ここは地の果てアルジェリアII完結編
アルジェリアからスペイン領メリリヤの旅
あれは十一月の頃だったろうか、週末と祝日の三連休を利用し西の隣国モロッコに入り、さらに約二百キロメートル海沿いにいった街にスペインの飛び地、メリリヤがある。セプタがジブラルタルを挟んだスペイン領であるように、ここも地中海を渡ったスペイン領である。十一月でも日中はまだ暖かく、行楽には最高の時期だった。朝、オランを発ち、国境に昼前に着く。
国境に近づくと必ず警備隊員がいて、そこを抜けるとモロッコ入国となる。メリリヤに入るときにもモロッコ国境があり出国の手続きをする。スペイン側にはそうした手続きはなにもない。町はどこにでもありそうな港町だが、ここでの唯一の楽しみは、ハム、ソーセージなど、豚製品が入手できることである。レストランではスペイン料理を味わう事ができ、地中海の魚介が、日本人の口に合う調理法だ。
もちろん生ハムを前菜に注文し久々のスペイン料理に舌鼓を打つ。旅行はいい。授業はストレスが蓄積し、たまの旅行は最大の気分転換であり日常生活からの脱出である。
スペイン語圏ということもあり、別の国に来た実感がわく。アルジェリアからモロッコに来ても別の国に来た気がしない。フランスに行っても帰国したようなもので、旅行の気分になれない。そんな理由からここも二、三度訪れた。その頃でもクリスマスセールを思わせる大売り出しの露天商や夜店があちこちに並び、ホテルのすぐそばでも、少年がマイクを持って夜中、売り出しの声を張り上げ、スピーカーはそれを増幅して部屋のそばで騒々しくがなり立てていた。
おかげで翌日寝不足となったが、それさえも異国に来た実感と非日常性への脱出という効果があった。町中を観光し、翌々日には帰る。出発の朝、車で町中をドライブと思ったが、鍵を車中に詰め込んでしまった。
色々試みるが、どうしようもない。仕方なくホテルのフロントに頼み、市内のHONDAディーラーに来てもらった。作業員は大きな鍵束と、窓から差し込みドアを開ける道具とを持ってきたので安心しホテルに一旦戻った。ホテルから戻ったら無惨にも運転席側の窓ガラスが粉々に割れ、ガラスが運転席に散らばっている。
五十過ぎの貧相な作業員も申し訳なさそうに私を見ている。彼を責めても仕方ないとは思いながら、ちらと見ると、とたんに弁解がましく『アユダ、ソラメンテ』と繰り返す。
どうやら手伝っただけだから、俺には責任無いよ、あくまで好意でやっただけと言いたいらしい。彼と話しても仕方ない、取りあえず彼らの工場に持ち込み、どうなるか静観することにした。あいにく同じ型のガラスはない。透明なプラスチックを切ってはめ込むつもりらしい。結局二時間ほどかかったが、まあまあの出来である。さて次ぎにどうなるか相手の出方を見る。「セニョール、ところで費用は六千ペセタだ」「な、なんだと。被害者は俺だ。何で俺が払う必要がある」すると先程の従業員がまた繰り返す。「アユダ、ソラメンテ。アユダ、ソラメンテ」結局首を傾げながらも、半額の三千ペセタ払ってそこを発ち、オランに戻る。
プラスチックの窓から眺める光景もそう悪くはないが、太陽の光が少しきらきらするのと、窓が開かないのには参った。モロッコの町ウジュダでは再入国する前にアルジェリアにはない果物と野菜を買っていく。一つにはバナナである。バナナは輸入禁止らしくアルジェリアで見たことがない。普段そんなに食べるわけではないが、全くないとむしょうに食いたくなる。それにアボガドである。フランスではアボカといって、前菜によく出る。夕刻にはオランに戻った。セプタでの事件以来、国境で問題になったことはない。いまだに信じられずあれは何だったんだろうと思う。
最後の授業
最盛期には、三十数クラスあったが、生徒は卒業し、残るは運転員の二クラスだけとなった。一時期、四十人もいた教師は十人に満たないほどに減り、実際授業を行う講師は二、三人、他は残務整理である。運転員のクラスを担当できるのは、私を含め三人である。
その頃はもうムッシュ・ガリッグもいない。最後のクラスは、私にとっていちばん疲れる、そして最も癖のある生徒の集まるクラスであった。私を馬鹿野郎呼ばわりして、つい先日辞めていった生徒のクラスでもある。
