第三章 内乱Ⅶ
「レオはまだ来ないのか」
その疑問は、二、三日前から常にイラノフの胸のうちにあった。イラノフが把握していたのは、レオがリヴォニアを出立した日時と、ルブリンの北と東の30kmの地点に到達していないことだけだった。これはイラノフが配備したリヴォニアから通じる北と東の街道の、斥候網に、レオたちが捕捉されないことから明らかであった。
イラノフの予測では遅くとも今朝にはレオの率いる軍勢を斥候網が捉え、翌日には対峙を迫られるはずであった。
「まぁ、来ないのならばそれに越した事はない」
イラノフの方も、続々と諸侯の兵と傭兵を募っており増強を見込むことができるが、戦闘に長けたリヴォニア軍四千に匹敵する戦力として当てにできるかどうかは微妙なところであった。
「正午から総攻撃を開始する! それまでに食事を済ませ、引き続き休養せよ」
☆ ☆ ☆
イラノフ軍が、再度の総攻撃の準備をしている間、イーダはある布告をルブリン市民へと出した。
「市民に対して、イラノフ軍を攻撃しないように命じて下さい」
このイーダの言葉を聞いた、あるハルガリアの士官は、次のように進言した。
「殿下、せっかくルブリン市民は我らの味方をしてくれているのです、義勇兵を募っては如何でしょうか?」
しかし、この提案はイーダの
「民衆をこれ以上戦争に巻き込むつもりはありません。」
という一言で却下されてしまった。このハルガリア人の士官は、イーダの決定に不満そうな顔をしたが、ハルガリア人であるイーダがルブリン市民に支持されているのは、このような人柄があってこそであった。
「攻撃開始!」
イラノフの自信に満ちた号令が、戦鼓隊に伝わり、空気を震わせる音を響かせる。それに続く、鎧を纏ったルブレシアの歩兵隊の軍歌の音が大地を奮わせる音を響かせる。
イラノフの声に乗った自信は、ルブリンを今日中に落とせるという確信を抱いていたからである。イラノフ軍の戦力は未だに九千以上を数える一方で、イーダ軍のそれは、千五百を切っていた。
既に抑えてある南門と西門から、イラノフ軍は堂々とルブリン市内に突入した。イラノフ軍の将兵は昨夜のルブリン市民の憎悪に対して警戒を示していたが、既にイーダの宣告が広まっていた為に、ほとんど市民たちからの妨害はなく、すぐさま内城壁の攻囲にとりかかった。
「風向きは?」
イラノフは自身が呼び出した後方管理の士官に問いかけた。
「はっ! 北向きでございます」
その返答を聞いたイラノフは、その整った切れ目の視界の端に、自身の髪がなびく方向が北であることを確認した。
「よし、ここに来るまでに農民からかき集めたアレは?」
「用意しています」
イラノフの確認に、士官は間髪を入れずに答えた。
「よし、では、予定通りの位置で燃やせ」
「かしまりました」
イラノフの指示を受けた士官は、一礼してイラノフの元を去って、その指示を実行に移した。
☆ ☆ ☆
「うん? なんだ? 攻城塔の類か?」
城壁から矢を放つイーダ軍の兵士が、何やら二メートル程の台を全面に押し出してきているのを見つけた。
「馬鹿な。城壁は五メートルはあるのだぞ? 無意味だ」
全く持って、その通りであり、イラノフ軍が持ってきた台は、攻城塔としての役割を果すにしては低すぎた。それだけではなく、あまりに防御力に欠ける、骨組みのみの物体で、兵士を矢から守る壁さえなかった。
その台にイラノフ軍の兵士が何かを載せ、火を点ける光景を見ても、イーダ軍の兵士には、これからイラノフ軍が何をするつもりなのか、察することができなかった。
「おい、奴ら、何か燃やしているぞ?」
「城に火を放つつもりか?」
「馬鹿な。城壁は石だぞ? 城内に火矢を放つならともかく、城の外から燃えるものか」
「おい、なんだ! 煙が!」
イラノフ軍が燃やしたモノは、進軍の途中で農家から買い取った藁と家畜の糞であった。狼煙にも用いられるそれを大量に燃やしたのだ。
「視界が!」
立ち上る煙が、緩やかに、だが確実に風によって城壁の方へと立ちこめていき、イーダ軍の兵士たちの視界を塞いだ。
「ごほっごほっ」
「おい! 敵がくるぞ! 矢を討て!」
「だが、この視界の悪さで闇雲に撃ったところで当たるとは思えんぞ!」
このイーダ軍の兵士の考えは正しかった。元々、市中の中央にある内城壁の周囲には建造物も多く、イラノフ軍は密集することができないのだ。密集していない敵に、煙の中闇雲に矢を射ったところで当たるはずもなかった。
「しかし、これでは相手もこちらに近寄れないのではないか?」
イーダ軍の兵士の一人が、そう意見を述べたが、その短慮は彼の首と胴体とを永遠に分離させるという結末を産んだ。城壁を登りきった、イラノフ軍の兵士の一人が、剣を持って一刀の元に切り伏せたのである。
