雨と霧のなかで(短編 24)
高速バスは奈津美の生まれ育った町に続く高速道路を走っていた。車窓から見える山景色が、この日は細い雨と霧でどこまでも白くけむっていた。
大学に入学後、実家から遠く離れたこともあり、奈津美には今日がはじめての帰省である。
奈津美はスマホの時刻に目を落とした。
――あと十分か……。
到着予定は三時十五分。
高速バスが町に入るインターチェンジまであと少しである、
今日は八月十日。
夏休みに入っても、大学のある町でバイトを続けていたので、あと三日もすればお盆を迎える。そしてお盆最後の十五日には、高校三年のときのクラスメイトが集まる同窓会がある。
――芳雄、元気かな。
奈津美は小川芳雄のことを思った。
芳雄と会うのは四月以来。二人は大学が別で、遠く離ればなれになっていたのだ。
その芳雄とは、クラスが同じになった高三のときにつき合い始め、今では恋人同士といってもよい。大学入学後は毎日のようにメールで、その日その日のようすのやりとりを続けていた。
今回の同窓会とは関係なしに、芳雄とは帰ってすぐに会う約束をしていた。奈津美が降りる高速バスの停留所まで、わざわざ芳雄が車で迎えに来てくれることになっていたのだ。
つと、奈津美は車窓の外に目を向けた。
バスがなぜか、止まるはずのない高速道路上で停止したのだ。まわりの景色からすると、インターチェンジまであと数キロほどあるはずだ。
近くの乗客が前方を指さしている。
奈津美は腰を浮かせ、前列の席のすき間から前方をのぞき見た。
ワイパーが首を振っているフロントガラス越し、雨と霧で白くけむった遠くに、いくつかの赤いパトランプが点滅していた。さらに赤色灯を灯した救急車も止まっている。
――事故があったんだわ。
救急車が来ているところからして、おそらく大きな交通事故にちがいない。車の列が事故現場まで百メートルほども続いており、運悪くその渋滞に巻き込まれたらしい。
――連絡しなきゃ。
奈津美は事故で遅れることを芳雄にメールしようとした。しかし電波が、まわりの山のために受信できないのか、画面に圏外表示が出ていた。
――こんなときに……。
こうなっては遅れる覚悟をするしかなさそうだ。スマホをバッグにしまい、奈津美はふたたびバスの前方に目を向けた。
ほかの乗客らも気になるのだろう、何人かは席を立って、フロントガラス越しにのぞき見ている。
バスは走行と停止を繰り返しながら、それでもゆっくり前に進み続けていた。
二車線道路の中央に、まばらに立つ数人の警官の姿が見えた。警官たちは点滅する誘導灯で、車の列に向かって外側車線に寄るよう指示をしていた。
やがて……。
警察の車両数台、それに救急車がはっきり見えるようになった。
そして事故車両も見えた。
それは黒い軽自動車で、雨にぬれた路面でスリップしたのであろうか、中央分離帯のコンクリートに正面から衝突していた。車の前半分が見る影もないほど押しつぶれている。
バスが事故現場の横を通り過ぎる。
警官たちは事故車を取りかこみ、必死になってドアをこじ開けようとしていた。救急車が現場で待機しているところからして、いまだ運転者は車の中に閉じ込められているのであろう。
奈津美は顔をしかめた。
――あんなになっちゃあ……。
ドライバーの命は助からないだろう。たとえ助かっても、ひどい怪我はまぬがれないはずだ。
と、そのとき。
「あら、奈津美じゃない」
通路に立つ女性に声をかけられた。
顔を向けると、高校三年のときのクラスメイト、高木明子であった。
「まあ、明子!」
「おひさしぶり。ねえ、ここ空いてる?」
「うん、座っていいよ」
奈津美は隣席に置いてあったバッグを自分の足元に移動させた。座席は指定席となっており、たまたま通路側の席が空いていたので、邪魔になる大きなバッグを置いていたのだ。
高木明子が隣に座る。
「ねえ、奈津美も帰省?」
「じゃあ明子も?」
彼女も大学に進学していたので、帰省で同じバスに乗り合わせていたらしい。顔を合わせるのはひさしぶりのことで高校卒業以来だった。
「そうなの。でも、奈津美を見てびっくりよ」
「わたしもよ。明子が乗ってたの、ぜんぜん知らなかったもの」
奈津美は笑顔で返しつつも、一方では明子に気まずい思いをしていた。
高校時代、明子も芳雄に好意を寄せており、「明子ね、小川くんに告白したそうなんだけど、ふられちゃったらしいの」と、だれからとなくそんな噂話を耳にしたことがあったのだ。
