第一話 新生活、毒入り
「ネクタイって、こんなに難しいんだな……」
狭くて静かなワンルーム。
壁に掛けられた年季の入った鏡を前に、市ヶ谷ソラは不格好な結び目と格闘していた。
これまでの十九年間、ネクタイを結ぶ機会なんて一度もなかった。
だから当然、何度やっても形はうまく整わない。
それでもようやく見られても恥ずかしくない程度になったのは、時計の針が八時四十五分を回った頃だった。
「……これで、いいかな」
そう呟いて、ふわりと揺れた茶色がかった猫っ毛。
鏡の奥に映る自分の姿に、まだ実感が湧かない。
今日は入社式。新しい人生が始まる日――のはずだった。
「やばっ、遅刻する!」
カバンをつかんで玄関を飛び出す。初日からギリギリなんて印象が悪すぎる。
だが、荷物の準備を昨夜のうちに終えていた自分を、いまは少しだけ褒めたかった。
市ヶ谷ソラ、十九歳。
高校では常に成績上位。学費免除で都内の名門・H大学に入学した秀才だ。
ただし、大学生活は一年も経たずに終わった。
理由はひとつ。
――鬼人族の暴動事件である。
「鬼人族さえ暴れなきゃ、今日はもっと普通の朝だったのに……!」
息を切らしながら坂道を駆ける市ヶ谷は、空に向かってそう叫んだ。
鬼人族。
平均身長三メートル。硬質な緑の皮膚に、まるで“鬼”のような顔を持つ異星人種族のひとつ。
今から百十年前――十三種族の異星人たちが地球にやってきた。
それをきっかけに西暦は廃止され、新たな暦「星暦」が導入された。
義務教育では、十三種族は「共存の象徴」として紹介される。
メディアに登場する人気者もいれば、学校や職場で関わることもあるが、
実際、多くの異星人は“異星人特別区”、通称〈特区〉と呼ばれる専用エリアで暮らしており、
人間社会とは一定の距離を保ちながら生活している。
“異星人と仲良く”という空気は、特に若い世代のあいだで当たり前になっていた。
――少なくとも、表向きは。
中には、人間にとって脅威となる存在もいる。
鬼人族はその代表格だった。
興奮すると理性を失い、人間を襲うこともある。
教科書の写真だけで泣き出す子どももいるほど、その姿は恐ろしかった。
事件が起きたのは、初夏のある日。
H大学の校舎が爆音とともに揺れた。
天井が崩れ、床が割れ、何が起こったのかも分からぬまま、市ヶ谷は瓦礫に飲まれた。
覚えているのは、熱い風、叫び声、そして舞う粉塵の匂い。
考える間もなく意識が途切れた。
助かったのは、いくつかの偶然が重なったからだ。
鬼人族を直視しなかったこと。
季節が春で、気温がそこまで厳しくなかったこと。
そして――
誰かが、瓦礫の中から自分を見つけてくれたこと。
その“誰か”の名前は、佐々木ミク。
黒スーツにツインテールという異質な風貌の女性で、
市ヶ谷を救い出してくれた命の恩人だ。
彼女の所属先が、今まさに向かっている「合同会社トリカブト」である。
大学は建物の半壊により、事実上の機能停止となった。
国からの支援も遅く、ニュースではガス爆発として処理され、異星人の関与は一切報じられなかった。
学生たちは転学か中退を迫られたが、補助金は微々たるもので――
施設育ちの市ヶ谷にとっては、それでどうにかなるような額ではなかった。
そうして、進路を失い、行き場を失いかけていた哀れな青年に、佐々木が声をかけてくれたのである。
「うちに来ないか?」
そう言って差し出された名刺には、「合同会社トリカブト」という、毒草の名が記されていた。
怪しさはあった。けれど、佐々木のまっすぐな瞳を前に、疑う気持ちは不思議と湧かなかった。
坂を登りきったところで、市ヶ谷は立ち止まり、大きく息を吸った。
背筋を伸ばし、スーツの裾を整える。
ここが、自分の新しいスタート地点だ。
合同会社トリカブト。
毒草の名を冠した会社で、市ヶ谷ソラの第二の人生が始まろうとしていた。
◇
「……間に合った!」
肩で息をしながら、スーツの袖を軽く整え、市ヶ谷はビルの前に立った。
時刻は八時五十五分。ギリギリ、でもセーフ――なはずだ。
目の前にあるのは、「合同会社トリカブト」と小さく記された、スタイリッシュな四階建てのビル。
大都会・T区の中枢に位置する立地は、一見すると超一流企業のそれだった。
(本当に、ここで働くんだ……)
そんな実感が、ようやく心の底からわいてくる。
ただ、ネットで調べても会社の公式サイトは一切見つからなかった。
頼れるのは、佐々木から渡された名刺と、何度か交わした電話だけ。
仕事内容についても「入ってからのお楽しみ」としか言われていない。
「ホワイト企業で社会奉仕的な仕事だし、怪しいことはしてない」――そう佐々木が言えば言うほど、むしろ不安は膨らんでいく。
「ま、信じるしかない……よな」
自分に言い聞かせながら、自動ドアをくぐる。
受付には誰もいなかった。
代わりに「長椅子におかけください」と手書きのメモがぽつんと置かれている。
(誰もいない……? 良かった、間に合ったんだ)
気が抜けたように息を吐いたそのとき――
「君、遅いんじゃないか?」
背後から低い声がかけられ、ソラはびくりと肩をすくめた。
振り返ると、スーツのしわすら見当たらない黒髪の青年が、腕を組んで立っていた。
年齢は市ヶ谷と同じくらいに見えるが、目つきも態度もどこか鋭く、こちらをじっと値踏みするように見つめてくる。
(……こわっ! え、誰だ!?)
