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元婚約者への嫌がらせの為にした結婚だったのです

掲載日:2026/02/28


 アンジェリーナは、兄から告げられた言葉に頭が真っ白になった。


 彼女は、オルフェーヌ侯爵家の長女だ。

 高い爵位とそれに見合う国への影響力の強さを持つ家に生まれた、生粋の貴族令嬢である。

 滑らかな薄い金茶色の髪と、ヘーゼルの目は宝石のような美しさがあり、気品に溢れていた。

 生まれも美しさにも恵まれた彼女には、愛する婚約者がいる。

 来春には婚姻を結ぶ予定でもある。

 十八歳という成人したばかりの若さでの婚姻だが、父親が権力を持ちすぎたことを苦慮して、王族に嫁がせる気はまったくないのだと周りに知らしめる為のものであった。

 婚約者も一族のなかから選ばれている。

 侯爵家が複数持つ爵位のひとつを受け継ぎ、一族の傘下として家から独立するはずだったのだ。

 だが、不幸がオルフェーヌ侯爵家を襲った。

 当主であった父親が、病に倒れたのだ。

 病状は深刻であり、急遽兄が当主を引き継ぐ事となった。

 兄は、二十歳になったばかりだ。

 領地から出てきた叔父が補佐に入ってくれてはいるが、頼りなさは否めない。

 権力の強さを弱める為に中枢から距離を取っていたのも仇となる。

 壮健だった父親が倒れたのは、誰にも予想できないことであったのだ。

 医師が言うには、目に見えずとも進行する病はあるのだと。

 今回、父親が得た病はそういう類のものであった。

 権力を正しく使える父親が中枢から離れるのと、まだ勉強中の兄が当主となるのは、あまりにも差があるのだ。

 権力を弱めようとしたオルフェーヌ侯爵家は皮肉にも、他家からの圧力を掛けられる前に権力を強める必要が迫られたのである。


「アンジェリーナ、すまない……許せとは言わない。隣国の王家に嫁いで、ほしい」

「お兄、さま……?」


 兄は執務机の前に立ち、妹に頭を下げた。

 苦渋に満ちた表情の兄に、アンジェリーナは言葉を失う。


「すまない……それしか、方法が、ない」


 国内に嫁げば、均衡を崩す。

 だが、強い後ろ盾は必要である。

 兄が下した結論は、妹を他国の王妃にすることであった。

 幸いにしてアンジェリーナは、隣国の言葉が堪能だ。

 父親が過去に外交に携わっていた影響で、隣国から個人的な客人が訪れることが多々あり、言語の違いに興味を持った彼女は学んでいた。


「わ、わた、くしは……」


 アンジェリーナも家の状況を理解している。

 だが、婚約という貴族にとって婚姻したも同然の関係を解消されるとは考えていなかったのだ。

 だが、オルフェーヌ侯爵家に子供は兄とアンジェリーナしかいない。

 一族に未婚で、年齢が釣り合う女性はいなかった。

 アンジェリーナしか、いない。


「すまない、俺が、弱いばかりに……っ」


 兄の震える声に、アンジェリーナは苦しみを堪える。

 彼も辛い立場なのだ。


「わかり、ました……」


 それだけを振り絞るように伝えるのが精いっぱいであった。



 執務室から出たアンジェリーナは小走りで急ぐ。

 まだ話を知らない使用人たちは、淑女として常に淑やかであるはずのアンジェリーナの珍しい姿に驚いている。

 オルフェーヌ侯爵家のとある一室。

 来春の婚姻に向けて婚約者が寝泊まりしている部屋に、急いで向かう。

 何かを期待しているわけではない、ただ苦しく辛い心が彼を求めていた。

 春に縁を結ぶのは、婚約したのが春の陽だまりのしたであったからだ。

 エイル・ブレール。オルフェーヌ侯爵家の傘下にあるブレール伯爵家の三男で、一つ上の男性。

 夜を思わせる漆黒の髪に、温かみのある飴色の目。

 落ち着いた彼に微笑み掛けられるのが好きだ。

