アルジェリア人、フランス人上司と同僚
工場見学
授業の中で最もつらいのが、工場見学である。マイクロバスで十分ほどの距離にある隣の工場に行く。着いたところまでは良いが、いつも一人二人と消えていき、最後は半分ほどの人数になる。教室に戻る際、またマイクロバスに乗るが、もとの人数になっている。
どこに行っていたと問い詰めると、やれトイレだとか、タバコを吸いにとか、お祈りをしていたといって口実には事欠かないが、それは欠席にする。するとまたひと悶着起こる。工場内は、ポンプやコンプレッサーが回り、やたらうるさいが、この中で大声を張り上げながら説明するのは並大抵ではない。しかも例によって何度も同じことを訊き返す。理解できなくて訊き返すのならまだ我慢できるが、よそ見をしていたり、他の者と喋っていたり、初めから訊く気がなかったりだが、そんな生徒にもちゃんと応対しないと講師の教え方が悪いとなってしまう。またこの精製工場は回りがうるさく、相当耳を傾け、注意して聞かないと、全員が一度に聞けることはまず無いが、近くに寄ると脇腹をこづき、くすぐる生徒もかなりいる。
それが毎回で、工場見学はすっかりいやになってしまった。また同じクラスのカリキュラムで、工場見学が何度もある。何度もしつこくある。
ポンプの授業で見学し、配管でも来て、コンプレッサー、消防知識とさして大きくもない工場を訪ね、話をするので、講師も生徒も飽きる。そういった日々の連続であった。
ところで、見学の工場の正門には、化学消防隊がいて、隊長がなかなか貫禄たっぷりに話す。それを見込んで初めてのクラスには、いつも安全講話をやってもらうことにしていた。その間こちらも休めるというものだが、隊長の話もなかなか面白く、まんざらでもない。彼は言う。
「工場では絶対あわててはいかん。走るな。走ると我を忘れる。車の運転でもそうだ。こんな教えがある、『十分早くあの世に着くよりは、五分遅く暖かい家庭に帰り着く方がいい!』」なるほどと皆納得した。ただそれからというもの、しばしば遅刻した生徒が言う、「十分早くあの世に着くよりは、五分遅く教室に着く方がいい!」
「ふざけるんじゃあない、おまえは一時間の遅刻だ。その分欠席にする」かくしてまたその生徒と一悶着起きる。
特徴的クラス
どのクラスも特徴がある。その違いは日本のクラスと比較にならないほど強烈で、クラスの個性と言ってもよい。優秀な生徒が一人か二人。まじめだが成績ははかばかしくない生徒。おどけ者、人気者、リーダー格、その子分、一匹狼、はては我関せずの、存在感がない者とさまざまである。
印象的なクラスというのは今までも何度か登場してきたが、問題を抱えた生徒のクラスである。そんなクラスの授業に行くときは本当に一大決心がいる。どんな育ち方をしたんだろうと不思議でしょうがないが、一般的には、しつこく物をねだるということである。並のしつこさではない。要求や主張は大きく、それに対して譲ること、与えるものはないから、話にもならないが、その無理を通そうとしていつもぶつかる。彼らとの間に大きな認識ずれを感じる。対応も間違うと大変である。
ある時出欠の取り扱いで生徒が食ってかかってきたが、私は取り合わなかった。彼が職員室まで追いかけて来て、最後に『馬鹿野郎』と捨て科白を吐いたのがその生徒の運命を変えた。
その一言を聞いた他の教師が突然怒りだした。何という、教師に対する侮辱だ、となり、教務担当者に知れ、結局彼は退学処分となった。私としては複雑な気持ちである。正直言ってその生徒がいなくなったのはほっとしたが、彼自身の進路は大きく変わることになる。
同僚の教師には感謝したものか、よけいなことをしたとはまさか言えず、沈黙するしかなかった。ただ、そのひと言だけで彼が辞めさせられたのではない。それまでの度重なる非礼が、同僚の怒りの中にあり、それがとうとう爆発したに違いなかった。またある生徒とは一、二度ドライブしたこともある。教室とはまた違った関係が生まれそれも悪くはないが、生徒の家に招待されるとあまりのもてなしに負担を感じ、その後自然と足が遠のいた。
ある生徒の招待
あるとき、級長格の生徒を手なづけようと、休日にドライブに誘った。オランの町外れの海岸に行き、そこのホテルで食事をして、一日楽しんだが、彼はぜひ家に寄って欲しいという。私は家族に会って挨拶すればいいくらいに思っていたが、行ってみると歓待の準備が出来、私一人に五人分のご馳走が用意され、食ってくれという。もちろん私の後、家族で食べるのであろうが、テーブルには所狭しと広げられた料理に唖然とした。中には私の口に合わないものもあり、食う振りでごまかした。
ところが最後に出されたものにはぎょっとした。野球ボールを一回り大きくしたどす黒い、おまけに表面がぶつぶつとした突起物に思わず鳥肌が立つ。「ムッシュ、これはうちのご馳走だ、ぜひ食ってくれ」生徒は嬉しそうに差し出した。
「こ、これは、なんだい」おそるおそる訊ねる。
「羊の内蔵を血と共に固めたもので、先日、羊の丸焼きをした材料で作った最高の料理だ」
「そ、そうか。最高の料理か」こわごわとボール状の料理を一切れ、口に運ぶ。羊の匂いがむっと来て、吐きそうになるのをこらえながら、別の料理を口にし、息を殺して水で一気に喉に流し込む。彼はその一部始終を見ていて私に尋ねた。
「どうだムッシュ、うまいだろう、え?」
「そ、そうだな、うん、い、いやあとってもなんというか珍味だな」
「そうだろう、そうだろう。ムッシュは運がいい。この料理はそうそう食べられるもんじゃないんだ。年に何回も作るものじゃないしね」
「そ、そうか、俺はラッキーだな」とかいいながら胸の奥は複雑な心境で、さてどうしたものか考えをめぐらせ、咄嗟に言った。
「そうそう、実は明日、俺の家にムッシュ・ガリッグはじめ、皆を呼んでパーティーを開くことになっているんだ」それは事実である。
「せっかくの珍味だから俺がここで独り頂くより、皆に是非味わわせたい。ついてはいくらか持って帰っても良いだろうか」
「ムッシュ、そんな遠慮しないで全部持っていってくれ」
かくして私はその場をきり抜け、ビニール袋に入れ、持って帰ることとなった。
最後に彼の母親が出てきて挨拶をした。「私の息子よ」(ちなみに自分の息子の友人などには皆こういう言い方をする。)
「今日は本当に良く来てくれた。きっと神様も祝福してくれるにちがいない。またいつでも好きなときにやってきておくれ。そして困ったことが起きたら何でも相談して欲しい。ここは自分の家と思ってちょうだい」
そこまでいわれると気が重いが、とにかく礼を言って引き揚げた。今まで彼等から良く聞かされるのは、欲しいものがあれば何でも用意するから言ってくれ、であるが、この国で欲しいものはほとんどなく、仮にあっても、自分で買ったほうが気が楽である。しかもその見返りに長い土産リストを渡され、フランスや日本に休暇で帰国する際にはこれこれを買ってきてと頼まれる。その量、金額ともに半端ではなく、代金をくれる保証はなにもない。たとえもらえても現地通貨ではこちらにメリットがない。
次に多いのが、現地通貨を外貨に替えてくれと言った要求である。これは違法で、しかも闇市場で、そのレートと正式レートでは、二倍から五倍の開きがあった。いずれにせよ親切心から換えてあげたは良いが、それで捕まっては元も子もない。話はそれたが、翌日ボール状のものを皆に見せたところ。そうかそうか、それはサムにやってくれと言って、ムッシュ・ガリッグの愛犬、サムの餌となった。サムは、はじめそれでボール遊びをしていたが、そのうち旨そうに平らげてしまった。
私が担当したのは、二十クラスもあったろうか。初めと最後のクラス、それにとびきりのワルがいるクラスは、今でも雰囲気を忘れない。ドライブに誘った生徒のクラスのエピソードが、「ムッシュ、おまえはゼロだ!」であり、テストのカンニングの件もそのクラスである。各クラスとも混沌、雑然としていながら、時間と共に彼らの中でぶつかりあい、彼らどうしのいろんな駆け引きの中で、力関係が出来上がって、不思議とまとまりをみせていく。途中一人抜け、二人抜けしていくうちにすっかりおとなしくなったクラスもあった。
石油化学工場の試運転
さてここらで石油化学工場の中心となるエチレンプラントの試運転について述べてみたい。というのもここで舞台となったLPG工場に限らず、工場とは何か、そして建設試運転がどのように行われるかが我々の仕事の本質であり、一般の人には想像もつかない世界に違いないと思う。ここでプラントと工場は同じ意味であることをまず言っておきたい。
LPG工場の試運転の詳細は、はっきり言ってよくわからない。しかし私が以前いたエチレンプラントよりおそらくずっと簡単だと思う。
LPGは基本的に分離、精製が工場の役割なのに対し、エチレンプラントは、高温による熱分解、大型のコンプレッサー(圧縮機)による圧縮、蒸留塔による分離精製があって、工場内で使用する流体の圧力は真空から高圧蒸気の百二十キログラム毎平方センチまである。
温度も、八百度を超す高温からマイナス百六十度を下回る温度までを扱い、原料、副原料、製品、副製品の種類は多く、それらをさらに原料とした工場群が隣接して建設され、一大コンビナートを形成する。
それよりまず運転と試運転はどう違うのか。たとえば新車の運転、試運転と違うのは、工場を形成する機器の製作や、据付、配管敷設などの一連の建設が終わった時点でも完成とはほど遠く、本当に工場が稼働するまでには、長い準備と気の遠くなるような作業が必要なことだろうか。
プラント建設では、契約形態もいろいろあるが、FOB+スーパーバイザー契約と言われる、設計、資材調達、現場監理を行い、建設等現場での労働力を多く必要とする部分は、顧客が行うものがある。
これはその国にある程度の技術力と経験がある建設業者が存在する場合で、以前いた中国や、東欧諸国に多い形態である。この契約では現場の赴任は監督やアドバイザーが主体であるので、二、三十人にとどまる場合が多い。
一方ターンキー契約と言われる、設計、資材調達、建設から試運転、引き渡しまで、文字通り、鍵を回せば工場が動き出す感覚の契約があるが、実際はずいぶん違って顧客といえども鍵を回すだけではない。発展途上の国々ではこの形態が多い。
この場合、プロジェクトを遂行する全ての責任と権限は元請け会社にあり、工事の最盛期は数百人から千人を超す場合もある。ずっと以前はそれを全て日本人でやっていたようだが、時代とともに日本人の人件費では採算が合わなくなって安い労働力を求め、韓国人、フィリピン人や、この現場のようにアルジェリアに近いところで、地中海対岸のイタリア人などを使ってやっていくようになった。
基礎工事から始まって大型機器の据付、何十トンからの機器が見たこともないような大型のクレーンで引っ張り上げられ、据え付けられる様は圧巻である。
一方、埋設配管、空中配管、電気機器やケーブル、計装配管敷設等の配管工事、電気・通信工事、保温工事、塗装工事はそれに比べ地味で、延々と続くが、これが終わりに近づいてきた頃、試運転部隊が赴任する。私も以前この部隊にいたが、いってみれば建設部隊は車のメカニックチームで、試運転チームはドライバーのようなものである。
実は現地に乗り込む数ヶ月前から日本では試運転に向け準備が始まっている。工場の仕様、性能から始まって、原料、製品、副製品の製造量と品質、その他使用する副原料、電気、水、熱源、冷熱源、空気、窒素等の用役(ユーティリティーと呼ばれる)工場稼働に欠かせないエネルギー類、それらを生産するユーティリティプラント、パワープラントの試運転までが含まれる。
それらを調べ、何度も足を運び頭にたたき込む。何カ月ものトレーニングと打ち合わせ、講習があり、プロセスと呼ばれるプラントの工程、どの機器でどんな反応や分解、分離精製蒸発、凝縮が起こっているかを知るのはまだほんの入り口でしかない。
こうした分野は、化学工学、あるいはプロセスエンジニヤリングと呼ばれ化学の知識が不可欠なため化学専攻者が多い。しかしことはそこにとどまらず、あらゆる機械の運転やその特性を理解し、機械工学、電気、計装、制御のことも相当な知識と現場でそれらを応用できるようになる必要がある。
また試運転は特に手順が大事であり、計画段階から綿密なスケジュールを立てておかないと必要なときに必要な人材、道具、材料が揃わないと大きなロスがでて、時にはそれが工期に間に合わないといった深刻な事態を引き起こす。
