猟犬
「……外じゃ駄目だったんですか」
「姫様……。そろそろ慣れてください」
肩を竦め、決して後ろを見ないよう手元の地図を凝視するリィル。
彼女の恨みがましい呟きにファイがこめかみを抑えながら首を振った。
「……あいりぃるさま?」
「トーハ、早く終わらせてください。何が好きで殿方の裸など……」
彼女が目を逸らしていたのは、湯に浸したタオルで体を拭いているトーハだ。
男の半裸というのは女に比べれば珍しいモノでもないのだが、姫君には刺激が強かった。
とはいえ、そんな贅沢も言っていられない。嘆息を隠しもしないファイが彼女を諭す。
「……はぁ、姫様も慣れてください。贅沢を言えるのも今の内ですから」
「善処……します」
「──是非、おねがいします」
こちらを見る気もないリィルに善処する気があるのかどうか。
ファイはこれからのことを考え、ほんの少し肩を落とした。
進歩の余地が見えない主は横へ置いて、至急育てるべき戦力へ声をかける。
「調子はどうだ?」
「……」
トーハが言葉の意味を捉えかね、数秒ファイの顔を見つめてから曖昧に頷いた。
「これからお前が戦うのは一つ間違えれば命を持っていかれる奴らだ。だが、やり遂げてもらわねばならない。──いいな?」
所詮奴隷に過ぎないトーハを見下ろす美青年の顔は僅かに曇っていた。
トーハには彼の真意は分からない。そもそも自我も薄い。
「……」
やれと言われたからやる。
それ以上も、それ以下もない。だから、彼の確認に対しても迷うことなく頷いた。
彼の返答を見てファイが顔を硬くしていたが、機微に疎い奴隷少年に気付く術はなかった。
「──もう少し、喋れ」
「……? はい、ししょう」
反射的な返答。恐らく理解できていないだろう問題児二号にファイがこめかみを抑えた。悪気はない。むしろ使う側からすればこれ以上に使いやすい道具はない。
「明日も頼むぞ」
「……!?」
だから、あまり早く壊れてしまわないよう、ファイは少年の頭を撫でた。
奴隷であるトーハにとって、接触というのは痛めつけられるのと同義。
意味もなく、添えるように乗せられた手。
無意識に痛みを警戒したトーハが思わず体を跳ねさせた。
「落ち着け」
「──はい」
窘める言葉にトーハが動きを止める。
頭の這いまわる武骨な手。見た目以上に、青年の手は硬かった。
子供と接することになれていない青年の手つきは乱暴。不快と言っても過言ではない。
けれど、太陽の熱とは違う慣れぬ温もりが少年から抵抗の判断を奪い去る。
二文字の言葉を口にするのが精一杯だった。
「その生返事では姫様の期限を損ねる。自信があるなら、お任せくださいと言え。ないなら、善処します、でいい。」
「──ゼンショ、します」
「……まあ、いいだろう」
練習あるのみだ。とファイがほんのり口元で弧を描くとトーハの頭をポンと撫でる。
「……ファーイー?」
そこへ、部下を窘める──どちらかといえば、不満を垂れ流すような声がファイを呼びつけた。
「御用ですか、姫様」
「いえ、何もないですけれど。彼は、奴隷じゃないのですか?」
「まごうことなき奴隷です」
「……です、よね」
「ええ。それが何か」
「……何もないですっ!」
当然と言わんばかりなファイの態度にリィルが口ごもってしまい、しまいにはそっぽを向いて黙り込む。
子供らしい些細な嫉妬に護衛の男は頬を緩めていた。
「姫様もご所望ですか?」
「何もないですってば!!」
「ふ──そうでしたか、失礼しました」
「……もう」
零すような護衛の笑みにリィルが頬を膨らませる。
からかってくるファイも鬱陶しいが、素直になれない自分自身もリィルは嫌いだった。
行き場のない怒りに振り回されるまま、未だ幼いリィルは尖らせた目をこの場で一番下の者へと向ける。
