もし日本技術者がアルジェリア人を教えたら
はじめに
この物語はアルジェリア地中海沿岸西部の街オラン(カミュのペストの舞台となった街)郊外のアルズーという港町で建設された液化石油ガス(ジャンボLPG)工場で、一九八二年から一九八三年にかけて、アルジェリア人の技術指導をしたときの体験記である。
当時私はポー(Pau)という小さな街に住んでおり、職探しをしていた。ポーがどこにあるかと言えば、フランスはパリから六00キロメートル南西に下ったボルドーから、さらに二00キロメートル離れた小さな大学都市で、そこからさらに二00キロメートル東に行くと航空産業で有名なトゥールーズがあり隣町はカトリック信者の聖地ルルドがある。そんな大都市の狭間にあり年金生活者が多く、バカンス客の避暑地という町がポーの一面である。
なぜなら、年中暖かいし、五月にはバイヨン、ビアリッツなどの大西洋海岸が海開きをし、ヌーディストたちが華麗に闊歩する。同じ時期にまだピレネー山脈ではスキーが楽しめる。ピレネーの山中には観光立国アンドラがあってここもすばらしい。
さて技術指導の職であるが、半年くらい前から職探しを始め、雑誌を何誌かそのために買い求めていたのが私の目にとまった。フランスの一般雑誌に掲載されていた求人広告がそれである。やったー、適職だと思った。
液化石油ガスコンビナ—ト(ジャンボLPG)における現地人スタッフの教育であったが、工場建設は日本の大手企業、技術教育はスイス籍の企業(実質的にはフランスの企業)、生徒はアルジェリア人で、毎日の生徒たちとのふれあい、同僚のフランス人、私のボス、トゥールーズ人(フランス人)取締役のオランダ人、以下、ベルギー人、イタリア人、ギニア人、スイス人たちとの付き合いをコミカルに、時に生々しく綴ってみた。
私自身は、石油化学プラント(石油化学コンビナートの中核をなすエチレンプラント)の設計、試運転・教育の経験を持つ技術者で、北京・房山、アルジェリア東部・スキクダに赴任後会社を辞め、前述のポーに留学し、一年後にはまたしても同じスキクダに、今度は契約社員として舞い戻った。そこを一年後には辞め、再度ポーに舞い戻り契約を探して数ヶ月後には、アルジェリア西部の町オラン郊外で勤務することとなった。求人広告でみつけたスイスの会社は偶然にも、日本企業の協力会社として、アルジェリア人の技術教育を請け負っていた。
海外生活は中国を皮切りにアルジェリア、フランス、アルジェリア、西アフリカと足掛け十年いたであろうか。
アルジェリアには三度目の赴任であるが、外国企業の契約社員としてはこれが初めてである。この物語では、内側から見たフランス企業、彼らの仕事ぶり、生活ぶりを書いているが、それと共に、同じアルジェリアでも視点が違えば、今まで見たり聞いたり、体験したこととは生活の印象などかなり違っているのを発見でき、この時の印象は強烈だった。それまでは日本企業で働き、通勤バスで宿舎と現場の往復をする毎日であったし、現場も宿舎も囲われていて付近の住民と接する機会なんて無かった。おまけにフランス語もろくにできないからコミュニケーションが取れない。それでは外国に来た一割も楽しんでいないと筆者は思う。
アルジェリア人の生徒をはじめ、彼等との接触が以前いた東部のスキクダでの経験と比べても格段に想像を絶する世界であった。テレビ、雑誌、旅行情報、マスコミ情報などが氾濫し、欧米に限らず世界の秘境や多数の国の歴史、文化、生活習慣が報道され、私たちはかなりのことを知っているような気になっているが、意外とそこに住む人々の考え方や生き方は知られていないと思う。そういった意味で、他のフランス人同僚と共に生活し、仕事をし、彼らを観察できた。それは長いそして大変な一年だった。
私に大きな影響を与えてくれたムッシュ・ガリッグその他多くの方々に感謝したい。
目次
ふたたびアルジェリアへ
アルジェリア人との再会そして授業
同じ国の別世界
テストテストまたテスト
帰された講師たち
同居者・ギニア人講師ヤイ
『ん』で名が始まる同僚
アルジェリア人医師
アミエルと家族
ジャン・ジャックとヤエル
アルズーのアルジェリア人一家
マックス・ガリッグ、私を変えた人
彼のエピソードその一
その二魔術師
その三キュラソー
その四コンビナートの泥棒
マックスの愛犬サム
日本人宿舎(塀の中の人々)
断食月・ラマダン迫る
ロンドンの三日間
ポーからの出発
モロッコ入国できず
最後の試み
アルジェリア再び
引越、また引越、そしてオランへ
車荒らしと通勤ルートの怪
アルジェリアの女たち
家政婦「ゾラ」
異文化経験
マラソン大会のインチキ
再び授業へ
生徒にゼロだと罵られる
工場見学
特徴的クラス(ある生徒の招待)
石油化学工場の試運転
胃潰瘍か
フランスの食卓
フランス語マスターの道
休暇、東ベルリンへ
クリスマス休暇
オランダ人重役、ドルフ
飛行場物語
日本人通訳
初めての旅ビスクラ
千キロのヒッチハイク
番外編・ローラン
番外編・ナタリー
スペイン領メリリヤの旅
最後の授業
別れの船旅
終わりに
ふたたびアルジェリアへ
アルジェリア、オランの飛行場に降り立った日は、いつものように、晴れわたった紺碧の空と乾燥した空気、空港特有の匂いに混じって、民族が持つ独特の体臭と、羊脂の酸えた臭気が鼻にむっときた。旅行者がごった返す空港内荷物引渡のベルトコンベア付近の慌ただしさが妙になつかしく思えた。子供を四,五人も連れ、衣類や雑貨が溢れ出たカバンを両手に抱え、あるいは背負い、肩に掛け、バカンスを利用したのか週末の休みか分からないがそれらの旅行はフランスへの買い出しに行った様子がありありといった格好で、税関検査を早く抜けようと、税関検査官の前には人だかりである。散らばった荷物をまとめ、スーツケースをかき集め、走り回っては、大声で怒鳴っている光景が見受けられる。
いつもの見慣れた光景である。アルジェリア移民の旅行者や、フランスに買い付けに行った商人と思われる人達や、買い出しの家族連れが、大きな行李や、カバンを開け閉めしている。税関検査では、さもパンドラの箱を開けたかと思うほど中身は溢れ、どうやっても閉まりそうにないと思われる状態がそこかしこに見られ、これもいつものことである。そうした中をかき分け、一人身軽に検査を終え、私は到着ロビーへと出てきた。
今回、私は初めての経験に少し緊張していた。出迎えは日本人ではないのは知っていたが待ちかねた人物は予想と大きく違った。彼は背広にネクタイ、柔和な顔立ちをした、三十代半ばの、丸い銀縁眼鏡をかけた、一見銀行の支店長かと思える風貌のフランス人が、目印となる会社の封筒を両手で胸のあたりにかざし持って立っていた。
すぐ後で知ったが、彼こそ、現場を預かる責任者、ムッシュ・フォールだった。フランス人との初対面では、今まであまりいい目に会っていない。一つには若すぎて見られ、おまけに私が学生の格好をしているときが多かったせいかも知れない。ぞんざいな扱いであった。おい君などは良い方で、ひどいときは「坊ちゃん」である。いずれにせよ歳相応の応対をしてもらった憶えがない。
しかし彼の対応は完璧で、海外勤務をするフランス人はまた違うのかなと思った。日本人でも海外赴任経験のある人とそうでない人では性格がかなり違う。当たりが柔らかいのである。ぎすぎすしたところがない。海外が長い人を見ていると、人柄が丸く、多面的な見方をするようになる。それほどムッシュ・フォールは紳士的に私を対等なエンジニアとして迎えたという印象だった。
私はといえば、アメリカ人旅行者が夏休みに、ヒッチハイクにでも出かけるような格好で、カラフルな化繊のリュックサックに、半袖シャツ、ネクタイは一応身に着けているものの、Gパンを履いていた。周りで彼のような良い身なりの男性はいないから、よけい目立つ。その割に、乗ってきたのがルノー・キャトルというフランスの大衆車、それも学生がよく乗っている小さな車であった。
トランクにリュックを放り込み、初夏とはいえ、昼間はもう十分に暑い、空港沿いのオレンジやオリーブ畑の中を通る道路を走り出した。車体は小さいが、真っ赤な車で外見がカラフル、スイスのナンバープレートが付いている。このPAインターナショナル社というコンサルティングの支社であり、私達の給料を払ってくれる事務所のあるスイス・フライブルグ市の登録と思われる。
その町の旗か紋章と思われる絵柄が、ナンバープレートの端に描かれ、それが車同様カラフルで何ともかっこ良いと思った記憶がある。一時間程の間、久々に味わう、からっとした空気に懐かしさを感じながら、つい先日ボルドーまで行った時のヒッチハイク気分で彼といろんな話をする。
私の経験やエピソードを、面白おかしく喋りながら、アルジェリアに戻ってきた嬉しさをかみしめた。
仕事では信じられない程の苦労も多く、楽しい思い出どころか、いやなことが多かった気がするが、この空気の匂いと景色はそれを忘れさせる。
なだらかな丘陵が続く、緑の大地には、いたる所にオレンジ畑やオリーブ畑、それに葡萄などの果樹園が広がり、空の青さと地中海の紺碧、初夏の香りと果樹園の緑が交錯し、北アフリカ独特の雰囲気を出している。それは同じ地中海に面した南仏とは全く違っていた。一年ぶりのアルジェリア、しかも一番いい季節にまた来られるなんて、運がいい。
一年前、やはりアルジェリア東部のスキクダにいて、そこを離れるときには、もう二度と来ないと思っていた。ところが、仕事探しが続くある日、フランスの雑誌に『LPG工場の建設現場で、技術指導の講師を求む』という広告を目にして、応募したのが今回の始まりだった。
履歴書と写真を送る。履歴書も書き方に工夫を凝らし、何通も送った最後の一通であった。投函して二週間後には、面接の知らせが来た。面接の後また一週間が過ぎ、教育指導の実習をするから来られたしという電報を受け取った時は舞い上がりそうだった。採用とは書かれていなかったが、出来る限り早く来て欲しいという簡単な文面からは、ほとんど採用を確信した。フランス国内で職を探すのは絶望的で、そのあまり返事をもらったうれしさに、すぐ支度を整え、その日の夜行列車に飛び乗った。当時、フランスの南西部、ピレネー山脈の麓にある小さな大学都市、ポーからは夜行列車に乗るとオーステリッツ駅に翌朝着いた。
ポーの位置的なことをここで詳しく述べると、赤ワインで有名なボルドーからさらに二百キロメートル南下した町で、航空機産業で知られる町、トゥールーズはここからさらに二百キロメートル地中海側に行くとある。キリスト教信者には有名なルルドの町は、ポーから四十キロメートルの距離しかないことは言った。ここはガスコーニュ地方と呼ばれ料理でも有名であるし、ある種のワインジュランソンセックとかソーテルヌなどワイン通のみならず健啖家にも愛されている。バスで日帰りのスキーツアーはピレネー山脈でできる。
電報が届いた翌朝には、八百キロメートル離れたパリのオーステリッツ駅に着いた。上京の時にはいつもそうしていたように、駅の地下にある公衆浴場で風呂に入り、夜行列車の疲れを癒す。その朝も浴場で順番待ちをしていると、私のすぐ後に順を待っていたアラブ人の中年女性二人が、一緒にシャワーに入ろうと話し合っている。彼女たちは、アラブ語で話しているから正確には分からないが、ときどきフランス語が混じるので話の内容が想像できる。歳は四十代後半から五十代といったところか。
一目で、家政婦か掃除婦だと分かる格好をしている。頭にはその年齢のアラブ人女性が必ずと言っていいほど身に着けているスカーフを、ターバンのように巻いた姿が特徴的で、これまた彼女たちが若い頃に流行った、顔に藍色の入れ墨をしている。若い頃はそれも神秘的で良かったのかも知れないが、この歳では醜悪である。
一人は先に順番を待っていて、もう一人が後で来たが、明らかに初対面である。なぜ二人が共同でシャワー室を使うかと言えば、前の客が親子で、二人でシャワー室を使用する割引料金で入ったのを見たからである。頻繁に使用する客しか知らないようである。
受付の女性に、自分たちも一緒に使うから割引料金でいいだろうと頼むが、断られた。なぜ駄目なのかと彼女らは食ってかかる。年輩のフランス人受付の女性が言うには、今そこで知り合って、話し合ったから駄目だと言う。アラブの女性達も負けずに言い返す。
「いいえ、自分達は知り合いよ。たまたまそこで一緒になったからこうして頼んでいるんじゃないの、さきほどの親子は良かったのに、どうしてあたい達は駄目なのよ!」
その剣幕はすさまじく、公衆浴場中にひびき渡る声を張り上げ怒鳴り合う。そのうち私の順番が来たので結末は分からない。面白いと思ったが同時に少々あきれる。たかが数フラン、日本円にして数十円のことだが、お互い屁理屈をこね回し、双方譲らない。しかし私はそうした人々の中でこれから仕事をしていくのだと思うと今から疲れる。
駅のカフェ、いわゆるフランスの喫茶店で朝食を摂る。もちろん、クロワッサンとカフェ・オ・レで、しかも今回は仕事が見つかったのを祝ってバタークロワッサンを奮発する。そこで一息ついて、パリの中心を通るメトロと呼ばれる地下鉄に乗り、凱旋門そばの事務所へと向かった。教師としての教育研修で、講習と実習が半日ずつ行われた。その合間に契約条件に関する交渉をして、なんとか契約書にサインできた。