工期が遅れるとどうなるか。ごめんなさいで済むことはますあり得ず、違約金の支払い、工期延長による滞在の延長とコストの増加、代金支払いがそれに伴い延期されやがて大赤字となって跳ね返ってくる。
話を元に戻そう。工場試運転では、水と電気が大事で、それは家の引っ越しの時もそうだが、工場に供給する電気の大型発電所を起動するとなると、スイッチ入れて終わりではない。発電機のタービンを回すためには蒸気が必要で、蒸気を造るために純水が要る。純水を造るために熱源となる蒸気や電気が必要で、そうなると堂々巡りだが、そのために仮設の純水プラントを設置して、少しずつ純水を造っていく。その純水がボイラー供給水となって高温高圧の蒸気に変わり、発電機のタービンを回す。
補機と呼ばれる発電機周りのポンプやタンク、フィルタ、その他諸々の機器を運転するための電気は、ディーゼル発電機を使う。そうやってボイラー工場を起動し、発電所を軌道に乗せると、ようやく仮設ではない、本来の純水プラントが稼働する。その頃には空気を分離して液体酸素や窒素工場も動き出して役者は揃ってくる。据え付けられた機械を一台一台テスト運転しながら、運転条件をセットしていく。
インターロックといって、安全のためモーターやポンプ、タービンが過負荷で焼き付いたり壊れたりする前に機器を停止する装置がある。機器やシステムによっては、その条件が複雑で、これこれが揃わないと機械が動かなかったり、逆に動いている機器が止まったりと、そのダイヤグラムといわれる仕組みの解読も厄介である。
たとえばタービンが動くためには蒸気がないと動かない。その弁を開くためには潤滑油システムが動いてないと作動しなかったりする。また計装システム、その他補機類が動いていないといけないといった手順があって、それをシーケンスと呼んでいる。大型の機器になると、そうした条件が重なり、理解していないとなぜ動かないのか、なぜ止まったかがちんぷんかんぷんである。
配管は図面で何度も見て、何十ページにもわたる、数百本から数千本の配管の種類と大きさ、役割を憶えたつもりであるが、現場でそれを一本一本確認し、つながりの機器の位置、配管上の弁の位置と種類、計装機器の種類、位置、役割を頭に入れる。単に圧力計一つをとってもそこにはいろんな意味がある。蒸留塔においては製品の品質に直接関わるし、分解炉のガスバーナーのガス圧では分解温度に即響いてくる。
ポンプの吐出圧が狂うと流量が変わり、運転条件が違ってくる。蒸気は圧力と温度が密接な関係にあり微妙な圧力制御は欠かせない。なぜそうした綿密なチェックが必要なのか。答は簡単、それを把握しないと運転や起動、停止ができないからである。
工場の中で起こる反応とその条件は厳密に守る必要がある。そうでなければ品質の合致する製品はいつまでたっても製造できず、原料は毎日数億円の単位で大気に焼失していってしまう。
フレアースタックと呼ばれる高い鉄塔で赤々と燃える炎は一見勿体ないように思えるが、そこで焼失するガスを回収するのは不可能に近い。現場を憶えるだけではない。配管や機器の中を原料、副原料、中間品から最終製品までが流れる前に清掃しなければならない。数千メートルに及ぶ配管の清掃は気の遠くなるほどの作業である。しかしその作業は豪快でもある。
圧力タンクや蒸留塔につながった配管は、次の機器に接続する手前で切り離され、仮の弁をつけたり、ベニヤ板、段ボール紙を何枚か重ねて蓋をする。その塔槽類に空気で圧力をかけていく。三キロから五キロ(現在の圧力単位では0三〜0五Pa)の圧になったところで弁を一気に開くと内圧放出とともに中の埃、泥、異物からありとあらゆるものが出てくる。ベニヤ板、段ボール紙の場合は、それらが内圧ではじける大音響と共にゴミが出てくるが、ゴミ、埃どころではない。置き忘れの道具や、小鳥の巣と共に親鳥、雛、糞、衣類、石、缶、鉄板の破片と何でもござれである。そこで使う圧縮空気は、計装用空気供給のための圧縮機を使う。
我々はそれをエアーフラッシングと言っていたが、水を使用した洗浄もある。これは水をタンクに貯め、ポンプで循環してゴミをとるものだが、水を使って良い機器と、水は絶対使えない機器がある。
油でのフラッシングもある。これは主に大型圧縮機の駆動部、潤滑部で行う。精密な機器や回転機の軸受けなど絶対にゴミや鉄の切りくずなど混入してはいけない機器においては酸洗浄を行うことがある。これは専門業者に頼む。
空気で清掃しても大気中の水分は残るから、乾燥作業も必要となる。圧縮空気を、大型の乾燥器を通して機器、配管に送り込む。特に運転中、温度が零下になる精製セクションの後行程では、乾燥しないと水分が氷になって詰まってしまう。この頃には工場の中枢部の圧縮機が稼働を始める。これは三、四階建ての建物程度の大きさの中に収めるほどの大型機器である。これらを使ってエアーフラッシングが出来るようになれば、清掃作業は最終段階を迎える。
こうした作業に四、五ヶ月から半年を費やす頃には、機器、配管から弁の位置まで体が憶えてしまう。計装機器の作動チェックも計装技術者だけの仕事ではない。運転と計装は密接なつながりがあって、車でいえばフロントパネルに当たる各種の計器類が運転の唯一のパイロットである。これら計装機器の設定は実は計装員の仕事ではない、運転員の仕事である。
システムの性格をとらえ、感度や応答速度、反応動作の係数をセットする。調節弁の動作チェックだけでなく、安全弁の動作チェックでは実際レバーを引いて安全弁を噴かせるが、この音がまた耳をつんざくほどの轟音である。配管のほとんどは地上から五、六メートルないし七、八メートルほどの高架であるが、そうしたところには必ず点検用の通路がある。ところが建設中であったり、滅多に操作しない弁のところには通路はない。そんなときは配管を伝って行く。しばしば這って行く。八十メートル、九十メートルの蒸留塔にも登る。おそるおそるてっぺんに辿り着くと、あまりの見晴らしの良さに、降りるのがもったいなくて、回りを飽きずに見たものだ。
紙飛行機を飛ばしてもなかなか地上に着かないのが嬉しい。そのうち空に同化したような気になり、そのままふわりと飛んでいけるんじゃないか、という気分になる自分が恐ろしくもあった。
そうこうしている頃にはプラントも形を整え、機器単体の試運転から小システムへ、さらに中システムの稼働となる。水だけで循環運転したり、油や中間製品をドラム缶で注入しての運転を行うこともある。分解炉は数十メートルの高さに及ぶ炉の中に、特殊な加熱分解用コイルがあり、そのコイルの中を最初の原料が流れる。
炉は火をつければ終わりではない。建設後に数日をかけてゆっくり乾燥焚きを行う。炉の中のバーナーも数十本あり点火の順序と要領は大事である。この分解炉で、はじめに高温蒸気と混ざった原料が高熱で分解され、水素、メタン、エタン、エチレン、プロピレン、ブタジエン等とプラスチックの原料が造られ、重質分を除いたガス分がメインコンプレッサーで圧縮され、冷却されると液化する。それを蒸留していくと炭素数の大きい炭化水素から分離されていき、最後はエチレン、メタン、水素と分かれていく。このエチレン、何に使うかといえば、ポリエチレン、塩化ビニールといった代表的なプラスチックの原料である。
だからエチレン工場とはいっても副原料も多く、エチレンコンビナートの周りにはプラスチック工場群が隣接して建設されるのである。ブタジエンは合成ゴムの原料である。一度原料が投入されると液またはガスが機器、配管を流れ、圧縮、冷却され、液化された後に精製、分離が蒸留塔で繰り返される。石油化学工場にある高い塔の多くは、煙突を除けば蒸留塔で、この中には、トレイと呼ばれる穴の明いた鉄板に、パカパカと動く蓋がついたものが数十段から百数十段詰まっており、検査のため人間が中を移動して一番下から最上段まで移動できるようになっている。
一気に述べてしまったが、原料が投入されてからはじめての製品がでてくるまで、うまくいってもおよそ一週間がかかる。この間、十二時間の交代勤務を行い、途中何度か昼夜の勤務を交代するが、そのときは十八時間勤務となる。最低の人数で行うため、二交代といっても二チームしかいないから、当時はこうした勤務であったが、今はどうか知らない。
原料を投入した時点では、分解炉を通った分解ガスと呼ばれる複合製品は重質分を除き、全てフレアースタックに送られ、燃焼して大気に放出される。このときの炎の高さは百メートル前後にも達し、この世のものとも思えないほどの、大きな松明のようである。それが少しずつ後工程に送られ、それらから少しずつ副製品が分離されていくに従い、炎の大きさも次第に小さくなっていく。最後にエチレンの品質が合格に達し、製品タンクに送られる瞬間は、運転員達が集まるコントロールセンターで完成が沸き起こる。だがそれはうまくいっての話である。
原料投入から、初めての製品が出来るまでは全くいろんなことが起こる。ちょっとした小さなポンプが一台動かないだけで、もう製品は出来ない。電気、蒸気、水、計装用の圧縮空気、冷却水、その他あらゆる副原料、添加物、触媒のどれが欠けても製品、副製品はうまくできない。緊急停止はいつでもやってくる。それは一つの赤ランプと、けたたましい警報から始まる。
一つのランプが点滅し始めると、瞬く間に数十のランプが点灯し、やがてコントロールセンターの十数面のコントロールパネル一杯、一斉に点灯し、騒然となるのに一分とかからない。
はじめは頭がカーとなって一体なにが起こったのか、どうすればいいのか分からず、あたふたするのみであるが、そんなことが何度も続くと、原因と対策を考えるまでもなく、自然と体が動いている。
言えることは、例のインターロックが作動し、機器が爆発したり壊れないように、最低限の安全装置が働くため、滅多なことで事故は起こらず、その作動の確認が最低限の運転員の仕事である。
しかしそれが頭で理解して、体がついていけるようになるためには、場数を踏むしかない。ある現場では電気、水、ガス、蒸気が隣接した顧客のプラントから供給されていたが、それらが順番に毎日ストップするため、こちらのプラントもそのあおりを受けて緊急停止する日々が続き、スタートとストップを繰り返しへとへとになってしまった。
そうした場数を踏むこと、そしてプラントの特性をよくつかむこと、それがその道のエキスパートといえるだろう。彼らはあたかも車をあれこれ乗り換えるように、いろんな工場の試運転に精通している。話はそれたが、製品の品質が合格となってからも気は抜けない。いつ、どんな原因で止まるか分からないのは述べたが、それ以上の課題は、工場の能力を実証する試験の準備があるからだ。それを保証運転という。いわば工場の卒業試験みたいなものであるが、当時のエチレンプラントは年産三十万トンという容量が多く建設されていた。原料はガスオイルであったり、ナフサやエタンガスというのもある。いずれも契約により、決まった量の原料に対し、それだけの製品を製造しなくてはならないと決まっている。
工場は生産量がいつも一定しているものではなく、市況や、需要と供給にあわせ七十パーセントや九十パーセント運転といった具合に能力を変えることが出来る。だから最初に製品がでる時点では、工場の能力としてはずっと低いところで稼働している。そこから徐々に稼働率を上げていくのである。保証運転を行う前にはリハーサルをやる。
ある一定時間の注入原料の積算量と製品の産出量を流量計から読み取り、これでいけるとなれば保証運転の宣言を行い、数日間の保証運転を行う。このとき工場はまさにフル稼働であるが、その活気と緊張感は何度やっても慣れることはない。絶えず計器に目を見張り、数時間おきに現場をパトロールして異常がないか、ガス漏れや計器の故障がないか目を光らせる。
ところでここに行き着く前に何度か試行錯誤を行う。分解温度を変えることで製品と副製品の産出量の比率が変わることが知られており、その最適温度を見つけておく。その他ありとあらゆるテクニックが駆使されるが、専門的すぎたり、ルール違反のものもあってここでは取り上げない。
さてそうした作業は、プラント建設会社だけでスタッフを揃えることは不可能で、日本の同種プラントを持つ工場の運転員に協力して貰い試運転を行うが、明らかに彼ら運転員は人種が違うといっても良いだろう。彼らはすでに稼働し、商業運転をしているプラントの定常運転には長けているが、臨機応変な事態への適応力に欠けた者が多い。それでも、半年も準備で現場にいると、だんだん適応してくるが、借りてきた猫のままで、最悪の場合、お帰り願うことになる者もまれにいる。