「わざわざ台人の頭よりも高い台で煙を焚いたのだ。煙は基本的に上に行くものだ」
イラノフが不敵に微笑みながらそう独り云った。元々、どこか蔭を感じさせるタイプの美青年であるイラノフのそのような表情は、ある一枚の絵にするに相応しいものであり、それを見た近臣たちを鼓舞した。
「さぁ、城壁にとりつけ! 登り切った先にいるのは敵だ! ただ切り伏せれば良い!」
イラノフのある士官はそのように命令した。それは乱暴だが、的確な命令でもあった。
「糞! 敵はどこだ!」
煙幕のなか、そう叫んだ兵士は、客観的に見て、愚かな人物であった。彼は自らをイーダ軍の兵士であることを告白した上に、居場所までもを教えてしまったのである。
「ぐぁ!」
しばしば戦場ではある個人が武勇に優れているだとか、劣っているだとか、あるいは愚者であるだとか賢者であるだとかではなく、完全なる運命によって生死を決定されてしまうことがあるが、この場合はその法則の例外にあたった。愚かなイーダ軍の兵士の一人である彼は、煙の中でイラノフ軍の兵士が声を元に当たりを付け、手探りに放った一閃によって肩から胸にかけてを切り裂かれてしまったのである。
「城壁の一部で、敵の射撃が沈黙しました。どうやら城壁の一部を味方が占拠したようです」
イラノフはそう報告を受けると、直ちに次の指令を下した。
「消火! 続いて予備兵力を射撃が止んだ部分へ投入せよ!」
南城壁は、もはやイラノフ軍に制圧されつつあった。
☆ ☆ ☆
「南城壁が敵に制圧されつつあります! 南門開門も時間の問題になりつつあります!」
その報告は、イーダの整った美貌を僅かにたじろかせたが、声にその事への動揺を口に出すことを辛うじて避けることができた。
「…………」
「殿下」
ハルガリア人の近衛士官の一人が、イーダの前に進み出た。
「敵の主力の反対側――手薄な北門から脱出なさいませ。今ならば、三百人以上の、秩序ある編隊によって攻囲の一角を崩せるかもしれません。しかし、事態がさらに混乱すればそれさえも困難になるかと」
逃げる、という選択肢は、イーダの勇敢であるという気性にも、味方を見捨てるたくないという優しい性格にも反するものであった。
しかし、イーダには、優れた感性と理性の均衡があり、自身がするべき道が逃亡にあることを認めた。
「ここまでかしらね……」
☆ ☆ ☆
「勝ったな。イーダが逃亡するかもしれぬから、他の城壁を攻撃している軍勢に注意を喚起しておけ」
イラノフがそう命じてから、伝令が出るまでの僅かな間に、イラノフの勝利を覆しかねない報告が、イラノフ軍の本営に飛び込んだ。
「急進! 急進!」
「何事だ」
急進、という言葉を聞いても、イラノフの精神は既に目前にした勝利によって高揚しており、まったく緊張感のない視線を、自身の前に膝まづいた兵士に向けた。
「リヴォニア軍が襲来しました!」
その言葉を聞いて、ますますイラノフは一笑に付した。
「襲来? 襲来がどうしたというのだ。いまやルブリンは我々によって喉元に剣をつき立てられた状態だぞ? 今更、ルブリンから三〇kmのところに来たところでどうということはない」
云いながら、イラノフは暗い色合いの金髪を手でかきあげた。彼自身は気が付いていないが、これは彼が内心で相手を愚かだと思ったときに出る癖であった。この場合、もはやレオが斥候網に引っかかる場所まで進軍したところで、“急進”である事態ではないということが理解できていない部下に向けられた仕草であった。だが、髪をかきあげるために伸ばされたその手は、兵士のさらなる言葉によって思わず静止させられた。
「違います! リヴォニア軍はルブリンの直そば……およそ二kmの地点に展開しています」
「馬鹿な! それではなぜもっと早く斥候網に引っかからなかったのだ!」
イラノフが怒鳴りつけると、兵士は一瞬、恐縮したようにビクいた後に報告を続けた。
「そ、それがリヴォニア軍は北や東からではなく、南から現れました!」
「何?」
イラノフは、すぐさま頭にルブレシア全体の地図を描いた。そして、三十秒ほどの沈黙の後に一つの結論を見出した。
「まさか、大きく迂回して我々の背後に回りこんだのか?」
イラノフのこの声を聞いた、イラノフ派の貴族が、思わず驚嘆の声を漏らした。
「もしそうだとすればなんという神速か」
リヴォニア国境からルブリンまではおよそ直線で二百kmであり、強行軍で進軍しても十日はかかる。もし軽騎兵のみの編隊であれば、五、六日で到達できなくもないが、斥候網にかからぬように迂回すれば、その行軍距離は六百kmにも及ぶことになる。通常の行軍の速度ならば、三十日はかかるであろうがレオは僅か十日程度で、即ち一日に六十km近い進軍を行ったことになる。これは、驚愕に値する偉業であった。戦は速さというレオの軍略を体現した進軍であったといえる。