面接と交渉の出だしはこうだ。私の履歴書読みながら、今回のLPGと似たような業務の経験について一応の質問が出る。私はその前年まで、石油化学コンビナートの技術指導をアルジェリアで経験していたため、自信を持って答える。学歴や専門についても訊ねられるが、試験問題を出して解くとか知識を試されることはない。
今回の教育プロジェクトで使っている教科書を見せられ、これのどことどこを教えられるか具体的に訊かれた。見るとLPG(液化石油ガス)工場であり、分離精製が主であるから、エチレンコンビナートのように加熱、分解、圧縮、乾燥、分離、精製と複雑な工程を経験した私にとってはいたって単純な工場である。その質問を難なく切り抜け、ひとわたりそうした確認の質問が済むと、いよいよ本題にはいる。
まず相手はこう切り出した。「ムッシュ、あんたの能力と経験からしてこのくらいの報酬額と評価するのだが、それでどうかね」当時の金にして一四000フラン=邦貨で約六〇万円、同じアルジェリアでもスキクダの時より五〇%アップである。しかしこちらの予想より少し低い。というのも、求人広告で掲示された金額範囲からも外れる位少ない。直感的に私は広告記事を見せながら言う。
「ちょっと待って下さいよ。この募集広告はそちらが出されたものでしょう。これより低い金額は少しおかしいのではないですかねー」余裕を持って反論した。
担当者は明らかに気まずそうな顔を一瞬したが、すぐ次のように切り返す。「いやそれだけではない。現地通貨での生活手当があるんだがねえ」しかしさきほどの表情の曇りをのがさず見て取った私は、金額の上乗せが当然といった態度で、相手の出方を待つ。
「現地の生活手当?それは当たり前でしょう、ここでは外貨での報酬額が書いてある」相手は少しいらいらしながらも、金額を上乗せしてきた。再提示された金額に一応満足し、というより自分の意見が少しでも通ったことの成果に納得し、実は天にも昇る気持ちを押さえ、その場でサインした。 翌日の夕方にはまた八百キロメートルを戻り、早速旅行の準備にとりかかった。ところでパリの研修の日、その事務所で日本人二人を見かけた。どうやら日本の大手プラントメーカー(工場やコンビナートの建設会社)の社員らしい。以前、私がいたプラント輸出企業と同じ業界の社員であった。その後彼らとは意外な形で再会した。彼らの、会話が漏れ聞こえる。「CV、CVと言っているけど何のことだろうな」「クオリフィケーションなんとかだろう。たぶん資格とか学歴とかの・・・」「そうかなあ、良くわからんけど・・・」
慣れないフランス人と、慣れない英語での商談に半信半疑、少々不安を抱いているといった様子なので声をかけた。「それは履歴書のことですよ。ところでここで日本の方と会うとは思いませんでしたが、遠いところを大変ですね」
二人のうちの痩せた方が答える。「ええ、まあ仕事ですから。そちらはこの会社には面接に来たのですか」と訊かれたので、「いいえ、もう決まったようですよ」と軽く答えた。
そんな経緯で来たアルジェリアである。そして今、フランス人の上司と共に、車で職場に向かっている現実がまだ信じられなかった。ムッシュ・フォールは、もし私にエンジニアの友達がいたら紹介してほしいと頼む。だが私の知り合いでフランス語を喋るのは、通訳ぐらいで、ましてエンジニアであれば会社に所属しているだろうし、趣味で片言喋るのはいるが、授業ができるとは思えない。
さてムッシュ・フォールと話をすすめるうちに、彼はアルジェリアどころか、外国は初めてということがわかった。それを聞いて私に余裕がでてきた。最初は緊張から、相手が完璧に、そして数段上に見えたが、彼の優しさは経験から来る余裕ではなく、単に人が好いだけらしい。彼自身今回の仕事に不安があり、赴任する者からなんとかアルジェリアの情報を得ようとしていると思われる。
私は、今までのこの国での経験をかいつまんで話し、今回のような仕事はまさに一年前やっていたことで、ほとんど心配はしてないと彼を安心させた。育ちの良い繊細なエリートの雰囲気が、ちょっとしたしぐさや身のこなしにあらわれている。しかし彼はほとんどアルジェリアを知らないボンボンなのだ。
最後の丘を越えると、待っていたかのように、地中海の碧い水平線が目に飛び込んできた。これだ!と思った。ほんの少し前から、工場地帯の煙突と、フレアースタックと呼ばれる、炎が赤々と燃える百メートルを越す高さの鉄塔を目にしていて、それが以前、北京のコンビナートにいた事を思い出させる。その高さまで登ったことが、つい昨日のことのようだ。あのときは百二十メートルの高さがあって、同僚の誰もそこまで上れなかった。
腕の力が皆弱かったのだが、腕力だけでなく、私が身軽であったことも幸いしている。その高さから見た中国の景色は、ごつごつの岩山が連なる、殺伐とした風景だった。
それに比べると、周りの景色は全く異なる。ここには海がある。それは口の中に潮の香りを運んでくる。瞼の裏にコバルトブルーの海の色が自然に浮かんできたのは、長い間、東部アルジェリアの単調な生活の中で、幾度となく、朝夕見た、あの景色が、条件反射のように呼び覚まされたに違いない。
同じアルジェリアでも初めて赴任した東部の現場での、単調な生活は思い出せず、ただ地中海の碧さだけが目に焼き付いている。海はいい。ふるさとを思い出させる。といっても佐世保の海や九十九島とは全く違う別世界なのだ。同じ海でこれほど違っていてもその良さは、潮の香りと共になつかしさを運んでくれることだ。
そんな海沿いのコンビナートのはずれに校舎があり、トレーニングセンターと呼ばれる三十余りの教室が、工場の建設現場から数キロメートル離れたところに建てられていた。センター内の事務局では、五十代で、恰幅のいい大ボスという感じのフランス人紳士が、椅子に腰掛けていたが、私を見るとすぐに立ち上がり、親しげに歓迎の握手をしてくれた。
ムッシュ・ガリッグ。正確にはマックス・ガリッグという名で、今まで会ったフランス人とは全く違った雰囲気があり、快活な話し方と開けっ広げのおおらかな態度が人をなごませる。活動的な大声で、会った早々、自分の経験と日本企業との関わりを、さも自慢げにまくしたてる。色々な国でエンジニアやプロジェクトマネージャーとして活躍し、数カ国語を話すことや、豊富な経験と共に日本のエンジニアリング会社(工場建設の技術、ノウハウ、経験を持った専門会社)とも、どこそこの現場で一緒だったとか、あるいは私が以前勤めていた会社とも、誰それを知っているといったことや、途中フランス語から英語に切り替えて、日本人だとこの方がわかりやすいだろうとかいいながら、笑顔満面で話は延々と続く。
私が滞在した中国の工場に於ける技術的な問題についても知っていて、それには驚かされた。話し方や訛から、ムッシュ・ガリッグはパリではなく、南仏の出身と予想していたが、案の定、南仏に近いトゥールーズ出身だと彼は言った。
やっぱり。サービス精神旺盛なのと、根っからのお喋りなので、こちらがひとことふたこと話す間にも勝手にしゃべり続け、とどまるところがない。フランス南西のベアルン地方、ガスコーニュ地方、そして南仏プロヴァンスの人々は特にそうだ。一日中喋っている。そんな気質の人々である。彼なりに精一杯、歓迎の気持ちを込めているにちがいないが、とにかくうれしそうに話す。
ひとわたり自己紹介と自慢話が済むと、職員室に案内され、私を皆に紹介した。トレーニングセンターの端に位置する職員室には、十人ほどのフランス人講師がいて、どの顔も一癖ありそうで、その中にただひとり黒人が見え、興味深そうに私を観察しながらも皆一応は笑顔で迎えてくれた。
宿舎はアメリカの建設会社ベクテルが、単身者用と家族用に建てた、アメリカ駐留軍でも住んでいそうな住宅群で‘キャンプと呼ばれていた。広い敷地に建てた広大な住宅群は、見えるだけでもおそらく三千人分と一千所帯分ほどはあるかと思われる住宅群であった。
アルジェリア人との再会そして授業
着任は水曜日の午後。翌日木曜と金曜の二日間は休みである。ここ回教の国では、金曜が本来の休日で、週休二日制となったアルジェリアでは、木曜と金曜が休みになる。
週明けは土曜日から、授業はいよいよ始まった。授業の準備はほとんどできていない。だから彼等には復習を兼ね、私には時間の余裕を作るため、いままで私がやってきたように、まず教科書を開き、一人一人生徒に当てて読ませる。あるいは私が読み、内容を解説するが、それが問題となった。
あとで知ったが、教科書を授業中に読むことは禁止されている。フランスの影響なのか私は知らないが、私の経験したフランスの授業では、教科書を読む場面はなかった。教科書を使用せず、教師が用意したテキストや小説、市販の本そのものが教材ということも多かった。
アルジェリア人検査官が見学し、なぜ教科書を読むのか生徒に訊いた。全くアラブ語の会話で、私には内容が分からなかったが、生徒の一人がうまく取り繕ってくれたのもあとで知った。危うく苦情の対象となり、下手をすれば帰されるかも知れなかった。後々事情を聞いたが、アルジェリア検査官は気難しく、フランス人への不信感も加わって、何人もの講師が帰された。教え方の問題もさることながら、生徒との信頼関係で起きる問題もかなりある。また歴史的なあつれきによるフランス人との悪感情から来るトラブルも多い。植民地と非植民地の関係は今でも心のしこりとなっている。
フランス人は、アルジェリア人から嫌われている。たとえアルジェリア人がフランスのファッションにあこがれ、フランスの香水を使ったとしても国民的な感情は別である。それは随所に嫌がらせとなって現れる。フランス人ももちろんアルジェリア人を好ましく思ってはいないが、ここでは彼等は客である。しかも天然ガス、石油を持った上得意客である。
生徒の質、学力、態度など決してほめたものではないが、学校と違って、客から預かった大事な生徒たちであり、将来の工場の運転管理、保守を背負って立つ人材を育てること、早く一人前にすることが我々の大きな使命である。
私は生徒達の境遇を、経験上良く知っていた。彼らの第一の問題は、国中に広がる慢性的な失業者の多さで、特に若年層に多い。一見、働き盛りの若者達であるが、昼間からカフェ、いわゆる喫茶店に入り浸り、友達と喋り一日を過ごす。といっても仕事がなく、他に行くあてもない。捜しはしているのだろうが、長期に仕事がないと気が滅入るのだろう、仲間と情報を求めてカフェに集まる。他の場所で遊ぶ金も気分的な余裕もない。家の中は狭く、兄弟姉妹が多い。
女たちは外に出たくとも社会風習から買い物以外出かける機会もない。そんな姉妹たちに家は占領されている。男たちは仕方なく外に出て、あてもなくカフェに腰を降ろし、一日中お喋りだが、仕事がなくてはどうしようもないのだろう。昨日までそんな生活をしていた二十前後の若者たちが、建設中の工場の求人広告を見て応募する。
とにかく今度できるらしい、すごく大きな工場で人手を求めているようだ。給料さえ出れば何でもいいと思いやってくる。そこでまさか、こんな面倒な教育課程があり、三日に一度は試験され、一応合格点を取れないと正式採用にならないとは、思ってもいなかったに違いない。生徒の中でここに来る前につとめた経験者は希で、多くは高校を中退し、たとえ卒業していたとしても、いわゆる大学入試資格はない。従兄弟が営む食料品店の手伝いや、叔父のトラックの助手だったなどはいいほうだろう。大きな子供と接するようで、社会常識に欠け、教師の愛情を求めるなど、授業以外で私達は体力を消耗した。そんな者達が大半で、天然ガスやLPG精製など知る由もない。それ以前に温度、圧力、液化とは何かといった基本から始める必要がある。一つ一つの事象が、日常の体験や普段の生活とはかけ離れていて、ほとんど理解できない。
よって、生徒たちがおそらく見たり聞いたり、手に触れたにちがいない体験を通して説明する必要がある。自動車のガソリンや、家庭用プロパンガスから話を始める。ただそんな話も五分ともたない。一日六時間も授業中座って講義を聞くなど、もう何年もやっていない生徒たちは、すぐに飽き、雑談が始まる。ガムを噛む者、ポットのコーヒーを回し飲みする者、フランスパンをかじる者、また家で穫れたオレンジを配る者、はたまた眠りだす者とおよそ授業の態度にふさわしくない者の寄せ集めである。
な、な、何という態度だ。こ、こ、これが教えを乞うという姿勢か、と腹を立てたのは去年までの話である。たしかに今でも不愉快ではあるが、穏やかにたしなめる。
「おいおい、コーヒーは休み時間にしてくれ」といえば、先生も一杯どうかと、回し飲みしていたカップを勧める。断ると、もう一人が、家のオレンジだ、今食べ頃で甘味があるから持って帰れと袋ごと差し出す。「そんなに美味しいのならおまえが持ってろ」と声を荒げる。眠っている生徒を起こすと、隣で「奴は母親が病気で、家事や看病で疲れているから寝かせてやってくれ」と頼む。しまいに床に新聞紙を敷き、寝る者までいて、これでは授業にならない。
ある者の質問に答えれば、ほかが雑談を始める。それを注意すると別の一角がざわめく。あげく何の授業だったか忘れ、一から説明し直す。そしてあっという間に一時限が過ぎていく。少し授業の速度をあげようともがいても、かえって無駄である。まずある事象を説明し、その応用例を話すと必ず質問が出る。たとえば遠心力を使って渦巻きポンプが働く仕組みや、気体を閉じ込めた容器の温度が上がると、容器の圧力も上がることとか、蒸発温度(沸点)が違うことを利用して、二つ以上の物質を分離するなど彼等は想像もできないといった反応である。