 ずっと共にあるのだと、疑っていなかった。


「エイル、さま……っ」


 悲しみに溢れた視線の先には、彼のいる居室の扉が見える。

 震える手で扉に手を伸ばしたアンジェリーナの耳に、扉の向こうから声が届く。


「残念だったわね、エイル」


 女性の声。

 この声は、ブレール伯爵家から付き添ってきたエイルの姉だ。

 彼女の話す優しい響きしか聞いたことのなかったアンジェリーナは、冷たく怒りに満ちた声音に驚き固まる。自然と扉に伸ばしていた手が離れた。


「一年もせず、お嬢様と夫婦になれるはずだったのにさ」


 粗野な雰囲気の話し方も初めて聞く。

 お嬢様……いつもは名前で呼んでくれていたのに、まさかアンジェリーナのことなのだろうか。

 影で、こんなに馬鹿にしたように呼ばれていたのだろうか。

 心臓が冷えていく。

 彼女は話しかけているようだ。しかも、ここは彼の為に用意された……。


「ああ、まったくだ。あてが外れた。せっかく独立した家を持てると思ったのにさ」


 冷たい、彼の、声。


『アンジェリーナ、春には一緒に領地の湖を見に行こう』


 愛しいと、目を細めた婚約者の言葉。

 婚約したばかりの頃に、使用人を連れて湖まで遊びに行った。

 大切な、思い出。大切な、場所だ。


『湖に来る渡り鳥のように、ずっと共にありたい』


 はにかむように頬を染めた彼からの、約束。だが……。


「あーあ、隣国の国王だぞ? 敵うわけがない」

「どうするのよ?」

「新たなご当主様は、僕へ後ろめたく思っているようだ。当たり前さ、輝かしい未来を潰したんだから」

「ふうーん。何か考えがありそうね?」


 呆然と立ち尽くすアンジェリーナに、容赦なく言葉が降り注ぐ。


「ご当主様にお願いするよ。愛しいアンジェリーナ様のおそばに居たいってさ」

「隣国まで付いてくってわけ?」

「ああ。そこで結婚相手を見つけてくるよ。こっちだと派閥の関係で面倒だからね」

「あっちは暖かいから、お嬢様よりも明るい子いるんじゃない」

「楽しみだ」


 それ以上は聞くことはできなかった。

 逃げ出したのだ。

 足が震え、走ることはできない。

 それでも必死に足を動かす。

 自身の部屋に入ったアンジェリーナは、扉を閉めると同時に泣き崩れた。


「ひ、どい……」


 信じていた。

 彼の言葉、眼差しを。

 愛情があるのだと、信じていたのだ。

 アンジェリーナとて、貴族だ。婚約も家の都合だと理解していた。

 だが、だからこそ。

 過ごした時間、重ねた思い出は嘘ではないと、信じたかったのだ。

 溢れる涙は、頬を濡らす。

 アンジェリーナは、ただ泣き続けた。



 春を迎える前に、アンジェリーナは輿入れをした。

 完全な冬になると、雪で道が悪路に変わる。

 そうなる前に隣国へ入る必要があったのだ。

 権力を欲するがゆえに、時間もかけられない。

 限られた時間で準備は迅速に行われた。

 幸いにして、ほとんどの生活に必要なものは隣国の王宮が用意してくれている。

 アンジェリーナたちは、隣国への道行きに必要なものを用意するだけで良かったのだ。

 終始アンジェリーナが落ち着いた様子であったので、オルフェーヌ侯爵家の者たちは安心して準備を行えたのである。

 隣国入りするアンジェリーナの同伴者のなかにエイルの姿もあり、彼の悲しげに微笑む姿に事情を知る者たちは同情したという。




 アンジェリーナは、王妃の居室にいた。

 隣国の王宮は広く調度品の質などからも、自国との国力の差をひしひしと感じる。

 国民へのお披露目は一年後だという。

 さすがに急ぎ過ぎたか、国王の婚礼に向けた準備が間に合わなかったようだ。

 この婚姻はアンジェリーナ側にしか得るものがないように見えるが、隣国側にも利がある。

