『或る少女の願い』
ドゴーン ドゴーン
腹に響くその音は、唐突に聞こえてきた。
(銃撃戦……?)
辺りを見渡す。今の音は、随分と近くなかっただろうか。
「Freeze!」
強い暴力的な光と共に、鋭い警告が発せられた。反射的に振り返る。
眩しい、と、それだけを先ず思った。
「――待て。そいつじゃない」
「Shit」
指向性ライトが荒々しく下に向けられ、漸く復活した視界に、武装した二人組の姿が現れる。
機動警官だ。直接お目に掛かるのは初めてだった。そんな機会があるとも、勿論考えたことはなかった。
「君、この区域は特別警戒態勢に入っている。直ちに避難したまえ」
「ニュースも見てないのかよ、クソが」
「重火器を所持すると目される凶悪犯が逃走中だ。シェルター機能を備えた施設へ急ぎなさい」
「女殺しのFukin'爆弾魔だよ、知らねぇのか。いいからとっとと失せな」
交互に捲くし立てられ、追いやられるように路地を戻ったものの、霞が掛かったように思考が覚束ない。どちらへ向かえばいいのだろう。
闇雲に、角を曲がる。昼下がりのショッピング街は、確かにいつの間にか、全く人気がなくなっていた。オープンカフェのテラスに、ガラスが散乱している。その意味の理解を拒むかのように、足を速める。
ドゴーン
いくつ目かの角を曲がった瞬間、重たい音と爆風に襲われた。
真横の壁、数10cmと離れていないところに突き刺さったコンクリート片に、思わず肝が冷える。
「……またてめぇかよ。死にたいのか」
どうやら間違った方向へと駆けてきてしまったらしかった。
「チッ……」
先程の相棒らしき機動警官の姿は見えなかった。二人組行動の原則を棚上げしなければならない程の緊急事態だということだろうか。説明を任せる相手がいないことに思い当たったのか、不良機動警官は舌打ちをしながら防護ヘルを脱いだ。その顔は、乱暴な口調とは裏腹にハッとするくらい端正なものだった。
「いいか、これからこの辺は火の海になる。燻り出すんだよ、クソ蟲を。――あっちの道を行け、すぐに川にぶち当たる。渉れ。蒸し焼かれたくなかったらな」
ドウッ
その台詞が終わるか終わらないうちに、どこか遠くから、世界が爆ぜる音がした。機動警官は、素早く防護ヘルを装着し直すと、もう何も言わずに走り去っていった。
(川)
(川を、渉らないと)
未だ届かない筈の熱風に煽られた気がして、我知らず、再び駆け出していた。
川に橋は架かっていなかった。流れに足を捕られないよう、夢中で渉った。乱れた呼吸をなんとか整え、つと顔を上げると、目の前に女がいた。
「ねぇ、あっちから来たの?」
頷くと、女は必死の勢いで質問を重ねた。どうやら連れの男とはぐれたらしく、姿を見なかったかと問われる。見ていないと答える。女はその場にくずおれんばかりに落胆を見せた。
「そういう運命なんかなあ」
力無く笑うと、女は近くの小屋を指差し、そこで休まないかと言った。腕を引かれるままに小屋に入り、軋む椅子に腰を下ろした途端、脚の震えを自覚した。女はぽつぽつと、止め処なく、何かを語り始める。
「好きな人としあわせに過ごすって、あたしそれだけしか望んでないと思うんだけど、でもなんだかすごくむつかしいことみたい。みんなそうなのかわからないけど、少なくともあたしにはそう。一緒に暮らし始めると、どうしてか、あたし、殴られるのね。どうして、って訊くと、あたしが悪いんだって言われる。ああそうなんだなあって、ごめんなさいごめんなさいって、謝ると、またぶたれて。腫れて顔が熱くなると、頭もぼーっとしてきて、あたしが悪いんだなあってことしかわからなくなって、そうして毎日過ごしてるうちに、いつも、気が付くと相手がいなくなってる。だから多分殴らない人を探さないといけないんだなって思ったのね。いつもと違うところで、いつもと違うふうに知り合うのがいいのかなあって、同じお店のコに相談したら、最近のハマってるヤツがあるんだけど、って紹介してくれたの、文通サイト。思ったよりも参加してる人が多くてびっくりした。紙に書いて、封筒に入れて、シールでとじて、ポストに、っていうそういうのが楽しいよって。実際、すっごく楽しくて、最初の目的とか、忘れかけてた頃に、」
ゴオオッ