同じ工場に五年もいると、その工場の隅々までを知った気になって、実際普段の運転では運転記録用紙に一本の線がすうーとどこまでも引かれるほど、微動だになく、神業に近い調節をする運転員もいるが、そうした人々を何々セクションの神様と呼び奉り、本人もまんざらではない。
あるとき、そうした中に圧縮機セクションの神様と呼ばれる運転員がいた。神様と呼ばれるほど何十年もやっているわけではないが、ある建設現場の試運転で、その工場の心臓部とも呼ばれる主圧縮機の運転方法を巡り、我々の取り扱い方法が間違っていると蕩々と皆に話していたものだ。それを伝え聞いた私の先輩は、そこで言ったものだ、「圧縮機メーカーはM社だけではない!」そこには日本の代表的メーカーが作った機械に対する盲目的な信奉と、自分の勤務する工場に導入された機種しか知らないある運転員の、無知と傲慢さを痛烈に皮肉った彼一流のユーモアが溢れていた。
世界を股に掛ければ、いろんな国のメーカーの製品を扱うことになる。それらの英文取扱説明書をじっくり読み、しばしばそうしたメーカーから派遣されるエンジニアとディスカッションして手直しや改造をさせたりしてベストを追求する本物のプロ魂を見た気がした。
先輩にしてみればこのプラントでさえ、いったん軌道に乗せれば、三人で起動、運転が出来るという。確かに分解セクション、圧縮セクション、精製セクションと各セクション一人ずつでいけそうな気がする。いやいやそれを二人でやって、あとの一人は交代要員か。彼の話は続く。「エチレンプラントが石油化学の中心にあるから、エチレンプラント関係者は特別なエリートと思っているようだが、うちらから言わせればどうってことはない。どこにでもある機器の集まりだよ。いつぞや設計のチーフとやらに話を聞きに行ったことがあるんだが、勿体ぶってこうのたまいた。
『君ねえ、エチレンプラントにはレットダウンという蒸気の減圧システムがあってねえ』とか言うもんだから、「そんなもん、工場に行けばどこにだってあるわいと言ったらな、えらく機嫌悪うしてもうて、ほんでな、緊急停止がかかったらインターロックがどうのこうのとうるさいもんやから、アホかいな、アンモニアプラントのインターロックいうたらエチレンプラントの比やないでぇ、もうアホくさくなったんで、話そこそこで帰ってきてもうたわいな」といった具合である。この会話は知る人ぞ知る某上場企業社長の若き日の失敗談でもある。
さて保証運転も終わり、顧客の承認を得たならば、試運転部隊はいよいよ帰国の運びとなるのだが、この日が来るのを、あるメンバーは二年待ち、あるメンバーは半年ということもあるが、皆一様に嬉しく、晴れ晴れとしている。ところが皮肉なもので長い間活躍した有能な人間ほど必要とされ、引き続きコンサルタントとしてあと一年残って欲しいとか顧客に要請されることがある。こうなるとむげに断るわけにもいかず、二、三人を残して帰ることになる。
そうかと思えば工場は出来たが原料が来なくて一時帰国したのは以前私がいた中国での出来事だ。もっとひどいのはある現場で、コンプレッサー(圧縮機)の能力が上がらず、いつまでたっても製品ができない。ある日、新入社員が、「このコンプレッサー、逆にでもまわっとんのとちゃいまっかー」と冗談に言ってひんしゅくを買っていたのが、ある日とうとうたまりかねて開けてみたらやはり逆回転していて、運転部隊は即帰国、代わりに工事部隊が戻ってきて配管を接続し直したという逸話もある。
簡単に工事の手直しというが、高温高圧用の配管は頑丈で、工事も大がかり、しかも図面で綿密に計算されているはずだからそんなことがあろうはずがないというのがそこにいた者達大半の見方であったのだが、これが見事に裏切られたこともあったらしい。
しかしその程度で済めば、あとで笑って済ませられるが、人身事故であれば悲惨である。私の目の前で起こったこともある。ほんの四、五メートル長の圧力容器の内部検査だったが私より四,五年上の先輩が横に空いたマンホールに這って入ったものの、まだ足首がマンホールの外にあるとき、酸素欠乏で中で倒れてしまった。足首だけがマンホールの外に出ている。まずは大急ぎで走って事務所に戻り丹ちゃんが倒れた!と年輩の先輩が大声で叫んだところが足首を引っ張っても、二人がかりで引くがびくともせず、そうこうしているうちに人だかりができた。酸素欠乏といっても倒れた直ぐに空気供給配管の弁を目一杯開けたためともともと窒素の充満度が低く、気絶程度で済んだようだが、十五分ほど経って日本人のスタッフが意を決し、その圧力容器に中に入って彼の体を持ち上げ、同時に足を引っ張ったらするりと外にでてきた。
顔は土気色で血の気はなく、もうだめかと思った。彼は当時新婚早々で、彼の妻はこの地、北京の房山に一緒に来ており、なんといたましいことに等といろんな想像が頭の中を巡ったものだが、幸い助かり、後遺症もなく、二、三日したらまた働きだした。回転機に巻込まれたり、高い塔の上で足場に命綱をかけて作業していたら、その足場が仮止めされていただけで、作業員は足場と共に落ちて死亡などというものある。今から考えれば危険に満ちていたのだろうが、エチレンの精製セクションをパトロールするとき、ひんやりとした塔槽類の間を何ともいえないほのかな匂いが漂い、それがあの時代の思い出となって焼き付いてしまった。
胃潰瘍か
アルジェリアに戻り、旅の疲れがまだ癒えない九月はじめの頃、胃がきりきりと痛みだした。
毎日がストレスの連続で、胃に負担をかけていたのは知っていたが、今まで経験したことのない痛みに不安をおぼえた。
海外の現場といってもこれだけの規模になると日本人の医者、看護婦がいる。こちらの身分は下請けの従業員であるが、元請が日本の会社なので、その恩恵にあずかれる。早速診察してもらった。
病状は軽いらしく、胃壁にキズがついているということだった。取りあえず薬をもらって休み、ムッシュ・ガリッグに話したら、それはいかん、養生しなくてはと大げさになり、彼の家で一週間ほど寝泊まりすることになった。
正直言って私は少なからず驚いた。日本人の間でも、そこまで面倒を見ることはない。しかも奥さんにも食事の世話など、何かと負担をかけることになる。持ち前の素直さと図々しさで、その好意を敢えて受けることにした。彼らは一見個人主義で、他人の面倒など一切見ず、付き合いなど難しいような気がするが、これは私の思い違いであった。
フランス人の反応としては相手が日本人の場合、付き合う前にまず、相手がこちらに興味を持っているかどうかで分かれる。
そうでない人々とは仕事以外全く話もしない。そうかと思えば、普段から親しく言葉を掛け、冗談や雑談を交わせる人々がいる。
ガリッグ夫妻は後者で。今までも何かと面倒を見てくれた。その日から早速彼の家に泊まる。家といってもマンションに近い七十平方メートルほどの二DKの鉄筋コンクリート宿舎の二階である。玄関はなく、入口の扉を開けるとそこが一五畳程の居間で、表の廊下からも丸見えだが、不思議と昼間誰もカーテンをしていない。そんな習慣はないようである。もしかしたら私の記憶違いで、カーテンはあったかも知れないが閉まっていた記憶はない。十畳程の寝室とそれに続くバス、トイレがあり、廊下を隔てて八畳の寝室が、私が寝泊まりする部屋で、かってアミエルが住み、責任者のムッシュ・フォールがいた部屋でもある。
ガリッグ夫妻は年齢的にも二十は離れている私を我が子のように扱った。食事も家庭的フランス料理で、いつも食べ過ぎた。
医者に言われたのは、食事の制限をする必要はない。何でも好きなものを食べた方が健康にいいし、回復も早いという。そんなある晩、その日は特に暑かった。今晩は熱くて眠れないと言ったらエアコンをかけて寝ればいいという。しかしエアコンはガーガーと音がうるさく、かえって眠れないと言うと「オー・ラ・ラー(フランス人が驚いたときいつも発する言葉)おまえさんはフランス人以上に難しい人間だなー」とからかわれた。
その時思った。自分もかなり彼等に影響され、好き嫌いや好みをはっきり言うようになったものだ。他人のうちにお世話になりながら、わがままな病人という気がしないでもないが、その時は極自然な、率直な文句だと思った。
一週間が過ぎ、体力も回復して二、三キロ太ったと思われる頃、オランに戻り、今までの生活が始まった。その一週間は彼らとフランス人の生活を知るには実に有意義な時だった。
フランスの食卓
日本人ビジネスマンの苦手な中に横飯というのがある。かなり外国語に堪能なビジネスマンでも、テーブルスピーチから始まって、食事中に延々と続く、多岐に渡る話題を楽しみ、ジョークからウィットに富んだ小話に座が盛り上がる文化を満喫するなどは至難の業である。その段階ではもはや語学力の問題ではない。
知識と教養、時事への関心、といえば何かしら国際評論家でもなければ太刀打ちできないように思われるが、彼らの会話を聞くと実にくだらない事を討論している場合が多い。ただし、まじめなオピニオン(意見)は一つ二つ持っていればそれに越したことはない。逆にいろんな話題にいちいち口を挟む者がいるがかえって嫌みである。話題は次々と出てころころ変わっていく、初めの頃はついていくのが精一杯だった。不思議と仕事の話はほとんどしない。せいぜい受け持つクラスの生徒がどうしたとか、彼らのお祈りの時間こんな事があったとか、元請け会社の日本人担当者達の言行や一般的な日本人について話題になるときがある。仲間の一人が私に尋ねた。
「日本人はノーと言わないと聞いたが、ではノーの時はなんて言うんだい」「そんなときは『難しい』というのさ、その言い方にもいろんなニュアンスがあって、難しいがやってみようというのもあるし、重苦しそうに『それはー、ちょっと難しいですねえー』とか言えば十中八、九ノーだと思えばいい」
「日本人がノーと言わないのは言えないからでなく、そのような躾をされているからだし、直接的な断りは生活風習に合わないからだと思う。はっきり断るのは失礼だとされているが、このため外国では誤解を受ける。特に女性はね」
しかし外国に長く住み、彼らのそうした文化を十分に理解している日本人が、わざとノーの代わりに、『それはちょっと難しいなー』と言うようなら、かなりの高等戦術にちがいない。
可能性を含んだ断りの返事である。それから話は飛び、イスラム教の戒律や、彼らの食生活、羊の丸焼きや、その残りを使ってどんな料理にすれば美味しいとか、その言葉尻をとらえてアルジェリアで使われているフランス語で、フランス人は絶対使わない言い回しがあるとか、果ては比較言語学まで話題となるが、皆きちんとした研究、学問に基づいているわけでもなく、独断と偏見による思い込みで話は流れていく。
「いやそうじゃないだろう」と誰かが反論すると、「俺はその意見には納得しない、これはこうだ」と、とにかく聞き流さない。
ある話題が議論され、発言しなかったらそれに賛成又は認めたものと解釈される。だからそうでない者は、たとえ判断の材料がなくても、納得していない意志表示が必要である。夜八時頃から始まって、夜中一時二時まで続く。体力も必要である。
料理と酒の話題は必ずでる。そうなるとソースやスパイスの使い方、それら原産地と、できた料理がどの酒に合うか、侃々諤々の議論となる。フランス料理と中華料理はいつも比較の対象にされる。それにしばしば日本料理が話題となる。「日本ではなんと魚を生で食べ、海草まで食べるんだってねー」と誰かがからかうように、少々軽蔑の意味を込めて私に言う。
今更何を言う、田舎者と軽蔑したいが、逆にフランス人の管理職クラス、知識層は日本料理の良さを十分知っており、見た目の鮮やかさ、味の繊細さ、素材の味を生かした料理法、そして健康的であることを述べ、今のような質問に対しては逆に冷ややかな眼差しで逆襲する。頃合を見て、私は柔らかく切り出す。
「そこが文化の違いだよ。フランス人は兎を食べる。エスカルゴを食べる。中国人だって蛇や犬や猿を食うが、自分等が食わない物を食うからといって、驚いたり、軽蔑したりしていては相互理解にならない」「あんたらフランス人は極端にアメリカ人を嫌っているが、それは彼らが彼らの価値観を皆に押しつけるからだろう、そうじゃないのか」