 オルフェーヌ侯爵家が持つ外交の手腕は、強国ゆえに欲しいものである。

 父親の優秀な部下も何人か隣国入りしていた。

 そして、アンジェリーナの容姿を、隣国の国民は好んでいるのだ。

 濃い髪色の多い国民性ながら、隣国が信仰する神はアンジェリーナのように細身でたおやかな豊穣の女神である。

 髪色も同じであり、毛先だけが緩く癖のあるのも女神の像と似ていた。

 さすがに神話のように瞬きのごとく光る目は持たないが、アンジェリーナの姿は女神のように優しく映っている。

 何より、若き国王が頷いたのが大きい。

 即位してからも、国内にいる貴族令嬢に見向きもしなかった美しき国王が、唯一受け入れたのがアンジェリーナである。

 それがあるからか、隣国の王宮はアンジェリーナを歓迎した。

 予想以上に温かく迎え入れられたアンジェリーナは、俯きながら王妃の居室にあるソファーに座る。

 今はひとりだ。

 本来ならば王宮の侍女がつくのだが、王妃の居室は王妃だけに許された空間である。

 侍女や護衛は続き部屋に控えていた。


「ようやく、ここまで来た」


 湯殿で旅の汚れを流し、隣国の意匠で彩られたドレスに身を包み。

 アンジェリーナは薄っすらと笑う。

 あの日、エイルの本心を知ったアンジェリーナは泣いた。泣き続け、そして怒りを覚えたのだ。

 あんまりだ、と。

 自分は愛する婚約者とは違うひとと婚姻し、故郷とは違う国で暮らすのだ。

 婚約者と思い合っていたのであれば、穏やかな心持ちで思い出に変えられただろう。

 貴族に政略は当たり前だと、割り切れた。

 だが、肝心の愛する婚約者の本性は酷過ぎた。

 あれでは、思い出になるどころか、足枷にしかならない。

 本性を知らなければ良かったのだが、運悪く知ってしまった。

 これでは今後に響く。

 アンジェリーナは悲しみが深いあまり、むしろ冷静になってしまった。

 冷静に怒りを覚え、そして決意したのだ。

 嫌がらせをしよう、と。

 隣国に付いてくると決めたのは、エイルだ。

 アンジェリーナは頼んでなどいない。

 自分で決めたことで、その先にアンジェリーナからの嫌がらせがあったとして。自身の選択ならば後悔などしないだろう。

 父や兄に思うところがないわけでないが、二人は旅立つ直前まで苦しんでいた。

 兄に至っては自責の念から、かなり痩せてしまっていたので、心配が尽きない。

 父も安心して療養してほしいこともあり、憂さ晴らしの相手はエイルだけにしたのである。

 乙女の純情を弄ぶ男は、どうなるかの覚悟を持つべきだ。

 そうして鬱屈した恨みを募らせたアンジェリーナは、無事に夫となる国王との対面も済ませていた。

 なにせ、国王自ら迎えに来たのだ。

 謁見の広間ではなく、王城の前までわざわざ国王自らというのが大事だ。

 他国の者であるアンジェリーナを、どれだけ待ちわびていたのかを知らしめたのだから。

 エイルへの嫌がらせで頭が占められていたアンジェリーナは、しっかりと身についている淑女らしさで対応したが、顔ははっきりと覚えていなかった。


「とても美しい方とは、聞いていたけれど」


 国内の令嬢たちが、王子時代の国王からの寵を熾烈に争ったというのは本当なのだろうか。

 いや、それよりも、エイルへの嫌がらせだ。


「侍女長にはお願いできたから、後は待つだけね」


 以前のアンジェリーナならば、思いつきもしない内容の嫌がらせは既に始まっていた。

 淑女として正しくあったアンジェリーナは、お休みしている。

 これから慣れない異国で暮らしていくのだから、傷ついたことに対してやり返しても良いはずだ。

 それに、エイルへの怒りのおかげで今は落ち着いている。不安がないのは有り難い。

 今夜は、国王との初夜が控えているのだから。

 貴族女性として生まれたからには避けられないことだが、悲壮感をもってのぞむことにならなくて良かった。