風に煽られて、炎が大きく揺らぐのが、窓から見えた。対岸はすっかり火の海だった。
「あの人に出逢ったの」
女はそこで、ずっと握り締めていた封筒を、大きく襟の開いた胸元にぎゅっと押し抱いて、燃え盛る川向こうを睨みつけるようにした。
「封筒をとじるときに使う、シール、知ってる? ちっちゃくって、色々あって、かわいいの。そのシールを集めてるんだって、募集コメに書いてあって、ああ!って、あたしも!って思って、初めてあたしから手紙を書いたの。すごく、ええと、筆マメ、っていうの? レスがはやくて、あっという間に何十通も溜まって、あたし、全部とっておいてあるんだ。お店にお客さんがたまに差し入れてくれるお菓子とかの缶をもらって帰って、その中に順番にしまうの。ひとついっぱいになる度に、うわあ、しあわせだなあって、嬉しくなって、だからそれでいいって思ってた。これ以上望んだら、また、同じことになるかもしれないって思ったりもした。でもあの人は、会いに来てくれるって、言ったの。二人だけで会うのが心配なら、お店にお邪魔します、って、言って、だから今日、今日ね? 会う筈だったの。慣れないけど、スーツ着て行きます、ネクタイの結び方が下手でも笑わないでくださいねって照れたみたいに、あ、手紙だけど、でもそういうのってわかるよね? 髪は長くも短くもないです、眼鏡がちょっと珍しい形なので、目印になるかもしれませんね、って、だけど、――わからない。今日は他のお客さんの席についてても、ずっと入り口ばっかり見てて、センパイに睨まれてたのもわかってたけどでも絶対一番に気付きたかったから、ずっと見てたんだけど、あっ!あの人かな!? って思った途端にすごい大きな音がして、それからすぐにその人を押しのけて警察の人が来て、避難してくださいって叫んで、あたしスタッフのコに引っ張られて、よくわからないまま、なんだか外にいて」
だからホントはまだちゃんと会えてないの、と女は言い、言いながらもずっと炎を睨んでいた。
風はいよいよ勢いを強めていた。今にもこちらの岸まで届きそうに、赤い舌が伸びる。
「あたし、行くね。――話、聞いてくれて、ありがとう」
女が出て行った後も暫くそのままでいたが、室温がじわじわと上がって来たように感じて、慌てて小屋を飛び出した。だが、行く宛てはなかった。ふらふらと、川を離れて歩き出す。
途中で、中年の男と擦れ違った。
「わっ」
下を向いて歩いていたらしい男は、ぶつかりそうになったことを頻りに恐縮し、頭を何度も下げながら去っていった。
(何を探しているんだろう)
その仕草から、咄嗟にそんな疑問が沸いた。この非常時に、避難より優先して探さなければならない何かというものにふと興味を覚えたが、すぐにどうでもよくなった。そもそも他人の心配をしているどころではないという気もした。
(どこに向かえば)
小路に入り込む。住宅街のようだった。避難する際に消し忘れたのだろう、開け放しにされた窓から、テレビの音が漏れている。
「いずれにせよ、今回の被害者の方々に共通している点が浮かび上がったというのは、大いなる進展でしょうね」
「そうですね。コトヨミ、でしたっけ? このサイトの利用者の方には、充分に注意をしていただきたいと思います」
「それにしても怖い話ですよね」
「個々人の良心にだけ頼るスタイルというのは、もう成立し得ないものなんですよ。今回のこれもね、被害に遭われた方には申し訳ないんだけれども、やはり自衛ということをね、危機感を持って考えておかないといけない、と」
次の四叉路まで、それは聞こえていた。人間がいないとそれだけ静かなのだということに、そこで気付いた。
ガリッ
何かを踏んだ感触に、足元を見ると、それは丸いガラスだった。
色のついたガラスと、透明なガラスが、2つずつ。少し離れたところに、銀色の細い金属の枠組みのようなもの。
(サングラス)
度入りのレンズの上に色つきのレンズをかぶせ、蝶番でそれを蓋のように開けられるつくりのものだ。昔、テレビで誰かがかけていたことを思い出した。
(これを探していたのかな)
振り返ってみたが、先程の中年男の姿は見えなかった。
「この、文通サイトを利用した連続女性殺害爆弾魔は、依然逃亡を続けているとのことです」