同じ事を二度三度説明するのは当然としても、生徒たちにとって一見新しい事象は、実は生活の中で頻繁に見られ、その応用だと実例を挙げ説明する。先ほどのオレンジを生徒から一個取りあげ、紐の一端に結び、遠心力が理解できない生徒の前でそれをぐるぐる回す。むしろ力一杯ぶんぶん回す。そしてこれが遠心力だと言えば、そのうち紐が切れ、自分に飛んでくるほどの勢いを感じ、遠心力はもうわかったからやめてくれと叫ぶ。
この国ではフランス同様、圧力釜を料理によく使う。むしろ生活必需品だが、彼等の代表的料理「クスクス」の話を例に採り、そのスープが沸き上がると圧力が上がり、シューシューと蒸気が勢い良く吹き出す話をする。その蒸気を冷やすと水になり、クスクスのスープから水が分離されるといえば、ようやく納得するが、ここに行き着くまでの苦労は並大抵ではない。
ある時生徒がこんな話をした。「ムッシュ、知ってるか、おれたちの国は広い。南の砂漠は想像もつかない過酷なところで、考えられないことがよく起きる。ある村ではな、どんよりとした砂煙の舞う暑い日に、シロッコと呼ばれる砂漠からの熱い風が吹き荒れたんだ。その日の気温が四十度だったのに、シロッコの嵐がこれまた四十度だったから八十度にもなって、家畜は全滅、死者も多く出たらしい」
「そうかそうか、それは大変だったなー。ところでその話は少しおかしくないか」
回し飲みのコーヒーをとりあげ、言葉を続ける。
「みんなよく見ろ。ここにコーヒーがある」
「ムッシュ、それは俺のコーヒーだ」
「分かった分かった、ちょっとだけ借りるよ。さてこのポットに入っていたから六十度はあるな。これをまた別のコップにも注ぎ、そうするとコーヒーは二杯だな」
「ムッシュ、それは食後のコーヒーだ」
「心配するな、飲みはせん。さてこの六十度と六十度のコーヒーを足したら百二十度のコーヒーになるかい。水は百度で沸騰することは教えたな。すると百二十度というのは、全て蒸気になるということだ。そうはならんだろう」
そうした類の話や質問は常にあった。
授業は続く。「さてここではジャンボGPLといっているが、GPLとは何か知ってるか?」
一同「・・・」
「じゃあそれを見た者もいないな?」
一同「・・・」
「おいおい嘘をついてはいかんな」
「ムッシュ、俺達は確かに無知かもしらんが、嘘つきではないぞ」
他の生徒も呼応する。「そうだそうだ、言い過ぎだ、言って良いことと悪いことがあるぞ!」
「うるさい、だまっとれ!誰も見たこと無いとかいっているが、家の台所にプロパンガスのボンベがない奴は手を挙げろ」誰も手を挙げない、それもそのはず、当時彼らの家庭燃料の大半がLPガスである。LPGをフランス語ではGPLという。「ところでそのGPLの中身は分かるか?」
一同「・・・」
「見たことのある奴は?」
一同「・・・」
「ほらほら、また嘘をつく」皆きょとんとしている。
「今ここで見せてやる。しかもそれはおまえさんがたが持っているんだぞ!」
一同「えー!」と驚く。
「タバコを吸う奴いるか?」ほとんどが手を挙げる。
「プラスチック容器入りの安いライター持っているな?それがGPLだ」このあたりから皆は少しずつ興味を持ち始める。
「天然ガスや石油ガスが採れるが、これを蒸留するといろんな成分に分かれる。最も軽い物からいくと水素、メタン、エタン、プロパンと続く。さてその中で、これは炭素分子がいくつあるかな。君、君、そこの髭を生やしたかっこいい君、知ってるか?」
急に当てられ、とまどっているが、答えられない。ただしこれは昨日の授業で教えたばかりである。クラスの一人がハムサ、ハムサとアラブ語で正解の数字を小声で彼に伝えている。半信半疑それをフランス語に直して答える。当然正解で、彼もほっと一息つくが、そこで私は続ける。
「いやあ良くできた、すごいなー。ところでな、アラブ語の数字はな、俺もちょっと習ったんだが、ウワハッド(ひとつ)、ズーズ(ふたつ)・・・」と続けると、髭の生徒の顔色がみるみる変わっていくのが面白く、他のクラスでも試すのが私の楽しみであった。
政治宗教の話はしない。といっても、まれに話がそんな方向に行く。アラーの神と日本の神の話になる。日本では、山には山の神がいて、海には海の神がいて、いたるところの八万の神々が、年に一度は集まると言えば、生徒たちとは、もう泥沼の議論となる。イスラム教徒にとって神は唯一で、全宇宙にひとりしかいないと信じて疑わない。
私は、だからその宇宙がそこここにあれば、神もあちこちにいて良いではないかと反論するが、それはありえない、と話はかみ合わない。そうかそうか、そう思うのであればそう思っていたらいい、それこそインシャラー(神のおぼしめすままに)だとかわせば、不謹慎だという。私自身、仏教のなんたるかを知っているわけでもなく、まして熱心な信者である彼等とまともに立ち向かえるはずもなく、泥沼の中で、自分が滅茶苦茶言ってるのはわかるが、黙って彼らの話を聞けば、しまいに私が改宗せねばならないほどの意気込みとなる。頃合を見てやんわりとたしなめた。
「そうかそうか、日本でもこんなことわざがある。『信じる者は救われる』」
授業は毎日六時間ある。その後自習があるが、彼らが真面目にやったのは、初日から三日間であった。見事にこの三日間だけである。四日目からは私のそばにきて、あれこれ物をねだる毎日が続いた。ある時はボールペンを執拗に欲しがり、自習中ずっと食い下がったし、ある時はボールペンを売りに来、またある時は交換しようと粘った。煩わしくて何もできない。最後はいつもの言葉で締めくくる。
「君のはすごく良いボールペンだなあー。良いからしっかり持っていろ」また、あれこれ理由をつけては、授業を抜け出そうとする。無為な自習時間を切り上げ、早く帰ろうといろんな手を使う。
「ムッシュ、実は昨日から母親が病気で‥、だから早く帰って、看病や家事をするので帰してくれ」とおそるおそる申し出る。初めは私も素直に聞いて、本当だと信じていた。
「なに、それは大変だな、分かったもう良いから帰れ」と帰すと、翌日は図々しくも
「看病疲れで今度は姉が倒れた、どうしても自分が帰らないと駄目だ」というが、そうそう彼だけ早退を認めるわけにはいかない。昨日帰したばかりだから今日は駄目だ、どうしても早退したければ給料から引かれるのを覚悟でやれ、という。とたんにぐずぐずし、いっこうに帰ろうとしない。しかもいったんある生徒に許可すると、我も我もときりがない。許可しないと、あいつは許しておいてどうして俺は駄目なんだ、と詰め寄る。そんな生徒が多いと見え、帰り間際の二十分ほど前からムッシュ・ガリッグはトレーニングセンターの正面玄関に仁王立ちになり、教室を抜け出した生徒たちをしきりに追い戻している。そうしないと検査官から抗議されるのだ。
生徒たちとの押し問答が遠くからも聞こえてくる。「ムッシュ、ち、ち、ちょっと待ってくれ、これにはわけがあるんだ、まあ聞いてくれ」ムッシュ・ガリッグは全く相手にせずこう繰り返す。「はいはい、子供たちー、お話はあとよー、わけもへったくれもないのよー。さあさあ戻って戻って、教室に入りなさーい」
授業中トイレに行きたがる。こればかりはしかたないと思い許可すると、授業の終わりまで帰ってこない。欠席にすると、後ですごい剣幕で文句を言う。しまいには誰かが席を立つと反射的に私も立ち上がり、戸口に駆け寄る。
「ち、ち、ちょーっと待て」彼が出ないようドアの鍵をかけ、また叫ぶ。
「欠席になるけどいいんだな、いいんだな、え、おい」と脅すとすごすごと席に戻る。ある時生徒がしつこく食い下がった。「ムッシュ、トイレに行かせてくれ。で、で、出そうなんだ」
「なに言ってる、前の時間もそういってトイレに行ったじゃないか」
「いいや今度は本当なんだ」
「ホントも嘘もあるか、男ならこれで我慢しろ」といって私の履いている靴の片方を脱いで差し出す。「どうしても我慢できなければこれで用を足せ」とここまで言えばようやく席に戻る。そんなやりとりが、それぞれのクラスで一日に二、三回おこる。時々どうしたものか、一度席を立った生徒が教室の中をぐるぐる歩き回る。
「おいおい座れ座れ、何をしている」と叫べば、
「ムッシュ、俺よりも強い何かの力が俺を動かすんだ。これにはどうしようもない」といって五分ほど皆の席を回ったあげく、また着席する。気が散って授業にならない。後で分かったが、どうやら興奮剤かハッシッシもどきの薬物を服用していたらしい。
当時はやりのメロディー付腕時計をわざと生徒が鳴らす。それがクラスでもいちばん小柄で痩せた生徒であった。彼を見ると痩せたニワトリを連想し、彼の首を絞めたくなってくるのである。その電子音の鳴るピロピロポロリンの音が条件反射となって、首を絞めに行ったものだ。するとそれが面白いらしく、三分と経たずまた鳴らす。そしてまた首を絞めるのであった。もちろん本気で締めるわけはないが、遊んで欲しい幼児のようである。
つまらないことで生徒とよく口げんかをした。いちばんの原因は、授業中の態度が悪く、しかも授業の邪魔となる場合で、注意しても、逆に俺はそんなことはしていないと反論して水掛け論である。
「何をとぼけている。今騒いでいたのはおまえじゃないか」というと、いいやそんなことはないと言い張る。話にならないが、そんな無駄な言い合いが続き、ああ貴重な時間を浪費したと思っても、引き下がるわけには行かない。誰かが割ってはいるでなし、こちらが折れる道理もない。とはいえ、どの様にその場を収めるかだが、初めの頃、気持ちの切り替えができず、機嫌が収まらないまま、その時限を終わったり、気まずい思いで去ったものだ。
しかしある時戦術を変えた。怒るだけ馬鹿馬鹿しい。こちらの気分がそれによって台無しになり、せっかくの一日が面白くない。しかも言われた生徒は何の反省もなく、効果はない。怒るだけ損した気分である。だけど一通りは怒る。それはよくない事だ、二度と繰り返すなと少々しつこく言うが、しつこさはアルジェリアでは皆そうだから、小言程度にしかとらえていない。
そこで気分を変え、目を下に向ける。と、今日はなかなかしゃれたシャツを着ている。あるいはかっこいいブーツを履いている。そこで私はそれをほめる。「ほう今日はすごいな、いやあ今まで気づかなかったがそのシャツ良く似合うよ」と言ってわざと肩や背中をさわってやると、先程とうって変わってとたんににこにこ顔である。さらに続ける。「えー、こんなかっこいいブーツも履いているのかあ、もう、もてもてだろう」といって腰をかがめ、ピカピカのブーツをなでると相好を崩して喜ぶ。
「なあ、みんなもそう思うだろう。こいつ今日は特にかっこいいよなー」と何度もほめる。相手も気分を良くして丸く収まり、静かになって授業がはかどるのであった。
いつだったか生徒どうしが口論の末、つかみ合いの喧嘩になった。私は関係ないが、授業を続けられないので二人を教務課に連れていった。教務課のアルジェリア人担当者はまず彼等に言う。
「いいかおまえらよく聞け、これから話す事は男同士の話だ。女子供の話じゃない、男として自分の言葉に自覚と責任を持て、そしてちゃんと行動しろ」
その後何度か生徒を教務課に連れていくことがあったが、毎回彼が同じせりふを言うのでおかしくて仕方がなかった。彼がいつもそう言うのには、生徒たちが年齢的にも体格も十分大人なのに、まったく大人扱いされず、まだまだ早いとお互い思っているようであった。たとえ一人前の扱いをしても、その期待に答えるほどの自覚はまだ生徒たちにはなかった。事務官と言うより、生徒のうち年をとった、まあましな人間を連れてきたといった者が担当者であった。彼の上司には、我々を常に監視し、最悪の場合帰国させる担当検査官がいた。教務課の担当者は、日々の雑務から生徒の喧嘩の仲裁まで、大した仕事でもない事柄で一日をつぶされる。教師の中で唯一の日本人であった私には、はじめかなり好意的であった。
「ムッシュ、今度いつ日本に帰るんだ。帰るときには言ってくれ、ちょっと買ってきてもらいたいものがあるんだ」と言って一大リストを渡される。またあるときは「ムッシュあんたのラジオカセット売ってくれないか。まあ安くしてくれよ、ここの給料なんて雀の涙なんだぜ」そのとき彼が発する言葉「セ・ラ・ミゼール!」は彼の貧乏人根性がまさに染み着いた、ぴったりの表現だったのを憶えている。
これもまた真似して逆に彼をからかったところ相当根に持ったらしく、私のクラスが授業中に一時休憩をしているときや、生徒と遊んでいる時をねらって、彼の上司を連れてきては窮地に陥れ、私の強制帰国をねらっていたようである。ムッシュ・ガリッグもアドバイスしたように、教室に鍵をかけ、彼らが来ると鍵を開ける前に寝ている生徒を起こし、あたかも授業の真っ最中といった緊張感を持って彼らを迎え入れるのであった。
そのためたとえ何もしていなくても黒板にはそれらしくびっしり書いておく。書くのが面倒なら生徒たちに書かせ、課題と回答の時間らしく作っておく。
口論は日常茶飯事で、口論のために生まれてきたんじゃないかと思う。またどうしてこんなに一日中喋ることがあるんだろうかと思うほど、がなり合っている。お喋りもあるが、口論は絶えない。朝起きてパンを買いに行くときから始まる。パン屋に行列をつくり、店の女将が手際よく客をさばく。「それそれ、一番右の良く焼けたやつがいい。」