しかし、もう過去のことである。
それにだ。
自分と芳雄がつき合っていることは、明子は知らないのである。いや、だれにも明かしていないので、だれも二人の関係は知らない。
「同窓会、奈津美も出るんでしょ」
「うん、そのつもりだけど」
「楽しみよね、みんなと会えるの」
「そうね、ひさしぶりだから」
「私ね、自動車免許を取ったのよ」
明子が声をはずませて言う。
「大学に通いながら?」
「そう、講義の合間によ」
「すごいね」
奈津美は素直に感心した。
――そういえば芳雄も……。
芳雄も大学入学後まもなく、自動車学校に通い始めていた。免許証を手にした日、彼からさっそくメールで報告があった。
そのとき。
『事故にだけは気をつけてね』
すぐさまメールで返信したのを、奈津美は今もよく覚えている。
――事故といえば……。
先ほどの事故のことが思い出され、奈津美はそのことを口に出した。
「ひどかったね」
「えっ、なんのこと?」
「あの車」
「あの車って?」
明子も事故を見ているはずなのに、なぜか話がかみ合わない。
「ほら、さっきの」
奈津美が言いかけたときだった。
その言葉をさえぎるように、明子のスマホに着信音が鳴った。
それはメールだった。
「そんなあ!」
明子の顔つきが一瞬にして変わる。
それから泣きそうな目で、奈津美の腕をきつくつかんできた。
「えっ、なに?」
「小川くん、亡くなったって。交通事故だそうよ。ほら、これ見て」
明子がスマホの画面を向ける。
奈津美はメールの文字を目で追った。
『本日の午後三時前、小川芳雄が交通事故で亡くなった』とだけ、それには伝えられてあった。
――うそ、うそよ!
奈津美は心の中で力いっぱい叫んでいた。
もしメールが事実なら、芳雄が死んだのは約束のバス停に来ている途中である。奈津美の降りようとしていたバス停は、高速道路のインターチェンジ近くにあり、実家から離れた町はずれにあったのだ。
「このメール、中沢くんからよ。彼、今度の同窓会の幹事だから、クラス全員にいっせいに送ってるはずだわ。だから奈津美にも」
「うん」
奈津美はうなずいてから、バッグにしまっておいたスマホを急いで取り出した。しかし明子とは契約会社がちがうからなのか、自分のスマホはそのときも圏外になっていた。
「会えるの、楽しみにしてたのに」
明子の言葉が遠くで聞こえる。
白くにじんだ車窓の景色がグニャグニャと渦巻くようにゆがみ始めた。それが涙のせいなのか、ガラスを伝い流れる雨のせいなのかもわからない。
――芳雄……。
深い深い谷底に落ちてゆくように、奈津美は自分の意識が薄れてゆくのがわかった。
そして……。
バスがインターチェンジの車線に進入したことにも気がつかないでいた。
バスがはげしく揺れた。
雨と霧のなか、まわりの景色が大きく傾くのを感じながら、その記憶を最後に、奈津美は目の前が真っ暗になった。
どれほどの時間が過ぎたのかはわからない。
奈津美は車窓越しに芳雄の顔を見た。
「奈津美、奈津美!」
芳雄が必死になって叫んでいる。
声が聞こえているわけではない。大きく開けた口の形から、奈津美と叫んでいることがわかった。
「芳雄!」
奈津美も叫んだ。
けれども……。
芳雄の声がこちらに届かないよう、自分の声も彼には届かないのであろう。芳雄は変わらず、自分の名前をしきりに叫んでいる。
「どうしたのよ、奈津美!」
奈津美は背後から、明子に肩をつかまれ強くゆすられた。
「だって!」
芳雄は目の前にいるのだ。
「芳雄、芳雄!」
雨の流れ伝う窓に取りついて、奈津美は狂ったように叫び続けた。両手で窓ガラスをはげしくたたき、何度も何度も芳雄の名前を叫び続けた。
だが、その声は芳雄に届かない。
奈津美には天と地をへだてるかのように、二人の間のガラスが厚く厚く思われた。
「奈津美、小川くんは死んだのよ! さっき、メールを見たでしょ」
明子の声だけが聞こえる。
「でも、でも……」
芳雄の姿が雨と霧のなかに薄らいでゆく。そしてついには、まわりの白いモヤに呑み込まれるようにして消えてしまった。
――芳雄……。
彼は死んでいるのだ。
魂となって自分に会いに来たのだろうか。
「奈津美、いったいどうしたのよ?」
明子に肩を抱かれ、奈津美はようやく我に返った。
そして、
――えっ!
