早熟の天才 三輪鉄矢編(7)
「子どもはかわいいし好きですよ。でも、強くなりすぎた子どもはかわいくないんです。奨励会や奨励会に入る前の子は弱い大人をコケにするような態度をとるんですよ。うちはそういうアマ初段から三段くらいのお客さんが多いんです。だからそういう人たちを不快にさせないように苦渋の決断で出入り禁止にしてしまうんです」
これには私も反論を唱えたくなった。何もそういう子ばかりではないだろうと。特に三輪鉄矢のようなしっかりした子はそういう横柄な態度は見せないはずだ。
「いえ、もうそういう存在がダメなんです。小さいのに大人より強いというのはお客さんのプライドを傷つけます。すると居心地が悪くなるんですよ。うちが今日まで道場を続けていられるのもそういう理由だと思います」
三輪鉄矢は早熟の天才だった。しかし早熟がそのまま順調に成長するかというと現実は違う。大きく育つかどうかはその後の環境が大きい。
三輪龍男は棋士にするつもりはなかった。元々会社を受け継いでもらう予定だったので奨励会を受けさせようとはしなかったのだ。趣味として続けさせることは望んでいたようだったが、そのまま強くなっていたら棋士を目指していたのではないかと危惧していたという。
「当時は羽武フィーバーが落ち着いてきた時期でした。相変わらず将棋界は斜陽産業なムードがあったんです。トップになれるのはほんの一握り。それ以外は生活の保障もないイメージでしたし、会社を受け継ぐほうがこの子の幸せと思いました。追い打ちをかけたのが例の賞金大会です」
龍男は昭和の将棋界について、ある文献で知った。その時代にはいまほど将棋関連の仕事がなく、生活の苦しい棋士も多かったという。
「いまは藤木君という新たなスターが生まれてマスコミも追い続けていますね。あまり詳しくはありませんが、ずいぶんクリーンになった印象があります。将棋連合も将棋の向上に向けて頑張っています。いまだったら棋士を目指そうとしていたかもしれません」
以上が三輪鉄矢についての顛末である。わずか六歳で東京都代表になった天才はその名を取り上げられることなく将棋界から去った。小学生名人戦に出場していれば全国的に
知れ渡っていたに違いないと思うと惜しいばかりである。
大江功は残念そうに語る。
「実は東京都代表にはなったものの、全国大会には出場せず、準優勝の三上さん(※4)が出場したんです。三上さんは棚ぼたで全国に出て三位になれましたが、まったく喜んでおられなかったですね。三輪君のためにも優勝しないといけなかったと。仮に三輪君が出ていたらどうなっていたんでしょうね。全国にとんでもない子がいるってアピールできたはずです」
好意的な意見が並ぶ中で、ある愛棋家はこういった見解を述べる。
「全国に出なくてよかったと思っています。あんな小さい子が代表なんて天下の東京都は何やってんだと他県に笑われてしまったかもしれないですし。あの大会では多くの都内強豪たちのプライドがへし折られました」
都内で将棋教室を営む、とある普及指導員はこうも続ける。
「まだネットが発達していなかった時代でしたから。小学生になったらその内有名になるものだと思っていましたよ。ただ、うちの教室の子たちには三輪くんの存在を教えませんでした。あの賞金大会に出ていたみたいですから」
三輪鉄矢にはどこかアングラな部分も持ち合わせていたようだ。それはやはり賞金大会が絡んでいるという悪い噂が尾ひれになってしまったことが要因といえるだろう。天才過ぎたゆえのエピソードもちらほらあった。
あの大会に出ていなければ、優勝をしていなければ、龍男が抗議していなければ、棋士を目指せる環境が整っていれば、生まれる時代がもう少し遅ければ。将棋界は大変惜しい逸材を失ったとしかいえない。藤木五冠の打ち立てた最年少プロ入り記録を塗り替えていたかもしれない。




