第十五話 海に出てはいけない
旅館のロビーは、昼間とは少し違った空気に包まれていた。
冷房の風が静かに流れ、壁に落ちる影が、ほんのわずかに伸びている。
市ヶ谷と野崎、そしてフリー記者の牛塚の三人は、靴を脱いで館内へ入った。
「ほらよ。溶ける前に食っとけ」
牛塚が、自販機で買ったアイスを、市ヶ谷と野崎に手渡す。
「ありがとうございます……」
市ヶ谷は少し戸惑いながらも、包装をはがし、一口かじる。
バニラの甘さが、じんわりと口の中に広がっていく。
隣を見ると、野崎は「美味しい」と目を細めながら、嬉しそうに頬張っていた。
「あんたらのじいさんも、もうすぐ来るんだよな?」
牛塚はそう言って、自分のアイスを食べながら椅子に腰を下ろす。
――十数分後、旅館の自動ドアが開いた。
「お待たせしました」
姿を見せたのは九条だった。
テーブルに置かれたアイスの包装を一瞥し、視線を三人に戻す。
「牛塚さん、ですね。連絡を受けてすぐに向かいましたが、お待たせしてしまったようですね。
よろしければ、場所を変えて詳しくお話を伺っても?」
「ああ、もちろん」
牛塚が立ち上がり、伸びをする。
「ようやく、ちゃんと話を聞いてくれる人間に会えたぜ」
そう言って、鼻で短く笑った。
* * *
移動したのは、九条たちの部屋だった。
ローテーブルを囲んで座った四人の前には、牛塚が持ってきたコンビニ袋の中身――いくつものツマミが並べられている。
牛塚は軽く息を吐き、改めて口を開いた。
「遅ればせながら……俺は牛塚洋平。フリーで写真記者をやってる。少し前からこの町に来てて、表向きは“町の特集取材”っつーことで、住民と話をしてた。
だが、本当の目的は――妹を探すことだ」
「妹さん……ですか?」
九条の問いかけに、牛塚は静かに頷く。
「真洋って言うんだ。二十九歳。俺にとっちゃあ、歳の離れた可愛い妹だ。天真爛漫で、気立てが良くて――こんな田舎に嫁ぐってなったときは、俺も親父も枕を濡らしたもんだ。
それでも、俺と妹は仲が良くてな、週に二、三回程度は連絡を取り合ってたんだ。なあに、取り止めのないことだよ。最近あった出来事とか、飯の話とか。真洋には一歳の子どもがいたから、子どもの写真とか、そんな他愛もないやりとりだ。
……それが、三ヶ月前を境に、突然連絡が途絶えたんだ」
言いながら、牛塚はコンビニ袋から燻製チーズを取り出し、封を開ける。
ふわりと立ちのぼる香りが、部屋の空気を変える。
「最初は、忙しいんだろうって思って気にしてなかったんだけどな。でも、一ヶ月、二ヶ月……さすがにおかしいって思って、仕事を休んでここに来た。
だが――住所を尋ねても、家はもぬけの殻。電気も水道も止まってて、郵便物も溜まりっぱなし。
一応警察にも相談はしたが、家出扱いで終わりだったよ」
「近所の人にはお聞きされましたか?」
九条がたずねると、牛塚は首を横に振った。
「全員、知らないの一点張りだった。近所のやつらを問いただしても、最近見てないって。もちろん、旦那と子どもも行方不明」
言葉をひと息に吐き出すように語り終えると、牛塚は少しだけ目を伏せ、そして再び九条に視線を向けた。
「……話を聞いてくれて、ありがとな。俺の勘だけど、あんたら――ただの観光客ってわけじゃねえよな」
九条はわずかに笑みを浮かべ、「観光客ですよ」とだけ返す。
その返答に牛塚はふっと笑い、立ち上がる。
「……まあいいさ。変な話をして悪かった。けど、あんたらが力になってくれるなら、心強い。――頼む。一緒に俺の妹を探してくれ」
そう言って、まっすぐ九条に手を差し出す。
九条は目を細め、静かに席を立つと、その手をしっかりと握った。
「わかりました。できる範囲で、協力させていただきます」
静かな部屋の中で、力強い握手が交わされた。
「――あっ、そうだ。もうひとつ、気になることがあったんだ」
牛塚が思い出したように声を上げた。
「あんたら、町で何か変なもの見たり聞いたりしてないか? なんかの手がかりになるかと思ってさ」
「変なもの……?」
市ヶ谷が少しだけ視線を泳がせる。
「港に行ったとき、人が誰もいなかったのと、岩の島を見つけたくらいです。あれって……島なんですよね?」
――先ほどロビーで見かけた和服の老人のことも脳裏をよぎったが、見間違いかもしれない。市ヶ谷は言葉にするのをやめた。
牛塚はちらと窓の外に目をやり、指先で宙をなぞるように示した。
「ああ、あの島か。あそこはな、神様を祀ってる島なんだと。海の神か漁の神か、名前までは詳しく知らねえが、本殿はあの島の洞窟の中にあるって話だ。分社の方は町の中にあるらしいがな」
「詳しいですね」
野崎が口を開く。
「まあな、これでも一応記者やってんだ。