次の客は「焦げ目のあまりない、ただ、外側がカリカリッとしたのが良いな。」
フランスパンは外側のカリッとした焼き具合が香ばしくていい。「クロワッサンとバゲットをちょうだい。ねえこれも買うから少しまけてくれない」
女将は答える「うちはまけないけど、その代わりこれおまけしとくね、お宅のジェミラちゃんによろしく」ジェミラというのは客の娘である。八百屋でも肉屋でも買い物は常に交渉ごとである。こんな人々と、かたやひと月喋らなくても生活できる日本とでは、生活のベースがどだい違う。ああ言えばこういう式の彼らの交渉術は、小さい頃から身に付いたものである。
そんな国に日本人は、彼らを見下したように、発展途上国だからと、東南アジアの成功体験を引っ提げてやってくる。結果はもう、けちょんけちょんに交渉でやられ、大赤字で、撤退するならまだしも、最後まで付き合わされて瀕死の体で放り出される。撤退すれば多額の違約金を取られる。例えば工場内の道路舗装が契約に記載されている。日本側は工場の機器類が据え付けられた周辺及び事務棟、タンクヤードへの連絡道路くらいに理解しているが、敷地内は全部舗装をさせられたこともあったらしい。理由は簡単、道路という単語の最後に複数のSが付いていたからである。であるから道路は全ての道路を指し「道路’s」となる。
もう一つ、お客さまは神様といった感覚は、彼らにはない。確かに上得意の客は彼らも大事にするが、決して自分を卑下したりはしない。相手はお客さんだから(口のききかたに気をつけろ)といった言い方もほとんどない。するとどうなるか。客と請負者は対等と思っている。これはフランスから来た思想なのか?アラブ本来の思想はどうなのか知らないが少なくとも店に入って客扱いされた覚えが無い。
このサービスの対価に客のあなたは金を払う。私はあんたのできないサービスをやってあげる。いやなら他を捜したら、と言わんばかりである。理論的に話をしている間はまだ良い。それがいつしか理屈になって、屁理屈から不条理へと変わる。しまいにそれは当然の、こちらがやるべき義務になってしまうから恐ろしい。
生徒たちの口論の多くはそうしたたわいもないことから始まる。盛り上がった頃必ずそこに割ってはいり仲裁するものがいた。
「イスマハリ、イスマハリ」(ごめんよ、ごめんよ)
「ハッベス、ハッベス」(待った、待った)と言って双方をなだめる。そのタイミングと口調が実に合っていて。口論がおきるたび私もそれに倣い「イスマハリ、イスマハリ」を連発したものだ。
運転員養成クラスで、我々講師仲間でも評判の悪い生徒が一人いた。彼の機嫌が悪いともう手が付けられない。私の日本製ボールペン一本が欲しくて、自習時間中、粘って粘って私を苦しめたのも彼だし、授業中も自習中も喧嘩や雑談で、いつも私を悩ませた。ある日暴れすぎて、ズボンの股を破ってしまった。「ムッシュこんなズボンじゃ恥ずかしくて町を歩けない。今日は先生の車で送ってくれ」と頼む。
「仕方ない、今日は特別だぞ。そのかわり、私の帰宅時間まで待っていてくれ」といったが、その時間には誰もいなかった。翌日の自習時間、昨日はどうして車で連れ帰ってくれなかったのかと非難するので、悪いのはそちらの方で、探したが誰もいなかったと答えると「そんなはずはない、俺は待っていた。昨日は優しそうに言うから信じていたのに、裏切られた。本当は俺をからかったんだろう」
「そんなことはない。それにそんなことをしても私には何の得にもならない」
「いいや俺には分かっている。あんたは俺をからかったんだ。そしてあんたは俺のあれを見たかったんだろう」
「おまえさんのあれってなんのことだ」ここまで来るともう無茶苦茶な論理で、相手をする気にもならない。無視したら一人勝手に喋り続けている。こうなると自分の言葉に酔っているとしか思えない。
「よしそんなに言うのなら、俺のあれを見せてやる」といって、こちらが何もいわないのに自分のズボンのベルトを外し、チャックを降ろし前を開ける。座っている私の前に立ちはだかり、皆には背を向けた格好で、やおら自分の一物を取り出し、私のデスクの端にいったん乗せたかと思えば、それをつまんで机をピッタンピッタンとやりだした。その音が目の前で聞こえるが、ズボンのジッパーを下げたあたりから私はもう目をそらしていたし、あきれてものも言えず、ひたすら無視することにした。
その間、誰も止めようとしないし、成りゆきを面白がって、興味深く見守っている。この時思い出したが、男の子は小さい頃、よく皆でおしっこの飛ばしっこや、おちんちんの見せあいをする。男の子同志で良くやる遊びで、仲間意識や連帯感が不思議とでてくる。それに似たところがある。彼の行為は決して私への侮辱ではなく、むしろ親愛の情であったのを知っているが、他の人には信じがたいと思う。そのピッタンピッタンを終えたらにこにこして席に戻り、この話は後々までの語り草となった。
同じ国の別世界
正確には三度目の赴任になる。最初のアルジェリア渡航から四、五年が経つだろうか。その間には、アルジェリア、フランス、日本を何度も往復して出入国を繰り返した。前の二度は日本の会社から派遣され、次はその関連会社と契約してアルジェリア東部地区のスキクダで仕事をした。石油化学コンビナートの建設現場で、宿舎も、あるときはキャンプ、あるときはアビタシオンと呼んだが、狭い、三畳の部屋が二十室も連なる長屋が、数十棟並ぶ飯場であった。
各長屋の両端に冷蔵庫が一台ずつ設置され、それを皆が共同で使用する。
ビールやワインを各自買ってはその共同冷蔵庫に置く。それらは各自が自分のお金で買った私物であり、当然自分の名を書き、共同冷蔵庫に入れておく。ところがたまにいつものように、長屋の大酒飲みが自分の買った分だけで足りず、人の酒に手を出してしまう。飲み出すと止まらず、どうせまた買って入れれば同じだ、と思うらしいが、つい忘れてしまう。はじめは諦める人も、度重なると腹を立て、報復措置で他人の酒に手を出す。すると被害に遭った者は、また他人の酒を盗み、もう収拾がつかなくなるが、おもしろいことにくだんの大酒飲みが時々大量に買って埋め合わせをし、そこで一服することが繰り返されていた。
基礎工事が始まり、建設、試運転が終わるまでの三年から五年の長い期間中、人によっては数カ月から数年間をここで過ごす。一応個室とはいえ、三畳程度の部屋でも一時は不足して、二人部屋のことがあった。と言うことはもう二段ベッドにするしかないが、当時の事務局の担当者が言うには、そのかわり生活費が少し多く支給され、酒、タバコ代になるからそれがいい職人もいたとのことだ。いずれにしろ私には堪えられない。
各部屋は小さなベッド一つと机、ロッカーがあってあとは何もなく、狭くてなにも置けない。スーツケースはかろうじてベッドの下にもぐり込ませ、それが唯一鍵の掛かる、安心できる個人の場所である。隣との壁はベニヤ板一枚で仕切られ、声は筒抜けである。海外現場がすべてこうではない、ここが悪すぎる。
現地の企業や現地政府が支給する宿舎には、こんな劣悪なものを見たことがない。唯一の楽しみは、暦の上に、自分の業務完了予定日と印を付け、あるいは一時帰国日まであと何日と記していく。それが毎日の挨拶で、毎夜の飲み会の話題である。半年は先進的なエンジニアリング会社、九ヶ月毎は日本に古い体質を抱える大手機械メーカーである。その待ちわびた大事な帰国休暇を二十日間あまり取得し戻った人も、その翌日からまたあと何日と数える日々が始まる。それがいつまでも繰り返される生活だった。
食事にご飯が出るのは当たり前としてもその注がれたご飯には数十匹の米喰い虫がいて、それらを除けながら食べていくことに慣れるのは二,三日ではできなかった。
今度もそんなものか、それより少しましなくらいだろうと思っていたが、予想とは全く違った。宿舎は広い、以前の三倍はある。しかもトイレ、シャワー、冷蔵庫までもが共用ではなく自分専用に付いている。数カ月から数年過ごすとなると、そこは生活のベースであり、当然かも知れないが、アルジェリアの生活環境とは思えない程の驚きだった。
あとになるとその宿舎もそんなに良くはないが、その前の状況が悪すぎて、比較するとその生活環境に感激した。些細な事は今述べた宿舎の広さ、快適さ、個人専用車があり、同僚が皆外国人でしかも雑多な人種であるなど、ことごとく驚いたが、慣れるにつれ、それ以外の、むしろ目に見えない事柄に驚かされた。
まずマネージメント、つまり管理運営体制である。事務所ではだれも残業しない。やはり外資系の会社にありがちな、仕事と生活がはっきりと分離していて、同僚とも仕事上の付き合いのみと思っていたが、日本によくある外資系のように、週三十五時間、残業無し、完全週休二日制ではなかった。授業の準備、テストの答案作りや採点は、皆宿舎に帰って夜遅くまでやる。朝は六時半に起き、八時過ぎには授業を始める。ムッシュ・ガリッグとムッシュ・フォールはこの国の休日、木、金曜日も朝から自宅で机に向かって授業と講師の編成作業をしている。ムッシュ・ガリッグはいつもこう言う。
「仕事があれば片づくまで、夜中といわず休日といわずやる。それがフランスの管理職だ。週三十五時間、完全週休二日制、残業無しとは下層労働者であって、自分をそのレベルに下げてはいけない」それは別の機会で述べるとして、それ以外では、三カ月毎に十日間の帰国休暇がとても有り難い。私にとってアルジェリアからの出国が許される休暇である。日本人にとってこの国でやっかいなのは、出国ビザと再入国ビザである。このため入出国は面倒で精神的にとらわれの身となったような気になる。
ましてや日本の会社と契約した日には六ヶ月間軟禁状態である。
だからそのビザが要らないフランス人は週末を利用して自由にフランスに戻ることができる。車が一人に一台支給され、休日はもちろん、社用、私用を問わず自由に使用が認められ燃料費も会社が負担した。誰と付き合おうが、誰を呼ぼうが会社は何も干渉しない。そんな当たり前のことをと思われるであろうが、この国に進出している、以前いた日本企業ではそんなことはあり得ない。
たとえば以前日本の会社の社員で、長期出張を命じられアルジェリアのスキクダにいたとき、休暇を利用して乗用車をフランスで購入し、アルジェリアに持ち込んだことがあった。上司にそれが知れたとき、その上司以下、事務局の担当者達はこぞって私を犯罪者のように扱ったものだ。ただそれも見方を変えるとうなずける点もある。日本と違い、習慣、制度、宗教などが違えばいろんな場面で思わぬことが起きる。取り返しがつかない問題に発展することもあり、会社の事務局では常に頭を痛めている。
また考え方の違いから、ある状況を互いが全く別の意味に解釈して笑ったり、腹を立てたり怒鳴り合うから恐ろしい。それに加えて言葉の問題がある。ずっと後になってアルジェリアのフランス語はフランス人のフランス語とは違うとさえ確信したものだ。そこではフランス語は伝達手段でしかない。単語の使い方や訛の違いをいっているのではない。一つの言葉にこめられる意味や概念が根本的に違う時がある。文化、習慣、いやもっと大きな歴史の違いとでもいうのだろうか。
『明日』という簡単な言葉の意味さえ違う。ある時日本人が、助手のアルジェリア人に、一日の終業間際に仕事の指示をした。
「いつまでにやればいいのか、明日で良いのか」と仕事を頼まれた助手はたずねる。彼にとって終業の一時間前はもう帰宅の準備時間である。日本人はすぐにという意味で「後で」という意味のフランス語『アプレ』を使う。アルジェリア人は自分の言った明日に「後で」を足して『アプレドマン』つまり「ああ、明日の後か」と繰り返し、仕事は放り出したままとなる。
担当者は「・・・後か」だけを聞いて、その助手は理解した、すぐにやってくれるに違いないと期待する。ところがこれは通じないどころか、明後日となってしまう。フランス語では『アプレドマン』は明後日のことを意味し、さらに彼らアルジェリア人にとってはもう期限のない、いつやっても良い仕事になってしまうのであった。
こんな事もある。教育に当たって生徒一人一人に誓約書を渡し、誠意を持って教育を受けます、などと書かれた文書に署名を求めようとしたところ、アルジェリア人担当者に一笑され、にべもなく断られた。彼の言った理由はこうだ。「生徒と会社の間では雇用契約の関係にあり、それ以下でも以上でもない。それがこれは何だ、契約を単にお約束ごとのレベルにあなた達は下げるのか。そんなふざけた話は納得できない」
日本人にすれば、生徒に真面目に取り組んで欲しく、もし何かの不祥事があった場合、誓約書をたてに、何らかの処分をしたいらしかったが、不発に終わったのみならず、誓約書という日本独自のやり方は彼等には奇異に映ったようだ。
話は変わり、日本の会社では、従業員の面倒を良く見る。滞在中は、従業員が仕事を終えようが休日であろうが、会社には管理責任があると考える。日本で待つ家族にしても、自分の夫は、お父さんは、息子は、何々という会社から派遣されているから有事の際はまず会社を通して連絡する。
だから会社側の責任は大きく、連絡や管理も万全を尽くす必要があると思っている。ただそれが過ぎると、いろんな事柄に会社が口を挟み、あるいは制限や禁止をする。それは従業員にはその国の憲法以上に大事で、守るべきものと理解する。
