第十八話 沈黙の代償
「……わかりました。話します。
この町で何が起きているのか。私たちが、どうして隠してきたのか――全部」
女将――沙都子の震えた声に、市ヶ谷は思わず息を呑んだ。
その表情には決意が宿っていたが、同時に、苦しげな迷いも滲んでいる。
やがて、震える息を吐きながら、沙都子は口を開いた。
「……あいつら――半魚族は、三か月ほど前からこの町の沖に現れるようになりました。
それで……それから……」
言葉が途切れる。
沙都子の肩がかすかに揺れ、呼吸が浅くなっていく。まるで、目の前の空気さえ飲み込めなくなったかのように。
「大丈夫です。ゆっくりで構いません。よければ、お座りください」
九条が静かに声をかけ、沙都子をロビーの椅子へと促す。
彼女が腰を下ろすと、野崎、市ヶ谷、牛塚もそれに続いて席に着いた。
「……ありがとうございます。すみません……続きを話します」
沙都子が九条に深く一礼する。その動きには、日頃の品格がにじんでいた。
「T町は、言うまでもなく漁業で成り立っている町です。
海がなければ、暮らしていけません。
ですから……異星人が現れたからといって、漁を止めることはできませんでした。
それがまさか、あんなことになるなんて、誰も……思っていなかったんです。今思えば……あの時……止めておけば……」
声が震え、涙が滲む。
ロビーを支配するのは、静かなすすり泣きの音だけだった。
誰も言葉を挟もうとはしない。――ただ、一人を除いては。
「……半魚族が、漁師たちを襲ったんですね」
野崎の低い声が、空気を断ち切るように響いた。
穏やかな口調ではあるが、その目は沙都子の心の奥を射抜いている。
おそらく、彼女の内面を“読んで”いるのだろう。
(こういう時、本当に頼れる力だな……)
市ヶ谷はそう思いながら、ふと視線を落とす。
自分には何もできないという事実が、また心の中にのしかかってくる。
「……はい。そうです。
私たちは、何もしていなかったのに……! ただ、慎ましく、日々を生きようとしていただけなのに――あいつらは、それすら許さなかった……!」
沙都子の声に、怒りの色が混じりはじめた。
「ねえ……この旅館、変だと思いませんでした?
従業員が……私ひとりしかいないんです。
みんな……みんな、あいつらに殺されたから」
沙都子が壊れた人形のように微笑む。その笑みは、どこか空虚で、悲しみの奥に狂気が滲んでいた。
市ヶ谷は、その姿を目の当たりにして、思い至る。
(……わかった。だから、野崎には“読めなかった”んだ)
沙都子の心には、明確な“殻”があった。
恐怖と絶望に押し潰されないために、彼女は――
(……記憶と、感情を完全に切り離していたんだ。極限の状態で、心を保つために。――心が、心として機能してなかったんだ)
さらに。
(日常にしがみついていた。夕飯の献立のような、繰り返される生活の安心感に。
そうすることで、壊れないギリギリを、保っていたんだ)
野崎の能力は、表層にある意識や嘘を“読む”ものだ。
けれど沙都子の心は、深い深いところに沈んでいた ――沙都子自身でも手の届かない、闇の底に。
「……海に、近づいてはいけない。あいつらが、来るから……。最初は……話せばわかると思って、対話を試みました。――でも……無理でした。
あいつら、私たち人間のことを……まるで害虫を見るような目で、見てくるんですよ」
沙都子の言葉が震える。
「そして……強い。力が、圧倒的で……連れて行かれた人たちを、私は……何人も、見ました。
私の……息子も……私を庇って……!」
堰を切ったように涙があふれる。
沙都子は顔を覆い、大声で泣いた。
それは、長く抑え込まれていた精神がようやくほどけた証だった。
「それで……あいつらは、町の人間に黙っていろと言ったんですね。
誰かに話せば、もっと人間を襲うと――」
沙都子は答えられないほど泣き崩れていた。
その代わりに、“源ちゃん”と呼ばれた男性が、掠れた声で応じた。
「……そうです。それに、連れていかれた人間をまだ生かしているって言って……このことを口外したら、殺すって……。おそらくまだ、人質にされてる人がいるんです……」
ロビーに、再び沈黙が落ちた。
空調の音が、やけに冷たく耳に残る。
――町民を守るための沈黙。
けれどその代償は、あまりにも大きかった。
その重苦しい静けさを破ったのは、牛塚の叫び声だった。
「……じ、じゃあ、妹も! 生きてるってことだよな!?」
突如響いた声に、市ヶ谷の肩がびくりと跳ねた。
けれど、それ以上に胸を締めつけたのは――牛塚の表情だった。
どこか取り繕っていた顔が、今にも崩れ落ちそうになっていた。
必死で怒りに変えていた感情の奥に、隠しようのない不安が滲んでいた。
「大丈夫だよ! このじいさんたちはただモンじゃねえんだ! は、半魚族だって、何とかなるよな? なっ!?」
すがるような目で、牛塚は周囲を見渡す。
その瞳には涙が浮かび、声はかすれて震えていた。
その様子に、市ヶ谷は視線を合わせることができなかった。
喉が詰まり、思わず下を向く。
(俺には、俺には何もできない……。
ここにいるのに、何一つ役に立てない……。こんなに辛い思いをしている人が目の前にいるのに、俺ただ見てるだけだ……)
「頼むよ……妹が、真洋がまだ生きてるかもしんねぇんだ……!