――だが、妙なんだよ。あの島の話をしようとすると、住民は一様に黙る。話を逸らすか、知らないって言って終わりだ。
俺は妹から話を聞いてたから知ってるけど、そうじゃなかったら、何もわからなかったはずだ」
「……あの島には、何かあるんですね」
九条が静かに呟く。
「一様に黙るということは、良くも悪くも何かがあるということです。
そして――その島への行き方について、一つ報告があります」
「なんですか?」
市ヶ谷と野崎がわずかに身を乗り出す。
それを見て、九条は満足そうに一拍置き、視線を窓の外へと向けた。
「先ほど、旅館の裏手側にある浜辺で、小舟を見つけました。管理されている様子はありませんが、状態は良好です。……おそらく、あの島まで渡ることは可能かと」
「ほんとに……!?」
市ヶ谷が目を見開く。
牛塚も身を乗り出すようにして、九条を見つめた。
「俺も……俺も一緒に行かせてもらえないか?」
その必死な様子に、九条は一瞬だけ表情を緩め、静かに頷く。
「もちろんです。責任ある立場としては推奨しかねますが……あなたには、それでも行く覚悟があるように見えます」
「……ありがとう。マジで、ありがとう」
牛塚が胸元を押さえて、深く頭を下げた。
* * *
旅館を出た四人は、九条の案内で裏手側の浜辺へ向かった。
旅館の裏手から、細い道を抜けてたどり着いたのは、入江の奥にひっそりと広がる小さな浜辺だった。
波はほとんど立たず、砂混じりの土がしっとりと湿っている。
海の匂いは強く、空気だけが、不自然なほど静かだった。
「……あれです」
九条が指さした先に、確かに一艘の小舟があった。
古びているが、造りはしっかりとしており、まだ海に浮かべるには十分な状態だった。
「……誰の船なんだろう」
市ヶ谷がぽつりと呟く。
「船体認識番号は見当たりませんね。持ち主が不明なのは本来なら問題ですが……今は、むしろ都合が良いとも言えます」
九条が静かに応じる。
「でも、オールがないみたいですね」
野崎が船の中を覗き込んで言った。
「……漕げなきゃ、どうにもならないな」
牛塚が肩を落とす。
「探してみましょう。近くの家に聞いてみれば、貸してくれる人がいるかもしれません」
九条の提案に、一同は頷き合い、近くの民家へと歩き出した。
声をかけたのは、浜辺のすぐそばにある古びた家の住人だった。
庭で草むしりをしていた初老の男性は、麦わら帽子に白いシャツ、ゴム長靴という典型的な海辺の町の住人という風貌だった。
「すみません、少しお尋ねしてもいいですか?」
野崎が声をかけると、男性は顔を上げ、軽く頷いた。
「船を漕ぐためのオールを探していまして。もしお持ちでしたら、貸していただけないかと。今から海に出る予定がありまして……」
その瞬間、男性の表情が豹変した。
「――海に出ては、いけないッ!!」
叫ぶような声に、市ヶ谷は思わず肩を跳ねさせた。
隣の牛塚も、驚いたように体を震わせていた。
男性は尋常でない様子で続けた。
「……海には、出るな……行ってはいけない……!!」
その声は震えていた。怒っているというよりも、“怯えている”ように見えた。
「どうしてですか?」
野崎が一歩踏み出し、低い声で問いかける。
その視線は、まっすぐ男性を射抜くようだった。
(……来た)
市ヶ谷はすぐに察した。
野崎が“読み取った”のだ――この男性の心の奥を。
男性は口を開きかけたが、喉を鳴らし、やがてうつむいた。
「……それは……言えん……言えん……」
野崎の顔には、わずかに強ばった影が浮かんでいた。
そして、ふっと視線を逸らし、頭を下げた。
「……すみません。今日来たばかりで、何も知らなくて。驚かせてしまいましたね」
「……いや……いや……わしの方こそ……強く言って、悪かった……」
初老の男性は、どこか逃げるような足取りで家の中に戻っていった。
場が静まり返る。
波の音と、どこか遠くで鳴くウミネコの声が、耳に染みるほどに響く。
季節はまだ暖かいはずなのに、空気の温度が一段階下がったような錯覚さえあった。
「……なんだったんだ、あのじいさん」
牛塚が腕を組み、首を傾げる。
「そんなに俺ら、変なこと言ってねえよな?」
沈黙ののち――
野崎がぽつりと口を開いた。
「――この町に、異星人がいる」
市ヶ谷は思わず息を呑み、九条は静かに目を閉じた。
牛塚は、一瞬ギョッとした表情を浮かべ、言葉を飲み込んだ。
野崎は目を伏せたまま、静かに続ける。
「それも――悪質な」
風が吹いた。
海辺の砂がわずかに巻き上がり、牛塚の足元をさらう。
岩の島の向こう。
夕暮れへと傾きはじめた空の下で、何かが、じっとこちらを見ているような気がした。
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