疑心暗鬼
リィルが今まで辿って来た逃亡の日々は裏切りに満ちていた。
逃亡生活の発端となった、王城の襲撃も内部の兵士の突然の裏切りであり、城から逃げ延びてもお金や今後の生活に惑わされ、リィルを捕獲しようと突然牙を剥いた従者や兵士も数知れず。
近衛とも呼べる護衛はアーランドの荒野まで付き従ってくれたファイの他にもう一人いた。
異性であるファイでは何かと不便なこともあり、戦力というよりは身の回りの世話を焼いてくれた女騎士だ。
個人的な話もしやすい相談役。
──のはずだった。
*
リィルには裏で生きる者達のなかで賞金を懸けられ、表ではともかく、暗殺者などから狙われる日々が続いていた。
そんな状況では町によって寝泊まり出来る機会も多くなく、水場を見つけた際にはその場で水浴びを済ませる日もあった。
そんな生活を一月弱も繰り返し、慣れてきた頃。
もう一人の護衛騎士、ミリアムに預けていた衣服を受け取り身に着けている最中のこと。
「ミリアム……?」
首筋に押し付けられた銀色の刃を見て、リィルが上擦った声で尋ねかける。
聞かなくとも答えは分かっていた。信頼の置いていた部下の裏切りなど、今まで何度も見かけて来た。
けれど、よりにもよって一番信頼を寄せていた相手に裏切られたことが信じられなくて、予想外に体が強張る。
「申し訳ございません」
返事は淡白な謝罪が一つ。
「なんで」
リィルもまた、短い言葉で尋ねる。
この場で死ぬとしても、せめて理由が欲しかった。
リィルだって半分諦めていたのだ。共に逃げ延びた部下はもう四分の一も残っておらず、別種の自治が働く荒野、アーランドまでたどり着く前にジリ貧で終わるだろう。
そんな未来を幻視しながらも、父の犠牲を無駄にするのも憚られ、自分の意志がどこにあるのか分からぬまま逃げて来た。
だから仕方ないと、自分を許せる理由があれば道半ばで途絶えても良いだろう。
そう、とっくに諦めていた。
「我が家は代々王女の近衛騎士として仕える者を輩出していました」
「……ええ」
ナイフを添える青髪の騎士が背負う白亜の大盾。
彼女の家で受け継がれている魔術具であり、誇りでもあったはずだった。
「しかし、もう終わりでしょう。このまま殺されるくらいならば、私はせめてアイリィル様を買って下さる方の元へ連れて行きます。それが……私なりの誇りです」
「……ファイに恥ずかしいと思わないの」
「これは私なりの結論です。見えない希望を追って全滅など……散っていった皆に申し訳が立たないのです!」
「……それは──でも、まだっ!」
リィル自身も理解している諦観。共感しつつも、背負い続けた命の重みは気持ちとは真反対の言葉を口にさせる。
「諦めませんか。命までは取りません。──そう、取引しましたから」
「…………でも──!」
魅力的な提案だった。
それが真かどうかなどどうでも良かった。諦められる大義名分が欲しかった。
ここまで頑張ったから良いじゃないか。最善ではないが、妥協できる選択じゃないか。
頭では理解している。けれど、まだ諦めていない者が居る。
ならば、上に立つものとして怯えてはならない。勝ち筋を最後まで追わなければならない。
「アイリィル様のことはよく知っています」
深々と頷いたミリアムは敬愛する主の心境を読み取っていた。
「だから、ファイ達の元へも刺客を送っています」
「ファイを止められると?」
沈んでいたリィルの蒼眼に僅かながら光が灯った。
ミリアムの忠誠心と同じ程度に信頼を置いていたのがファイの強さだ。
こうなってしまえば、その信頼も海上の筏並みに過ぎないが、今まで生き延びてこられたのは間違いなくファイのおかげだ。
裏を返せば、ファイが居なくなってしまえばリィルの道は終わりである。
だから尋ねた。
ファイを倒せるか否かを。
「ファイ様は確かに強いです。私も倒せるとは思っていません。けれど、この場からアイリィル様を連れ出す時間があれば十分です。足止めになればそれでいいのですから」
「ファイは、来ます」
「……何を根拠に」
「貴方が私を殺さなかったからよ。ミリアム」
リィルはそっと目を伏せる。
この事件の顛末を予想し、哀れみ、悲しみ、それでも前へ進まなければならない悔恨故に。
「おっしゃる通りです。姫様」
凛と響く声。
もう戦いは終わっていた。
ミリアムが声に反応し、リィルを離してでも大盾を掴むも一手遅い。
すでに、剣筋はミリアムの首を駆け抜けている。
「がふっ──!?」
「貴方も、欲に負けたか」
「ふ、ぁ──い」
首を断たれて尚、ミリアムは即死しなかった。
その瞳に何を抱いているのかは分からないが、瞳孔が開ききった目がファイを睨みつけている。
「せめて安らかに眠れ。貴方の捻じれた意志も、私が引き継ごう」
ファイはその何かを称賛するように言い放つ。
「……」
リィルには二人が通じ合っているように見えた。
殺し合ったというのに、既に目から光を失い、脱力したミリアムの顔は少しだけ満足そうに映ったのだ。
リィルの目が伏せられる。
羨ましい。
素直にそう思った。