☆ ☆ ☆
イラノフの予想通り、レオはルブリンのかなり北の地点から弧を描くように大きく迂回してルブリンの南へと進撃した。レオ直属の四千騎自体の行軍速度の速さもむろん尋常ではなかったが、レオが発案し、ユルギスが実行した進軍計画がほぼ完璧に成功したということが、大きかった。彼らが進軍中、食と休息を各ことはなかったし、戦闘を行わなければならなかったのは、一度のみであったが、かれらは五百余りのイラノフ派貴族の軍勢を一兵も損なうことなく2時間の戦闘で撃破して見せた。
このように、順調にルブリンまで兵を進めつつあったリヴォニア軍の中から、ルブリンを見据えて、一つの声がもれた。
「あの煙はなんだ!」
その恐怖が混じった声の主は、意外なことにレオであった。
レオが、ルブリンの南に姿を現したとき、ルブリンからは煙が立ち昇っていた。これは、イラノフの例の作戦によって発生していたものだが、レオたちにはルブリンが陥落しているようにも見えるのである。
「まさか、僅かに遅かったのか」
「殿下! そのような短慮はあなたらしくない」
早計に結論を導いたレオを、ユルギスがたしなめると、レオは落ち着こうと掌を額にあて、一呼吸してから、ユルギスの正しさを認めた。
「そうだったな」
そして、もう一度、肺に空気を吸い込み、吐き出すときには、再びいつもの覇気に満ちたレオの声が発せられた。
「だが、事態が急を要するのは恐らく間違いないだろう。全軍、今まで以上の速度を持ってルブリンへ突入せよ!」
リヴォニアの誉れ高い軽騎兵四千が、馬蹄を轟かせてルブリンへと駆けだした。
☆ ☆ ☆
「どうしますか、閣下!」
「閣下!」
部下たちの焦りの声の中で、イラノフは、どのようにすればリヴォニア軍を迎撃できるかについて思考し、一つの対策を思い立った。
「城壁だ! すべての外城壁の門を閉ざせ! リヴォニア軍は進軍速度から間違いなく軽騎兵のみの編隊だ! 城壁さえ閉じてしまえば何もできぬ!」
「はっ、ただちに!」
答える兵士の背を見送る暇もなく、イラノフはさらに命じた。
「後方の兵を外城壁を守らせろ! 他の城壁の軍勢にも外城壁を閉じるように命令を下せ!」
イラノフの命令は、迅速に実行に移されつつあった。複数の兵士が、城門を閉じようとからくりの輪を回していた。
「急げ! 門を閉じるぞ!」
彼らの中でもっとも上位と思われる兵士が、そう告げると、兵士たちは力を合わせ、輪を回し始めた。
「よし、タイミングを合わせるぞ! 一、二、さ……」
彼の声は、そこで途切れることになった。背後から喉を切り裂かれた彼がこれ以上声を発することは、地上の摂理に反しているから、当然のことであった。
そして、その兵士の背後から、七人ほどの黒装束の人間が姿を現した。
「何者だ!」
イラノフ軍の兵士がからくりを動かす手を止めて剣を抜くが、黒装束の人間たちの動きは達人級であった。
「ふっ!」
「ぐぁあ」
一人が、両腕を切断され、無力化され、
「かっ」
また、一人が胸を貫かれその命を散らせる。
「な、なんだお前たちは!」
イラノフ軍の兵士の一人が剣で腹部を貫かれたまま黒装束のフードを引き下ろした。
「教会がイーダ王女を支持していることを知っていながら、教会に対して何も警戒を示さなかったのは失敗でしたね」
そこにあった顔に、兵士は見覚えがあった。それは、聖女ブリュンヒルト付きの金色の髪をした聖職者、リィナであった。
「まさか、キリシア教会の――」
兵士がそこまで云ったところで、リィナは腹部に刺している剣を捻った。内臓からの出血が増加し、それは喉をのぼり、兵士の声と生命を消し去った。
「おい、あいつら何者だ!」
その場にいたイラノフ軍を全て殺害したリィナたちの姿を、イラノフ軍の兵士たちが捉えた。
「どうなさいますか?」
黒装束の一人が、リィナに問うと、リィナはフードを被りながら、城門の外へと視線を移した。数百メートル先に、リヴォニア四千騎が迫っていることを確認すると、この場にこれ以上留まる理由はないと判断した。
「ぎりぎりでレオ殿下は間に合うでしょう。わたし達が目立つ訳にもいかないし、ここはさっさと戻ることにしましょう」
云って、リィナたちはその場から去っていった。イラノフ軍の兵士たちの関心は彼女たちよりも、城門に向けられていたので、彼女たちの存在が公になることはなかった。
更新が遅れて申し訳なかったです。
ほんともうリアルが忙しくてですね……。
しかも内乱編、あと1、2回は続きそうだし……こんなに長くするつもりなかったのになー。