 先代国王夫妻は存命だが他国からの嫁入りの場合、閨を経ねば王家に正式には迎えられたことにならないという自国にはない決まりに、本当に他国に来たのだと実感する。

 初夜を経て、ようやく夫以外の王族に会わせてもらえると聞いた。


「エリオット・ランダウッド」


 口にしたのは、夫となる国王の名前。

 隣国の名を冠した、美しい黄金の髪を持つ存在だ。

 うっすらとしか覚えていないが、緩く編まれた髪を前に垂らしていた。

 白を基調とした服は、繊細な金糸の刺繍が施されていように思う。


「わたくしの、旦那様」


 アンジェリーナは決意を込めて呟く。

 心は決まっている。


 先触れがあり、アンジェリーナは王妃の居室と国王の居室を繋ぐ特別な部屋に移動した。

 ここで、エリオット国王陛下とアンジェリーナは夜を過ごすのだ。

 十八歳のアンジェリーナより八歳年上の国王。

 しかし、アンジェリーナは夫の訪れよりも、夫婦の寝室となる部屋にある小さな扉の方を気にしていた。

 あの扉は、守番が控えている部屋に続いている。

 守番とは、国王夫妻を夜通し護衛する者たちを指す言葉だ。

 通常は騎士が任されるのだが、アンジェリーナはとある人物を守番のひとりとして指名していた。

 そう、エイル・ブレールを。

 異国の地にて心細く、見知った相手が近くにいるのは安心できる。

 そう侍女長に伝えれば、快く受け入れてくれた。

 守番に指名する。

 それがエイルへの嫌がらせであった。


「待たせた」


 静かな声が、部屋にするりと沁みる。

 優しいのに、耳にしっかりと残る心地良い声だ。

 アンジェリーナはさらりと寝間着の音を流し、腰掛けていた寝台の隅から立ち上がる。


「陛下、お待ちしておりました」

「名を呼べ。我らは今宵より夫婦となるのだから」

「……はい、エリオット様」


 この時より、アンジェリーナは夫となるエリオットのものだ。

 強く誓う。

 身も心も、夫にだけ捧げる。

 彼にだけ全てを許す。

 それは暗示に近い。だが、違えようもない本心でもある。


「エリオット様」


 甘えるように、名を音に変える。

 エリオットはわずかに目を開いた。

 戸惑う空気を感じたが、構わずにアンジェリーナは夫の前に立つ。


「わたくしの心を貴方様に」


 目を潤ませ見つめると、エリオットは頷きアンジェリーナの手に触れた。

 彼の体温が伝わり、体から自然と力が抜けていく。

 ようやく、アンジェリーナはエリオットの美しい白銀の髪と炎のような熱い目を意識した。

 皆が取り合ったというのは、本当なのだろう。

 男性らしいのに、きめ細やかな肌。鼻筋が通り、完璧な形を持つ美貌の国王。

 神々しいまでの美を持つ、アンジェリーナの旦那様。

 ほんの一瞬小さな扉を見やった後、アンジェリーナは美しき夫に身を委ねた。

 ただ、ただ、エリオットだけを見つめ続けたのだ。



 アンジェリーナは、常に淑女らしくあった。

 周りに不快感を持たせないように、丁寧にたおやかな仕草を心がけてきた。

 微笑みを絶やさないアンジェリーナだが、それゆえに周りに甘えることをしない。

 隙を見せてはいけないからと、気を張ってもいた。

 ものごころがついた頃からの習慣は、アンジェリーナを素晴らしい淑女としたのだ。

 故郷では、一分の隙もないアンジェリーナだったが。

 嫁いでからは違った。

 周りにひとが居れば、常に淑女らしく、王妃らしく振る舞った。

 初夜を無事に終えたアンジェリーナには、それが許される。

 だが、ほんのわずかでも夫であるエリオットと二人きりになれば、彼女は変わる。


「エリオット様、わたくしがお茶を淹れますわ」

「ああ、頼む」


 エリオットの執務室に向かえば、彼はひとりであった。

