少女は誰の夢を生きたのか
母の怒鳴り声で目が覚める朝は、もう何度目だっただろう。
私はその声に慣れてしまったはずなのに、胸の奥を薄い刃でなぞられるような痛みだけは消えない。
母は昔、女優を夢見ていたらしい。
けれど夢は叶わず、その不満と焦燥と嫉妬を、いつからか娘である私たちに向けるようになった。
私は母の期待を裏切り続けた。
だから母は私を見ない。叱りもしない。ただ放置する。
反対に、妹の莉央には過剰なまでの期待を向け、まるで所有物のように扱った。
それは傍目にも愛ではなく、莉央のように気の弱い子の逆らう気力を削ぐのには充分すぎた。
「お母さんは私のことが大好きなんだよ。いつも怒ってて怖いけど、優しいところもあるから」
昔、そう言って笑っていた莉央が忘れられない。
その笑顔の裏に隠れていた微かな怯えに、当時の私は気付いてやれなかった。
私は家の空気を壊すように自由に振る舞い、母の視界からこぼれ落ちていった。
対して莉央は母の期待を背負い、その重みに押し潰されながらも従う道を選んだ。
気付いた時には、私と莉央は、同じ家にいながら全く違う世界に立っていた。
母は狂っていた。
その狂気は日常の中に溶け、最も身近なものとして私たちを支配していた。
「笑いなさい」
「泣くのは許さない」
「その声は違う。もっと甘く。何でそんなこともわからないの?」
「誰に似てこんな不細工な顔になるの?」
「ねえ。ねえ。ねえ!!」
ヒステリーという言葉だけでは生ぬるい。
母は自分の理想を叶えるためなら、娘の心など簡単に踏み潰せる人間だった。
私はそんな母に反発し諌め続けた。
それが唯一の抵抗だった。
けれど殴られることもなく、怒鳴られることもなく、ただ完全に無視された。
まるで存在を消されたかのように。
私も早い段階で母を母と思うことを見限った。
何度父の元に行こうと思ったか知れない。
向こうに新しい家族がいなければ、きっとすぐにでも家を出たことだろう。
だが莉央は違った。
「お母さんの言う通りにできれば褒めてもらえる」
そう信じてしまった。
私は莉央のその思考そのものが、母に壊されかけている証拠だとわかっていた。
けれど、何をどう言っても莉央は私から距離を取っていった。
「美桜ねぇは、自由すぎるよ。私は……そうしちゃいけないの」
そう言われたとき、私は初めて……妹に拒絶される痛みを知った。
莉央の芸能界入りは、母の狂気に拍車をかけた。
ある日突然、母は嬉しそうに言った。
「さすが私の娘だわ。やっぱりこの子には才能があるのよ。私に似て表現の素質があるの」
私はその言葉に吐き気と嫌悪感を覚えた。
才能などではない。
母が裏で何をしてきたか、私は薄々気付いていた。
夜、ドレスを着た莉央が母と共に外出し、深夜遅い時間に帰ってくる。
その目は笑っていない。
帰宅した瞬間、空気に何か甘ったるい匂いが混じる。
私は部屋の扉を開け、震える妹の呼吸を聞いた。
「莉央……?」
「お母さんね……今日も褒めてくれたよ……。だから……大丈夫……頑張りなさいって言ってくれたから……」
大丈夫ではない。
大丈夫なわけがない。
ある夜、莉央は帰ってきてすぐに洗面台の前で吐いた。
口元を拭った手は冷たく震えている。
鏡の中の莉央は、まるで生気が抜けた人形のようだった。
そんな日が何日か続いたとき。
「飲めばね、楽になるって……言われたの」
震えながら笑う莉央の手には、からっぽの小さな袋が握られていた。
その中身がどれほど莉央を壊すものか、私は直感するのと同時に凍えるほどに寒気がした。
それから激昂して袋を奪い、母に叫んだ。
「なに、考えてんの……!! これ、何?! 莉央に何させてるの?!!」
「うるさい。この子は繊細なのよ。仕事で疲れてるのに、どうしてあなたは邪魔をするの」
母はワインを飲みながらテレビを見つめ、私の怒りなど存在しないかのように振る舞った。
その横顔に、底知れない不気味さを感じた。
これ以上はだめだ。
今すぐ莉央を連れて逃げないと、と私は手を掴んだ。
「莉央、もうあんな人の言うことなんて聞かなくていいよ!! あいつは自分のことしか考えてない!! このままじゃ莉央が!!」