「うん、そうだそうだ」
「だったら刺身や海草を美味しそうに食べる連中を変だと決めつけるのは同じ事じゃないか」
「うーん、そうかもしれんな」追求はそこでやめて話題を変える。
「ところでぼくは思うんだけど、世界の有名な料理というのはかなり残り物の料理ではないかという気がするんだけどね」
「フランス料理でいえばカスレという豆料理や、シュー・クルートという酢漬けのキャベツに寄せ集めのソーセージ類はアルザス地方の代表的な料理だし、ドファン地方のグラタン・ダフィノワなんかもじゃがいもとチーズの残り物で作ってこれがいける」
「あれなんか、冬には暖かくて美味しいわよね」と誰かの奥さんが口を挟む。
「世界にはまだまだある。炒飯なんかも残り物のご飯にクズ野菜を混ぜて炒めたものだし、チャンポン、八宝菜、混ぜご飯、ポトフーにボルシチなどみんなそんなたぐいに思える」
「そうだそうだ、おまえさんの言うとおり。普段の生活でもあの色々混ざったサラダが美味しかった、といっても二度と同じ物が出来ないときの悔しさはときどきあるよなー」
「ところでこのお肉、とても柔らかいし、なんと言っても焼き方がいいね。うん、とっても旨い。料理の名前をいくら覚えても美味しい料理の一品にはかなわない」
「あらそう、口がうまいわね、じゃまた今度作るから食べに来てちょうだいね」かくしてまたまた美味しい料理を予約できたようなものだ。
そうしてここ一週間ほどの出来事をあれこれ情報交換すると話題はつきる。誰も話をしない一瞬がたまにあり、そんなとき誰かが「天使が通り過ぎていく」とかいって、次の話題が出る。
いよいよ話すことがなくなったらどうするか。皆、自分の十八番ともいえる小話を披露するのが毎度のことである。
お喋りのモーリスの十八番は×(ばつ)という題で、もう二、三回聞いたが、何度聞いても面白い。彼独特の言い回しと間の取り方が絶妙である。さてその十八番が始まった。
「ある時にな、トトという八つくらいの男の子がいてな、学校の図画の時間に先生が課題を出したんだ。
『皆さん、今日はカタストロフという題で、絵を描いてもらいますよ。身の回りで起こった事、あるいはテレビや雑誌で見たどんなことでもいいですから世界の悲惨なこと、破滅、災害など絵にして下さい。』
クラスのみんなはな、戦争や竜巻、列車事故の様子などを描いていた。が、一人トトは画用紙一杯に×を描いたんだ。若くて美しいその先生は、トトに訊いたもんだ。
『トト、それはどうしたの。みんな色々すごいことを描いてるけど、トトのは×一つじゃないの。』
そこでトトは言ったもんさ『でもね先生、このあいだ家ではもうひどかったんだよ。この×ひとつで家中がメチャクチャになっちゃった。』
『どういうことなの。先生にちゃんと説明してちょうだい。』『高校生のお姉さんがいるんだけどね、毎月カレンダーに×をつけていたんだ。』
『それで?』
『それが先月の前の月で×はお休みになって、先月もやはり×はなかったの、そしたらそのことでお父さんが怒りだして、お姉さんはひっぱたかれるしお姉さんを追いかける。お姉さんは泣いて逃げ回るし、椅子や机はひっくり返るし、家中大騒動で皿は割れ、床は水浸し、お母さんはわあわあ泣くし、もうあれ以上のすごいことはなかったよ。ぼくは世の中ひっくり返るかと思っちゃった。』
その女教師は顔を真っ赤にしてうつむいてな、なにも言えなかったらしいよ」
一同爆笑。
私の十八番の小話もある。「あるバーのカウンターにな、たいそうな身なりをした男が拳を上げ、皆に説教めいたことを言ってるんだ。『人生はな、とにかくもらうよりやらなきゃいかん。やって、やってとことんやる、これが成功につながり、自分も幸せの道が開けるんだ。もらっちゃいかん』と、そこに来た新顔が、隣の男に尋ねたんだ。『へーおどろいたね。ありゃ一体どなたさんかね。神父か銀行家とでもいったところかな?』訊かれた方の男は答えた。『いいや、あいつは昔ボクサーだったんだ。』」
フランス語マスターの道
語学をいかにしてマスターするか、どうやったらうまくなるかという話は、語学の学習法や参考書に五万と書いてあり、そんなことを改めてここに述べる気はない。とくにフランス語については、多くの女性のあこがれと羨望の眼差しを受け、少し話せるだけで、特別な扱いを受け、ちやほやされる。
フランス語を話していて、女性から、そんな憧れの眼差しで見られる、といったことは私には全くなかった。私自身、フランス語はあこがれでも何でもなく、単に仕事の道具であった。初めてフランス語圏に行ったのは、フランス人が嫌う、日本でも地の果てと思っているアルジェリアだったからだが、あこがれをいだけなかったもう一つの大きな原因は、彼等の顔かたち、格好からして、アラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブを連想させるものは何もなかったといったこともある。
ここで彼らが怒鳴り立てるフランス語は、映画で歌うような、あるいは小鳥が囁くような愛の言葉とは無縁のものである。それに加え、毎朝毎晩、多くのアルジェリア人家政婦達が、廊下といわず宿舎の内外といわず、そこここで、大声を張り上げ、罵りあう言葉が、アラブ語混じりのフランス語であり、そこには命令や、自分の欲求を押し通す手段の言語としてしか感じられない。
とまれ、ここはフランス語圏。まあ彼等と仕事するには、知っておくに越したことはないと思い、日本で、入門書を買い求めてきた。朝晩十分か十五分ずつ練習する。毎日一つ二つの言い回しをおぼえては翌日使ってみる、といったことの繰り返しであった。このとき同じ現場にいた日本人の数は二、三百人、いやそれ以上いたろうか。通訳が二十人くらいいた。通訳以外でフランス語をまともに喋るのはまずいない。どうしてそれが分かるのかといえば、フランス語に興味のある者は、だいたい通訳連中と付き合い、通訳達はかたまっているからよく目立つ。私の同僚、先輩も、アルジェリア勤務が最初から予定されていた者は、会社でフランス語の授業を受けていた。
月日が経ち、だんだん分かってきたが、語学はセンスと情熱が必要である。三月も経たないうちに私のフランス語の方がずっとアルジェリア人に通じているし、同僚、先輩のフランス語は全く何の役にも立っていないことに気づいた。しかもそのレベルは止まったままである。彼らはフランス語の必要性も感じなければ、興味もない。
確かに、現場事務所や工事現場に行ってもフランス語はとくに必要ない。必要なときは、「あれ」、「これ」、「よし」、「だめ」、「コピー」といった程度で済む。
加えて、日本で習うフランス語は、文法文法とうるさく、日本人には、ほとんどなじみのない法則で、動詞の活用が一人称、二人称、三人称の単数、複数と有り、時制だけでも、現在形から半過去、大過去、単純過去、複合過去、未来と、もうそれでちんぷんかんぷんである。かてて加えて直接法、条件法、接続法と、はじめにそれを聞かされれば九割方の人間は間違いなく逃げていく。しかも日本では、どこにいっても、初めにやるレッスンが、イラ、エラ、ヌザボンといった、お経の呪文に近い言葉の繰り返しである。
これで大半が興味を失い脱落してしまう。次にやっかいなのは数字である。アン、ドゥ、トロワくらいは誰でも言える。それでも二十まで憶えられれば、ひと山越す。それを過ぎると三十、四十、五十、六十と順調に行くが、六十九から七十に移ったとき、六十足す十、六十足す十一・・・となって、少し戸惑う。うまくそれを越えたとしても、八十になるとここで残りの大半が脱落する。脱落する人は、八十を、なんと四を二十といった言い方になると考える。実際、四、二十の単語を続ければ、それがフランス語の八十である。だから四の二十足す十が九十、四の二十足す十一が九十一ときて、九十九となると混乱は絶頂をきわめる。四の二十、足すの十九となってそれまでの複雑怪奇な数え方が一気に爆発し、脳味噌は膨張し、言語中枢と算術の神経回路が錯綜して呆然となり、本を閉じて布団をかぶり、寝るのみとなるのである。
だから、彼らの勘定は引き算でなく、「足し算」という言葉が使われるのではないかと思える。レストランの勘定で、例えば百十五フランだったとする。五百フラン札を出すと、給仕はまず偽札でないかどうか透かしを見る。次に五フラン硬貨を出して、百二十という。十フラン硬貨を足していき、百三十、百四十、百五十、そして五十フラン札で二百としたら、後は百フラン札で三百、四百、五百となって勘定が済む。
状況によって初めの五フランか、十五フランを勘定の皿に残し、おつりを受け取る。これが慣れるまで、いや慣れてもまだるっこしい。ゆえにフランス語マスターの道は、ここまで述べたようなことをやらないに尽きる。もう一つよく言われるのに、その国の異性と仲良くなることが上達の早道だということがあるが、これには異論がある。
友達になって色々話をしたり、理解を深めようとか、口説こうとかやっているうちは語学にも熱が入るが、それを過ぎ、あるいは一足飛びに、男と女の関係になってくると、言葉は要らない。お互いが肌の温もりや、ボディーランゲージに没頭した日には、フランス語の甘いささやきもとたんに不要となり、色あせてしまう。よって語学堪能者で美男美女は少ないと言ったら怒られるか。
休暇、東ベルリンへ
はじめ言ったように、契約条件で三カ月毎に十日間の帰仏休暇がある。雇われたのはパリだから単身赴任者にはフランスまで、往復の航空券と十日間の有給休暇が与えられる。彼らフランス人にとっては、入出国にビザは要らないから、休みでなくとも週末を利用してフランスに行くことは可能である。日本人の場合出国ビザないしは再入国ビザが必要で、それがために以前いた日本の宿舎では、一度入国すると監獄の中にでもいるような気になったものだ。前回のひと月の休暇はひどい目にあったとはいいながらも、ラマダン休暇に出国できたのは、ストレス解消になった。
あれから三ヶ月はあっと言う間にやってきた。さてフランスに行くのはいいが、十日間は長い。その頃以前勤めていた会社の同僚が、東ドイツにいて、石油精製コンビナートの建設で長期滞在中だと言う。実は私もその設計に少しだけ関わったことがあって、時期的には建設は今頃だなと知っていた。
一旦パリに行き、一日だけ滞在して、そこから西ベルリン行きの飛行機にのり、確か二時間くらいの飛行時間だったと思うが、ベルリンに夜着いた。何かのトラブルで夕食が出るはずなのに出なかった。そんな事にはもうびくともしない。怒る気にもなれずバスでベルリンの街まで行く。
着いた日に一旦宿をとり、翌日彼がホテルに迎えに来ることとなった。ところでベルリンは二度目である。前回はポーランド側から東ベルリンに入り、そこから壁を抜け、西ベルリンに入った。
ここはアルジェリアやパリとは全く違っている。どう違うのかうまく言えないが、よりアメリカ的な気がした。ドイツ人はフランス人より大柄で、旅行客はまず英語で用を足せる。たまにドイツ語しか喋らない人もいるが、フランスのように母国語を押しつけられることはあまりない。店の飾りやネオンがまばゆく、宣伝やコマーシャル看板のたぐいが全く見られない社会主義国からくると目がくらくらしそうである。季節は秋の終わり。朝夕は寒い。パリではその頃はやりの暖かい下着専門店で、厳寒地用半袖シャツを買ってきた。それを着ていると、夜中摂氏五度を下回るベルリンの町でも一向に寒くない。翌朝町を散歩することにした。午後には暇になり、食事もコーヒーも終えて他にやることがなくなった。
歩いているとサウナ風呂の看板が目に付いた。少し寒いときにはこれもいいかもしれないと入ってみる。中は男女別で、他に家族用があった。サウナ風呂には十人くらい入れるスペースがあり、私が入ったときには四、五人の男達が思い思いに座ったり寝そべっていた。その隅に私も腰掛けた。それから四、五分経ったろうか、どやどやと一家族が入ってきた。えっ、と思う。確かここは男性用のはずだが。というのも三十代後半の夫婦と歳の頃は十三と十五くらいの娘達が一緒であった。
前を隠すでもなく、自然に振る舞っていて私にとってはとてもまぶしかった。ドイツとはなんといいところだろうと思ったが、あまり長くいるとサウナの熱でこちらがぼーっとなる。適当なところで出て、ぬるま湯のシャワーで身体を冷ました。浴びながら、しばし、ぼけっとしていると、先程の娘の一人が出てきて、なんと私の隣でシャワーを浴びている。何の恥じらいもなく、それが習慣のように、こちらを見るでもなく、自分の局部を隠すでもなく、自然に振る舞っている。