たとえば休暇が欲しいとき、事前に休暇届を出す。当たり前である。それで国内旅行をするなら同様に届け出る。これも理解できる。日本国内と違い海外で行方不明になっては困る。ゆえに一人旅は禁止される。
また歩いて三分の、目の前にある海岸に行くときも一人で行くなとある。確かに水の事故のことを考えるとそうした方がいいだろう。しかし、膝より深いところに行くなとか、素足で砂浜を歩くなとか、三人以上で行動しろなどと細かくなれば、首をひねりたくなる。街には一人で行くな。移動は会社のバスで団体行動をしろなどと注意されるが、それなりの理由がある。
地中海の、その海水浴場では、特に引き潮が強く、毎年数十人からの犠牲者がいるという。しかも砂浜は一見素晴らしいが、人を刺す魚が砂の中に隠れていて、日本人ももう何人も痛い目にあっている。刺されると医者を呼び、刺された人を運ぶため三人いれば他の二人がかついでいけるためらしいと皮肉めいた解釈をした。
街には悪童がいて、財布をひったくり、石を投げることがあった。そのたびに会社の担当者と通訳が夜といわず休日といわず二人一組で呼び出される。
些細な問題やアルジェリア人との喧嘩の仲裁、友好的な招待まで含め、休む暇がない。しかしこうした諸々の規則や、禁止事項の大半が、今度の職場ではなかった。一度質問をしたことがある。何で行動の制限がないのだろうと。答はこうである。「ムッシュ、何でそんな質問をするのかね。会社とおまえさんの間には契約書で取り交わした以上それ以外のことでは関係ない。君は十分に大人だし、自分の行動は自分で決めることだ。会社は干渉しない。休みの時はおまえさんの時間だ、好き勝手にやってくれ」ここまで言われると質問した私が恥ずかしくなる。
テスト、テストまたテスト
毎日六時間、授業の日々は続く。授業後の自習時間は魔の一時間で、その後職員室で同僚との一時間が待っていてさらに疲れる一時間である。しかしながら試験問題と解答の作成、答案の採点と、片付けるべき作業は山ほどある。週に二回か三回の試験があり、試験問題の作成も大変だが試験の監督、採点と頭が痛い。分かりやすい問題を出そうが、質問の意味が不明確という、あるいはそんな振りをして、生徒は決まって解説を求める。仕方なく応じるがこれがくせ者である。例えばポンプの役割を述べよというのがある。
「ムッシュこれは何を言いたいのか?」
「何を言いたいのかだって?それがテストだ」という具合である。
「いや、もう少し説明してくれ」
「ポンプはどんな形をしていた?」と訊くと
「それは円盤が中にあってぐるぐる渦を巻いていた」と誰かが答える。
「そうそう、それで何かの働きをしていたと思うが・・・」とここまでヒントを与えても不可解な顔をする。これは芝居ではなかろうかと疑ってしまうが、生徒の反応は
「えーと、そのー、あのー」と、いい表現が浮かばない。
「だからそれで圧力をあげるのだよな」と誰かが叫ぶ。ここまで来るともうほとんど答えが出たようなものだ。しばしばポロリと答そのものを言う者がいる。そんなときは静かになり、皆せっせと答を書き始めるが、またすぐに騒がしくなる。沈黙の時間など一分も続かない。「おい、どうして試験中に話をするのだ」と注意すれば
「いいや、消しゴムを借りようとしただけだ」と弁解する。だが試験中、彼らは母国語で盛んに情報交換をしている。そんなときはフランス語が一切混じらない。以前の現場でやはりあったことだが、ある時カンニングをした生徒を呼んで、そのことで問い詰めた。
彼は必死に否定する。
「そんなことは絶対やってない」顔を真っ赤にしながら否定する。
「いいや、おまえがやった。証拠もあるのだ、認めろ。認めたら今度だけは許してやる」と詰め寄るが認めようとしない。仕方なく彼の答案を見せ
「じゃあこれを見ろ、おまえはカンニングで答を写しただけでなく、隣の奴の名前までそこに書いたのだ。おまえの名の答案用紙はないのだよ」と言うと、真っ赤な顔をいよいよ赤くして、ようやく認めたが、こんなのはまだかわいい。
テストは書き終えた者から退室できる。一時間の予定が三十分で済む者もいる。あまりに速いので答案に目を通すといくつか間違いが見られた。「おいおい、速いのは良いが、もう少し落ちついて見直したらどうだ」と言っても、一刻も早く教室を出たい彼は、そんな助言は聞かない。
「いいやそれで良い。男の一言だ、絶対良い。オレは出る」彼はいきまく。それで私も一言投げかける。
「男の一言とはまたよく言うよ」とからかっていると、その間、皆は盛んに情報交換していて、それが耳に入る。その答えが自分の解答とは違い、しかも正解のようだ。とたんに不安になり態度が急変する。
「えーと、あのー、いや、さっきはどうかしていた。どうも少し勘違いをしていた。やはり見直した方がいいから答案を返してくれ」それがあまりにそらぞらしく、私もはらいせに皮肉を言う。
「おいおい、男の一言はどうした。さっきはあんなに言い張っていたのに、なぜそんなころころ変わる、えーっ、男の一言だろ、一言!」彼もしどろもどろになり、まともな返答が出来ないところで、さらにたたみかける。
「だいじょうぶだよ、テストで一問や二問間違えても死にはしない。心配するな、おまえの未来はバラ色だ、さあ行った、行った」さっきまでとは立場が逆転し、渋々あきらめ教室をでる彼に
「よくやった。勇気あるぞ、若大将!」追い打ちをかけるともう引きあげるしかない。中には粘り通して答案用紙を取り戻した生徒もいた。とにかくカンニングは当たり前で、努力とか、仕事をおぼえて早く一人前になろう、という意欲が見られない段階であった。
そんな経験が長くなると私の性格も変わってしまう。他人から質問されると決まって「うーん、それはひじょーに良い質問だ」と前置きしては、相手の苦笑を買う。生徒が気の利いた答をすれば「ワーオ、それはすごい、とっても進歩したなー」と誉めるが逆に「ムッシュ、俺を馬鹿にするのか」生徒に言われる始末である。
後遺症も出てくる。他人が鉛筆や消しゴムを貸してくれと言えば「ああいいよ、でもちゃんと返してね」と念を押す癖が一時直らなかった。
フランスに戻り、こんな事があった。ズボンを買い、裾の丈を直してもらうのに、片方にピンで留め「この長さに裾を詰めて下さい」と頼んだまでは良かったが
「もう片方も同じ長さに」と念を押したのがまずかった。
「そんなこと当たり前じゃないの、それともあなたは右と左の脚の長さが違うの」
仕立屋のマダムに言われた。違わないから念を押すのだが、くどい。ともかく、何度もしつこく繰り返す習慣が付いた。
帰された講師たち
わずか一年の間に、五十人からの講師が入れ替わり立ち替わり、来ては去った。半数は任務を全うし、他は途中で、もしくは着任早々帰された。事情はいろいろあるが、講師失格の理由は、生徒に不信感を与え、あるいは反発を買ったことが最も多く、教え方の問題や能力不足というのもいたし、フランス語が生徒に理解されなかった者もいた。
私はフランス語が上手くないため、一語一語ゆっくり話すので、生徒には分かりやすかったようだ。逆にしばしば生徒にフランス語を直された。その度にありがとうと言って少しづつ進歩したものだ。
一緒にパリで教育訓練を受けた電気技師は、私の二日前に来たが、その日のうちに帰された。ムッシュ・ガリッグいわく、皮のジャンパーに皮ズボンで、アラブ圏では到底受け入れられない、ピアスを耳に、しゃなりしゃなりとやって来た。それだけならまだしも、授業をやらせてみたところ、ひとり黒板に向かって呟き、生徒を見ることは決してなく、しかも質問では「おだまり!」の一言で片づける、という態度だったらしい。ムッシュ・ガリッグは、有無を言わさず、夕方の便に乗せ、送り返した。私が採用されたのも、実はムッシュ・カトーという三十歳程のフランス人技師が、生徒とのトラブルから帰国させられるための交代要員であった。そうした雑多な問題を抱える現場と知ったのは、ずっと後である。
私も問題がなかったわけではない。先にも述べた、教科書を生徒に読ませる事件では冷汗をかいたが、フランス語に関しては生徒にたびたび直されながらもそのことでは一度も注意されたことはない。今から思えばとても恵まれていた。フランス語力が上がったことではなく、講師であっても常に生徒に勝ってはいないことで、生徒に親近感を持たれたとしても、技術や経験に対する不信はなかった。
講師の中に唯一、ベトナム人で、パリに十五年以上住む、ムッシュ・カオーがいた。彼はそれほどフランス滞在が長いのに、アクセントがベトナム語のままで、同僚のフランス人達は、アヒルが鳴いているようだと溜息混じりに嘆いたものだ。フランス人でさえ聞き取れないことが多く、私には彼がクワッ、クワッと独り言をいっているようにしか聞こえない。またいつも疲れていて、一日の授業が終わると可哀想なくらいぐったりしているので、ムッシュ・カオーは本当にカオー(混沌という意味のフランス語で、呆然とするほど疲れているときなどによく使う)だと皆はからかった。
結局ひと月ともたず去っていった。エンジニアやドクターという肩書きの者も何人か来た。フランスでエンジニアとは、日本でいう単なる技術者とは少し違う。工学系の大学をでて何年か経験を積んだというのではなく、エンジニアの学校があって、そこを卒業した者であり、医師や弁護士に次ぐようなステイタスであるらしい。ただし、ここに来たエンジニア達を見る限り、まともといえるのは、前述のムッシュ・ガリッグだけであろう。
その中で一風変わったフランス人がジャンだった。世界を放浪して回り、特にインドが良かったらしく、付き合っているインド人女性の写真を見せられた。こんなところに来てどうやってそんな遠くの女性と付き合っていけるのかよく分からないが、私の知ったことではない。
彼は歳の頃が三五、六で、開放的な性格の、話していても、学生っぽさがまだ残る彫りの深い美男子で、私とはすぐ仲良くなった。ヤイや他の同僚ともよく昼食を共にした。彼の担当は物理と数学で、と言っても中学程度の内容だが、それを教えられなくてムッシュ・ガリッグから毎晩教え方を教えてもらっていた。
確か素因数分解とか簡単なことだったように思う。私は驚きがっかりもした。個人主義が特に強く、わがままなので私とはまたすぐ付き合わなくなった。そんなこともあって、急速に彼への興味も薄れていき、その他大勢の講師と共に短期間で帰されていった。
おしゃべりなエンジニア、下品で乞食と間違えそうなエンジニア、専門馬鹿に近いドクターや数学、物理の基礎さえ教えられない技師などさまざまである。結論からすれば、技術指導ではエンジニアの肩書きは全く必要ない。むしろ工場の運転経験や実務を元に、技術内容を易しく、噛み砕いて教える教育技法が大切だった。またそれ以上に重要なことが、生徒の疑問を理解し適切に答えられるか、彼らの信頼を勝ちとることができるかという事だった。
そこではフランス語が流暢に話せる必要はない。むしろ一言、一言、ゆっくりと何度も説明し、黒板にはスケッチや色付の図による解説のほうがよほど効果があった。視覚に訴える方法は、どこの国でも好評だ。いつか大型ボイラーの内部構造を黒板一杯に三色で描き、各機能を説明したときには拍手と歓声がおこったものだ。
講師はほとんどフランス人だったが、ベルギー人三人、イタリア系とベトナム系フランス人、スイス人、ギニア人、アルジェリア人がそれぞれ一人、日本人も私が一人だった。三ヶ月に一度来る重役のオランダ人、ドルフ・スネットラーグがそれに加わる。
講師、責任者、総務担当者と、皆強烈な個性で自己主張をしていた。皆、自分がいかに重要な人間で、尊敬されるべき存在であるかを常に意識していた。授業と自習の監督が終わり、職員室に戻ると皆くたくたで、終業までの一時間は静かに休むか、残務整理というところだが、いつも誰かが喋っている。
単なる雑談ではなく、情報交換という名の自己主張である。演説さえする者もいる。いちばん喋るのは話好きのモーリスだ。ザイール人女性と結婚していることから、人種偏見は一番なさそうに思えたが、実際は逆で、彼ほどアルジェリア人の悪口を言う者はいない。ある時はアルズーに、多分この中では自分しか知らない酒屋があって、そこのワインはアルジェリアでも逸品だとか、あるクラスの生徒は、アルジェリア側のスパイで、そいつを手なずけたとか、我々にいつも敵対していたアルジェリア人検査官がいたが、いつか交通事故を装って、合法的に抹殺してやるとか、そんなたぐいの、自慢話や物騒な話がほとんどである。
ある日彼がガリッグ宅のパーティーの席で珍しく、がらがら声で話すので、どうしたのだと訊いたら、風邪だという。すかさずからかった
「へーそうかい、いや、てっきり喋りすぎて喉を枯らしたのだと思ったよ」一同爆笑し、かれは参ったという顔で私に握手を求めてきた。
私と共にパリで講習を受けた中に、ベルギー人計装技師がいた。大柄で、私とヤイが彼等の隣に引っ越したとき、そこからまた宿舎に戻った二人組の一人だ。私とギニア人ヤイが彼らの隣に越してきたのが気にくわなかったらしく再引っ越しをしたのが真相らしい。職員室はまだ雑然としていて、皆思い思いに座っていた。ある日授業から戻ると、彼はすぐ後に私の席を指し、そこは自分の席だと言う。どこが誰の席なんて決まってないよ、と言うと、いやそうじゃない、そこはいつも俺が座っていると言い張り、私が座っている椅子を強引に取り上げた。