おもわず目を見はった。
明子の腕が奇妙にねじれ曲がり、さらに顔面はひどく血にまみれていたのである。
気がつくと、白い天井が目に映った。
――どこ?
視線を壁にはわせる。
奈津美はいつかしら狭い部屋にいて、さらにベッドの上に寝かされていた。そしてなぜだか、芳雄が部屋の隅にあるパイプ椅子に座り、手にした雑誌に目を落としている。
芳雄は生きていた。
――なんで?
状況がいっさいつかめぬまま、奈津美は声に出して呼びかけてみた。
「芳雄くん」
雑誌から顔を上げた芳雄と目が合う。
「おっ、気がついたのか」
芳雄が椅子から立ち上がり、ベッドの枕元に歩み寄ってきた。
「芳雄くん、死んじゃいないんだね。ほんとに生きてるのよね」
「なに、言ってんだ。奈津美、オマエが死にかかったんじゃないか」
「私が?」
「そうだよ、バスの事故でな」
「バスの事故って?」
「奈津美の乗ってた高速バスな、インターチェンジを降りてすぐ、道路脇の畑に転落したんだよ。雨でスリップしたらしい」
「じゃあ、あのとき落ちたんだ。私、よく覚えてないんだけど」
奈津美に最後の記憶――まわりの景色が大きく傾いたときの記憶がよみがえった。
「頭を打ったんで、それで記憶がはっきりしないのかもな」
「じゃあ、ここ病院なんだ」
「救急車で、この病院に運び込まれたんだよ。で、どこか痛くないか?」
「うん、どこも」
「よかったな。精密検査の結果じゃ、どこにも異常はないそうだから」
「でも、どうして芳雄くんがここに?」
「高速バスの事故があったからって聞いて、オレ、急いで現場にかけつけたんだ。そしたら、オマエがちょうど救急車に乗せられてるところでな」
「そんな……」
奈津美はなぜか、自分が乗っていたバスの事故については、まったく記憶がなかった。
けれども。
それ以外の大部分の記憶は残っている。それも奇妙な記憶が入り混じって……。
大破した軽自動車を見たこと。
バスが渋滞に巻き込まれたこと。
メールが圏外で送れなかったこと。
バスで高木明子と会って話したこと。
芳雄が交通事故で死んだというメール。
車窓越しに芳雄と名前を呼び合ったこと。
明子の顔面がなぜだか血まみれだったこと。
これらの記憶のうち、どれが現実にあったことなのだろう。それとも芳雄の言うように、自分はバスの事故で頭を打ったため、実際にはなかったことまで記憶に刻みこまれたのだろうか。
それらの疑問を整理しようと、奈津美は自分の記憶を確かめるように話した。
「高速道路で自動車事故があってね。それで乗ってたバスが渋滞にまきこまれたの」
「高速道路じゃ、そんな事故もあったらしいな」
「すぐ芳雄にメールを送ろうとしたんだけど、私のスマホ、圏外で」
「そうなんだ。オレも何度も電話したけど、奈津美のスマホ、ずっと圏外で通じなかったんだ」
軽自動車の事故、それでの渋滞、メールが圏外で送れなかったこと。これらは実際にあったことのようだった。
――じゃあ、あのメールは?