もしも莉央がもう少しだけ強かったら。
もしも私がもう少しだけ強く言えてたら。
「でも……私たちのお母さんだから」
この先の結末は、違ったのかもしれない。
それから、莉央は急速に壊れ始めた。
眠れない。
食べられない。
落ち着かない。
夜中に何度も泣きながら、私の部屋で泣いた。
「美桜ねぇ……助けて……でも怖い……でも一人はもっと……」
帰ってくる度、莉央は甘い匂いを纏ってきた。
鼻につく嫌な大人の匂い。
その背中の震えは、今も脳裏に焼き付いて離れない。
翌朝、体調が芳しくないことを理由に休ませようとしたら、母は物凄い剣幕で怒鳴った。
「仕事に穴を開けるなんて!!あなた何を考えてるの!!」
莉央は怯えながら笑い、
「ゴメンなさい……大丈夫、頑張るから……」
そう繰り返した。
その言葉が、壊れていく歯車の軋みに聞こえた。
そして、あの日。
「莉央さんが倒れました」
病院からの電話だった。
私はスマホを放り出して飛び出した。
息が途切れ、心臓が胸を破りそうになりながら走った。
病院に着くと、白い布がかけられた小さな身体がそこにあった。
「莉央……?」
触れると冷たかった。硬かった。
その瞬間、世界の音が全て消えた。
泣き叫ぶことも出来ず、何度も名前を呼んで、莉央の手を握った。
「莉央……目を開けてよ、莉央……」
急性薬物中毒……後ろで医者からそう言っていた気がするけれど、私は何も言えなかった。
ただ、地獄から解放された莉央の顔は、少しだけ安らかに見えた。
母は廊下で喚いた。
「売れかけてたのに!!これからだっていうのに!!あの子、自己管理もできないなんて!!ああもう使えない子!!なんで、なんで、なんで!!」
私はその声を、ただ空気として聞いていた。
人の言葉にすら聞こえなかった。
あんな奴のせいで、と……怒りすら湧いてこない。
ああ、もう手遅れだったんだ。
壊れていたのは、私もだ。
その後、週刊誌が一斉に事件を報じた。
枕営業の斡旋、未成年への薬物供与、事務所の隠蔽体質、そして母の関与。
逮捕された母は言った。
「全部あの子のためだった。私のやり方が正しいのよ。間違ってたのはあの子だわ。あの子が言うことを聞いていれば」
狂気は最後まで母を支配していた。
勾留されている今も、同じことを繰り返しているらしい。
近いうち実刑判決が下されるとのことだけど、微塵の興味も無い。
葬儀のあと、私は莉央の部屋に入った。
事件を調べるため、めぼしいものは警察が押収して、部屋は少しだけ広くなったような気がした。
ベッドの上の枕には、今でもくっきりと涙の跡が残っている。
私は指先でそれをそっと撫でた。
「莉央……」
誰よりも家族を望んだ優しい妹。
応えなかったのは母だけでなく、私もだ。
もう普通の家族にはなり得ないとわかって拒絶した。
私も莉央のようにしていれば、一緒に苦しみを分かち合えていれば、莉央は死ぬことはなかったのかな。
もっと話をすればよかった。
もっと抱きしめればよかった。
「莉央……ッ!!」
私はベッドに顔を伏せ泣いた。
張り裂けるように泣いた。
後悔のための涙ではない。
ただ自分自身を罰するような涙だった。
私は何も出来なかった。してあげられなかった。守れなかった。
いい姉ではなかった。
それでも私は生きなければならない。
莉央が生きたかった未来を、誰かに繋がなければならない。
それから私は、同じように搾取に苦しむ子どもたちを救う活動に身を投じることにした。
その傷を抱えながら。
莉央。
あなたが壊れていった痛みを、私は決して忘れない。
世界のどこかで、あなたと同じように泣いている子がいるのなら……私はその子の手を離さない。
どうか見ていて。
私はあなたを失った痛みを、未来の誰かのために使うから。
ずっと、あなたを愛している。
たとえあなたが、もう触れられない場所にいても。
この先もあなたの姉で在り続けるために。
こんな感じの夢を見ました。
鬱展開は全然趣味じゃありませんが、どうしても文章にしたかった……!
お付き合いいただき感謝m(_ _)m




