第十七話 海に沈む影
市ヶ谷と牛塚は、旅館を出てからしばらく無言のままだった。
通りは狭く、両脇には古びた漁師町の家々が肩を寄せ合っている。夕暮れの陽が瓦屋根を撫で、空に残る光が白壁に淡い橙を落としていた。
潮混じりの風が吹き抜けるたび、肌の上にねっとりとした湿気がまとわりつく。気温はそこまで高くないはずなのに、背中にじわりと汗が滲む。
(何も起きてなければいいけど……)
牛塚の歩幅は大きく、早かった。
黙々と先を行くその背を追いながら、市ヶ谷も口を閉ざしたままついていく。
――すると、牛塚がふいに立ち止まり、振り返った。
「なあ、あんたらの本当の目的って何なんだ? ただの観光客じゃねえってことはわかってんだ。
それに――異星人に危害を加えたら、マズいんじゃねえのか? 警察に捕まっちまう」
不意を突かれて、市ヶ谷は一瞬返答に詰まった。
牛塚の発言は、異星人の裏の顔を知らない、ごく普通の一般人の発言であったからだ。
「……それは……」
少し前まで自分も牛塚と同じ立場だった。
そう考えると、口の中で言葉がもつれる。
二人の間に沈黙が訪れた。
「それとも、あんたらだけは、大丈夫なのか? あの得体の知れない連中に、関わっても……」
探るような言い方だったが、その声にはどこか疲れたような響きがあった。
しかしその言葉はしっかりと本質を突いていた。
「……牛塚さん。俺は、悲しい思いをする人が一人でも減ったらいいなと思います。そのためには、誰が相手であっても、立ち向かうつもりです。
――牛塚さんが、妹さんのために九条に頭を下げたように」
自分でも、驚くほど素直に口から出た。
牛塚はしばらく黙り込み、市ヶ谷の目をじっと見つめた。
その沈黙は、簡単には飲み込めない覚悟の重さを測るようだった。
それから、ぽつりと一言だけ。
「そうか……。そんくらい腹くくってんなら、少しは頼りにしてやるかな。俺のことも頼れよ。ボウズより、かなり大人なんだからよ」
そう言うと、何事もなかったかのように再び歩き出す。その背中は相変わらず早足だ。
市ヶ谷は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じながら、その背を追いかけた。
向かっているのは、昼間、自分たちに「海に出るな」と警告してくれた初老男性の家だった。
(……おじいさん。どうか無事でありますように)
あの言葉がなければ、市ヶ谷たちは小舟に乗って、海へ出ていた。
半魚族に――直接、出くわしていたかもしれない。その考えが脳裏をよぎるたびに、無意識に足が速まる。
「ここだ」
牛塚が立ち止まった。目の前に現れたのは、こぢんまりとした一軒家だった。
木造の平屋で、築年数は古そうだが、玄関先は丁寧に掃き清められ、鉢植えの草花が風に揺れていた。
白いアジサイが咲き乱れ、夕光に浮かび上がっている。
あまりにも美しいその佇まいが、逆に不気味だった。
牛塚がインターホンを押す。
「おーい! じいさんいるか! ちょっと話がある!」
しばらく待っても、応答はない。
再びインターホンを押し直しても、家の中は沈黙したままで、カーテンの隙間にも、人影の気配はない。
「……留守、か?」
牛塚の眉がひそめられる。市ヶ谷も、胸の奥にざわつくものを感じた。
「さっきの様子からして、ずっと家にいるタイプの人だったと思ったんですけど……」
二人は目を見合わせる。目に浮かぶのは、ただの不安ではない。
どこか、直感に近い――ざらりとした緊迫感だった。
「……裏、回ってみるか」
家の脇を抜けて、裏庭へと回り込む。
――明らかに空気が変わった。
風が止まり、音が消える。
潮の匂いの奥に混じる、鼻を刺すような生臭さ。魚のそれとは違う。血と泥が混ざり合ったような、もっと深い匂い。
「……牛塚さん、あれ……」
市ヶ谷が指さす先、地面に続く奇妙な痕跡。
草が倒れ、土が無理やり引き裂かれたようにえぐれている。
その筋はうねるように、海の方へと伸びていた。
まるで、重たい何かを引きずったような形だった。
二人は無言で痕跡を辿る。足音を立てぬように、呼吸すら浅くなる。
やがて、木製の柵を越えると、視界が開けた。
そこには、あの小舟を見つけた浜辺が広がっていた。
夕陽はすでに半ば沈み、空も海も鈍い鉛色に染まり始めている。
波打ち際がかすかに光を反射し、あたりには誰の気配もない。
静かすぎる。
――ぽちゃん。
水面から、小さな音がした。
市ヶ谷は咄嗟にそちらを見た。
波間に、黒い影が浮かんでいた。
人のような輪郭を持つその影は、ぬるりと水面を滑り、尾を引くように海中へと沈んでいく。その背には、背鰭のようなものが揺れていた。人ではない。けれど、あまりにも人に“似て”いた。
(……まさか、あれが)
ぞわりと背筋に戦慄が走る。一瞬で喉が乾き、息が詰まる。
体が、動かない。
「おいっ!」
牛塚の怒声で、我に返った。