そんなものかと思い、私もすぐ慣れた。そうは言っても、見ない振りをしてちゃんと見るが、フランス人の頬のキスと同じで、慣れるとどうという事はない。公衆浴場の一般的風景と思えばいいが、なんだか得をしたような気になってそこを出た。
かつての同僚と午後に会い。東ベルリンにいく。また社会主義の国に来た。とは言ってもアルジェリアとは全く違う。昨年チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツと回ったとき人々は素朴で、全くすれてない、とても良い印象を持ったが、それはまだ変わっていない。その頃私が以前いた会社では、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツと立て続けにプラントを建設していて、かつての同僚が二年から三年と、そうした国々に滞在し、建設に携わっていた。
皆一様に満足しているように思えた。というのも、また行きたいとか、日本に帰りたくないと言う声も聞くし。滞在先で結婚相手を見つけたとか、恋人が出来たとかいうのもいた。確かに教育水準は高いし、国民性は良く、すれてないし、日本人に対する彼らの評価は高いし、うまくいくのかも知れない。
東ドイツに滞在するかつての同僚に言わせると、考え方、発想の根本が違うので、彼には理解できないし、結婚の対象としては考えたこともないという。それは理解できる。イギリス人、ドイツ人、フランス人ならまだ言葉で話し合って、理屈で分かってもらえるような気がするが、アルジェリア人と日本人ではかなり難しい。
アラーの唯一神と日本に住む八百万の神々とが全く相反するように、習慣、食べ物等あまりに違いすぎて初めから結婚の対象外だと思ってしまう。こう言うと失礼かも知れないが、私自身アルジェリア人女性と結婚した日本人男性を知っている。その逆もある。私が遭遇した以上のカルチャーショックがあったことは想像に難くないが、幸せもそれ以上であることを望む。
東ベルリンを発って南のドレスデンに行く。ここは東ドイツの古都である。昔中学校でドレスデンの産業は石炭採掘だったような気がして、それ以後の記憶はなく、今回旅行のパンフレットにドイツの古都と書かれてあったのを読んだだけである。
なぜそんなところに来たかというと昨年旅行でハンガリーのブタペストを訪れたとき、そこで知り合った友達がいたからである。ベルリンから電報を送っていたが、返事はもらっていない。まあこちらは暇だし、だめでもともと、とにかく訪ねてみる。汽車でドレスデンの駅に着き、町を歩いて、住所から彼女のいるアパートを見つけるのにさほど手間はかからなかった。
街並みは暗く、石炭の煤と灰で薄汚れた感じがした。ネオンや街灯の数が少ないこともその一因のようである。アパートには果たして誰もいない。外出中のようだ。仕方ない、伝言を残して一旦ホテルに戻ろう。その伝言をポストに入れようとしたら彼女が帰ってきた。まさか私が本当に来るとは思っていなかったらしく、少しびっくりした様子だったがとても喜んでくれ、取りあえずレストランで食事しようということになった。そのときやはり、一緒に昨年ブタペストに旅行をした彼女の男友達二人が一緒だったので、四人で食事ということになった。
食事の後一渡り話をしてから一旦ホテルに戻った。その後は余り憶えていないがおとなしく寝たことは確かだ。翌日、彼女は仕事で、彼女の男友達のうちの一人が町を案内してくれて、その夜彼女の両親の家でお茶を飲んだ。その日の夜は彼女の勧めでホテルをキャンセルして彼女のアパートに泊まった。四人でビールを酌み交わし夜遅くまで話しそこに四人が寝た。明くる朝彼女は早々に起きて仕事に出かけ、私はまたベルリンからパリに戻り、アルジェリアへと発ち、翌日には授業を再開した。一日二日のうちにこうも目まぐるしく場面が変わると昨日までの旅行は非現実な夢物語に思えてくる。そして授業という超現実が待っていて、祭りは終わったよと言っているようだった。
クリスマス休暇
アルジェリアで過ごすクリスマスは今回格別である。なぜならまず回教の国ではクリスマスはない。日本人も休みを取ってまで祝うこともないが、この職場では大半がフランス人で、クリスマスは彼等にとって大切な行事であり、一家が年に一度集まる日でもある。元請けの日本企業と交渉し、我々は皆休みになった。唯一、日本人の私も、無理矢理クリスチャンということで了解を取ったようだ。同僚の何人かはフランスに帰国して、クリスマスを祝い、残る大半は一緒にクリスマスを祝うことになった。取締役のドルフもやってきた。彼は気さくな人柄で、オランダ人であるが英、蘭、仏語を話す。たぶんドイツ語もできると思うが彼が話す機会はない。マックス{ムッシュ・ガリッグ}とはよくオランダ語で喋っている。彼のフランス語は少し訛があって、聞いていて可愛い感じがする。さて彼は皆にクリスマスプレゼントを持ってきた。まさかそんなものをもらえるとは思わないから驚いた。開けてみたらフランスの珍味、フォアグラとチョコレート、それにカードが付いていて、クリスマスおめでとうと書かれてあった。なかなかにくいことをすると思った。奥さん連中が作ったとびきりの料理とワイン、それにお喋りとダンスで座は盛り上がり、夜が更けるまで踊り、翌日は昼過ぎまで寝た。もっといろんな事があったが、楽しかったことはだんだん忘れていってしまう。
オランダ人重役、ドルフ
テレビ俳優かと思うほど、五十過ぎではあるが、ハンサムなディレクターが我等の重役ドルフ・シュネットラーグである。体格からスポーツマンということが分かる。アルジェリアに来る度、休みの日は、テニスやスクワッシュのスポーツをしている。ヤイを誘ってスクワッシュやテニスをしたり、私がローラースケートをしていると、後ろ向きに滑るやり方を教えてくれたりした。ある時ガリッグ夫妻が休暇でフランスに帰っている間、彼が来て、私が一週間ほど彼の昼食を作ることになった。
その一週間はかれも含め四、五人で昼食をとることになった。今までの人数に一人が増えただけである。例によって昼食の時間はあれこれお喋りをする。ある時食後の珈琲を沸かし、それを注ごうとしたら皆一斉に笑い出した。どうしたのかよく分からない。何で皆笑うのだろう。しかも信じられないとか言いながら腹を抱えて笑っている。ドルフが言った「おまえさんが持っている鍋をよくみなよ」
「えっ、鍋って、別に何の変哲もない毎日使つてる鍋じゃないの」皆はまたそこでどっと笑う。
「その鍋の注ぎ口だよ、おまえさん左利きだからいつも左で鍋を持って、反対にある注ぎ口で窮屈そうにコーヒーを注ぐから、注ぎ口を換えてやったんだ。そしたらどうだ、今度は一旦左手で持ったものの、その窮屈な注ぎ方が習慣になっているとみえ、わざわざ右手に持ち換え、以前と同じように窮屈な注ぎ方でコーヒーを注いでいる。だから皆笑ったのさ」錫の鍋だからそんな細工はすぐ出来るが、彼らがそんなイタズラをやるとは思わなかった。しかも取締役が、である。親切心からだろうが、黙って私の反応を伺っていたのはやはりいたずらに近い。その後その話は、私をからかうためあちこちで語られた。
飛行場物語
どうして物語かと言えば、いろんなドラマがあったことと、私が体験したことのみならず、人から聞いた話も多くて、信憑性に欠けるからである。初めてのアルジェリア赴任の時、のんびりと構え、皆が入国管理でパスポートのチェックを済ませ、荷物検査を終えて、その最後尾について入国検査をしていたが、そうすると飛行場に着いてから空港を出るまで二時間近くかかってしまう。そのうちだんだんと要領をおぼえ、いかにして入国審査、税関をくぐり抜け、早く出るかを競うゲームのような癖が付いてしまった。
アルジェリア人旅行者達は、どうやって抱えてきたかと思うようなトランクに、目一杯の衣類や日用雑貨を詰め込んで、一旦開けたら二度と閉められないくらいの溢れた物、物、物の検査に時間がかかり、とても付き合ってはいられない。荷物検査の横では白タクの運転手達がカモとなる客を捜している。ちなみに値段を聞くと百五十ディナールだという。フランス、パリの感覚だと、自国の通貨に換算して当時はまあそんなものかと思ってしまうが、正規のタクシーでは五十ディナールくらいである。バスにいたってはわずか五ディナールでしかない。ある時フランス人がそれに引っかかり、ほとんどそのタクシーの運転手と交渉が成立していたが、私が見かねて、脇から、「運ちゃんそれいくらだい」と訊いたら、「二百でいいよ」という。「冗談だろ、街まで普通五十、バスなら五しかかからないぜ」と言ったら憮然としていた。
もちろん交渉はそこで終わり、フランス人も損をしなくて済んだが、それで礼を言われることはなかった。フランス人は他人に対して、警戒心の強い国民だと思うが、お礼どころか、ひどい場合は、自分は関係ないよと言いながら、私が知らぬ振りをしていると、結局私の忠告に従い、しかも自分はそれを知っていたかのように振る舞うのもいる。救いがたい人々である。そんな警戒心が強くても、だまされるのは皆同じである。さて、搭乗手続きの窓口でも、出国時のパスポート審査と同様、混雑は同じである。
空港の手荷物受付カウンターは一ないし二しかなかった。そこに人は群がる。というより殺到する。予約を入れて座席が指定されていれば、どうしてそんなにむきになる必要があるのだと不思議に思うかも知れないが、そうではない。予約していても勝手にとり消されることがある。
またオーバーブッキングといって、席の数以上に予約され、早く搭乗券をもらわないと安心できないのである。問題はそこにとどまらない。チェックインをして荷物を預け、搭乗券をもらったとしてもまだ安心はできない。出国審査で時間がかかる。コンスタンチンやアンナバといった地方の空港では、窓口の数も少なく、一人一人に時間がかかるため、三十分以上かかる時もざらにある。それが終わってようやく飛行機に搭乗となるが、ここでもやっかいである。ある時は一度、フランスからの飛行機が来て、その同じ飛行機がまた帰る便であったが、その便が来なかったため、フライト自体がキャンセルとなった。
またある時は、飛行機の整備が遅れ、搭乗開始となったとき、待ちかねていた旅行者が、三百メートルほど離れた飛行機目指して一斉に走り出した。皆が乗り終えたとき、何人かの乗客が座れず立っていたら、その客達は降ろされたという信じられない話もある。
つまり搭乗券と席の数がはじめから合わなかったらしい。ある時は貨物を積みすぎて飛行機が飛べなくなったので、太ったおばさんから降ろされたとか笑えない話もある。実際私が見たのは、仕事仲間が長期の滞在を終え、完全帰国をすることになり、盛大な見送りと共に空港に行き、飛行機で旅立った時のことである。出発したまでは良かったが、一度離陸はしたものの、霧のため途中で引き返し、我々が仕事から帰って、彼の話をしながら懐かしんでいると、去ったはずの同僚がまだいるではないか。「えー、どうしたのー」と訊くと、そんなわけで一旦戻り、明日また再出発するという。
本人も照れていたが、こればかりは仕方がない。その日は静かに歓送会の二次会をやった。
さて話を元に戻すと、搭乗券を受け取る際にも座席は指定されない。だから席は、早い者勝ちである。もちろん手荷物を置く棚も早い者勝ちで、皆手荷物を二、三個持って入るから、ぐずぐずしていると、戸棚の中はすぐ埋まってしまい、自分の足下に置くことになる。
ようやく席と荷物を置く場所を確保しても安心できない。故障で結局飛ばなくて、代わりの飛行機に乗り移ってくれとなった場合もあったからである。さて機内食といえば、さすがに、ハム、ソーセージなどの豚製品はださない。と思っていたら、ある時ハムが出た。ところがこれは牛肉製であった。アルジェリアからフランスに戻る機内食は旨くない。調理や食材のまずさからであろうが、大抵はニワトリの丸焼きをスライスして冷やした、コールドチキンである。
逆にフランスから来るときは旨いかと言えばそうでもない。機内食に飽きているから、何を食べてもさほど変わらない。ただそこで出されるスプーン、ナイフの類はすべて持ち帰る。アルジェリアでの飯場生活では、これがとても役に立つからである。エアーフランスのお土産としても洒落ている。もちろん日本に帰るときはそんなことはしない。土産とかいっても誰も喜ばない。以前、アルジェリアの東部にいた時、三週間の帰国休暇を利用して、コンスタンチンの飛行場から、西に飛び、首都のアルジェで一旦飛行機を乗り換え、スペインに行こうとしたことがある。