「えっと、もしかして君も新――」
「違う。ボクはここの従業員だよ。君の案内役として、ここで待ってた」
ピシャリと告げられ、市ヶ谷は内心で「うわぁ」と呻いた。
自分の緊張が見透かされたようで、恥ずかしさと申し訳なさが込み上げる。
(絶対呆れてる……ネクタイなんかに時間かけてる場合じゃなかった……ゴメンナサイ)
青年はため息をひとつつき、「ついてきて」と言い残し、エレベーターではなく階段のほうへ向かっていった。
「ボクの名前は野崎青。分からないことがあったら何でも聞いて」
「は、はい。よろしくお願いします……!」
階段を上りながらも振り返らないその姿は、落ち着いていて、どこか隙がない。
市ヶ谷はペースを合わせるので精一杯で、ますます縮こまってしまう。
「入社式っていっても、もう五月だし、今年の新人は君ひとり。式も形式的なものだから、そんなに緊張しなくていいよ」
そう付け加える声は、先ほどよりわずかにやさしくなっていた。
それが気遣いからなのか、あくまで事務的なのか――市ヶ谷にはまだ判断がつかなかった。
二階に着くと、階段のすぐそばに「第一応接室」と書かれた金属のプレートがかかった部屋に案内される。
重厚な木製テーブルに、革張りの椅子。
壁には絵画やアンティーク風のインテリアが並び、どこか古い洋館のような趣きがあった。
「この部屋は外部の来客用で、会社で一番豪華な部屋なんだ。さ、座って」
「ありがとうございます……」
腰かけた椅子の座り心地があまりに良くて、思わず緊張がふっと緩む。
大きな窓から差し込む光が柔らかく、雰囲気は思った以上に温かい。
「式の前に書類を書いてもらうよ。給与振込用の口座情報と誓約書、それと他にもいくつか――」
野崎はどこからか厚めの封筒を取り出し、手際よく書類を並べていく。
その手つきは洗練されていて、どこか育ちの良さを感じさせた。
「これ、使っていいよ。書き終わったら声をかけて」
差し出されたボールペンも、高級感のある艶やかなデザインだった。
(なんか……案外ちゃんとした会社なのかもしれないな)
緊張しながらも、市ヶ谷はひとつひとつ丁寧に記入していった。
◇
「十九歳なんだ。ボクと同い年だね」
書類を確認していた野崎が、ふと驚いたように顔を上げる。
「なんとなく、ボクより年下に見えたけど……なるほど」
「よく言われます……」
市ヶ谷の言葉に野崎がふっと笑った。
その横顔は凛としていて、なぜか儚げな美しさすら感じられた。
(……絶対、取引先にモテるタイプだ)
「野崎さんは、去年から入社されてるんですか?」
「うん、そうだよ。高校生の頃からここでバイトしてて、そのまま就職した」
「高校生で……!?」
(え、高校生をバイトで雇うの!? それって、ちょっと普通じゃなくない……?)
不安がじわりと胸をよぎる。
そもそもこの会社、なにをする場所なのかもまだ知らされていない。
(もし、もし万が一、詐欺行為が生業だったらどうしよう。すでに個人情報かなり書いちゃったんだけど!?)
そんなときだった。
ノックの音が三回。続けて――
「おーーっす! 来てくれてありがとな〜!」
勢いよく開いたドアの向こうから、明るくて力強い声が響いた。
姿を現したのは、黒のスーツをびしっと着こなした長身の女性。
高い位置で結ばれたツインテールが揺れて、ただ立っているだけで異様な存在感を放っている。
「佐々木さん……!」
市ヶ谷の命の恩人、その人だった。
身長は市ヶ谷よりも一回り高く、百八十センチはありそうだ。
引き締まった体つきと凛とした顔立ち、スーツの上からでもわかるバランスの取れたスタイル――
それらすべてがただの会社員とは思えなかった。
「最近ちょっとバタバタしててさ〜。電話でも説明あんまりできなくてごめんごめん」
電話のジェスチャーをしながら近づいてきて、にかっと笑う佐々木。
その笑顔には、年齢不詳の大人っぽさと少年みたいな軽快さが混じっていた。
「このあとちゃんと説明あるけど、ウチはちゃんとしてる会社だから! 社会奉仕的な仕事ってやつ!」
そう言うやいなや、佐々木は市ヶ谷の背中をバシンと叩いた――全力で。
(いっっっ!? この人、力強っっ!!)
不意打ちの衝撃に顔が引きつる。
横を見ると、野崎がうっすら哀れむような視線をこちらに向けていた。
「どうした? 緊張してんのか? 私がほぐしてやろうか〜?」
「い、いや! もう十分すぎるくらいです……!」
笑顔のまま迫ってくる佐々木からなんとか距離を取ろうと、そろりと椅子を引いた市ヶ谷。
再度の追撃を予感していたそのとき――
「……そろそろ入社式が始まります。移動しましょう」
タイミングよく野崎が口を開く。
それはもう、女神のような救いの声だった。
「お、そうだな! 行くか!」
佐々木がぱっと手を引っ込める。
市ヶ谷はジンジンと痛む背中をさすりながら、ホッとした表情で立ち上がった。
こうして、慌ただしくも運命的な朝が終わり、市ヶ谷ソラの、毒を孕んだ新生活が始まった――。
読んでいただき、ありがとうございます。
【登場人物】
市ヶ谷ソラ
佐々木ミク
野崎青
と読みます。