第三章 内乱 Ⅵ
「なんとか守れたわね……」
白鷲城の東城壁の上から、撤退していくイラノフ軍と、それを見ながら歓声をあげ、モノを投げつける民衆とを見下ろしていた人物が、安堵の声を漏らした。その人物は、白い僧衣を纏った、若く、美しく、清廉そうな女性だった。彼女の名前はリィナといい、ブリュンヒルトの第一の部下であり、異端審問の際、レオとイーダをブリュンヒルトの元へと連れて行った人物であった。
「一時期はどうなるものかと思いました」
リィナの声に答えたのは、イーダの侍女であるエルネアであった。
「恐れるべきはレオ殿下の智謀か、ブリュンヒルト様の名声か」
このルブリン市民の決起は、幅広くイーダの私生活を管理するエルネアの持つ、中流階級への人脈と、ブリュンヒルトとの聖女としての圧倒的な名声と信頼を頼りにレオが策謀したものだった。
「イーダ殿下がお知りになれば、お怒りになることでしょうが……」
エルネアは、リィナの感嘆の対象よりであるレオやブリュンヒルトのことよりも、自分の主がこの作戦についてどう思うかについて、今更ながら不安に感じているようだった。イーダは市民を戦争に巻き込むことを嫌い、わざわざ防衛が困難な外城壁に兵を展開するくらいであったから、この作戦を知っていれば間違いなく反対していたに違いなかった。
だが、エルネアはレオの言葉を守り、イーダには無断でブリュンヒルトと打ち合わせをし、計画を立てたので、イーダはこの決起が自陣によって扇動されたものであることなど知る由はなかったのである
「エルネアさん、君主が敬われる人間である必要はあるけれど、部下の何人かが君主の代りに汚れ役をやらなければならないものなのよ」
清廉そうな印象を反転させるような台詞に、エルネアは、それはリィナ自身のことを指しているのかどうか気になった。エルネアは、この作戦がブリュンヒルトが細部まで熟慮して立てたものであるにも関わらず、ブリュンヒルト自身が実行者にならず、代わりにリィナがエルネアと共に工作を行ったことに考えが及んでいたのである。そして、純真な少女であるエルネアは、無防備にもそれについて尋ねようとした。
「あの……」
「何かしら?」
だが、エルネアは純真ゆえに、人の感情を読むことに長けていた。エルネアは、リィナの穏やかな表情が逆に、自分が今から聞こうとしている質問を拒否しているように思え、逃げるように別のことを尋ねた。
「いえ、ブリュンヒルト様やリィナさんはなぜこうまでしてイーダ殿下にお味方なさるのかと不思議に思ったのですが」
「そうね、私はブリュンヒルト様の命令を聞いているだけだから答えかねるけれど……」
リィナは優しい声色で答えたが、いまやエルネアにはその全てがうそ臭く感じ始めていていた。
「ブリュンヒルト様の目的は唯一つ。キリシア大陸の平和を守ること。この戦いで、イーダ殿下に味方するのもそれに近づくから、かしらね」
だが、不思議と、エルネアはリィナのその言葉自体に嘘は感じなかった。だからこそ、自分の感じた違和感は勘違いではなかったのではないかと、一気に心の中にあったもやもやが霧散したように思えた。
「ブリュンヒルト様はいつもキリシア教徒のことを考えてくださっているのですね」
そんなエルネアが嬉しそうにリィナに云うと、リィナは小さく口を動かした。だがそれはエルネアに対して云ったものではなく、独白に過ぎなかった。
「……あの人は、その為なら何だってやってみせるけれどね」
リィナの独白を、エルネアは完全に聞き取ったわけではなかった。だが、リィナの独白が残した雰囲気は、エルネアの一度は霧散したものを再び呼び起こさせるのには純分であった。
「何かおっしゃいましたか? リィナさん」
リィナの独白を微かに拾ったエルネアが尋ねても、リィナは穏やかで優しげな表情を一切崩さないで、慈愛に満ちた声をエルネアに掛けるだけだった。
「いいえ、なんでもないわ、エルネアさん。今日はもうお休みなさいな。明日は朝からまたイラノフ軍が攻撃してくるでしょうから」
真に無垢な少女であるエルネアは、純白である……さらには純白でなくてはならない、聖女ブリュンヒルトの腹心であるリィナに対する暗い影を感じ始めていたが、ドス黒いものとは無縁の少女、エルネアにはそれを表現する言葉も感情も、勇気も欠けていた。
結局、エルネアはリィナのその部分に関して、触れることをしないで、その指示に従って、眠りに就いたのであった。
今週は短めの更新で申し訳ないです。
来週は実は更新できるかどうかわからないです。前回予告していた新作は、スケジュールがきつかった為に公開を見合わせました。
とりあえず、来週はキリシア大陸物語さえ更新できるかわからないのに、そんな新作を公開する余裕なんてないだろう、と思ったわけです。(あたりまえ)
しかし、月曜日更新は今後も出来る限り守って行きたいと思い、努力いたします。あ、更新時間は17時が基本と云うことで。