 もちろん、扉の外には騎士がいる。

 だが、室内では二人きりだ。

 ふわりと少女らしく微笑んだアンジェリーナは、楽しそうにお茶の用意をしていく。

 エリオットはそんなアンジェリーナを見つめていた。


「エリオット様は、こちらの茶葉がお好きでしたわね」

「……覚えていてくれたのか?」

「当たり前です!」


 ふふと、嬉しそうに笑うアンジェリーナ。

 それは恋に浮かれてるようで、幸せに満ちている。

 婚姻を成した初夜から三ヶ月。

 アンジェリーナとエリオットは、初々しい様子で過ごしていた。


「その、アンジェリーナ」

「なんでしょう?」


 湯気の立つカップをエリオットの机に置くアンジェリーナは、小首を傾げる。

 その姿はあどけない雰囲気があった。

 手で口を隠し、こほんと小さく咳をしたエリオットは、目を伏せたまま口を開く。


「今夜も、共に過ごしたい」


 エリオットの告げた内容に、アンジェリーナの顔がぱっと明るくなる。


「嬉しい! お待ちしてます!」

「あ、ああ」


 喜ぶアンジェリーナとは違い、エリオットの方が恥じらってしまう。

 ほぼ毎晩共に過ごしているのに、だ。

 彼の方が八つ年が上なのだから、大人の余裕を見せたい。

 たが、エリオットの願いは叶えられない。

 アンジェリーナの笑顔を見ると、胸が高鳴るのだ。

 まさか、自分がこのような感情を持つとは。

 婚姻前のエリオットと会うことがあれば、信じられないと驚愕の眼差しを向けたことだろう。


「……良い、櫛が手に入ったのだ。持っていこう」

「まあ、エリオット様が自ら? それならば、使いを」

「私が、渡したいのだ」


 頬が熱い。

 気持ちは伝わっただろうか。

 そろりとアンジェリーナを見れば、彼女も顔が赤い。

 騒がしさが増す心臓。

 だが、嫌いではない。




 アンジェリーナの王宮での日常は、王妃の仕事を教わることから始まり、及第点をもらい終わる。

 その合間にエリオットに会いに行くことも日常だが、きちんと王妃に必要な教育も受けていた。

 礼儀正しいアンジェリーナは、嫁入りした王宮にすぐに馴染んだ。

 皆が真剣に学ぶアンジェリーナを敬い、褒め称える。

 だが、いつからだろう。

 皆からの賞賛よりも、僅かな時間で伝えられるエリオットからの労りに心が震えるようになったのは。

 最初は、自分に課した義務から。

 エリオットに全てを捧げると決めたからこそ、王妃の教育時間以外を彼に使おう、と。

 元々得意であったお茶を淹れる作業に、心も込めていると気付いたのは、いつだったか。

 たかが三ヶ月。

 されど三ヶ月。

 当てつけのように濃密に時間を使っていたからか、それとも、自分に向けるエリオットの目に熱を見つけてしまったからか。

 心は、そうなることが当たり前なのだとばかりにエリオットで占められていった。

 エイルへの嫌がらせを覚えていたのは、最初だけだ。

 彼には一度も甘えなかった。頼ってはいけないと、未来を共に行くのならしっかりとせねば。そればかりだった。

 今思うと、彼は頼りない存在だ。

 婚約していた頃は、そんなことを感じたりはしなかった。

 本性を知ったから、そう思うのか。


 ーー違う。


 出会ったからだ。

 温かみのある、赤く燃える目に。

 体全てを包むような、力強い声に。

 寄りかかっても支えてくれる逞しい胸、体温。


 たった三ヶ月。

 それでも、知るには十分なほどの優しさをもらっていた。

 王妃の知識が増えれば、良くやっていると。

 休みを削ろうとすれば、無理はするなと。

 認めてくれる喜びと、心配される嬉しさ。

 それは、エイルからは得られることがなかった。

 完璧な淑女であり、支えずとも歩ける存在。

 それがエイルの求めたアンジェリーナだ。