この終わりの見えない逃避行から、先立った部下の妬ましさに。
*
目が覚める。
地獄はまだ続いていた。
ストレスのせいか、肌が気持ち悪い。こんな環境だ。保ってきた肌質も悪くなっているに違いない。
現実を直視したくなくて、鏡はなるべく見ないようにしていたし、人と顔を合わせるのもなるべく避けるようにしていた。
「……。──っ!?」
していたのだが。
遠慮なく己の顔を凝視し続ける奴隷の姿が視界を埋め尽くしていて、慌てて体を起こした。
「あいたっ!」
勢い余ったリィルの額が傍で正座していたトーハの額と衝突。
骨同士をぶつけ合い鈍い音を立てた。
「いった……な、なにしてるんですか」
赤らんだ額を抑えながら、微塵も痛そうにしていないトーハをつい睨みつける。
相変わらず、無口で無愛想な少年はさも当然のように首をかしげていた。
「あいりぃる様を、まもってました」
「…………」
本当ですか。そう確認したいが、目の前の彼に聞いたところでまともな答えを得られるはずもなく、かといって他に聞ける誰かも居ない訳で。
「…………はぁ」
恐らく嘘ではないのだろうと推測の元、この少年の頼りなさにため息を吐いた。
彼に悪気がないのは分かっているつもりだ。
けれど、一度気を抜けば、またどこかに連れ去られるか首に刃物を突き付けられるような気がしてならない。
「そんなこと、頼んでません。……【離れてください】」
「はい」
「…………」
八つ当たり染みた命令にもトーハは素直に従う。
それを見てリィルが眉を顰め、太ももに置いた一つしかない拳に力を込めた。
まだ出会って大した時間も経っていない彼に信頼を置けなくて。
でも、彼が嘘をつける程器用な人間でないことも分かっていて。
沈みゆく泥船に同乗してくれている彼を今更信頼しないなんて馬鹿らしいのに。馬鹿らしいのに。
己の疑心暗鬼で彼に理不尽を押し付けていることをリィルの良心を痛めつけていた。
「一つ、聞きたいことがあります」
「はい」
リィルを運び込んでくれたらしい、小さな横穴の壁際でちょこんと座るトーハに向け、リィルは声をかける。
相も変わらず、何の感情も感じれない返事を聞き取ると、言葉を続けた。
「何故、私を助けたのですか」
「……?」
質問の意図が分からないとトーハは首をかしげる。
「置いて帰れば貴方は──……いえ、良いです。忘れてください」
鈍い彼に説明を続けようとするも、やっぱり馬鹿らしくなって言葉を打ち切った。
聞いたところで、今更自分に向けられた言葉など信じられない。
人間の優しさは余裕からしか生まれない。
空いた手が埋まれば人は容易に抱えていた物を投げ捨てるのだから、こんな質問に何の意味もない。
ただ、彼の手が空いていたから、リィルを担ぐ余裕があったから。
それだけに過ぎないじゃないか。
寝ている間に一夜が過ぎたらしく、朝日が昇り切らない薄暗い荒野に目を向け、リィルは憂鬱な気持ちを胸にしたまま岩肌に背中を預けた。
思考を巡らせるうちに、腕から失った血のせいか頭がぼんやりとする。
トーハが気を利かせたのか、恐らくトーハが着ていたと思われる服の布が失った肘から先を縛り付けて出血を防いでいた。
これで出血多量で死ぬのも先だろう。
まだ命が尽きないことに、安堵と諦観の両方を覚えながらもう一度眠りにつこうとする。
血を失った体が休息を求めていた。
「ししょうに──」
少年の声を耳にして落ちかけていた瞼が跳ね戻る。
ぱちり、と瞬きを一つ少年に目を向ければ何かを必死に考えるように額にしわを作りながらトーハが口を動かしていた。
「たのまれ、ました」
トーハには指針と呼ぶべきものがない。
有体に言えば自分がない。
だから、誰かに委ねることしか出来ない。
そんな彼にとって唯一生き方の方向を教えてくれているのが、ファイの遺言だった。
『ひ……さま──のむ』
どうすればいいかはやはり分からないが、リィルの力になれとトーハの師は言っていた。
だから、それに従う。
「だから、あいりぃるさまといっしょ、です」
捻くれた信念も、誇りも、何もない。愚直で不器用な生き方だった。
「…………」
少なくとも、もっと利口な生き方があっただろうに。
リィルの率直な感想だ。
けれど、あくまでリィルに従うのではなくファイの遺言に従った結果、リィルを守っているのは不思議と納得が出来た。
下手な美麗字句を並べられるよりもよっぽど信頼が出来る。
だからと言って疑心がないわけでもないのだが。
「じゃあ、私を守ってくれますか?」
「ゼンショします」
「あはは……やっぱり、頼りないですね」
分かっていた返答にリィルは何を期待していたかも分からないまま、ほんの少し落胆し苦笑する。
二人の上下関係は何も変わっていない。
「リィル」
「……?」
「リィルでいいです。他人行儀っぽく呼ばせるのも、私の従者らしくありませんから」
「りぃる、さま?」
「ええ、それで」
けれど、リィルの認識はこの時を境に、確かに変わった。
絶望的な状況だというのに、満足そうに、晴れやかにリィルは微笑んでいた。