冗談はやめてくれ、といったが、彼は本気だった。とにかく力ずくでとうとう取られてしまった。私の中で怒りがこみ上げた。自分の居場所が、そして存在が否定されたような気がした。彼は私の倍ほどの体格である。しかしそんなことは気にならない。猛然と力ずくで椅子を取り返しにいった。
七割方取り返したとき、皆が割ってはいった。別の者が彼にほかの椅子をすすめ、それで一段落した。その間わずか一、二分のことである。ささいなことであったが、この事件で皆の私を見る目が変わった。空手や柔道の真似事さえしたことはないが、皆の中に、私の存在感が出てきたような気がした。
ムッシュ・ガリッグもあとで私に言った「おまえさんを守るため何かしようと思ったが、それ以上にうまくやったよ。あれで良いのだ」その後も毎朝の挨拶は皆と同じように握手をし、そのベルギー人とも毎日握手を行った。その度に私は笑顔で手を差し出し、彼の目をじっと見る。彼は私から目をそらしながらも一応握手を返す。ただ心地よかった。私も若かった。
数週間後、帰国したが、その日までこれは続いた。その度に彼は言い様のないうしろめたさを感じているように見えた。
ひょろりとしたトーゴ人エンジニアがやってきたのもその頃だった。同じアフリカ人ということで、ヤイとはすぐ親しくなって私たちのアパートに入り浸るようになった。彼はいつも不平不満を言っていた。自分は名誉アメリカ市民の称号をもらっている。尊敬されるべき人でありここにいるべきではなく、フランスに残してきた仕事があるとか、とにかく何が不満なのか、そしてそんなに不満だったらなぜここに来たのかよく分からない。
「帰ったら?」と言いたくなる。彼は、交渉を有利に持っていくため自分の価値を上げようと見せているが、ここに来る前に契約は済ませ、サインしているのに、そんなことをしても何の得にもならない。社会を知らず、学業成績のみが人生の価値で、それを鼻にかけている感じである。しかしこの仕事には、最先端の知識やエリートは必要ない。ムッシュ・ガリッグも、あいつは気違いだ、相手にするなといっていた。
ヤイもだんだんいやになって話すのが億劫になってきたのか、彼の相手より友達のところに遊びに行くようになり、その頃になると二回に一回は私もついていった。
ある日、昼食時に彼が契約担当者と話しているのを見た。相変わらず不満たらたらで、自分はほかでやるべき大事なことがある、といつもの調子である。担当者はそれに答え
「ここでの契約と仕事以上に大事な何があると言うんだね。まあゆっくり考えてみたまえ」といって結局相手にしなかった。それから何週間も経たないうちに、フランスに帰国したように思う。ある日突然いなくなり、訊ねると、帰されたか帰ったか良く分からない。そのころは他人を気にしていられないほど、入れ替わり立ち替わり講師が来ては去った。
その頃やってきた中に典型的なフランス人と言える電気技師、ムッシュ・ニオがいた。年の頃は四十前後で頭の真ん中が禿げ、話し方は普通だが、外国人を極端に警戒し、自分と同じフランス人しか相手にしない。
たぶんフランスから出て外国で働くのはこれが初めてだろう。まして日本人やアルジェリア人と仕事をするのも経験がない、というよりそうした環境には全くなかった。ましてや一般のフランス人は毛嫌いするアルジェリアくんだりまでやってきて「何という悲劇だ」位にしか思っていないと推察された。
結局彼が最後までこの職場に残るが、その頃彼はとにかく、海外勤務は初めてで、外国人には疑心暗鬼の固まりで接していたといってよかった。
ある日彼は隣の誰かと話をしていて、鉛筆を落とした。「落ちたよ」という私の言葉に、彼は一瞬聞いてないふりをした。そしていかにも俺はあんたの言うことなんか聞いていないよ、といったしぐさで、しかしゆっくり下を見た。そこに鉛筆を見つけ、やおら拾い上げると、ありがとうも言わず、また話を続けた。
その後彼は少しずつ性格が開放的になっていく。彼ほど最初と最後でその性格が劇的に変化した人はいなかった。
日本人の場合、言葉の問題もあって、彼らアルジェリア人とは付き合ったりしないし、ましてや彼らに影響されることはないが、フランス人の場合、初めはどうして自分がこんなところに来たんだろうといった一種の嘆きに近い気持ちを抱く者が多い。着いたその日から、フランスの自慢、アルジェリアの悪い点や、彼らの悪口が始まる。次にあれがない、これがないと不平不満の連続である。逆にフランスになく、ここにあるものは恩恵とは考えていない。
それがひと月もすると慣れ、少し落ち着き、三ヶ月目くらいには生活に慣れ、まんざらでもないと思い始める。相変わらず愚痴はでるが、そう悪くなさそうな雰囲気が伝わる。
半年や一年も過ぎ、そろそろ帰国の頃になると、逆にまだいたくなる。特に女性にその傾向が見られた。
ある人に聞くと、帰国の時、激しく泣いたフランス人女性もいたらしい。隣近所とうまく付き合っていた人であれば、別れの寂しさ悲しさは良く分かる。それにアルジェリア自体当時は住み易かった。その点日本人は違う。日本人は規則と管理に縛られ、仕事に追われ、生活を楽しむ余裕などない。それに肝心の言葉ができない。
新任講師がまだぽつりぽつりとやってくる頃モーリスとテレーズ夫妻もやってきた。赤ら顔で、いかにもチーズとワインが好きそうな、ブルゴーニュ地方の居酒屋から出てきたような、でっぷりとした夫のフランス人、モーリスと、大柄で愛嬌のある、妻のザイール人がテレーズといった。
ムッシュ・ガリッグの居間で談笑しているときに、私と、そのとき既に私と同居していた同僚のギニア人、ヤイは、初めてその夫婦と顔を合わせた。夫のモーリスはよく喋る。退屈な話を、さも一大事のように喋るが、大半が自慢話であった。
テレーズはアフリカ人特有のアクセントで、歌うようにべらべらと、とどまるところがない。肌はかなり黒光りがして、顔の中で眼がくるくる動く度、白目の部分がきわだって表情が豊かである。体格も良く、三十前後の女盛りといったところか。同じアフリカ人ということで、ヤイとテレーズの二人は、すぐ打ち解けて話し始め、我々もそれに加わった。ヤイとは数週間前から共同生活をしていたが、そのときのいきさつから、我々の家で、数日間一緒に食事をすることになった。
彼等夫婦はホテルの食事に飽き、又いつもレストランでは食費が高くつくからであったが、その頃、皆の課題として、本国並の住宅を探し、キャンプを出て市中に住むことであった。我々が今住んでいる家も、大家の干渉や、室内の快適さ、住宅設備の不備など、いろんな面で不満があった。
彼らもはじめホテル住まいだったが、間もなく職場から十キロメートル程離れたアルズーの住宅街に移り住んだ。それまでの間、食事を共にしたものだ。あるときお返しに、ザイールの料理、フーフーをご馳走したいと彼等が言いだし、その料理名から、熱々の料理を想像した。ふーふーと熱い煮込みを冷ましながら食べる光景が目に浮かび、まだ見ぬ料理に期待して、買い物に付き合った。
しかし肉屋では肉には目もくれず、店先に吊るされた何とも形容しがたい臓物をひと抱え買い込んだとき、いやな予感がした。「これはいかん‥、俺の食えそうな料理ではない、せめて自分のために何か用意しなくては」しかし口実が見あたらない。
その日のフーフーはほとんど喉を通らず、サラダとデザートで飢えをしのいだ。
そのとき食卓を囲んでいたのが、ガリッグ夫妻、モーリス・テレーズ夫妻、そしてヤイがどこで知り合ったのか、アルジェリア人で、黒い肌の美容師ファティマ、スペイン語の通訳ジェミラと名乗る女の子達であった。
二人の女の子とガリッグ夫妻は初対面で、素性の知れない女の子達を相手に何を話したものかともじもじしていたが、私が彼女たちを紹介したとたん、ムッシュ・ガリッグはスペイン語でべらべら話し始めた。美容師の女の子とガリッグ婦人とも話が弾む。彼女らはフーフーを美味しそうに食べる。
私が驚くのは、ガリッグ夫妻も旨そうに食べていることである。いったいどんな食文化の連中だろうと不思議な思いで改めて皆を見回した。その香り、むしろその臭さ、味ときたら、とてもモツ煮込みどころではない。異様な臭いが漂い、とても食べ物の匂いとはいいがたい。私の舌と喉が受けつけないのは明らかだった。
そんなことはあったものの、モーリス、テレーズが引っ越してからは、昼飯によく彼らの家に行った。テレーズは少し下品ではあるが、親切で愛嬌があり、夫と同様、よく冗談を言い合った。
いつぞや彼女の従兄弟というザイール人の若い男が、ベルギーから訪ねてきた。一週間程滞在したと思う。バカンスを利用し遊びに来たという。そのとき初めてザイールは、昔、ベルギーの植民地だった事を知った。彼は土産をたくさん持参し、特別な料理だからぜひ食べてくれとすすめる。フーフーの思い出から、少しいやな予感がしたが、案の定、でてきた料理に驚いた。
「ゆ、ゆ、指がはいっているではないか!それも何本も煮込んである!これはいったい何だ」と訊くと、チンパンジーの指で、とびきりのご馳走だと言う。私はそれで食欲もなくなり、その日、昼飯は抜いた。翌日の昼飯は、また別の料理を作ったという。見ると皿の中では、シチューのように、無数の毛虫が煮込まれている!
おまけにその匂いと言ったらもう形容のしようがない。吐き気をこらえ、ようやくオムレツを作ってもらい、それが昼飯となった。そうした材料は、彼がわざわざベルギーの、行きつけの店でしこたま仕入れてきたらしいが、唖然としてしまった。しかし冷静になって考えると、たまに日本人が、梅干、たくあん、海苔を持ってきたようなものである。彼らの材料が私にとって少々ショッキングなだけだと思い直した。
同居者・ギニア人講師ヤイ
ここまで何度か登場してきた同僚のヤイについて話をする。出身地はギニアであるが、フランスのパスポートを持ち、南仏のマルセイユに住む。機械工学のエンジニアで、ここでは数学、物理を教えていた。マルセイユに家族を置いて単身赴任をしているが、いずれ呼び寄せるらしい。ただ彼の行動からは、単身赴任を十二分楽しんでいて、かえって家族がいない方が、彼自身満足しているように思える。彼はフランスにいるときから夜な夜な出歩き、狩りでもするかのように女の子を引っかけて回るのが日課だったようだ。
それを知ったのは、断食月の休暇中であった。私が彼の家族を訪ね、ヤイに誘われ外出し、夜の町から帰った時、セネガル人の奥さんが私に話してくれた。「今夜は楽しかった?でもちょっとふられたみたいね。毎晩いつもああやって出歩くんだから困った主人だわ」とはいっても、それは彼の生活習慣といった様子で、特に浮気がどうのと問題にしている風はない。彼はイスラム教徒だから四人まで妻を持てるらしい。とはいってもその気はなく、いっこうに信者らしくない。
だいいち彼がお祈りする姿を見たことはないし、豚肉、ハム類を食わないと聞いたこともない。酒は好きでよく飲む。同じイスラム教徒でも、国や民族が違えば、適用にかなり差がある。
アルジェリアに話を戻す。いきさつは思い出せないが、ヤイが私と一緒に住もうと提案し、何のためらいもなく私は同意した。私自身、好奇心が人一番強い。それまで外国人と一緒に住んだことはなく、ましてアフリカの黒人と、同じアパートに住む機会は滅多にない。ただそんなことを考える余裕もないほど、その頃は無我夢中と好奇心の日々で、あらゆる機会は未知への扉に思えた。
職場から車で二十分ほどのハッシ‥と呼ぶ小さな町だった。ハッシ・メサッドやハッシ・ロンメルという地名がアルジェリアにはいくつもあるが、ハッシというのは井戸のことらしい。中庭を囲むように家々が建ち、離れの二軒分が貸家として空いていた。
はじめ同僚のフランス人とベルギー人が住み始めたが、我々がもう一軒に入居すると、彼らはすぐ元の宿舎に戻っていった。同僚が私生活でもすぐ近くにいることが、わずらわしかったようだが、それにはこちらは全くかまわず、いちいち気にもしていられない。とはいっても、さして快適とは言えず、シャワーを使う度に排水口が詰まり、湯はしばしば途中で水になった。
広すぎるほどの居間は良かったが、台所も便所も清潔ではなく、そのうち引越したいと考えていた。ただ入居したての頃は、宿舎の入口に監視のいる生活から逃れほっとしたものだ。引越して間もなく、皆を呼びパーティーを開いた。男二人の住まいだが、いろんな料理を作り、二十人ほどの宴は盛り上がった。
それから幾日も経たずして、前述の黒人美容師ファティマ、スペイン語通訳ジェミラたちが出入りすることとなる。天才的というか、もって生まれた性分か、あるいは黒人同士通じるものがあるのか、はたまた黒人を神秘的に感じるのか、ヤイは女の子達とすぐ仲良くなる。ずっと後になってアフリカ諸国を回って、ようやくわかったが、仲良くなるのは簡単で、挨拶はいつでもだれとでも、町ですれ違いざま、あるいはエレベーターで、喫茶店でといった調子である。
だからそんな中の何人かを連れてきたにすぎないが、当時不思議に思った。女の子にとって外国人は金回りが良く、貴重な外貨を持つ特権階級である。しかも三十前後の単身者とくればもてないはずはない。