「貴方もですよ! トーハ!」
「……?」
「その……! あなたも奴隷なんですから……! らしい振る舞いというのがあるでしょう?」
「……ゼンショ、します」
よく分からないけど、とりあえず返事はするトーハ。
その態度が余計に彼女の怒りを煽っているのだが、彼はやはり気付けない。
「……はぁ。トーハ、こういう時は、承知致しました、と答えなさい」
「……? ショウチ……しました?」
額に手を当て、力なく首を振る。まだまだ先は長そうだった。
*
トーハの訓練は数日に渡って繰り返された。
コミュニケーション能力は相変わらずだが、戦いの素養だけは間違いなく持っている。
そして、彼の素養は予想外の危機を持って輝き続けていた。
「……」
「グルルルル──」
酸化した線路と荒地鉄の匂いが充満する【鉄色地下道】。
そして、金に出来る荒地鉄を求める探索者と彼らの匂いを正確に見つけ出す猟犬。
【鉄色地下道】内で出来た紅いシミは両者達の血で出来ている。
鮮度の高い血の匂いは再び猟犬を呼び集める餌となり、この繰り返しが探索者たちの命を奪い続けて来た。
「──キャン!!?」
たった今、一体の猟犬が血の海に沈んだ。
血に塗れた鉄剣を振るい、トーハは己を囲む十体の猟犬へ剣を向ける。
「……」
トーハの顔色は芳しくない。
猟犬達はトーハを一気に襲うのではなく、囲みを崩さないことを優先し、じりじりと距離を詰めるだけ。
猟犬達が襲い掛かればカウンターでやられる。
トーハが囲いを抜けようと攻撃を仕掛ければ背後から切り裂かれるだろう。
よって出来た硬直状態。
だが、魔物は無尽蔵。猟犬は血の匂いにつられ集まって来る。
少年の主たるリィルはこの場に居ない。当然、彼女の護衛であるファイもいない。
ここに居るのは彼一人。仲間に置いて行かれた探索者が猟犬に貪られるのはよくある話。
トーハは奴隷として囮の役割を真っ当にこなしていた。
*
「はッ、はッ、はッ──」
「大丈夫ですか、姫様」
「だい、じょうぶっ──ですっ!」
息を切らせて走る真紅の少女とその付き人。
必死な形相の少女が怯えているのは彼らを追い回している猟犬達──ではない。
「ひっ──!!」
銃声。
続けざま、リィルの足元で銃弾が跳ねた。弾丸によって削れた石が飛び跳ねて少女のブーツにぶつかってくる。
狙いこそ正確ではないが、逃げる標的を捉えるため足元を執拗に狙ってくる相手にリィルが恐怖を募らせる。一度でも喰らってしまえば、後ろで群がっている猟犬達の餌となり果てるだろう。
「グラアアッ!!」
所詮は少女に過ぎぬ速さ。大型犬から逃げるにはあまりにも心もとない速度。
時間が経てば猟犬が追い付くのも当然のことだった。
「──下郎め」
しかし、どの猟犬もリィルの元へたどり着く前でに全て両断されている。
かちん、と鞘に納める音。
「姫様。ここから真っすぐいけば出口です」
「ファイっ!?」
言葉の意味を捉え、リィルがたじろいだ。
常に傍で守り続けてくれた男が逃げ道を示す──すなわち、彼はこの場に残ると言うことだ。
「私は──ついていけません」
「キャン!?」
空気を切り裂く音が二度。
血の花が四つ。
ローブに隠された刀が二度の閃きで倍の数の猟犬を切り捨てる。
「──はやくッ!」
もはや主の方を向くまでもなく、ファイが叫ぶ。
これ以上の猶予はないと、暗に訴えていた。
「──っ!!」
仮にも一国を継ぐはずだった身。つねに最適解を、と教えつけられてきた彼女の頭は素直に逃走を選択した。また守られ……また見捨てたことへの歯がゆさを、唇ごと血が出そうな勢いで噛みしめて。
「──さて」
主の退路を確保し、ファイは猟犬の群れを前に睨みを利かせた。数十はいるだろう大型犬の群れは恐らく人為的な物。
