早熟の天才 三輪鉄矢編(3)
「それで嫌になったわけじゃないと思うけど、急に大会に出なくなっちゃうんだよ。らくのーにも行けなかったみたいだしね」
なんということか、育ての親元である、らくらく上野将棋センターと疎遠になったらしい。取材時にはあまり引っかからなかったのだが重要な証言を見落としていたことに気づいたのだった。筆者の取材の甘さを痛感すると同時に藤野の長話を恨んだ。
再びその件について追加取材をすべく電話をかけ直したのだが、おかしなことに電話が繋がらない。最初の取材ではすぐに繋がったのだが。来る日も来る日も電話は不通のままだった。
十八回目のコール。この日はダメもとで深夜十一時ごろにかけてみた。すると、応答があった。
「なんですか。いい加減やめてもらえますかね」
藤野はすごい剣幕であった。就寝前だったのだろうか。
――夜分遅くに失礼いたします。先日の取材で気になることがありまして追加取材をさせていただきたいのですが。
「うちは取材に応じません。あなたどこの出版社ですか。これ以上続くなら迷惑行為で法的措置を取らせてもらいますよ」
何だか大事になってしまいそうな気になったので筆者は詫びを入れたあと、今後の取材は一切しないことを約束した。だが本書の執筆を進めるうえで、最初に行なった取材内容については掲載の許可をいただくという、何とも不思議な塩梅で事なきを得た。
どうやら初回の電話取材の際に何か不都合があったらしい。ここからは筆者の推測でしかないが、らくらく上野将棋センターに行かなくなったことについて深堀させてほしくないのではと感じた。ほかに原因となる要素を振り返ってみてもそれ以外に要因が浮かばなかった。例えば前述した級・段をつけないことに関しては「それは書いてください」という対応だったし、『アマチュア将棋将棋界大捜索!』の半ば同人誌という発言にしても「あれは将棋界全員の共通認識」と同日中の取材に発していたのだ。ほかのそれらしき原因はわからなかった。
藤野との取材ルートが断たれたいま、再び成田のもとに戻るか、新たな証言を残せる人を探さねばならない。
そこで前述の『アマチュア将棋将棋界大捜索!』を手掛かりに捜査を進めた。まずはアマチュア賞金争奪杯大会の決勝で三輪に敗れた大江功。取材日の翌日に五十歳の誕生日を迎えるのだと当日の取材でわかった。現在は将棋を引退し、建築業に従事している。東京都文京区にある喫茶店で取材をした。
――三輪がらくらく上野将棋センターに通っていたのは知っていますか。
「ああ、三輪君は強くて有名でした。でもらくちん上野将棋センターに通っていたのは知らなかったですね。あの辺はほかにも神田や秋葉原や日暮里、町屋にも道場があったんです。少なくとも上野の子には見えなかったですね」
――らくらくです。上野の子に見えなかったというのは。
「うーんお坊ちゃんって感じだったですからね。もういまは潰れちゃったけど、実は九十年代に大手町に将棋道場があったんですよ。棋士が毎日派遣されてお客に指導するようなエリートな感じでね、手厚い指導が受けられる分、料金はバカ高かった。そこで育ったんだろうなって印象でした」
三輪のことについてはあまり知らないようだった。三輪とらくらく上野将棋センターに何があったのか。やはり成田のもとに戻ろうと決心しかけたところに、大江が重要な手掛かりを残してくれた。