外貨とは、ドルやフラン、マルクのように西側諸国の通貨であり、アルジェリアの通貨は持ち出し禁止の上、ドルやフランとの交換に制限があって、休暇でヨーロッパに行くにはまさに喉から手が出るほどに欲しい。だから彼らがフランスで買い物をするなら、外貨を得るのは大変である。
さて、ジェミラはお洒落な娘で、たいして美人ではない。スタイルは良い。乳房はやや小振りであるが腰のくびれはこちらの気をそそるものがある。肌の色は日本人より少し濃い。髪は生まれつき茶色がかっているが栗毛というほど優雅ではない。三日に一度は夜中、ヤイに連れられ、我々三人は、ゲームやお喋りで夜を過ごし彼女は泊まっていった。寝るのはもちろんヤイと一緒である。それはすぐに大家に知れ、女を連れ込むなという苦情が来る。
ヨーロッパ、特にフランスの感覚では、大きなお世話であり、大家であっても他人のプライバシーに口を出すのは我慢ならない。しかも仕事が終わり夕食を済まして夜八時頃に帰ると、大家の妻である老女が、いつも我々を戸の隙間から覗き、まさに監視の有り様だった。彼らアルジェリア人にとって、異教徒の外国人に同胞の女は渡せないという気持ちがあるらしい。
この国の女性と結婚するには、我々が回教に改宗する必要がある。大家が言うには、外国人の女なら好きにしろ、だがアルジェリア女は駄目だ。隣近所の目があるという。今思えばヤイもかなり大胆だが、当時私もむしろフランスの影響で、ヤイと共に憤慨し、早々に引っ越すことにした。そこに至るまでには、いろんな事があった。
たとえばこの家族には、二十歳前の娘が二人いる。彼女らは職がないので、我々の世話をしてあげるという話が持ち上がったが、毎日世話をしてもらうほどではないので、週一回の掃除、洗濯、家事をやってもらうという提案をした。しかし承諾してはもらえなかった。それでは賃金が少なすぎるというのが理由のようだ。
お世辞にも可愛いとはいいがたく、歯並びの悪さが目立ち、そばにいても不快である。姉妹とも似たり寄ったりである。後々ヤイが言うには、結構彼には興味があり、キスまでは許してくれたそうだ。姉の方と、週に一回、部屋掃除で、手当は半額という条件で交渉をしていると、母親がすごい勢いで駆け込み、我々の話を遮って、砂糖を分けてくれと言う。わざわざ砂糖壷を空にし、見え透いた口実と、ちぐはぐな慌てようの母親を見て、我々二人は顔を見合わせ驚いた。
娘が男達と話をしていること自体が不安でたまらないようだ。ここまで猜疑心が強いとは、話にならず、関わるまいと、彼と私は目配せし、母親は娘を連れだした。肝心の砂糖はもらわず出ていったが、その後彼女達と会う機会はほとんどなかった。ある朝出勤のため車に乗ろうとすると、珍しく姉のほうが中庭で声をかけてきた。今日はどうしたことかと思ったら、昨日入荷したゴーダチーズを分けてあげると寄ってくる。
この国では外国の食料がたまに市中に出る。そんな時代だった。そうしたとき、日頃閑散としているスーパーは賑わい、皆は買いだめをする。くれるものと思い、有り難うといったら五十ディナールだという。しかも値段の部分をわざとはがしてあるが、昨日アルズーのスーパーマーケットでそれが二十五ディナールだったのを知っている私は「そう、それは美味しそうだねー、みんなで食べたら?」といって取りあわなかった。
彼との共同生活について、少し話を戻す。生活を共にして、彼の生き方、生活習慣がことごとく違うのに驚き、疲れたが、そのとき自分が日本人であることを痛感した。私の生活習慣、常識は外国生活が長くフランスの影響をいくらか受けたとしても、日本人のそれであって、彼とはかけ離れていた。
それは当たり前だが、かれもそれ以上に感じているらしくそのギャップは二倍といってもよかった。私の問題は、一言でいえば、自分の生活習慣が正しく、彼が間違っていて、それを直したいと思うことであった。それは自分のやりかたや常識を他人に押しつける、日本人全般の行動の典型に他ならないことを感じた。
やることなすこと、ことごとく私と違う。それもみな、私にすれば常識外れの非効率そのものであった。結果が知れているから、そんな風にしては駄目だ、順番が違う、やり方がまずい、ああもう見てられないと、あれこれ口を挟む。はじめの一週間は、いちいち文句を言っていた。そのうち疲れてきた。彼も疲れてくるし、いらいらする。しかしそれを言っても彼の生活は何も変わらず、状況は好転しない。日本人に味噌醤油と畳、風呂のない生活をしろ、あぐらはかくな、鼻をほじるな、云々というようなもので、無理である。結論として、相手の生活習慣を尊重し、というよりむしろ、我関せず、好きなようにさせるところに行き着いた。私があれこれ言っても、そうした生活を何十年もして、これからも続けていくだろう。今更何を言おうと彼の習慣は、何も変わらないに違いない。
そう思うと気が楽になった。別に自分の兄弟、わが子ではない。それまで同居して、一緒に食事を作り、食べていたことも、その必然性は何もないことに気づいた。彼の食事は一風変わっている。鍋で御飯を炊くが、米と水の量、火の強弱はいい加減で、必ず焦げて三分の一は食べられない。食べられるうちの半分程、二人で食べたら満腹し、残り半分はいつも捨ててしまう。
料理としては、毎回必ず鶏である。トマトソースで煮込む。一、二回は美味しいと思ってたべるが、毎日そればかりで、三日でいやになった。ある日ヤイに言う。「ヤイ、オレはもういい。鶏も美味しいし、おまえさんの料理は素晴らしい。とにかくおまえさんの好きなようにしてくれ。ただしオレはオレの好きなものを料理して食う」彼は、にやっとして「そうかそうか、オレの料理もまんざらでもないか」と、分かったのかどうか、不可解な返事をしたが、気まずくなることはなかった。
それからは平穏な日々が戻ってきた。とはいっても、彼と仲違いしたわけでも、口もきかずに暮らしたわけでもない。相変わらずよく一緒に出かけたし、ジェミラも頻繁に来た。
ある夜ジェミラを部屋に残したままヤイは意味ありげに出かけていった。彼女を一人置いておくわけにもいかないので彼女の相手をしたひとしきり楽しく話をしていたらやがてラジオから音楽が鳴り出した。私は気の赴くままに彼女を誘ってダンスをした。曲は体を密着して踊るのに丁度良い曲だった。そして私たちはそうした。曲も終わり近くになると気分はいくらか高揚し、勃起したのが分かった。私たちはソファに寝ころんで行為に及んだ。私にとっては久々のことであった。彼女は私とのことを悪びれもせず、ヤイに黙ってくれと言うこともなく言ったのは「とっても良かった。私好きよ」それを聞いて嬉しかった。
さて出かけたヤイはというと、それからほどなくして帰ってきた。ジェミラのいない関先で私を見て。腰と手を思わせぶりに振りながら『うまくやったか』という仕草をしたので、私も親指を立てて頷いた。
このことをまさかジェミラとヤイが仕組んでいたとは思わないが私にとっては久々のご馳走だった。
ある日の木曜日も休みを利用してジェミラはやってきた。翌日も休みと言うこともあってヤイと私とジェミラはその夜大いに盛り上がった。不思議な女である。自分ではスペイン語の通訳といっているがそんな職業で食っていけるのだろうか。またこんなしばしば夜遊びをして親は何も言わないのだろうか。謎だらけであるが深く詮索することはやめた。次の朝ヤイはまたジェミラを置いてどこかに出かけていった。そうなると不思議なことでジェミラは私にすり寄ってくる。今度は私の寝室に呼んで行為に及んだ。思った以上に豊かな胸が私をそそる。前の時には穿いていたジーンズを脱がせただけだったので乳房までは確認していない。そして彼女は確実に陶酔を一度は味わった。
その後もヤイは夜になるとたいていどこかに出かけるか、誰かが来る。三度に一度は私も同行した。行先には必ず年頃の娘がいたり、離婚したバツイチの女がいたりで、色々話をし、アルジェリアの別の面を見ることが出来た。そうしたことで、ここの生活は、以前の印象とはかなり違ってきた。
『ん』で名が始まる同僚
しりとり遊びで単語の後に『ん』が来ると負けるように、『ん』で始まる言葉は日本語にほとんどない。いや、方言にはいくつかある。『んだ』と言えば『そうです』、『はい』の意味だというのは東北では常識である。
だが驚いたのはアルジェリアの現地採用講師で、コンゴ人かザイール人と思われる人間だが、彼の名はンガンドウと言った。例によってヤイがどこかで見つけたうちの一人で、その頃ちょうど数学の講師が不足していたことからムッシュ・ガリッグに引き合わせたところ、採用となって数カ月間働くこととなった。彼と付き合ってみるとやはり典型的アフリカの人間だなと思う。
ここでいうアフリカ人とは普通我々がイメージする黒人で、西アフリカや中央アフリカの人々を指している。黒光りする肌で、笑っているのか怒ってるのかはじめはよく分からないが、我々以上に表情豊かである。明るくてものごとにこだわらないのは良いが、おおむね時間や約束にルーズである。モーリス、テレーズの家に昼食を食べに行っていた頃、仲間四人、同じ車に乗り合わせて昼休みは往復していたが、彼はいつも遅れてくる。それが少しずつ長くなるので、ある日たまりかねた私は彼に言った。「もう少し早く来てくれないかな、俺達みんな午後の授業に遅れるんだ」
彼はそれに対して猛烈な口調で反論した。「俺は何も待ってくれとは頼んでないぞ!」
「・・・」何を言っているのかわからない。ただ唖然とするばかりである。
「俺は誰にも待ってなんて頼んでない!」
ひとり興奮して勝手に怒鳴り散らしている。一同呆気にとられ、返す言葉もなかった。その後ほとんど誰とも付き合わず、私とも言葉を交わすことはなかったので物事にこだわらない根っからの脳天気でもなかったようだ。ただはじめの頃はヤイと私と彼、それに彼らの友達がよく集まってはお喋りをしたものだった。
ちなみに『ん』で始まる名前は彼の国では珍しくない。
アルジェリア人医師
ムッシュ・ガリッグが一度病気になって寝込んだときがある。どんな病気か忘れたが、そのときヤイの友人ということで、アルジェリア人医師が診察に来た。ヤイからいわせれば単にそこらで知り合った人々の仲間か友達か、いずれにしろそんなところで、特に深い付き合いではない。一応診察らしきことをして、薬を置いていったかまでは知らない。
病気はその後良くなったが、何度か出入りするうちに、どうも本当の医者ではないらしいことをヤイが聞きつけ、それから疑いだした。しまいに医師の免状を見せてくれということになって、ヤイとムッシュ・ガリッグは免状を見たようだが、それはコピーで、しかも名前の部分は切り貼りがされていたという事だ。そして分かったのは。実は看護士の資格もない介護人としてどこかの病院で働いている様であった。ただ彼が診察し、話をしているときは、いかにも医師のように振る舞っていたが、真相が分かるととたんにうさん臭くみえ、誰も相手にしなくなり、いつしか消えていった。当時アルジェリアにいる外国人のほとんどが石油や天然ガスと関係し、石油では儲かることも知っていて、金回りのいい外国人は、いつも何らかの形で狙われる。
ところがもう一方では、外国人はお客様という考え方があり、これは日本と少し似ている。他所の国から来た人々はお客さん扱いで、とても親切である。私はアルジェリア国内の旅行も何度したか知れないが、旅行先でのアルジェリア人は、仕事上付き合うアルジェリア人とまったく別の面を持っていた。しかし、向こうから町中で親しげに声をかけてくる者にろくな連中はいない。いつぞやヤイとオランの街に行ったとき、街角で親切そうに声を掛けてくる歳の頃は五十前後の紳士がいた。
何事かと思ったら、この付近で車が故障したという。大事な約束があり。急ぐので、タクシー代を少し都合してくれないかという。ヤイに話すときにはあたかも私の知り合いのような調子で話し、私に話すときにはヤイの知り合いのような口調で話す。二人で顔を見合わせ目配せをした後、彼を無視して早々に立ち去ったものだ。
アミエルと家族
一見ご用聞きか、ここトレーニングセンターという学校の用務員としか思えない男がいた。髪はぼさぼさ、シャツはよれよれ、靴は踵を踏みつぶし、喋る言葉は下品で野卑、俗語の宝庫である。それがアミエルという、機械工学の博士であった。初めてムッシュ・ガリッグのマンションを訪ねたとき、私の前任者ムッシュ・カトーはじめ、四、五人が集まって雑談をしていた。私もソファに腰掛け、出されたコーヒーを飲む。その中に混じって椅子にも座らず、ムッシュ・ガリッグのそばで床に立て膝をつき、あたかも言いつけられる用事を待ってそこに控えている側用人といった格好である。しかも話の内容からしても皆の用事を一手に引き受け雑用をかって出ている態度からいよいよ雑用係だと思った。
フランスでは、その人がどの社会階層に属するかは顔、格好で明瞭に分かる。その基準でいくと彼がエンジニアだの、機械工学だのからは最も遠い存在で、良くて旋盤工としか思えなかった。ただ学歴とは裏腹に会話の内容は下層労働者のレベル以下である。それ以上に皆を疲れさせたのは、彼のもって回った言い方であった。
授業の後の自習時間を終えた第一声は、決まって「おいおいみんな知ってるか。トップシークレットだぞ!」人差し指を立て注意を引く。また始まったかと皆は冷ややかな目で彼を見る。
「これは俺もさっき知ったばかりのホットなネタだ、そう簡単には教えられないんだなー」
