第十二話 旅立ちのまえに
野崎が盗み聞き行為をはたらいてから、数日が経った。
市ヶ谷は内心そわそわしながらも、黙ってその時を待ち続けていた。けれど――九条からの声は、なかなかかからなかった。
とはいえ、日々の雑務には真面目に取り組み、社内の備品の場所や業務の流れは、もうすっかり頭に入っていた。
そんなある日の午後。ついに、その瞬間が訪れた。
「市ヶ谷くん。少しいいですか?」
「はい! 大丈夫です!」
つい心が跳ねるのを感じながらも、できるだけ平静を装う。
九条に案内され、会議室Aへと入る。市ヶ谷は対面の席に腰を下ろした。
ホワイトボードは、かつて自身が丁寧に磨き上げたもので、いまも真っ白な光を湛えている。
視界に入るたびに、少しだけ誇らしい気持ちになる。
「仕事には、ずいぶん慣れてきましたね。市ヶ谷くんは物覚えも早くて、素晴らしいです」
九条は穏やかに言った。その声には、確かな信頼がにじんでいた。
「それと……野崎くんと仲良くしてくださって、ありがとうございます。
市ヶ谷くんが来てから、よく笑うようになりました。毎日とても楽しそうで……感謝しています」
その言葉に、市ヶ谷は思わず表情をゆるめた。
「いえ! 仲良くしてもらってるのは、むしろ僕の方で……。でも、野崎が楽しそうなら、本当に良かったです」
くすぐったいような、あたたかさが胸の奥に灯る。
誰かの笑顔の一部になることが、こんなに嬉しいんだ――と、初めて思った。
「……それで本題ですが――
来週、和歌山県に出張があります。現地調査の仕事で、私と野崎くん、そして市ヶ谷くんの三名で向かう予定です。問題ありませんか?」
「はい! よろしくお願いします!」
ついに来た――。
野崎が「海鮮ツアーだ!」とはしゃいでいたあの日から、この話が、ずっと心の片隅に引っかかっていた。緊張しながらも、市ヶ谷は迷わず答えた。
九条は満足そうに頷き、仕事の説明を始める。
「調査地は和歌山県T町。漁業を基盤とした町ですが、最近は不漁が続いているようで。
今のところ異星人の関与は確認されていませんが、社長の昔馴染みから『念のため調べてほしい』と依頼がありました」
九条が語った話は、全て野崎が言っていた通りだった。
力のことは、わかっていた――そのはずなのに、胸の奥が小さく揺れた。
「……わかりました! 全力を尽くします」
初めての現地調査。
異星人の関与は今のところなし=危険性は低い――だからこそ、市ヶ谷が今回の任務に選ばれたのだろう。
それでも、“任された”という事実が嬉しかった。
(初めての仕事……失敗はしたくない。俺に野崎みたいな特別な力はないけど、それでも、何か――役に立ちたいな。……ここにいていいって、思ってもらえるように)
市ヶ谷は、誰かに認められることに飢えていた。
この会社に入り、自分が必要とされる幸せを知ってしまったからだ。
「そんなに緊張しなくていいですよ」
市ヶ谷の様子に気づいたのか、九条がやわらかく笑った。
「一週間の滞在になりますから、必要な物を揃えておいてくださいね。スーツケースはお持ちですか? なければ私のものを貸しますよ」
「ありがとうございます。施設を出るときに使った大きなスーツケースがあるので、大丈夫です!」
子どもが一人入れそうな、古めのスーツケース。
それに、毎朝の寝癖チェックに使っている、年季の入った丸い鏡。
この二つは、物心ついたときからいつもそばにあった。
昔、職員に由来を尋ねたこともあったが――返ってきた答えは、今はもう思い出せない。たいした話ではなかったのかもしれない。
(……あのスーツケース、もしかして俺の両親の物だったのかな。
それを、いま俺が使うことになるなんて。なんだか、運命的なものを感じる)
顔も名前も知らない両親のことを、ふと考えた。
捨てられたのか、それとも育てられなかっただけなのか。――もしかしたら、異星人の被害にあっていたのかもしれない。
(両親か……どんな人なんだろう。九条さんみたいな、優しい人だったらいいな。なんか、九条さんといると落ち着くし)
ふと目を向けると、九条は静かに微笑んでいた。
……それだけで、なんとなく気持ちがやわらいだ。
「飛行機で向かう予定ですが、市ヶ谷くんは飛行機に乗ったこと、ありますか?」
「いえ、まだ一度も。でも……楽しみです!」
初めてのフライト。緊張よりも期待のほうが勝っていた。
市ヶ谷の返答に、九条は頷いた。
「当日は……空港集合にしましょう。朝の早い便ですから、寝坊にはくれぐれも気をつけてください。
不安なら、五階に泊まって、野崎くんと一緒に来ても構いませんよ」
五階。宿直室のあるフロアだ。
そういえば、野崎がそこに住み着いているという話を、本人から聞いたことがあった。
「ありがとうございます。……いいんですか? なら、そうさせてもらおうかな……。どうしよう……」
口では迷ってみせたけれど、心の中ではもう決めていた。
遅れたくないという気持ちがずっと強かった。
「大丈夫ですよ。最近は、野崎くんが毎日使っているようですし、生活に必要なものも一通り揃っていると思います」
(あ、野崎が住みついてること知ってるんだ……)
「そうなんですね! では、お言葉に甘えて前日は泊まらせてもらいます。
空港までは野崎と一緒に向かいます。……絶対、遅れないようにします!」
「心配はしていませんが。よろしくお願いしますね」
「はい!」
九条に深く一礼し、背筋を伸ばす。
初めての出張、初めての任務。
(大丈夫。きっと、うまくいく)
不安もある。
でも、それ以上に、今はただ前に進みたい。
* * *
その晩、市ヶ谷はスーツケースを引っ張り出し、表面についた古い傷をぼんやり見つめていた。
かつて両親が使っていたのかもしれない――そんな思いが、ふと胸をよぎる。
「両親のことは、考えないようにしてたけど……どんな人だったんだろう。お父さん、お母さん……」
感傷に流されそうになって、慌てて頭を振る。
「やっぱ駄目だな、夜にこういうことを考えると暗くなる。
今の、俺の居場所は、トリカブト。――変な名前だけど、でも……」
少しだけ言い淀んでから、小さくつぶやいた。
「……俺の、大事な場所」
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