コンスタンチン、アルジェは国内線だからアルジェの空港では国際線の空港に移動する。そこで二時間ほどの待ち合わせがあり、時間的にも昼飯時、アルジェリアでの食事もこれでいっときはできないと思い、のんびり食事をして出国審査の行列に並んだのが出発の四十分前であった。
審査には一人一人、異常に時間がかかる。こんな速さでは飛行機に間に合わない。その頃はフランス語もほとんど片言で、事情をうまく伝えられない。たまらず前の方に行って時間がないと言ったが、ちゃんと並べと言われ、列の後ろに戻された。
審査が終わって飛行機に乗れる頃にはその便は発った後であった。外に出て、飛行機に案内してくれるバスの乗り場の横には、私が預けていたボストンバッグが一個取り残され、誰もいないコンクリートの飛行場脇にぽつんと置かれたままになっていた。その頃は、チェックインで一度預けた荷物は、飛行機に積み込む前に、搭乗者が自分の荷物を台車から取って、別の台車に乗せるため、チェックインして搭乗しない客の荷物はそこに残ることになるという面白いシステムであった。飛行機爆破テロ対策かどうか分からないが、そんなやり方はこの国以外で見たことはない。そんなわけで、飛行機に乗ること自体が、早起きと、大きな覚悟とさまざまな戦いといった、たいへんな国であった。また以前、エアーフランスに初めて乗ったとき、オーデコロンを滲み込ませたナプキンが配られるのが少し奇異に感じられたが、それが有り難く感じられたのはアルジェリアに赴任してからである。
日本人通訳
アルズーの日本人宿舎を訪れたとき、昔の同僚がいたことは前に話した。ちょうど良いことに、彼はその宿舎の管理部門にいて、彼を含め四人の日本人がいた。門のそばの管理事務所にいたおかげで、そこに入るのはフリーパスとなった。通勤途中でもあり、帰りによく寄った。ファム・ド・メナージュといって洗濯のおばさん達の管理もそこでやっていたので、遊びに行くと、たまに彼女達への指示の通訳をやったが、そういったことでその部署の人達とも知り合いになり、しばしばご馳走にもなった。
ある時お返しとして彼らをオランの家に呼ぶことになって、前日、オランの市場に買い出しに行った。市場はやはり朝早くか夕方でないといいネタがない。特に魚類はそうだ。その通りには魚屋が何軒か有り、いずれも夕方、港から活きの良い魚介類が揚がってくる。そんなときの市場は活気があって良い。店の前には人だかりで、なかなか買い物は進まない。
フランス人が後ろの方から、この魚はいくらだと訊いているが、店の主人に聞こえない。そのすぐ前にいたアルジェリア人が、主人に代わって言う。
「そんなに高くないよ」
「何いってる、俺は値段を訊いてるんだ、高いか高くないかなんて何の意味もないじゃないか」
と一人で怒っているが、彼らにそんなことをいっても仕方ない。さて私は目当ての伊勢エビを買い求めた。地中海の甘海老も美味しいが、今日はその店でとびきり大きい伊勢エビで、一抱えもあるのを買った。量ったらなんと六キログラムもある。もちろん生きていて、暴れるとこわいので、荷造り用の紐で縛ってもらった。持って帰ったが冷蔵庫にも入らないので、どうせ生きてるし、腐ることもないだろうと思い台所の流しに置いていた。
そうしたら夜中、ギー、ギー、ギーとうるさく鳴く。きっとこんなところに連れてこられ、地中海が恋しいのだろうが、明日までの命である。おかげでその夜は余り眠れなかった。
翌日、伊勢エビを茹でようとしたが、持っていた大鍋にも入りきれず、隣から盥のような鍋を借りた。まず湯を沸かし、沸騰したところで海老を放り込むが、海老も鍋のふたを開け、湯気を感じたところで、己の運命を知ってかバタバタと激しく最後の抵抗をする。余りに騒ぐので、私の手に負えなくなり、招待した友人の同僚に頼んだ。
彼は有無をいわさずエビを湯に放り込むと、鍋のフタを上からぐっと押さえ、全体重をかけて鍋ごと押さえていたが、それほど六キロの伊勢エビの抵抗は激しく、一時鍋はがたがたと騒がしかったが、やがておとなしくなっていった。その伊勢エビを五人で食べたが、頭と脚、それに味噌の部分だけで満腹し、尻尾の部分がまるまる残った。その尻尾は翌週招待したフランス人達に、輪切りにしてマヨネーズと共に出し、五人分の前菜となった。
彼ら会社から派遣された日本人にすれば、フランス人達と契約で仕事をしている私が不思議でならないらしい。いつも通訳と間違われたが、そうじゃないと説明するのに苦労した。
その中で面白い人がいて、こんな事を話してくれた。
「フランス語は難しいけど、ちょっと習って『夜を一緒に過ごしたいね』という文章を一生懸命憶え、洗濯のおばさんに言ってみたんだ。そしたらその女性はね、『う?』と答えた。『う』のひとことだけだ。こちらもウッとなったねー。ところでありゃどういうことだい?」
私は言ってやった。「そうですか、それは惜しい事しましたね。『う』というのは『どこで』ということなんですよ。つまり夜を過ごすのはいいけど、どこでと訊いたのは半分オーケーのようなものですよ」
「そうか、しまったな。まさかそんな簡単にオーケーとは思わなかったからそこで諦めたんだけどね、もう一押しすりゃあよかったなー」彼らとはその後も私がドライブに誘ったり逆に夕食に呼ばれたりして長く続いた。
初めての旅ビスクラ
はじめてアルジェリアに赴任して三ヶ月も経たない頃、この国を旅してみたい気になった。三十代半ばの先輩と、五十歳過ぎの通訳と連れだって、地中海から二百五十キロメートルほど南下した内陸部、ビスクラという、オアシスの街に旅することになった。
ここに来る前はフランス語のフの字も話せず、赴任してからぼちぼち始めた。よってその時はほとんど話せない。朝六時のバスがある。ビスクラ行きの直行便で、四時間ほどで着く。初夏の頃であるから、六時と言えば相当明るい。始めて見る雄大で肥沃な緑が、だんだん南に行くに従い、草も生えぬ土漠の景色に変わっていく。それもまた壮大である。
車内のラジオからは絶えずアラブ民族の音楽が流れ、何時始まり、終わるともつかぬ単調なメロディーが延々と続く。いつのまにか寝ていたようだ。暑さに目が覚めると、そこはオアシスの街ビスクラだった。バスを降りると、暑さと乾燥した空気の中に、近くの市場から来る、野菜や羊肉の腐りかけた臭いが混じる甘ったるい空気が、異国に来た実感を呼び覚ます。
少しふらつく足どりで、車酔いと砂漠からの乾いた風、太陽の日差しと照り返しの中で、頭は朦朧として歩いているが、その間にも意識の中では、遠い日の夏休みのことを考えていた。さてここからは、とくに予約もしてないが、近くのホテルを探して歩き出す。
暑い。とにかく暑いが、汗はかかない。背中と頭に、じりじりと焼け付く太陽を感じながら歩いていくと、蝿が寄ってきて、水分のある唇と目にたかる。
手で追い払ってもまた寄ってくる。唇を蝿が這い回る奇妙な感覚をここで初めて知った。道端に座った行商の男達や、そのそばにいるまだ四、五才くらいの少女だろうか、その目と唇にも蝿が何匹かたかり、それを追い払おうともしない。むずむずとしてその汚さに思わず唾を吐くが、するとその唾が付いた唇に向かっていよいよ蝿が寄ってくる。
そして、とある一軒のホテルに着いた。『ホテル・オクバ』とある。白壁で、周りの建物と比べても造りがよく、外国人が快適に泊まれそうなところである。チェックインして部屋にはいると、中は大きなベッドが二つあり、リビングの応接セットと共に、かなり広い空間をゆったりと取ってある。気に入った。ベッドに横になってみると、朝早くからバスに揺られここに来たのが、つい先程とは思えないほど、この町の雰囲気は別世界の感があり、異国に来たような錯覚に陥る。
もっと南に行けばどうなるのだろうか。少し休んでホテルを出てみると、裏手にはナツメヤシの林が見られ、それがまさにオアシスの木陰を作っていて、数百本いやそれ以上かも知れない高木が連なって、森に近いほど鬱蒼としている。三人連れだって散歩を始めた。先程の市場のあたりまでやってくる。市場は、朝早くから開かれるが、午前の終わりには大方が引き揚げてしまう。
暑くて鮮度が落ちるからだろうか。残った野菜、果物、肉類は腐臭を放ち、それが今日の成果を物語っている。タクシー乗り場に行って、タクシーで近くの名所を見学する。とくにここから北に、来た道とは別の道を戻れば、そこにはグランドキャニオンを思わせる渓谷があるという。タクシーと値引き交渉をする。そのための通訳と思っていたが、彼はそういったことは得意ではないらしい。しり込みするので仕方なく、私が筆談で行う。
筆談といってもタクシーの運転手に値段を書かせ、それを高いとか言って別の値引きした数字を書き込む。向こうはそれに対し、ああだこうだと言ってるが、言葉は全く分からなくとも、表情でだいたいどのくらいでいけそうだと想像できる。二割ほどまけてもらったろうか。それでもその運転手はまんざらでもなさそうであった。きっと彼等同士の料金はその数分の一に違いない。取りあえず言いなりに払うよりよっぽどましである。
行ったところはグランドキャニオンの一部を切り取ったような地形の谷であった。しばらく景色を眺め、そこの道端で洞晶と言われる、中が空洞で、水晶が結晶している石を売っていた男から、土産として買い求め、ホテルに戻った。夕食は、男三人ではあったが、あたかも月の砂漠の中で食事をしているようなロマンチックなひとときであった。
さてここに来たのは良いが、帰りが大変である。帰りのバスの乗客は多く、下手をすると乗れない可能性がある。しかもバスの切符は、座席分しか発売されず、発売の窓口は限られている。映画館の切符売りのような、小さな窓口が一つあり、その周りには切符を求めて黒山の人だかりである。これは三人掛かりで買うことにした。私が正面から、通訳の彼は側面から。もう一人はまた別な方からと試してみる。一人また一人と窓口で切符を買っては後ろに下がる。すると横から割って人々が押し寄せ、毎回待つ人々の動きが乱れる。列はない。ただ窓口に向かって皆が一斉に押し掛け、要領のいいものが速くたどり着き、切符を手にするのである。
あと少しというところで押し戻されたが、逆に横から割り込んできた連中と共に通訳の彼が窓口にたどり着いた。しかしその時には既に遅く、バスは満席である。仕方なくヒッチハイクをしようとしたが日本人の男三人を乗せる車はなかなかいない。作戦を変えて、まず隣町まで行こうということになった。こうして隣町から隣町へと移動し、何とかその日のうちに宿舎にたどり着くことができた。色々あったが、初めて外国の中を旅したことでもあり、途中はらはらしたが満足できる旅であった。
千キロのヒッチハイク
飛行機が飛ばなかったことで、今でも想い出すのは、東部アルジェリアのスキクダでの滞在中で、任務完了間際の砂漠旅行中の出来事である。砂漠の奥深く一度行ってみたかったが、あいにく飛行機の便が日程と合わない。仕方なく、皆が二千キロコースと言っている、ガルダイアの旅に出たときのことである。旅程は確か三泊四日くらいだったと思う。東部の海岸の街、スキクダからコンスタンチン、バトナ、ビスクラ、エル・ウェッド、ウアルグラと、ここまで来るとかなりの内陸部で、砂漠はもうそこまで来ている。
だだっ広い大地と果てしなく続く土漠は、自然の驚異を垣間みせてくれる。行けども行けども続く、似たような光景に、此の地の広がりを認識するのは不可能で、熱さと疲れに、感覚が麻痺してしまった。
砂漠の街ウアルグラからガルダイアまで、長距離バスで行くが、まだ少し時間がある。手持ちの現金が少なくなったので銀行を探し、ドルを現地通貨に交換する。窓口では待たされ、しかも窓口の銀行員は仕事をしてるのかしてないのか、いやに時間がかかる。いらだちをおぼえ彼に言った。「ちょっとすまんがな、俺は時間がないんだ少し急いでくれ」彼は私の方を意地悪そうに睨み、馬鹿にしたような口調でこう言う。
「ああそうかい。あんたは時間が無いんだな、しかし俺はたっぷりあるんだ」これを聞いてもう何も言う気がしなくなった。彼を怒鳴ったところで埒はあかないし、かえって時間を無駄にするだけだ。銀行を出て先程のバス停にたどり着いたら、やはりバスは出ていった後だった。次のバスは明日しか来ない。仕方なくそのガルダイアまでヒッチハイクである。そこからは飛行機で一足飛びに地中海沿岸から八十キロメートルほど南の町、コンスタンチンに戻る予定である。
