早熟の天才 三輪鉄矢編(1)
昨今は藤木聡太による将棋ブームが叫ばれて久しい。
本書では世に出た天才と違い、ほんの少しの歯車が狂った関係で将棋界から姿を消した「元」天才にスポットを当てた。一九九五年、世間が羽武七冠フィーバーに沸く中で、いまも破られていないアマチュア代表最年少記録を打ち立てた三輪鉄矢、複数人との関係を持った魅惑の魔女こと元女流棋士西田宏美、厳しい家庭環境と師匠の軋轢に巻き込まれた奨励会員岩渕俊輔、そして本書で新たに登場する藤本治。本書の執筆にあたり、数多くの愛棋家、関係者、出版社並びに日本将棋連合さまに協力をいただいた。改めて感謝申し上げます。
(1)神童の申し子――三輪鉄矢(取材日時:2011年8月~2012年1月)
東京都上野にその名が残っていた。
1979年にオープン。今年で32年目を迎える老舗の将棋道場。「らくらく上野将棋センター」(※1)だ。道場名の由来は、将棋をまだ始めたことのない人でも気軽に入ってルールを教え、楽に将棋を覚えられたらという席主の思いで命名された。1999年までは来場者全員に特製の木製名札プレートを壁に飾っていた。いまでも周りを見渡せばびっしりとプレートで埋まっていることで有名だ。そこには律義に1回しか訪れたことのない客の名前もあるらしい。
今回は道場開店前の朝九時に取材を申し込んだ。開店までの午前十一時までにどれだけ話を引き出せるか。筆者にとって記念すべき初取材ということもあり緊張しながら臨んだ。
「いらっしゃい」
引き戸を開けると朗らかな老人が笑顔で迎え入れてくれた。今回の主役である三輪鉄矢を知る人物、成田誠だ。
成田誠は御年68歳。棋力はアマ四段の腕前。1978年の暮れに脱サラし、都内一等地の上野の土地を購入。それまでは一流企業に勤めていたのだが、36歳にして突如安定の道を自ら外れた。上野の土地に将棋道場席主として第二の人生を歩むことになる。
――なぜ脱サラして将棋道場を経営しようとしたのですか。
「将棋が好きだったんです。私のころは大川名人や中原名人が強かった時代でして、資金を貯めたら将棋道場を開くのが目標でした」
――将棋道場を開くにあたり不安はなかったのですか。
「当時は将棋ブームでした。娯楽が少なかったんです。スマートフォンはおろか、ファミコンもまだ生まれていませんでした。将棋を指すのには人と人とが向かい合って指すしかなかったんです。儲かるまではいかないけど、やっていける自信はありました。いまはネットが発達しましたからね。この時代にだったらやっていなかったかもしれなかったですね。」
昭和時代には将棋道場が都内各地に多く存在していた。現在はネット将棋の発達に伴い道場経営は苦戦している。らくらく上野将棋センターも赤字が重なっているようだ。
「時代の流れですから仕方がありませんね。でも、この道場で多くの人と出会いました。それが私の財産です」
成田は幸せそうに笑みを浮かべた。人生の選択に決して後悔はしていないそうだ。
それでは本題に向かいたい。三輪鉄矢という元天才将棋少年をご存知だろうか。1995年、当時羽武善治が七冠を獲得したときのころである。プロの世界で華々しい偉業が達成された裏でアマチュア将棋界に衝撃が走ったのだ。現在も続く全国アマチュア王座戦という大会で東京都代表に名乗りを上げた天才少年がいた。それが三輪であった。驚くなかれ、大人の混じる大会で当時六歳ながら代表を獲得したのだ。現在の最年少代表記録としていまも破られていない。
「三輪くんはうちの道場に四歳のころから来ていたんですよ。いつもお母さんと一緒にきていてね、とてもかわいらしかったんだけど、将棋がみるみるうちに強くなって、だんだんそのかわいらしさが怖くなったもんです」
成田は記憶もしっかりしており口調もはきはきとしていた。日頃将棋を指している甲斐でボケないのだという。
――三輪とは指したことはありますか。
「ありますよ。最初は私じゃなくてアルバイトの指導員だった藤野君(※2)に頼んだんだ。するとすぐに強くなったらしくてね。ある日道場の閉店間際の片付けしていた時間帯に藤野君に言われまして。成田さん、すごい才能の子がいるよって。ただまだそのときはその子のすごさに気づけていなかったですね」
――初心者のころから来られていたのですか。
「そうですね。藤野君がしばらくずっと教えていてね。うちの有段者の常連の人と指すようになったのは1年くらい経ってからかな。すごいスピードだったから記録しておくんだったと後悔していますよ」
三輪の戦績は残念ながら残っていなかった。対戦表をつけるようになったのは二○○○年からだという。成田は事務机の引き出しを開けて分厚いクリアファイルを手に取る。パラパラとめくって見せた。
「木製プレートがつけられなくなっちゃったからね。そこでこんなファイルにしてまとめることにしたんです。もう全盛期に比べてお客も減ってきてね。だから管理もしやすくなってきたので」
――当時は盛況だったから全員分まとめるのが大変だったのですか。
「ええ。私と藤野君の二人きりで中心になっていたものですから。忙しい時期には学生のバイトさんも雇っていたけど、まとめるのは厳しかったと思うなあ」
その後も成田から三輪について話を聞いたが、あまりにも成長が早かったのか、級位者のころの記憶がないという。
――有段者になってからの印象はありますか。
「うーん、そうだねえ。まああんまりないかなあ」
そう言って成田は下を向いた。急に歯切れが悪くなったのが気になったが、記憶から薄れるほどの成長速度であったことがうかがえた。その後も成田は多くを語らず、ファイルをパラパラと眺めるばかり。そろそろ道場を開ける時間帯が差し掛かってきたところで取材は終わった。
いまのところわかったのは、意外にも道場内で三輪鉄矢の驚異的な成長記録は残っておらず、いつの間にか有段者と対戦するようになっていたということだ。そういう子は将棋界ならままあるケースではある。しかし三輪鉄矢の場合はそれだけで済まない実績がある。
筆者は藤野君こと、藤野俊幸氏にも取材を申し込むことにした。しかし藤野は現在北海道に住まいを移しており、気軽には伺うことができなかった。関係者から電話番号を知り、電話での取材を申し込んだ。
※1 1990年に「らくちん上野将棋センター」から改名。
※2 藤野俊幸。現・指導棋士六段。