買ったばかりの奴隷を捨ててこれだ。仮にも子供を使い捨てるのは彼の良心を苦しめるが、国の核を守る身としてそんなものはとうに捨てている。
ファイの手元が三度閃く。
前方数メートルで様子を窺っていた六匹の猟犬が魔石と化す。
古代技術を流用した銃や、魔力を使った飛び道具が流行しているこの時代で刀というのは時代錯誤も甚だしい。
それでも王女の護衛を務められるのは彼が継いだ秘伝の技術【断絶剣】の使い手であるため。
銃声が響く。
恐らく狙撃銃による遠距離攻撃だが、男が手元をひらめかせるだけで、分断された薬莢が地面を転がった。
「私が姫様の元を離れるのだ──ここから先は誰一人として通すものか!」
実力から来る自信ではない、死んでも通さない執念。
やり遂げてみせると言う鋼鉄の意志だった。
彼の絶対的な宣言はさしもの猟犬達も足を止める。
先程から何匹も同胞が死んでいる。にも拘わらず、肉片一つも斬れていない。
だが、彼らは撤退という言葉を持っていなかった。
戸惑いの感情はあれど、恐怖はない。
──初めから、そう造られているから。
「ワオオォォン!」
猟犬の遠吠えだ。負傷した相手を仕留めにかかる総攻撃の合図。
追い詰めた相手を仕留めるためのそれを、五体満足な相手へ向けたのだ。
「──ふ」
零した声は嘲笑だった。
主への攻撃を断絶する。そういったルーツから生まれた【断絶剣】。
そのルーツから彼の剣術は攻撃よりも迎撃を得意としていた。
刀が閃けば、猟犬の悲鳴も響く。
赤褐色の線路が彼らの血の海で沈むのも時間の問題だった。
一分も経たず、【鉄色地下道】の入り口付近に静寂が返って来る。
リィル達を襲った猟犬は全て魔石と化し、遺されたのはおびただしい赤色の液体のみ。
しかし、狙撃手の首は取れていない。
狙撃も止んだ。すぐにでも主を追いたいが、この追手を殺さなければ安寧もない。
「…………」
「──そーさー、カッカしないでほしーなぁ、オニーさん?」
その緊迫に耐え兼ねてか、天井から人影が飛び降りる。
飄々とした態度で話しかけて来たのは黒装束に包まれた誰か。
中性的な高めの声からは性別の推測が出来ない。
「貴様か、猟犬をけしかけたのは」
「そーでーす! って言ったら怒っちゃーう? う?」
「怒りはしない。貴様の首を切り落とすだけだ」
「やだぶっそー」
アハハ、と甲高く耳に障る声にファイが顔をしかめる。
すぐさま目の前の男を殺し、主を追いかけなければならない。
けれども、いまいち掴み切れない男に隙を見つけられなかった。
「──シャア!」
だから、後手に回るのも必然だった。
銀色が光ったと思えば、首筋にナイフが這いよっていた。
「──っ!?」
間一髪。刀の腹を滑り込ませナイフを受け止める。
驚愕よりも先に手を動かした直感がファイの命を救っていた。
インファイトを嫌い、蹴りを放つも黒装束はあっさりと躱し、再び距離を取る。
追撃に行きたいが、目の前の奴は銃らしいものを持っていない。
銃撃が他の誰かだとして、仲間がいれば横やりを入れられるだろう。
「──へー。今のとめられんだー。オニーさんやるねぇ」
「黙れ」
「まー、王女サマの最後の砦だもんねー。そりゃつよいかっ──と!」
早撃ち──銃声。
「チィ──!」
だが、先程の狙撃もあってファイも銃撃には警戒を張り巡らせていた。
故に弾くのもさほど難しくなく──弾丸を両断する。
「ほーん?」
ナイフならともかく、近距離で弾丸を切り捨てるのは黒装束にといっても意外だったのか、意外そうに目を瞬かせた。
けれど、彼の表情は一瞬で愉悦染みた笑みに変わった。
歪みに歪んだ彼の口は楽し気に語る。
「はーい──どかん!」
弾丸を切り捨てた彼の絶技をあざ笑うように、突然の大爆発がファイを飲み込んでいた。