ガルダイヤで一泊して、町外れの飛行場に来ると、今日は飛行機は来ないと言う。実にさりげなく言う、唖然とした。もちろん代わりの飛行機など無い。保証も切符の払戻も休憩所も、代わりの宿の手配もない。その一言で、私を含め三人ほどの旅行客は、飛行場から放り出されてしまった。とはいっても、だだっ広い土漠にドラム缶が数本積んであり、そこが空港で、飛行場であった。本当にここに飛行機が来るのかと疑いたくなるほど、管制塔も、舗装された滑走路も見えない飛行場であったが、案の定、飛行機は来ない。
さて困った、次の飛行機は三日後というし、乗れる保証もない。第一、時間がない。明日中に戻らないと、帰国の飛行機は明後日である。意を決して約千キロメートルの道のりを、そこからヒッチハイクで戻ることにした。
隣町からここに来るときもやったし、こつは分かっている。腕を一杯に伸ばし、親指を上に立てて待つ仕草はここでも通用する。そうして待つこと二十分。ようやく止まった車は、隣町までしか行かないと言う。それでも良い、隣町といってもそこまでは二百キロ近くある。不思議だったのはその途中を人が歩いているのである。見るとほとんど手ぶらに近く、どちらの街に行くにも百キロメートル前後の距離である。
どうやら遊牧民のテントが、道路からは見えない場所にあるらしく、そこから来たに違いない。しかし見たところ辺り一面、見渡す限り何もないところに人がぽつんと歩いていると驚いてしまう。こうしてまず行程の五分の一を稼ぐ。次の車がなかなか捕まらない。
外国人に親切とはいっても、少し勝手が違うのか、こちらも思い切って彼等がいつも使う言葉で呼びかける。意味としては『オイ、おまえ』くらいのことだろうか。「アスマー!」通り過ぎた車が、二十メートルほど行き過ぎたところで、とたんに速度を落とし、パタパタと止まった。急いで駆け寄り、ありがとうの言葉を言う「ショックラン」この要領で、朝の終わりから始めたヒッチハイク旅行も昼夜、丸二十四時間をかけ、食事もろくにとらず、乗り継ぎ、乗り継ぎで、地中海に面した懐かしの宿舎に戻ったものだ。帰ってきたら当然叱られた。
番外編・ローラン
またまたヒッチハイクの話題で恐縮であるが、これを書かずにはいられなかった。
あれはフランス南西部、ボルドーとトゥールーズの中間くらいにある、小さな大学都市ポーにいたころの話である、当時仕事を探しており、履歴書をフランスの企業に数通送ってみたところ、パリの事務所から面接の通知を受け取った。急いで支度をし、リュックに着替えと本とラジカセ(いまや死後に近いがラジオとカセットテープのプレーヤである)を入れ、ポーの町外れまで歩いてそこからパリまでのヒッチハイクをやりはじめた。今のヒッチハイク事情は分からないが、当時はけっこううまくいって、パリまでの八〇〇kmを一日でたどり着いたりしたものだ。そのときも、そんな期待ではじめたが、なんと金髪の女の子が私の五0mほど先でヒッチハイクをしているではないか。待てよ、その子と一緒にヒッチハイクすれば車が止まってくれる確率はぐんと増す。そんなことを考えながら近寄っていった。えっ?女の子じゃない?なんと小学校五、六年生くらいの男の子ではないか。Bonjour。君ひとり?Ouiそうだよ。お兄さんは?ここから会話がはじまる。きけばなんと一人で、パリまでヒッチハイクをするのだという。日本にたとえるなら青森にいる小学生が一人で上野を目指そうというのだから尋常ではないし、ど根性とかいうレベルの話ではない。なんか訳ありだが詮索しても仕方がない。こちらはとにかく早くパリに着けばいいので、パリについたらおさらばである、と思っていた。金髪で青い目の少年はどこかエキゾチックで幻想的でもある。ただ言っていることがやはり子供であるが、プライドだけは高い。それに頭もいい。こちらが冗談を言うとすぐそれに反応してくるし、冗談の理解度も優れている。いっしょにヒッチハイクをやろうという提案にすぐ乗ってきた。たぶんいい保護者、連れ合いができたとでも思っているのだろう。それに子供連れのほうが車を走らせている側から見れば止まってあげたくなるに違いない。効果はすぐに現れた、ポーからボルドー方面へと向かう。ヒッチハイクで乗せてくれた人々は珍しがってどういう関係かと訊いてくる。東洋人と金髪のかわいい小学生である。正直にさっき知り合った他人と答える。ところでその子はLaurentという名まえだった。そうしたヒッチハイクの運転手とローランとの会話から、彼は家出少年のようだとわかる。
なに!おれは家出少年の手助けをしているのか?と思ったが後の祭りである。変な事に関わりあいたくないが起きたことは仕方ない。パリにはお父さんが住んでいて、ある飛行機会社のお偉いさんらしい(たとえばエールフランスの重役?)。さすれば今どきひそかに捜索願が出されて、おれはその子を引きずり回している誘拐犯か。しかし明らかに言えるのは、家出ほう助ではない。などと考えながらもヒッチハイクは続く。
やはり思ったとおり、乗り継ぎ、乗り継ぎはうまくゆき、予想よりかなりはやく、な、なんとその日の夜にはパリに着いた!少しおなかもすいたのでバゲットを買って二人で分けようと提案したがその代金一フランなんぼも持ってないという。えっ?!ぶったまげた。みごとに一銭もないのである。な、なんという坊主だ。それでよく八〇〇kmものヒッチハイクを思いつくよなぁと私もかなりあきれた。しかたがない、バゲット(フランスパンの小型のやつである)を買って半分はあげることにした。パリ市内に入る前に乗せてくれたマダムは親切な人で、いろいろ話をしているうちに、今夜の宿はどうするのという話になった。
私が知っているのは、駅の待合所で野宿である。夏だから寒くもない。それを聞いていたマダムは、よければおうちに泊まりなさいといってくれた。パリのど真ん中である。豪華な億ションではないがこじんまりしたアパルトマンに住む普通の人である。泊まる条件に、何も構うことができないので朝起きたら出て行ってくれというものであった。それでも我々は感謝して、朝その家を出るときに感謝の印として、鶴の折り紙を作って出た。当時はヒッチハイク全盛の時期で、といっても語学の練習と交通費を浮かせるという一石二鳥の事をやっていただけで、今そんなことができるのか分からない。でも毎回違う人の車に乗せて貰って楽しかった。ポンコツの軽自動車から高級乗用車まで。あるときはメルセデスベンツというのもあった。
さてそれからどうしたものか。とりあえずローランの父親が住むパリ郊外の家に行く。鍵はないが鍵のありかは知っている。めざとく見つけローランは堂々と入る。私もそれに続く。それにしても何を考えているのだろう。どうして家出をしたのだろう。一銭も持たずにパリを目指してどうするんだろう。謎は深まるだけであるが敢えて詮索しないこととした。相手は子供とはいいながら一二,三歳の少年である。身のこなしや行動からパリは熟知しているようである。
ただでメトロや電車に乗る方法も知っている。パリの自分がいた周辺のカフェやお店をよく知っている。こちらが教えて貰うことも多々あった。家に行っても誰もいない。父親は仕事である。家族が五,六人で住んでも良いくらいの家に一人暮らしのような感じである。冷蔵庫をあさっていたが何もない。私は息子が来たよと言う悦びの言葉を表すためバターの表面に「祝」とかいて冷蔵庫に戻した。誰もいなければ用はないという感じでそこをあとにしてパリ市内に戻る。市内に戻っても特にどうと言うことはなく彼が遊び回って、友達もいるある街角界隈のお店を覗きながら近くのカフェに入る。ローランはゲームをしようという。
「オイ待て、確か一銭も持ってなかったはずではなかったのか?」問いただすとヒッチハイクの途中で乗せてくれたスケベじじいから五〇フラン巻きあげたという。私ならその五〇フランを大切に使うが彼は貰ったあぶく銭と割り切っている。あっという間に使い果たすとまた元の無一文になった。そら見たことかと言ったら、今度はカフェで他人が支払った代金をかっぱらおうと言うことになった。パリのカフェは自分のテーブルでレシート代わりの請求書料金にチップを加えてテーブルにおいていく。その二、三〇フランを盗もうというのである。私は言った「ああ、いいよ、いつでもやりな、その代わりおまえはおれの友達でも何でもなくなるからな。ほれやれ早くやれ」とけしかけるものの、一向にその気はないようである。どうもそうした性癖があるようで要注意である。市内では野宿も疲れると思い安宿に泊まることにした。
パリの北駅周辺は安宿がいくつかあり、娼婦たちがたむろしている。
「ねえ今夜どう?」とか誘いかけてくるがローランのこともあり、そんな女どもを相手にする気はさらさらない。ローランにも声がかかり、「あんたなら只にしとくわよ」とかいわれて連れて行かれそうになるので保護者たる私はそれを振り切り宿に入る。元々連れ込み宿であるからこちらが少年連れであろうがお構いなしで、逆にそんな趣味の客だろうと思われたかもしれない。今日もあちこち歩き回り疲れた。リュックをおろすと肩が軽い。ローランも一応今夜の宿が見つかりほっとする。
「ところでローラン、うちに帰らなくていいのか?」。
「うん大丈夫だよ。ほっといて」
二人はダブルベッドの安宿で一緒に寝た。床についてちょっとするとベッドが揺れている。
「おまえ何やってるんだ?」
「マスターベーションだよ」悪びれずローランは答える。
「おまえそれちょっと速すぎないか。もう少しゆっくりやらないと長く楽しめないぞ」と忠告した。しかしフランス人は一二,三歳でやるものだろうか、少し驚いた。その後ベッドの揺れは収まったが射精したものかどうかは知れない。
これで二泊を過ごした。とはいうものの小学生が家を二日も空けるのは尋常ではない。明日はこちらも用事があるし、毎回ホテル住まいも大変だしと言っていたら、それなら良いところを知っているよ。ローランにつられてパリのあちこちとカフェに行ったが子供が行きそうなところはどこにもいかない。パリの友達と戯れているところばかりに案内された。後にそんなところで見かけたよという友達の知らせでローランも親に見つかることとなるのだが、私も三日付き合ったらそろそろ飽きてきた。
連れて行かれたのがパリ郊外のキャンプ場である。
そこまでの電車賃は払わない。無賃乗車の常習者みたいで私は別のやり方で払わなくて済んだ。
やりかたは読者には教えられない。
それでもローランは二回目か三回目にとうとう捕まって罰金チケットなどをもらっていた。どうせ親が払うか破って捨てるから痛くもかゆくもない。
私も一回はちゃんと切符を買った。
フランスのシステムでは改札の時に切符を持ってないと違反切符をもらう。問答無用である。
よほど混雑する時期はお目こぼしがあるようだが通常の季節にはそれはない。
お目こぼしといってもそこで切符を買うのは日本と同じである。
日本と違うのは通常の季節に改札で(車掌が切符を見て回るとき)切符を持ってなければアウトである。
それはよしとして、キャンプ場に着いた。テントを張ってローランとともに潜り込む。
私は自分の寝袋に潜り込むがローランはそんなものはない。
どうして俺にはないと言われてもないものはない。
しかたなく私の寝袋の余っている部分にしがみつき寝た。
翌朝起きて私はある会社の面接にいく。確かエンジニアリングの大手、ルーマスだったと思う。しかし言えるのは、前に勤めていた会社の関連会社から声がかかり再びアルジェリアに行ったことから、この会社に雇われはしなかったことだ。
そうした用を済ませ夕方待ち合わせのカフェに行った。
ローランはパリの友達に会いに彼らがたむろするカフェに行く。
午後の五時にパリのあるカフェで待ち合わせの約束をして出かけた。
すると今まで意気揚々としていたローランが涙声で「あのーボク家に戻らないと・・・」
みると母親が後ろに控えている。
そういうことかと納得し二人の荷物を入れたコインロッカーまで歩いていく。
終始涙声であった。こっぴどく母親にしかられたのだろう。
まあ幸いなことに私へのおとがめはなしである。
警察にでも通報されたら相当やばかったに違いない。
そうして彼との旅も終わりパリを離れることとなった。