今こうして、芳雄は自分の目の前にいる。けれどこれも幻想なら、いまだ混濁した意識のうちのひとつということになる。
奈津美は、その先を確かめるのをためらった。
「私、なんだか記憶がすごくあいまいで」
「しかたないよ、しばらく気を失ってたんだからな」
「だけどね、話すのが怖いような記憶があって、それも本当にあったことのようで」
「どんな?」
「気分、悪くしないでね」
「ああ、話してみて」
「バスの中でね、芳雄くんが交通事故で亡くなったっていうメールを見たの。でも芳雄くん、こうして目の前にいるから」
「それでさっき、オレのこと、死んじゃいないかって聞いたんだな」
「うん、そんなメールを見てたから」
「それって、奈津美の記憶がおかしいんだよ。だってオマエのスマホ、圏外だったんだろ」
「それを見たのは、私のじゃなくて高木さんのスマホなの。彼女に送られてきたメールで」
「高木って、高木明子?」
「そう、バスの中で彼女と一緒だったの」
「それ、いたずらメールだったんだよ。それで、だれからだった?」
「中沢くん」
「中沢が? なんで、アイツがそんなことを……」
芳雄が考え込む。
奈津美にとって中沢の記憶は、明子から聞いたメールの発信者ということだけだ。しかし芳雄とは、車窓のガラス越しに名前を呼び合った。
「ねえ、芳雄くん。あなた、バスの中にいる私に向かって、何度も名前を叫んだ?」
「ああ、叫び続けたよ。でも、奈津美はバスの中じゃなかったけどな」
「じゃあ、どこで?」
「救急車だよ、救急車の中の奈津美に向かってな」
芳雄の話からすると、あのときすでに自分の意識は混濁していたのだろう。居た場所の記憶がおかしくなっている。
「私、なにか叫んでた?」
「いや、ぐったりしてたよ。たぶん意識がなかったんだろうな」
「そうなんだ」
バスの車窓越しに、必死になって芳雄の名前を叫んだこと。その部分の記憶はちがっているようだ。
明子のことも確認してみる。
「そのとき、そばに明子もいた?」
「いや、見なかったけど」
「彼女、ひどい怪我をしてたの。顔からいっぱい血を流してね」
「たぶん、別の救急車で運ばれたんだろ。救急車、ほかにも何台か来てたからな」
芳雄は明子を見ていなかった。
明子についての記憶はどうなのか。
どこまでが現実のことで、どこからが狂った記憶なのか……。
と、そのとき。
芳雄のスマホにメールが入った。
「中沢からだ」
芳雄がメールを開く。
「奈津美、高木が死んだってよ」
「うそ!」
奈津美は言葉が続かなかった。
記憶では……。
明子とは、さっきまでバスの中で話をしていた。彼女は血まみれになりながらも、自分の肩を抱いてくれたのだ。
「明子、ひどい怪我だったから」
腕が奇妙にねじ曲がり、顔が血まみれだった記憶が鮮明によみがえる。
「でもな、このメールからだと奈津美の記憶、やっぱりおかしいぞ。高木が事故ったのは二時半だったそうだからな」
と、芳雄が言ったとき。
今度は奈津美のスマホの着信音が鳴った。
ベッドで寝ている奈津美にかわって、芳雄がバッグからスマホを取り出して開く。
「やっぱ中沢からのメールで、オレに来た文面とまったく同じだよ」
「二時半って?」
奈津美は奇妙に思った。
そのころはまだ、交通事故の渋滞に巻き込まれる前である。つまりあの時刻、明子は自分と同じバスに乗っていたのだ。
「それも、いたずらなんじゃない?」
「だとしたらタチの悪い冗談だな。オレ、警察に電話で確かめてみるよ」
芳雄はスマホを手に病室を出ていった。
病室にもどった芳雄が言う。
「さっきのメールは本当だった。高木、やっぱり事故で亡くなってたよ」
「じゃあ、芳雄くんが死んだっていう、明子に送られてきたメールは?」