今も、どこかで震えてるかもしれねえ……!」
牛塚の声はどんどん切羽詰まっていく。
拳を震わせ、何かにすがるように――それでも、誰にすがればいいのかわからないまま。
「お願いだ、何でもする! 今から行こう、半魚族のところに。今から助けに――」
「牛塚さん」
低い声が、ぴたりと空気を断ち切った。
振り返ると、野崎が立ち上がっていた。
「牛塚さん、行くってどこに行くんですか。女将さ んの話、聞いていましたか。九条さんだって言っていましたよね? 水辺に近づくなと」
その声音には、怒りも同情もなかった。ただ、真っ直ぐな冷静さだけがあった。
「今、感情で動いてはいけません。あいつらは狡猾なんです。一歩間違えれば、あなたも戻ってこられなくなる」
一瞬、牛塚が息を呑んだ。
言葉を失ったまま、その場に立ち尽くす。
肩が上下に揺れ、奥歯がきしむ音さえ聞こえそうなほどだった。
市ヶ谷はその背を見つめながら、胸の奥がざらつくような思いに満たされていく。
(……本当に、俺には何もない)
女将は、記憶と感情を切り離してまで正気を保とうとしていた。
夕飯の献立のような、“日常の繰り返し”にしがみついて。
牛塚は、自分にできることを必死に探しながら、崩れそうな感情をかろうじて叫びに変えていた。
(それなのに俺は――)
拳を握る自分の手が、あまりにも頼りなく見えた。
* * *
「ごめんなさい、取り乱してしまって……」
少し落ち着きを取り戻した沙都子が、絞り出すように言った。
その声には、ようやく言葉を選べる程度の平静が戻ってきていた。
「この町の人間が少ないのも、やけに静かなのも、全部――あの半魚族のせいなんです。
言うことを聞かない者は、見せしめに殺されました。酷いやり方で……」
ロビーの空気がふたたび重くなる。
「最初、町長さんは彼らに立ち向かっていたんです。でも今は……」
沙都子が言い淀んだ。
「……町長さんにお会いになりましたか?」
上げられた視線が、九条たちを探る。
「はい。漁港でお会いしました」
九条が穏やかに答えると、沙都子はふっと視線を落とした。
「様子、おかしかったでしょう? ……あれが、今の町長さんです」
確かに、漁港で出会った町長の姿は印象的だった。服装も言動も、目線さえも、どこか生気を欠いていた。
「町長さんは、何度も警察や行政に訴えていました。『海に異星人がいる』『町民が襲われている』と。
でも、まともに取り合ってもらえなかった。証拠がないからだと……それどころか、“異星人差別”だと責められ、捕まりそうになって……」
言葉の節々に悔しさが滲む。
「それでも、あの人は何度も戦ってくれました。
町を、町民を守ろうと、必死だったんです。
けれど、ある日……」
そこで、沙都子の声が途切れた。
「――町長のご家族が、浮いていたんです。漁港に。
あの人の奥さんも、息子さんも、息子の奥さんも……歳の小さなお孫さんだって……」
その言葉が何を意味するのか、誰も聞き返すことはできなかった。
市ヶ谷も、牛塚も、言葉を失ったまま息を呑む。
野崎だけが、既に知っていたような顔で、眉をひそめていた。
「遺体は……見たこともないような、酷い状態でした。それで……ただ浮かんでいて……」
沙都子の声が震え出す。
「私は……その場にいました。呆然として、立ち尽くす町長を見て、何もできなかった。ただ、見ているだけでした……」
絞り出すような言葉に、市ヶ谷は胸が締めつけられた。
(……わかる。わかります、女将さん)
心の奥で強く頷いた。
自分もまた、目の前の現実にただ立ち尽くすしかできないからだ。
「町長さん、壊れてしまいました。
……あの人、もう何も、思い出さないんですよ。あんなに戦っていたのに……。でもあんなことがあったら、誰だってそうなりますよね」
沙都子は、自分に言い聞かせるように言った。
すると、野崎が口を開いた。
「そんなことがあったんですね。
町長の様子からして、明らかに心的外傷の兆候があると思います。
――そして女将さん、あなたもです。いずれは、病院でのケアが必要です。でも今は、もう少しだけ力を貸していただけませんか」
静かな、けれど芯の通った声だった。
「人質として生かされている人間がいるかもしれないという話、ありましたよね。
その人たちは……どこにいるか知っていますか?」
その問いに、沙都子は小さく首を横に振った。
「わかりません。ごめんなさい……
でも、私たち人間が生きられないような海中の場所ではないはずです。
もしかしたら――あの岩の島かもしれません。あの辺りに、半魚たちは住み着いているようなんです」
言葉の先に、不安と希望の両方が見えた。
「ただ、あそこに行くには、海を渡らないと……」
そこで、九条が穏やかに言葉を挟んだ。
「そうですね。海は危険です。それに、島に本当に人がいるのか、確証もありません。
仮に渡れたとして、誰もいなければ、帰路が危険になる可能性もある。
――ですが、私にひとつ考えがあります。
ひとまず今日は、皆さんお休みになってください。
夜の海は視界が利きません。明日の朝、再びここで集まりましょう。
野崎くん、市ヶ谷くんは、彼を病院へ運んであげてください」
その声は、静まり返ったロビーに、小さな希望の響きをもたらした。
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