 婚約が消えた日が、エイルに助けを求めた唯一の時。

 結局伸ばさなかった手は、今はエリオットが触れてくれている。

 冷静な態度の彼は、アンジェリーナには頬を赤めたり、恥じらう。

 アンジェリーナも、エリオットだけに甘えられる。

 心地良い、居場所ができたのだ。


「お願いがあるの」


 三ヶ月目、アンジェリーナは侍女長に頼みごとをした。

 すっかり忘れていたことについて。

 忘れたままで続いていた嫌がらせは、お終いにしよう。

 どうせ向こうもアンジェリーナのことなんか気にしていない。

 既に新たな出会いをしているかもしれない。

 もう、いいやと。

 何のわだかまりもなく、アンジェリーナはそう思うことができた。



 エリオットは、壁に飾られた時計を何度も見る。

 執務机の上にある書類は、ほとんど消えていた。

 アンジェリーナと婚姻してから、三ヶ月。

 エリオットは仕事を早く切り上げるようになっていた。

 心なしか、側仕えたちの眼差しが優しくなった気がする。

 以前のエリオットは、仕事漬けの日々を過ごしていたのだから、当然かもしれない。

 理由は、簡単である。

 王宮に出入りしている令嬢たちと会わない為だ。

 エリオットは王太子であった頃に、令嬢たちに囲まれ恐ろしい争いを目にしたことがあった。

 淑女然としていた令嬢たちが、エリオットを巡って、掴み合いに発展するほどの騒ぎを起こしたのである。

 血走った目に、乱れ引っ張り合う髪。

 きんっとした叫び声。

 今思い出しても震えが止まらない。

 国内の情勢と貴族間の均衡を考慮して、エリオットが十八歳になれば婚約者を据えるはずだったのだが。

 その騒ぎにより話は流れた。

 まさか、二十六歳になるまで婚姻が決まらないとは思わなかったが、時間を掛けたことでエリオットの心に負った傷は和らいだ。

 それに、悪いことでもなかった。

 他国から嫁いで来た娘に、エリオットは恋をしたのだから。

 三ヶ月。

 始まりは、甘やかな声に過去の騒ぎを思い出して、警戒していた。

 令嬢たちは、あの時までは甘えるようにエリオットを見ていたのだから。

 だが、アンジェリーナは、エリオットの前だけで甘えてくれるのだ。

 他の誰かがいる時は、完璧で優美な王妃として過ごしている。

 けれど、二人だけの寝室では……。


「ふ……」

「陛下、どうしました?」


 思わず声を漏らしたエリオットに、怪訝な顔で側仕えの男が聞いてくる。

 エリオットは口を押さえた。


「んっ、何でもない。少し、喉が渇いたのかもしれないな」

「では、侍女を呼びましょう」

「……ああ、頼もうか」


 かしこまりましたと、側仕えが呼び鈴を鳴らす。

 実のところ、エリオットが一番好む茶はアンジェリーナが淹れたものである。

 エリオットが願えば、彼女は喜んで淹れてくれるだろう。

 だが、今は駄目だ。

 彼女の姿を見たら、平静を装える気がしない。


 ーーだらしなく緩んだ顔など、見せられない。


 ただでさえ、アンジェリーナを前にすると熱いぐらいに体温が上がるのだ。

 そういうのは夜にーー駄目だ。考えてはいけない。

 エリオットは冷静に手もとにある書類を見る。


「ん? 守番が変わるのか」

「はい。王妃様から侍女長に伝えられました」


 書類には守番のひとりを変更する旨が書かれていた。

 確か、この人物はアンジェリーナの国から付いてきた者のひとりだ。

 エリオットはアンジェリーナが家の為に婚約を解消していることを知っていた。

 アンジェリーナに惹かれ始めた頃に、付いてきた者のなかに婚約していた者がいるのではと怪しんで少しばかり調べたことがあった。

 だが、アンジェリーナに年齢が合うのは守番となった男だけだ。