自習時間になると決まってコーランを大声で読む生徒もここにいた。こうした宗教的行動には絶対口を挟まないことにしているが、生徒同士の口論が絶えなかった。ある自習時間その生徒がコーランを吟じていると、例の馬鹿野郎発言で退学となる生徒が、彼に食ってかかった。「てめえ、毎日毎日、おんなじ事ばかり叫びやがってうるせえぞ!いい加減にしやがれ」といった調子である。もう一人も負けてはいない。その日は口論で一時間が終わり。やはり疲れて帰った。
同じクラスの別の生徒が、メロディー付きの時計を持ち、いつもピロピロポロリンと私を悩ました。しまいにはその音を聞く度に彼の首を絞めに行ったものだが、それが嬉しいらしく、頻繁に鳴らすので、首を締めることもやめた。そんなクラスであったが一人抜け、二人抜けして雰囲気はかなり落ちついていた。そんな四月のある日、最後の総まとめとテストを行った。授業は淡々と進み。テストもいつものように終わった。皆に別れの挨拶をして「セ、ビヤン!」(直訳では『それは良い』だが、この言葉は、「よっしゃ、てめえらよくやったな」とカンニングを見つけたときに発していた決まり文句で、この言葉と共に二点、減点をしたものだ。)といったら拍手が沸き起こった。これで終わった、満足感と共に寂しくもあった。
開放感もあったが、やりがいのある仕事だったように思う。やってきた講師も五十人近く、フランス人の中で最後まで残り、最後のクラスに授業をしたのは疲れもしたが嬉しくもあった。同僚達との競争で、あたかも最後の勝利を得たような気がした。私が最後のクラスをまかされたとき、正直言っておおいに不満であった。「何で俺がいちばん疲れる役回りだ」と不満を漏らしたことがある。そのとき、客の要望だから仕方ないという返事だった。事実、七、八人いた運転員クラス担当講師は、大半が帰国していた。
別れの船旅
地中海の船旅ほど、想像と現実が違った旅行もない。はじめて地中海の船旅からする想像では、白い定期大型客船に人々が優雅に乗り、甲板のプールサイドでは水着姿の美女がのんびりと日焼けを楽しんでいる。そして男たちはアロハシャツを着てシャンパンをたしなんでいる。そんな光景であった。最初の地中海船旅は、かれこれ三年近くも前になるだろうか。マルセイユからアルジェリアのアンナバという、東部地方の港町まで、丸二十四時間の旅である。その時は出航ぎりぎりで船に間にあったが、車でフェリーの中に滑り込んだのはマルセイユの街をさまよい、船の出航直前だった。
車を船に固定し、客室に上がっていったとき、なにか不思議な感覚に包まれた。それは一種のなつかしさであったが、それがなにかすぐ分かった。よく見ると扉には「押」、「引」と日本語で書いてある。また二等船室は畳が敷いてあり、窓には障子模様のスリガラス戸がある。この船は日本のフェリーの中古を引き取って使っていた。一等船室は個室であるが狭い。日本の狭さを感じさせるが、これも仕方のないことである。
さて地中海の旅の始まりは、フランス料理といきたい。レストランでメニューを見てフルコースを注文する。最初はポタージュスープである。スープを一口啜ったあたりから船が岸壁を離れ、陸から遠ざかっていく。それを眺めながらビールを一口飲むと、横揺れがそのころ始まった。これが地中海クルージングだと錯覚し、それとともにフランス料理で優雅な気分になったが、五分と経たずに気分は怪しくなった。揺れはいよいよ大きくなる。「こ、これはいかん。俺は船には弱い」バスにも弱いし、飛行機さえ、最近ようやく慣れてきたが、離着陸はいまだに気分が良くない。
スープの後の料理は全てキャンセルし、早々と部屋に引き揚げた。それからが大変だった。気分がいよいよ悪くなり、吐き気を我慢しながら、とにかくベッドに横になり身体を休める。寝ている間少し楽になるが、店内の免税店でウィスキーを土産に買っていない。
アルジェリアは禁酒国だからウィスキーの持ち込み制限があり、確か一本までが無税、二本目からはかなりの税金を取られたと思う。マルセイユで買っている暇がなく、船の売店で買うことにしたが、店が開く時間が限られている。時間を知るための腕時計はナポリで闇商人と交換したが、彼のオメガまがい時計は二時間後には動かなくなった。ふらつく足どりで、何度もホールに行き、暗い窓の外を眺めてはまだ朝が来ないのかといらだちながら、病人のようにまたふらふらとベッドに戻ることを繰り返した。