「オレもそのことが気になって、中沢にもメールのことを確認してみたんだ。そしたらアイツ、クラスのだれにもそんなメールは送ってないって。それでな、ほかのヤツらにも聞いてみたんだけど、中沢の言うことにまちがいなかったよ」
「じゃあ、あのメールって?」
「奈津美、気を失ってただろ。たぶん、そのときに見た夢が記憶として残ったんだよ」
「そうだよね。明子、事故で死んでたんだから」
高速バスで……。
明子と一緒になったこと。
明子のスマホのメールのこと。
明子の顔が血まみれだったこと。
それらは意識が混濁したなかでの記憶であって、実際にあったことではなかったようだ。
「事故現場はインターチェンジの近くで、こちらに向かって走ってたそうだから、高木のヤツ、たぶん帰省してたんだろうな」
「えっ!」
奈津美は悲鳴に似た声をあげた。
あの時刻、高速道路のあの付近で、ほかに交通事故はなかった。黒い軽自動車を運転していたのは、ほかならぬ明子だったのだ。
「私ね、バスの中から見たの、事故で大破してる軽自動車。それって、明子の車だったのよ」
「じゃあ、高木はその事故で?」
「うん、それでね。あのときの明子の記憶、やっぱり実際にあったことだったのよ」
「まさか!」
「ううん。私ね、そんな気がしてきたの」
「だって、おかしいだろ。なんで、死んだ高木がバスに乗れるんだ?」
「彼女、そのとき魂になってたのよ。それでバスに乗れたんだわ」
「で、奈津美は明子と会ったというんだな。でも、魂なんて見えるもんじゃないだろ」
「ええ、ほかの人には見えてなかったと思うわ」
「じゃあ、なんで奈津美にだけ?」
「実際に目に見えたんじゃなくて、意識として感じ取ったのかも。明子の魂が、私の意識の中に入り込んできたから」
「ようは感じたんだな」
「そうよ、それに芳雄くんだって」
「オレも?」
「芳雄くん、私が救急車に運び込まれたとき、私の名前、ずっと呼んでくれてたって」
「ああ、でもそれが?」
「そのときの私、気を失っていたんでしょ。だけどそれでも、芳雄くんの姿がはっきり見えたもの。それでね、それも意識の中で見えてたのよ」
「じゃあ、オレもあのとき、奈津美の意識に入り込んだって言うのか?」
「うん、私のこと心配してくれて」
「そりゃあ、そうだよ。あのときのオマエ、身動きひとつしてなかったからな」
「助かったの、芳雄くんのおかげなのよ」
「そう言われてもな。魂が他人の意識に入り込むなんて、オレにはとうてい信じられんよ」
「ええ、信じられないことよね。でも明子の魂、この町に向かうバスを見て、おもわず飛び乗ったんだと思うの。どうしても帰りたかったんだろうね」
奈津美はひそかに思った。
高速道路上にいた明子の魂は、通りかかったバスに乗り込んたあと、たまたま乗っていた自分を見つけ、意識のすきまに忍び込んできたのだろう。
そして……。
明子のスマホが受信したメール。
あれは明子の魂が写し出した文字なのだろう。彼女は芳雄に告白したあとも、ずっと彼に想いを寄せていたのだ。
だから、あのとき。
彼女は芳雄の存在を、その存在がひとときの時間であっても、自分のいる死の領域と重ね合わせたかったにちがいない。
そして、あのとき。
車窓越しの私と芳雄を見て、二人の関係をたまたま知ったのだろう。
それで、あのとき。
私が芳雄の名前を叫ぶのを止めさせて、私の意識を彼から引き離そうとしたのだ。
もしも、あのとき。
芳雄が車窓越しに現れて、私の名前を叫んでくれてなかったら、私の意識は混濁したまま元にもどらなかったかも。そのまま明子のいる領域に、私は引きずり込まれていたのかもしれない。
――死んでいたかも……。
奈津美は顔を上げて窓に目を向けた。
窓の外。
雨はいつかしらやんでいた。