第十一話 ひみつの囁きは海の気配
入社二日目――
この日から、市ヶ谷の目まぐるしい日々が始まった。
書類整理に郵便物の仕分け、九条や野崎の業務サポート、掃除に備品の補充まで――
いかにも新入社員らしい雑務をこなす毎日が、気づけばすっかり日常になっていた。
「そういえば、この会社、固定電話がないな……」
コピー機に紙を詰めながら、市ヶ谷がぽつりとつぶやく。
すると、近くを歩いていた野崎が、すぐに反応した。
「うちは基本的に、外部からの連絡は全部社長が受けるんだよ。依頼も、その伝達も、全て社長がやっているから。だから電話対応なんてないんだ」
「へぇ、そうなんだ」
社長がすべての窓口。
一般的な会社と比べればずいぶん特殊だが、この職場にはどこかそのルールがしっくりと馴染んでいる気もした。
「それよりさ、仕事にはもう慣れてきたよね? 正直、雑用ばっかりで暇でしょ? ――そろそろ、現地調査に行きたくない?」
眉を上げて、ニヤリと笑う野崎。
その表情を見ただけで、市ヶ谷にも一瞬でわかる。
(絶対何か企んでるな……)
心を読まれる前提で、市ヶ谷は心の中でつぶやく。
すると案の定、野崎はすっと距離を詰めてきて、こそこそと耳打ちしてきた。
「実は、九条さんの心を読んじゃったんだ。近々、和歌山県に調査へ行く予定らしいよ。誰を連れて行くか迷ってた」
(上司の心を読むのは……さすがにダメじゃない!?)
思わず声が出そうになるのを堪え、内心で全力ツッコミ。
おそらくまだ非公開の案件なのだろう。だからこそ、野崎もこんなふうに秘密めかして話しているのだ。
「ふふ、和歌山だよ? 遠出するの久しぶりだから、ついテンション上がっちゃって。
しかも今回は、そんなに危ない案件じゃないみたいなんだ。……ここで話すのもなんだから、ちょっとこっち来てよ」
そう言って、二人はこそこそと執務スペースを出て、廊下の階段へ移動する。
「最近、九条さんが社長とよく話してるなと思っていたけれど、この件だったみたい。
現場は和歌山県のT町。漁獲量が減っているって話で、その原因を確認しに行くみたいだよ。異星人が関与しているという情報は今のところなし。
もしかしたら、ただの海鮮ツアーになるかもね」
食べ物の話になると、自然と口調が弾んでいた。どうやら、本当に楽しみにしているらしい。
「そうなんだ。何もないに越したことはないけどね……でもやっぱり、九条さんの心を読むのってマズくない? 怒られたりしない?」
素朴な疑問を口にする。
野崎の力は、自分の意思で使わなければ発動しないのだから、使ったとわかれば問題になるのではないか――そう考えるのは自然だった。
「大丈夫だよ。九条さん、本っ当に怒らないから。ボクたちのこと、孫みたいに思っているっぽいし。歳下に優しいんだ」
グッと親指を立て、ウインクまで添えてくる。
やけにご機嫌な様子の野崎を見て、市ヶ谷は思わず笑ってしまう。
整った顔立ちなのに、そのテンションとのギャップが少しずるい。
「シダが最近ずっと不在だから、今回はボクがアサインされると思う。
なんとか市ヶ谷も一緒に行けるようにお願いしてみるから、楽しみにしておいて。海鮮料理!」
「ありがとう。でも、俺まだ新人だし、役に立てるのかな……。
……あっ。そういえば、シダさんってどこに行ってるの? 俺、入社してから一度も見かけてないんだけど」
ふとした疑問を投げかけると、野崎はあっさりと答えた。
「どうやら、異星人特別区に潜入しているみたいだよ。
危険な任務だから、おそらくは十三種族に擬態しているんだと思う。戻ってきたら、挨拶しに行こうね」
「うん、そうする。ありがとう」
「じゃ、席に戻ろうか。九条さんから声がかかるのを祈って、ね」
くるっと身を翻し、スタスタと戻っていく野崎。
その背中を見送りながら、市ヶ谷はふと立ち止まった。
(さすがに一緒に戻ったら、怪しまれるかも……)
そう思い、階段から少し外れて、ふらりと別方向へ歩き出す。
(よし、廊下に出たついでに、トイレの備品チェックでもしておこう)
――自然を装って、雑務に向かうのであった。
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