表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ディープ・ブラック・アコニツム  作者: 谷口凧
第二章:海と異変の町編
12/33

第十二話 旅立ちのまえに

 野崎が盗み聞き行為をはたらいてから、数日が経った。

 

 市ヶ谷は内心そわそわしながらも、黙ってその時を待ち続けていた。けれど――九条からの声は、なかなかかからなかった。


 とはいえ、日々の雑務には真面目に取り組み、社内の備品の場所や業務の流れは、もうすっかり頭に入っていた。

 そんなある日の午後。ついに、その瞬間が訪れた。


 「市ヶ谷くん。少しいいですか?」


 「はい! 大丈夫です!」


 つい心が跳ねるのを感じながらも、できるだけ平静を装う。

 九条に案内され、会議室Aへと入る。市ヶ谷は対面の席に腰を下ろした。


 ホワイトボードは、かつて自身が丁寧に磨き上げたもので、いまも真っ白な光を湛えている。

 視界に入るたびに、少しだけ誇らしい気持ちになる。


 「仕事には、ずいぶん慣れてきましたね。市ヶ谷くんは物覚えも早くて、素晴らしいです」


 九条は穏やかに言った。その声には、確かな信頼がにじんでいた。


 「それと……野崎くんと仲良くしてくださって、ありがとうございます。

 市ヶ谷くんが来てから、よく笑うようになりました。毎日とても楽しそうで……感謝しています」


 その言葉に、市ヶ谷は思わず表情をゆるめた。


 「いえ! 仲良くしてもらってるのは、むしろ僕の方で……。でも、野崎が楽しそうなら、本当に良かったです」


 くすぐったいような、あたたかさが胸の奥に灯る。

誰かの笑顔の一部になることが、こんなに嬉しいんだ――と、初めて思った。


 

 「……それで本題ですが――

 来週、和歌山県に出張があります。現地調査の仕事で、私と野崎くん、そして市ヶ谷くんの三名で向かう予定です。問題ありませんか?」


 「はい! よろしくお願いします!」


 ついに来た――。

 野崎が「海鮮ツアーだ!」とはしゃいでいたあの日から、この話が、ずっと心の片隅に引っかかっていた。緊張しながらも、市ヶ谷は迷わず答えた。

 

 九条は満足そうに頷き、仕事の説明を始める。


 「調査地は和歌山県T町。漁業を基盤とした町ですが、最近は不漁が続いているようで。

 今のところ異星人の関与は確認されていませんが、社長の昔馴染みから『念のため調べてほしい』と依頼がありました」


 九条が語った話は、全て野崎が言っていた通りだった。

 力のことは、わかっていた――そのはずなのに、胸の奥が小さく揺れた。


 「……わかりました! 全力を尽くします」


 初めての現地調査。

 異星人の関与は今のところなし=危険性は低い――だからこそ、市ヶ谷が今回の任務に選ばれたのだろう。

 それでも、“任された”という事実が嬉しかった。


 (初めての仕事……失敗はしたくない。俺に野崎みたいな特別な力はないけど、それでも、何か――役に立ちたいな。……ここにいていいって、思ってもらえるように)


 市ヶ谷は、誰かに認められることに飢えていた。

 この会社に入り、自分が必要とされる幸せを知ってしまったからだ。


 「そんなに緊張しなくていいですよ」


 市ヶ谷の様子に気づいたのか、九条がやわらかく笑った。


 「一週間の滞在になりますから、必要な物を揃えておいてくださいね。スーツケースはお持ちですか? なければ私のものを貸しますよ」


 「ありがとうございます。施設を出るときに使った大きなスーツケースがあるので、大丈夫です!」


 子どもが一人入れそうな、古めのスーツケース。

 それに、毎朝の寝癖チェックに使っている、年季の入った丸い鏡。

 この二つは、物心ついたときからいつもそばにあった。


 昔、職員に由来を尋ねたこともあったが――返ってきた答えは、今はもう思い出せない。たいした話ではなかったのかもしれない。


 (……あのスーツケース、もしかして俺の両親の物だったのかな。

 それを、いま俺が使うことになるなんて。なんだか、運命的なものを感じる)


 顔も名前も知らない両親のことを、ふと考えた。

 捨てられたのか、それとも育てられなかっただけなのか。――もしかしたら、異星人の被害にあっていたのかもしれない。

 

 (両親か……どんな人なんだろう。九条さんみたいな、優しい人だったらいいな。なんか、九条さんといると落ち着くし)


 ふと目を向けると、九条は静かに微笑んでいた。

 ……それだけで、なんとなく気持ちがやわらいだ。


 「飛行機で向かう予定ですが、市ヶ谷くんは飛行機に乗ったこと、ありますか?」


 「いえ、まだ一度も。でも……楽しみです!」


 初めてのフライト。緊張よりも期待のほうが勝っていた。

 市ヶ谷の返答に、九条は頷いた。


 「当日は……空港集合にしましょう。朝の早い便ですから、寝坊にはくれぐれも気をつけてください。

 不安なら、五階に泊まって、野崎くんと一緒に来ても構いませんよ」


 五階。宿直室のあるフロアだ。

 そういえば、野崎がそこに住み着いているという話を、本人から聞いたことがあった。


 「ありがとうございます。……いいんですか? なら、そうさせてもらおうかな……。どうしよう……」


 口では迷ってみせたけれど、心の中ではもう決めていた。

 遅れたくないという気持ちがずっと強かった。


 「大丈夫ですよ。最近は、野崎くんが毎日使っているようですし、生活に必要なものも一通り揃っていると思います」


 (あ、野崎が住みついてること知ってるんだ……)


 「そうなんですね! では、お言葉に甘えて前日は泊まらせてもらいます。

 空港までは野崎と一緒に向かいます。……絶対、遅れないようにします!」


 「心配はしていませんが。よろしくお願いしますね」


 「はい!」


 九条に深く一礼し、背筋を伸ばす。

 初めての出張、初めての任務。


 (大丈夫。きっと、うまくいく)


 不安もある。

 でも、それ以上に、今はただ前に進みたい。



* * *



 その晩、市ヶ谷はスーツケースを引っ張り出し、表面についた古い傷をぼんやり見つめていた。


 かつて両親が使っていたのかもしれない――そんな思いが、ふと胸をよぎる。


 「両親のことは、考えないようにしてたけど……どんな人だったんだろう。お父さん、お母さん……」


 感傷に流されそうになって、慌てて頭を振る。


 「やっぱ駄目だな、夜にこういうことを考えると暗くなる。

 今の、俺の居場所は、トリカブト。――変な名前だけど、でも……」

 

 少しだけ言い淀んでから、小さくつぶやいた。

 

 「……俺の、大事な場所」

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