 守番に願ったのはアンジェリーナであるし、まさか婚約関係にあった者を守番に指名するはずかないと考えていた。

 王妃に従う者は身元はしっかりしているのもあり、怪しい者はいない。

 ゆえに、エリオットはアンジェリーナの婚約者だった男は彼女の故郷にいるのだろうと判断したのだ。

 守番が控える部屋は、守りに重きを置いている。何か異変を感じ取れば、すぐさま国王夫妻のもとへ駆けつける必要があった。

 なので、寝室と繋がる守番たちが控えている部屋の壁は薄い。

 夫婦のことが筒抜けになる部屋だからこそ、情のある者を指名したりなどしないだろう。

 エリオットは、守番の変更に許可を出した。


「あの者を守番から外すのは、賛成ですよ」


 側仕えが同情するように言った。


「何かあったのか?」

「いえ、慣れない土地で過ごしているせいか。すっかりやつれてしまったので」

「そうか、それでは内務に配置換えをしよう」

「そうですね。陛下たちの生活区域では緊張もあるでしょうし。内務の区画は、王妃様も通いますし」


 緊張から解かれ、同じ国から嫁いだアンジェリーナの姿を見かけられるのならば、安心するだろう。

 それは、良かれと思ってのこと。

 彼らは想像もしないだろう。

 守番を勤めたことで、アンジェリーナの愛らしく甘える声、可憐な姿を知り苦悩することになった男を。

 これからも仲睦まじい二人の姿を見ることで、後悔し嘆きが深くなる男のことを知らないのだから。

 エリオットはただ少しでも早く妻に会えるように、仕事を済ましていくだけだ。




 アンジェリーナの煌めく髪を、エリオットが素材から選び作らせた櫛が通っていく。

 寝台に寝転ぶエリオットは、横座りをするアンジェリーナの腰に腕を回す。


「すまない、ひどく乱れさせた」

「ふふ、良いのですよ」


 幸せな時間。

 二人は、お互いの体温を分け合うようにそばにある。


「そうだ、父君はどうだろうか?」

「おかげさまで、エリオット様から送られた薬が合っているみたいです。お兄様が、ぜひお礼をしたいと」

「そうか」


 目を細めたエリオットにアンジェリーナも微笑む。

 エリオットが腕の良い薬師を探してくれたおかげで、父が寝込む日が減ったと兄から手紙があった。

 隣国と繋がりができたことで、他家からの手出しもないようだ。

 アンジェリーナは安堵した。


「ありがとうございます、エリオット様」

「ん、良い。アンジェリーナの為なら、何でもしよう」


 初めて会った頃よりも、ずっと柔らかい笑みを浮かべるエリオット。

 アンジェリーナは幸せで胸がいっぱいになる。


「お慕いしております、エリオット様」


 心からの言葉を口にする。


「もう一度」

「まあ」


 ぐるんと視界が回る。

 すとんと櫛が転がって、寝台から落ちた。

 気づけば、目の前にエリオットの顔が見える。

 どうやらエリオットはアンジェリーナを抱きかかえて、寝転んだようだ。


「いきなりは驚きます!」

「ははっ、嬉しくてな」


 そうしてついばむように、唇が重なる。


「さあ、もう一回だ」

「もうっ!」


 アンジェリーナは拗ねてみせてから、エリオットの胸に顔を寄せる。


「愛してますわ。ずっと、一緒にいたいです」

「私もだ!」


 ぎゅうっとアンジェリーナを抱きしめて、エリオットは楽しそうに笑う。幸せに満ちた声で。

 アンジェリーナも心がくすぐったくなった。


 始まりは、嫌がらせだった。


 けれど、それはいつか忘れるだろう。

 思い出すことすらなくなった頃。

 アンジェリーナはこう思うのだ。


 愛する旦那様に会うために、嫁いだのよ、と。


 告げる先にはもちろん旦那様と、彼に似た可愛い子がいるのだ。




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