方も平然と冗談のような軽い調子で返して見せた。
「その黒い修道服も紅紫<マジェンタ>・黒<シュバルツ>の渾名を思わせるぐらい似合っていますよ」
リィナの応えを気に入ったのか、アウレリアはカラカラと豪快に笑った。男勝りなその笑い方を、アウレリアのような美人がすると、違和感が生まれそうなものだったが、実際にはアウレリアに良く似合っていた。
笑いを収めたところで、アウレリアはリィナに尋ねた。
「リィナ殿は私の生まれを聖女様から聞いたことはなかったのか?」
「先代の修道院長に拾われた孤児とだけ伺っていますが……」
何事にも平然と臨むことの多いリィナも、答えの内容が内容だけに、慎重にアウレリアの顔色を伺うようにそれだけを答えた。余計なことは口にしない、というのがこういう場合のリィナの取るいつもの態度なのである。
「ふむ。ならこの際教えておこうか。私はルブレシア人だ」
「名前は帝国風ですが……」
疑問に思ったリィナが尋ねると、アウレリアはリィナから受け取った文書を鍵付きの引き出しにしまう為に席を立った。そして、リィナに背中を向けながら答えた。
「アウレリアは先代院長がつけた名前だ。本当の名前は……とそれは何でも良いか」
「…………」
余計なことを聞いてしまったかな、と思ったリィナは以後、聞き役に徹することを決めた。
「とにかく、私はルブレシアの南部の出身だった。私が九歳の時、ルブレシア南部は第四次聖十字軍のハルガリアや聖剣騎士団とそれを撃退しようとするリヴォニアが戦う戦場になっていた」
アウレリアの表情が見えないことは、表情を読むことに長けているリィナからすればもどかしいところもあった。だが、自分の表情も見られていない、という点では気が楽だった。リィナもまた、幸運とはいえない環境に生まれた。それ故に、同情されることも御免だ、という一方で、下手に気を使われて平然とされるというのもまた腹立たしいことだと知っていたからである。それ故、リィナはこういう時どういう表情を作ればいいのかまだ、わからないのであった。
「私の産まれた町はリヴォニアに占領されたが、異教徒であるリヴォニア軍は食料やその他の物品を徴集するときには適切な料金を払っていたし、軍の規律も良かった」
引き出しに文書を仕舞い込んだ後、アウレリアはそのまま窓の外を眺めやった。そこの窓からは、エルヒゲンの街の主な通りが一望できる。
「だが、町がキリシア教徒の聖剣騎士団によって奪還されたとき、町は地獄絵図となった。私の両親とまだ4歳だった弟は殺された。私は命からがら三日三晩行く宛てもなく走り続けた。途中で何度も聖十字軍の軍隊を見かけたが、私は決して彼らに近づかなかった。私はひたすらにリヴォニアの旗を探した。だが、途中で力尽き、結局は聖十字軍に保護された。この時私を保護したのは幸いなことに聖剣騎士団……ではなく、エルヒゲンだったので、私は親の敵に保護されるという屈辱を避けることができたという訳だ」
この時、アウレリアが通りで買い物をする仲むつまじい親子の姿を見つめていたことを、もちろんリィナは知らなかった。アウレリアがそこで一度、口元に柔らかな笑みを浮かべたことも、同様である。
アウレリアが今一度リィナの方を向いたとき、その顔には深い憎悪が刻まれていたからである。
「私は誰よりも聖剣騎士団の悪行を知っているのだよ。そしてこのエルヒゲンはそのような悪を討つ為に剣を握り締めているのだと、先代の院長が言っておられた」
「…………」
無言のリィナを見て、アウレリアはいつもの調子に戻って、男らしい快活な笑顔を浮かべて明るく言った。
「まぁ、私に任せておいてくれとお偉方には伝えておいてくれ」
「はい、かしこまりました、閣下」
リィナも立ち上がり一礼すると、アウレリアは小さく頷くことで応じた。
「私は今すぐにでも動く。何しろ戦いが始まるまでに勝利の為の仕込みを終わらせておかねばならんのでな」
「はい。それでは失礼します」
そういってリィナはアウレリアの部屋から退出した。
☆ ☆ ☆ ☆
エルヒゲンを去るとき、リィナは一つの考えに行き当たらざるを得なかった。
「ブリュンヒルト様が五年前、エルヒゲンの院長に彼女を推したのはまさかこの時を予期してのことだったのかしら」
すでに四百歳を超えているというブリュンヒルトにとって、五年先を読むということは意図も簡単なことなのだろうか、もしかすると人の人生……五十年か六十年を予期することさえ簡単なのではないか、リィナは全てがブリュンヒルトに対して改めて敬意と共に恐怖を覚えたのであった。
玉座の選定はあと3話になり、その後一応最終章に突入する予定です。
今回初登場のアウレリアですが、後の改稿で序章の審問に登場させようと考えています。