波打ち際――倒れている人影があった。
砂にまみれて横たわる、あの男性。顔色は真っ青で、唇は紫がかっている。生きているのか、死んでいるのか。
市ヶ谷が駆け寄ると、胸元が微かに上下していた。
「……生きてる!」
「よし、動くなよ、じいさん……!」
牛塚はすぐさま屈み込み、そのまま男性の体を抱き上げた。軽々と、迷いのない動きだった。
「……案外、力あるんですね」
「取材で山登ったりしてんだよ。体力はある方さ」
低く絞り出すような声。その言葉の奥に、怒りが滲んでいる。
牛塚は男を抱いたまま海を振り返ると、叫んだ。
「逃げてねえで、出てこいや!! ……この野郎!」
怒声が、海に吸い込まれていく。
「ここまでやって逃げんのか!? ふざけんなよ! 人間様なめんじゃねえ!」
だが、返ってくるのは、冷たい波音だけだった。
「チッ……くそ異星人め」
吐き捨てるように言い残し、牛塚は浜辺を背に歩き出す。
「さっさと戻ろうぜ。じいさん、冷えちまう」
「……はい!」
市ヶ谷はその背を追いながら、無意識に拳を握っていた。
(……怖かった)
あの影。あの“気配”。見た瞬間、体が動かなくなった。
ただ、見ていただけだった。
でも――それでも。
(俺も、役に立たないと)
九条と、野崎の背負っているものの重さが、少しだけ分かった気がした。
「なあ、ボウズ……さっきの、見たよな?」
「……はい。見ました」
ふたりの足元で、波が静かに寄せては返す。
その音が、ひどく冷たく、耳に残った。
――男を抱えたまま、牛塚は浜辺を駆け足で離れた。
それに市ヶ谷も無言でついていく。
通りは沈みかけた夕陽の名残に照らされ、瓦屋根の端がかすかに赤く染まっていた。
太陽は地平線の向こうへと消えかけ、町の影はじわじわと長く伸びていた。
* * *
市ヶ谷と牛塚が戻ると、旅館の自動ドアが、ひときわ大きな音を立てて開いた。
ロビーでは、野崎と九条が女将と並んで話し込んでいた。三人とも振り返り、こちらを見て目を見開く。
「……源ちゃん!?」
女将の声が、弾けた。
それは、市ヶ谷が昼間に聞いた丁寧で柔らかい声ではなかった。
作ったものではない、素のままの感情があふれた叫びだった。
女将は野崎と九条を押し退け、牛塚のもとへ駆け寄る。
「源ちゃん、どうしたの!? ねえ、どうしたのよお……しっかりしてよ、お願いだからっ!」
悲痛な叫びが、ロビーに響いた。市ヶ谷は呆然とその様子を見つめていたが、ふと、野崎の表情が動くのに気づいた。
(何か、わかったんだ……)
市ヶ谷は言葉にせずとも、それがわかった。
野崎の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなり、それからまっすぐに女将へと向き直る。
「女将さん。ボクたちは、あなたの敵ではありませんよ」
野崎の声は穏やかで、けれど揺るがなかった。
「あなたが心配しているようなことは、何ひとつありません。むしろその逆です。ボクたちは、あなたたちを――この町を助けたいと思っています」
まっすぐに女将の瞳を見据え、言葉を続ける。
その声音には、迷いも圧もなかった。ただ、事実だけを伝える響きがあった。
――その瞬間。
「……う、うぅ……」
源ちゃんと呼ばれた男性は、牛塚の腕の中で呻いた。
目を開け、視線がわずかに女将を捉える。
「沙都子さん……もう、ええよ……もう、楽になってくれ。全部、話してしまおう」
呟くように、けれど確かな声で男は言った。
「源ちゃん……でも、それを話したら……みんなが……」
女将の瞳が揺れる。躊躇と恐れが、その表情を曇らせる。
「……あいつらの言うことは全部、嘘やった。
わしらが信じて、守ってきた約束も、意味なんかなかった。
……言う通りにしてた、わしのことすら……殺しにきたんや」
男性はそう言って、痛む傷をかばうように胸元を押さえる。
その姿には、恐怖でも絶望でもない、すべてを受け入れたような落ち着きがあった。
「……この兄ちゃんらがおらんかったら、わしも……今ごろはもう……」
「でも、でも……それを話してしまったら……もう元に戻れへん……」
その言葉は、後悔とも恐れともつかない色が滲んでいた。
――ロビーの空気が、ひときわ静まり返る。
誰も、言葉を発さなかった。
市ヶ谷は、女将の視線がゆっくりと変わっていくのを見つめていた。
男性の痛々しい姿。
牛塚の怒り。
野崎のまなざし。
それらすべてが、女将に何かを訴えかけているようだった。
女将――沙都子は、小さく息を吐いた。
そして、静かにうなずいた。
「……わかりました。話します。
この町で何が起きているのか。私たちが、どうして隠してきたのか……全部」
その声はかすれていたが、確かな覚悟がにじんでいた。
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