翌朝売店が開き、ウィスキーを五、六本買ったと思う。一本を残して後は、五リットルのポリタンクに詰め、税関では日本の特別調味料だと言ってごまかし、入国する。
その酒を振る舞ったとき日本人の同僚は驚いてある日本人通訳は私に言った。「こ、これは何という酒だ!」それもそのはず、てっきりウィスキーと思った酒に一本リキュールが混入し、それもアニスの強烈な匂いの酒であった。フランスに行ったことのある人なら知っていると思うが、「パスティス」または「五一」という名で、グラスの底にそれを少し入れ、水で薄めると全体が乳白色になる飲み物である。
それが混じった五リッターだったが、それでもここでは貴重なアルコールとして、一応歓迎された。
それはさておき、乗客は大半がアルジェリア人である。フランス人ビジネスマンは飛行機を使うし、ましてバカンスならわざわざ移民の里帰りフェリーは利用しない。金はないが時間がある人、あるいは学生の交通手段である。
姿、格好からして裕福そうには見えない。あくまで安い交通手段であり、車とともに旅行する人々が使う交通手段であり、地中海クルーズの客ではないことを知った。
といっても、車で旅行するにはこれしかない。
時は前後するが、オランからの最後の船旅は車を持ち込んだ同僚数人と共に乗り込み、翌日の夜、マルセイユに着いた。
着いた後はあっけなかった。今まで一年近く苦楽を共にしてきた同僚達とは、さよならも言えず、各人運転席から手を振って別れの挨拶とした。
出口にヤイが待っていた。彼が来ることは知らなかったので少し驚いた。彼には貸しがあって、その金を返さずヤイは離任したが、どこから聞きつけたのか、ディレクターのドルフがそれを知って彼の給料を差し止めたのだ。
ところで給料の差し止めは彼のケースが初めてではない。一見ヨーロッパの会社は個人間、ましては契約社員同士の貸し借りや金銭トラブルには全く関与しないと思っていたが、面白いことにドルフの裁量で給料差し止めをされた者が二人ほどいて、そういった問題が解決されてから当事者の、もちろん借りた側の給料が支払われるということがあった。
ヤイとの問題は先週解決したが、そのお詫びをかねて釈明にやってきたといったところだろうか。とにかく再会を祝った。その日は彼のアパートに行って泊まり、翌日ポーに向けて出発した。彼はその後、別な仕事を見つけ、同じアルズーコンビナートの、私の宿舎にときどき遊びに来たが、それもいつしか連絡は途絶えた。それから半年が過ぎ、マルセイユのアパートにも寄ってみたが、彼はいなく、奥さんの話によると、もう一年以上音信不通と言うことだった。消息は家族にも分からないが、不思議と彼女に悲壮感はなく、「どこで何をしてるんだかねー」と他人事のように私につぶやいた。
終わりに
この体験談は一九八二年頃のことで、もうあれからかなりの年数が経つが、振り返っても昨日のように思える部分と、遠い昔のような部分があって、衝撃的な体験はいまだに鮮明に憶えている。これだけのことが、わずか一年足らずの間に起こったのも信じられないが、この経験はその後いろんな場面で活き、私に大きな糧となった。
決して良い影響ばかり受けたわけではなかったが、総じてプラスになったと思う。最後のクラスの授業では、やれやれこれで終わりという安堵感と寂しさが入り交じって複雑だったが、その後生徒たちは専門教育を受け、コンビナートの仕事に就いた。色々あった生徒たちの何人が、実際工場に従事するようになったかは分からない。しかし巨大プロジェクトを建設した人たちの満足感以上に、我々教師には、人造りと、国造りをした充足感があった。きっと彼らがこの国の発展に役立つのだろう。コンビナートはせいぜい十五年か二十年だが、人は何代にも渡って続く。やがて彼らが後輩に、その知識と経験を受け渡すことだろう。
この契約のあと、元請けの日本の会社と契約を結び、その後半年ほど教育プロジェクトの面倒を見た。そのときは講師という立場ではなく、彼らと直接のふれあいはなく、今まで述べたような苦労もなかったが感動もなかった。それから一年ほど経ったある日、たまたまそこを通ったことがある。
あれほど活気があった広大な建設現場は、全く静かなもので、しかも昼休み時、事務所近くのバレーボールコートで、事務員たちがバレーボールやスポーツに興じているのを見たとき、私たちがいたあの時代が、はるか遠いものになったのを感じた。