思えばここ三日は結構楽しかった。
フランス人の子供がどんな生活をしているのか少しは分かった。
いたずらがひどいときは、
TuveuxunehistoiredeKARATE?「てめえ空手の技を食らいたいか」
とか冗談で言うと
Pitié! 「どうかお情けを」
と手を合わせて哀れみを乞うポーズをするのである。
それが何とも滑稽だった。
ローランとの話はこれで終わりと思っていた。
そうしたら新学期の九月を過ぎてポーというヒッチハイクを始めた町の
下宿していた室にやってきたのである。母親連れである。
なんでもローランは、平日寮に入っているが、土、日はローランが家に戻り、戻ってもろくな事はしないので監督の意味もあって預かってくれという母親からの
たっての願いである。
そのために自宅を提供するという。それは断ったがローランを受け入れることは承諾した。
よほど気に入られたものである。
というか、親がよほど不甲斐ないのであろう。
察するに父親は単身赴任でパリにいて、母親が息子を寮生活させているが
その愛情が足りないため息子が何かと問題を起こす良くあるパターンと踏んだ。
彼は二週か三週、土曜日に泊まりに来て、日曜の夜帰って行ったが
そのあとはどこかに行って来なくなってしまった。
母親から感謝の言葉を手紙で貰い、どうしようもないのです、と半ばあきらめの内容であった。
パイロットになりたいと言っていたローランとはその後会うことはなかった。
ナタリー
先日、といっても二〇〇八年八月頃スイス生まれでスイス育ち、オーストラリア在住のすごい美人と知り合った。
私は仕事の打ち合わせのため仲間三人と示し合わせ両国に集合した。どういう訳か訪問先の連絡が付かない。なんと顧客の名前、電話番号を忘れてきたのである。電話帳で探そうにも会社名が出てこない。メールにも記録がない、思いあぐねて三〇分程経った頃、用があれば向こうから掛けてくるだろうと高をくくることにして一時解散とした。
しかしながら折角来たので何かおみやげ代わりにと思っていたら目の前に両国国技館がある。今まで行ったことはないので行ってみることにする。
一渡り見てお土産屋さんのところでいろいろ見ていたらフランス人かと思われる三〇代金髪の女性が土産物を物色していた。
Bonjour.(こんにちは)声を掛けると向こうも気さくに挨拶を返してくれた。やっぱり睨んだとおりフランス語圏の女性だ。
オーストラリアのメルボルンから来たという。ただしスイス生まれである。
フランス語は片言であることからオーストラリアがずっと長いのであろう。そこからは英語とフランス語が混ざった会話となる。気さくな女性である。多分旅先で日本人と会話できるのが嬉しいのかまあそんなところだろう。こちらも暇つぶしには最適である。
両国国技館はその後番付表を彼女のために貰ってあげ、隣の江戸博物館に行った。私が行こうと誘ったら付いてきた。
展示物に記載された説明をフランス語混じりの英語で解説すると興味を持って聞いてくれる。
例えば昔の火消しは今の消防隊ではない。江戸の火消したちの話をした。火事と喧嘩は江戸の華といって火消し達はいわばヒーローであった。「い」組みから各班競い合っていた。正月ともなれば梯子の上でパフォーマンスを見せた。火消し達は火を消すより回りの家を壊していくそんな話をしたらナタリーは「あら、オーストラリアでも同じよ。山火事があると火を消すより回りの木を切っていって延焼を防ぐの」と少し親近感を持ったようである。
徳川家康の像の前に来る。徳川家康は名前が変わっていく。幼名を竹千代といい松平元康、松平家康、徳川家康となっていくという話をすると、なんでと訊いてくる。現代で言えば平社員が主任になり課長代理になり課長になり次長、部長、本部長、平取り、常務取締り・・・となるあれと同じである。「ははぁー」とナタリーは感心している。オーストラリアでもそうだろう?チーフとかボスとか呼ばれていくだろうというと「まあね。」ときた。
江戸博物館を出て一休みである。
「Ryo ちょっと一服させてよ」ナタリーが申し訳なさそうに言う。
「一服?」怪訝そうに私は聞く。見るとタバコの箱を出している。
「おいおいナタリーは看護婦じゃあなかったのか? 知ってる?こんな諺がある。
・医者の不養生 ・紺屋の白袴、
・Lesfilsdecordonnierssontlesplusmalchaussés」(靴屋の息子が一番ひどい靴を履いている)
「あなたもよくまあぽんぽん言うわね。大学教授なの?」
「いや、設備のコンサルタントだ」
「どうしてコンサルタントが英語フランス語堪能で時々ドイツ語が入るの」「むかしあちこちの国をヒッチハイクした」
「ふーん?いくつくらいの国を」
「四〇カ国くらい」
ここでナタリーはぎょっという顔をした。あなたはいったい何者?という顔である。「ただのおじさんだよ」といっても信じてくれそうにない。ナタリーは年齢的には四〇才を越している。それが片言のフランス語で話しているととってもかわいいというと失礼になるか。
ナタリーは訊く、どうして私が歴史に詳しいのかって。私もはじめから博学ではない、家康の名前が変わっていくことなどひと月前は知らなかった。きっかけは歴史オタクの息子である。中学受験を控えその勉強量はすさまじいがそれでも歴史がダントツの成績である。合格の暁には本物の(着られる)鎧兜をせがまれている。その息子と張り合っている。先日熊本に行ったときには熊本城を見た。その規模は大阪城より大きいと聞きわが目を疑った。それとともに実際の戦争でも(合戦)で政府軍がたてこもっている。ご存知加藤清正が建てたが、徳川家に睨まれ東北に落ち延びて行く。その後は細川家が入る。そのことまでは息子は知らなかった。その末裔が元首相の細川氏である。こうして私は息子の鼻をあかした。
などとやっているからいつまでも子供っぽいのかもしれない。しかし相手が子供だからと言っていいかげんにもしくは手加減してやっていると手加減された方はどう思うだろうか。おもしろいはずがない。かくして息子とのクイズバトルはなんとか続く。さてナタリーに話を戻そう。
浅草に徒歩で帰る途中、ホームレスの方々が住んでおられるところにさしかかったらプイッと横を振り向いて「そこは行かないわ、今朝通ったもん!」そこから話題はそうした人々の話になった。世界中の至る所にそうした人々がいて「オーストラリアではちゃんと炊き出しをやっていて食べ物を提供しているわ。日本政府は何をしているの?」
「何もしてはいないさ。」
「じゃあどうやって食べているの?」
「何にも知らないんだな、ナタリー。」
「日本にはコンビニがごまんとある。そこの期限切れのお弁当はうまいぞ!しかも浅草といえば高級料亭、老舗が並ぶ。かれらは客が残していった余り物を貰って食ったりしているんだ。うちらよりよっぽど旨いもの食っている。ナタリーは「プッ」と吹き出し、笑った。私も思わずにやりとした。
一期一会
ナタリーはこうして去っていこうとしている。私は言った。今日は不思議な日だ。客との約束はお流れになる、しかも客からは何ともいってこない。そうこうしているうちに三〇分はすぎ、ナタリーがあらわれた。これはきっと一期一会に違いない。一meet一chance.と言ったらナタリーも納得していた。(英語の直訳でありきっと正しい言い方があるのだろう。その時とっさに出てきたのはこの言葉だった。)
雷門の提灯をくぐる。そこで私は言った。「ナタリー知ってるかい。日本の有名な経営者に松下幸之助という人がいる。彼はMatsushita、Panasonicを作った人だ」
「ええ、Panasonicは知ってるけどその人がどうかしたの」
「この提灯の下に彼の名前が書いてある」ナタリーはそこに書かれた松下の文字をしげしげと眺めていた。実はこのネタはうちの次男から仕入れたものである。ホテルに帰る道すがらいろんな事を話した。明日の朝食にとコンビニで食材をいろいろ買うのがあまりにけちくさいので二千円を出しこれを旅費の足しにしてくれと提案した。その代わり二千円分のオーストラリアのおみやげを送ってもらう約束である。「いえいえ、おみやげは送るわ、でもお金は駄目、受け取れないわ」と固辞するので無理強いはやめた。オーストラリアのおみやげはカンガルーのぬいぐるみにした。「男の子二人だとカンガルー二匹でないと駄目なのよね。 カンガルーとコアラじゃあ駄目なんでしょ」と、自分もお母さんやっているから分かるのよといった口調である。その時のナタリーに初めて母親の顔を見た。男の子二人がカンガルーとコアラを取り合っている図が見えてきそうである。
そのナタリーは「ごめんなさい、今急ぐの」もう帰らないと・・・」ああいいよ、ここで分かれようか、それともバッグを買いたいとか言ってたけど「よかったら付き合うよ。どうする?」と聞く。一瞬だけ考えて「じゃあお願いするわ」(と言うことは初めから分かっていた)その代わりバッグを買たらもういいわ。「うん、いいよ。じゃあそこまでは付き合うから」「メルシーボクー」(とっても嬉しいわ)「ところでねナタリー、そのバッグは何で必要なの。」「おみやげを詰めるためよ。」「それだけのために買うの?」「ええ、そうよ。昨日半日探し回ってこれがいいと決めたの。これがないと駄目なの」「バッグが欲しいの?荷物を詰める物が欲しいの? 」「どっちもよ」「荷物を詰めるだけならホテルで紙袋を二個貰って二重にしてその外側に宅急便のビニール袋を掛けると万全だよ。」「ごめんなさい、とにかくバッグが欲しいの」ここで議論は打ち切り、雷門の下をくぐり、バッグやさんに行ってお目当てのバッグをナタリーはすぐ買った。しかも二万五千円で!「オイオイ、お金がなかったんじゃあないの?」「ええ、バッグを買う以外のお金はね。何が悪い?」「はいはい分かりました。じゃあね、のどが渇いたから緑茶を出してくれる喫茶店に行ってお茶しない?そこで分かれよう。」
おみやげを入れるバッグを買う、お茶して分かれる、という約束なので茶店を探す。
御茶屋さんはすぐそばにあった。入っていくと御茶屋ではなくうどん屋であった。まあ、うどん屋でもお茶は出る。うどんを注文すればである。素うどんを注文する。ここでは素うどんでも六〇〇円もする!
「ナタリー、食事の予算はいくら」ときくと二五〇円である。うどんの取り皿を二つもらい三等分する。どれを取るかと聞くと取り皿に盛ったやつでなくどんぶりが良いという。ずるーいとおもいながらも汁のたっぷり入った丼を差し出す。ナタリーはうまそうにつるつると食べていった「ナタリーうどんはそうやって食うものじゃあないよ」。そして豪快にず、ずーと食べて見せた。「あっ、それ知っているわ」と言って笑った。欧米にはない文化である。それを芸術にまで高めたのが落語家である。なかには日本人がそうやって音を出して食べるのをはしたないと眉をひそめるのもいるが、文化の違いである。そばやうどんはそうやって食べるのが礼儀である。じゃあ三分の一食べたから二〇〇円ね、といって予算より少ない金額で夕ご飯をすますことができた。よし、出ようか。いよいよお別れである。
「だめ、Ryo,あんたは私と一緒にホテルに行くの!」「なんで?ボクはそんな気ないよ!」「いいえ私には理由があるの」ナタリーは年齢的には三五才くらいに見えるすごい美人である。いまやナタリーは私の虜になってしまった。しめたものである。 ホテルに・・・
「だめ、Ryo,あんたは私と一緒にホテルに行くの!」「なんで?ボクはそんな気ないよ!」「いいえ私には理由があるの。 だってRyoはホテルに荷物預けたでしょう。取りに行かないと・・・」
「ああ、そうか。そうだね。」
この駅は浅草と違うから浅草には向こうまで歩いて戻んなくちゃあだめよというので、大丈夫、この駅だと都営浅草線で東日本橋、そこから馬喰横山に乗り換え新宿、小田急線にいける、というと目を丸くしてあんた何でも知っているのね、と言わんばかりである。しかしこんな事は東京人だと常識である。シドニーやメルボルンだって地下鉄くらい走っているだろう。やがてホテルに着き別れを惜しむ。「Ryo今日は本当にありがとう。あなたのおかげでいろんな事を知ったわ」そして頬にキスを二回もしてくれた。
「ところでパリだと三回で南仏やアルジェリアでは四回なんだけど知ってた?」というと何回でもやってあげるわよといってもう二回してくれた。わたしはナタリーにBonvoyage!と言ってそこで別れた。
番外編終了