と続く。毎度のことなので下手に相手をすれば増長することが目に見えていて、誰も感心を示さない。なおも無視していると
「ま、本当は言えないんだけど、ほんのちょっとバラすとな・・・」といいながら、まことに思わせぶりな話し方が延々と続く。結局全部話して、たいしたことではないのが分かる。それに付き合った者は聞き疲れ、大きな溜息をもらすのであった。
その話し方はフランスの下層労働者そのもので、ぼさぼさの髪には白髪が混じり、その風貌が彼を一層貧相に見せていた。彼もアルズーに移り住み、アルゼンチン人のかわいい奥さんとわずか五才くらいの娘をフランスから呼び、三人で暮らすことになった。
彼は夫人の母国語であるスペイン語をよく喋る。職員室でもムッシュ・ガリッグと、スペイン語でよく話していた。悪い印象ばかり並べたが、むしろ世話好きで、サービス精神にあふれた男だった。しかし彼もモーリスに劣らずよく喋る。最初ガリッグ夫妻の世話になっていたのが、あまりにお喋りなので、彼の奥さんが閉口したらしい。
彼の話し方は回りくどく、もったいぶって話すため、聞く者はいらいらし、疲れてくる。娘はまだ四、五歳で、とても可愛かったが、父親が低俗な言葉ばかり使うので、その影響が多分にあった。フランス人講師のなかでは印象に残った一人だったが、結局この仕事を終えてフランスに戻り、約半年ほどぶらぶらしてまたアルジェリアの仕事を見つけることになる。一度南仏の彼の家に遊びに行ったことがある。海外勤務で貯めたお金で買ったようだが、こじんまりとした、いい家だったことを憶えている。彼のおかげでたくさんの俗語を知ることになった。
ジャン・ジャックとヤエル
フランス人のなかにあって唯一、アラブ人に似た顔立ちで、しかも悪役にはぴったり、見るからに強持てのする口髭をはやし、丸縁眼鏡をかけた長身の男が彼であった。しばしばアルジェリア人と間違われ、何度もいやな目にあっている。
彼はフランス北東部、ロレーヌ地方の出身ということだった。フランスではモロッコ、アルジェリア、チュニジア人の移民が多く、フランス人には嫌われ、マグレブ半島に住む彼等をまとめてマグレビアン(マグレブ人)と呼んでいる。この呼び方は軽蔑的ではない。フランスにはその他スペイン、イタリア、ポルトガルから多くの移民を受け入れたが、彼らマグレブ人が特に嫌われている最大の理由は、フランスに溶け込まず、彼等独自の宗教、文化を持ち込むことにあるようだ。
宗教は特に、キリスト教と相容れない性格を持っている。ジャン・ジャックが私を採用し、契約金額の交渉をした担当者でもあった。アルジェリアで働いている我々講師の側、特にムッシュ・ガリッグやムッシュ・フォールからすれば、ろくな講師をよこさない採用担当者で、アルジェリアに来たなら自分が送り込んだ講師達を見てみろ、といわれかねない程、評判が悪かった。
赴任直後に帰される者、何日も経たず追い出される者、自分から去り行く者と、かなりの数であるが、私が見ていても少し多すぎると思う。銀縁の丸眼鏡と、口髭、いかにもこわそうな風貌であるが、話しだすと人の好い、頭の切れる紳士的なエンジニアであった。
彼とアルズーのホテルで食事をしたときに、スープ・パルモンティエールというのは、じゃがいもをヨーロッパにもたらした人の名を取って付け、その裏ごしをしたスープだと教えてくれた。彼がスープを飲む仕草をみていると、スープがとても美味しそうで、映画の一シーンを見ているようだった。その時彼の砂漠での経験を話してくれた。砂漠で数カ月の滞在は熱い中、強制的に毎日六リットルからの水を飲まないと脱水症状で死んでしまう。そんな厳しい自然条件の僻地で、トアレグと呼ばれる遊牧民がいて、ある時食事に招待された。
彼等のテントでは、クスクス(代表的なアラブ料理)も半分腐りかけたバターを使って、酸えた味のものが出される。それが彼らのご馳走で、その料理は、酸えたバターでないと本物の味が出ないらしい。それからもいろんな話を聞かせてくれた。
そのときだったか一度彼に尋ねたことがある。
「パリで契約交渉の時、ぼくは少し粘って金額がアップしたよね、でもあのときもうちょっと頑張れば、少しは上がったかな」
「うん、上がったね」と素直に打ち明けてくれた。
惜しいことをしたが、人生そんなものだろう。彼の妻はとても外向的で、親しみやすかった。ピアニストで、どこに行くにもピアノと一緒らしい。むろんここアルジェリアに一時住まう間、ピアノも当然運ばれてきた。どうしてエンジニアとピアニストが結婚したか知る由もないが、世の中そんなカップルはいくらでもいる。ただいろんな事情があったようだ。
ジャン・ジャックとヤエルの引っ越しでは誰も手を貸す者がいなかったので、気の毒に思い、手伝いをかってでた。彼の妻は、この国の非効率さと手際の悪さに、他の新入りフランス人同様、憤慨して当たり散らし、彼は仕方ないよとなだめる事を繰り返していたが、その後少しづつ慣れ、ひと月も経つと落ちつき、その後はプチパリ(小さなパリ)と呼ばれるオランの生活を、楽しんでいた。
彼らには四歳になるジャンという、可愛い男の子がいた。ある日ヤイと一緒に夕食に呼ばれたことがある。彼女の名はヤエルだったから、ヤイとヤエルで話も盛り上がり、楽しいひとときを過ごしたものだ。
その歳頃の子は、親との挨拶を頬と頬のキスでなく、唇と唇でやる場合が多い。それには驚かないが、黒人のヤイとも平気で挨拶のキスを唇にしたことが、母親のヤエルには自慢だった。パリに戻り一度遊びに行ったことがある。パリ中心の繁華街で便利な場所に、相変わらずピアノと一緒の暮らしであった。
アルズーのアルジェリア人一家
前に話したハッシ何とかいう村から五キロメートルと離れていない港町に、ヤイは家族を呼ぶため住まいを見つけた。ここはおおらかな、現代的感覚で、人の好い大家で、外国人に理解のある一家だった。主人と奥さん、息子と娘二人、それにいつも叔父、姪、甥、従兄弟にハト子がいて、その関係をいちいち訊くのさえ煩わしい大家族であった。
賃貸契約を交わした後すぐ引越すことになったが、ヤイの家族が到着するまで私も一緒に住むことにした。同僚から聞き伝わった話によると、われわれ二人はまるで『泥棒』のように、くだんの監視付き大家の離れから、深夜荷物をまとめ、静かに出ていった、と近くの住民が噂したほど、彼と私の動きはすばやかった。
引越は普通週末だが、可能と見ればもう待ってられない。荷物をまとめ、といってもスーツケースと台所用品くらいである。小さな会社の車に詰め込むと二人分の荷物で丁度一杯になった。そこを後にしたのが真夜中だった。
さて、新居の娘達は十三と十七歳くらいだろうか、頻繁に我々の家に来ては、炊事洗濯を献身的にやってくれる。
そこはフランス人と違い、他人の世話を焼く。外国人に対する興味からか、あるいはそうするものだという習慣からか、男二人の世話をするのは当たり前と思っている。ヤイもどうしたことか、今度は彼女らに手を出さない。娘達が若すぎるのか、それとも家族を呼ぶので、トラブルの種を播きたくないのかは定かでないが、妙におとなしい。
ジェミラやファティマも以前ほど来なくなった。いつも大勢の中で暮らせば、プライバシーなど無い。いつ来ていつ帰ったのかはっきりしないし、自分と他人の部屋の区別もつかない。というより、自分の部屋という概念がない。押入や引出しを勝手に開け、掃除をしたり整理するお節介が、親切と思っている日本人の娘も多いがそれと似ている。
二人の娘もそうかなと思ったが、出入りするのは台所と居間に限られていたから、一応けじめはついている。そのうち友達とか、親戚、親父が来ては去り、私たちも大家の母屋に入り浸った。
多くの子供たちが出入りして、どの子の親が誰なのかよくわからない。ただ彼らの考え方の中に、子供は社会の宝もしくは、国の宝という考え方があるのを聞いた気がする。だから自分の子も他人の子も一様に可愛がり、一様に叱る。日本も以前はそうであったように思う。
そこで気づくのは、アルジェリアの赤ん坊はあまり人見知りをしない。もちろん私の知る限りであって、それがアルジェリアの全てではないだろうが、私が会った乳幼児は一様に愛想が良く、抱いていても、おとなしく私の膝で長い間にこにこしている。しかも母親に戻りたいそぶりは全くない。
イスラムといえば閉鎖的で、女性は外出時ベールをまとい、男女交際に関してはタブーの世界と思われがちだが、いったん家の中にはいるととても開放的で親しみやすく、大胆でもある。愛想もいいし、特に外国人に対しては異常に興味を持っているように見える。
また不思議なのは猫である。普通日本の野良猫は、人を見るとまずじっと身構え、こちらの様子をうかがっては逃げる機会を見計らっている。このしぐさはいつも子供達にいじめられているからだが、いじめるのは何も子供とは限らない。日本の酔っぱらいが猫に石を投げるのは何度か見た。しかしここの猫はめったに逃げない。身構えることさえしない。手を差しだすとミャーといって近寄ってくる。それが一匹、二匹でなく、ほとんどの猫がそうだった気がする。国民性が違えば猫の性格まで違うのかと驚いた。
マックス・ガリッグ、私を変えた人
この物語にしばしば登場するムッシュ・ガリッグは活動的でよく喋る。今まで会ったどのフランス人とも違うタイプであった。世界を股に架けたエンジニアとして、石油と共に生きてきた人であろう。オランダのダッチシェルを手始めに、エッソ、トータル、エルフ、エクソンと、ある時はエンジニア、あるときはプロジェクトマネージャーとして活躍した。
前にも書いたように、フランスの管理職は最初から管理職になるべく教育され、それは徹底したもので、仕事に就いても即戦力としての能力を求められ、それに答える実力もあるという。さて、彼が初めてオランダに赴任した話を聞かされた。
もう四十年以上前のことであろう。ホテルに夫婦で滞在していると、警察がきて、その女は誰だと問い詰める。妻だと言ったら、それなら結婚証明書を見せろと言う。パスポートで十分なはずだが、今のオランダからは信じられない。なぜ警察が来たかといえば、ホテルから連絡が入ったようだ。ホテルも連絡の義務があったのだろうが、それほど厳しかったようだ。
さてここの仕事では、若い責任者ムッシュ・フォールを助け、実質的には彼が責任者に近いが、本人はいたって謙虚で、あくまで裏方に徹そうとしている。ただ後々彼から本音を聞いたときは、ムッシュ・フォールは当時、相当混乱していて、滅茶苦茶なカリキュラムや人員配置をやっていた。彼はそれをかなり助けていた。
私も一、二度その混乱の被害にあった。同じ授業を同じクラスに二度やるよう組まれていた。当然やることがなく、授業は自習とするが、そんなときに限って検査官が回ってくる。最後はムッシュ・ガリッグもムッシュ・フォールにあいそをつかした。滞在も終わりの頃、ムッシュ・フォールから仕事を頼まれたが、二人で口裏を合わせ、ムッシュ・ガリッグがその仕事をこなし、私は彼との共同作業であるポケットコンピューターのプログラムをしたことがあった。まじめに手伝いをするのも疲れていたようだ。
いつも我々講師が、彼らムッシュ・フォールとムッシュ・ガリッグのアパートの前を通ると、玄関の扉は開放されていて、いつでも入ってくれと言わんばかりであった。事実、良く声を掛けてくれ、一杯付き合った。
週末もよく働きフランス人にして驚くのは、単身赴任の講師を自分のアパートに引き取って食事の世話をしてくれた。私も世話になった一人である。初めアミエルと一緒に住んでいたし、そのうえムッシュ・フォールの食事の面倒も見ていた。
昼食はいつも四、五人で、彼の奥さんが支度をしていた。彼が言うには、海外では精神的な部分が仕事の良し悪しを左右する。いかに優秀な人間が集まっても、心がバラバラではプロジェクトは失敗してしまう。彼は昼夜をいとわず週末まで、ムッシュ・フォールとカリキュラムを組み、他の講師の面倒を見、授業のやり方を指導していたし、講師が足りないときは、全クラスの全科目を教えることができた。
ちなみにクラスは運転員、機械工、電気工、計装工、分析員などがあり、基礎的な科目では数学、幾何、物理、化学に始まって、専門科目では機械、製図、電気、化学工学それに加えてこの工場におけるプロセス(工程)や運転、各機器の仕組み、役割などがある。テキストにしても一冊四、五十頁のものが百冊ほどになるから赴任した時に段ボール一箱ほどの教科書が渡される。
初めの頃、私に授業の内容を解説するので、そんなことは分かっている、自分の専門を、しかも基本的なことを教えてもらう必要はないと丁寧に断ったら、彼も私を試していたらしく、それからはなにも言わなくなった。彼とは妙にうまがあった。
私をいつも招いてくれ、食事やお茶に、何度も通った。ある同僚が私に囁いた。
「彼は君に親切だが、それは君の人柄ではなく、日本人だからだよ」
「元請けは日本の大会社だし、日本の勢いはすごい。ここでなんとか食い込めればこの先も日本企業で食っていける」と同僚は言うが、それには少し無理がある。
ただそんな風に他の同僚が嫉妬するほど、私たちは親密になった。とまれ私はムッシュ・ガリッグから少なからずの影響を受けた。私が彼に影響を与えた部分もあるが、逆の方がずっと多い。彼のオールマイティな点について訊くとよくこう答えた。
「人間そうそういろんなことを知ってはいない。知らないことは、その専門家に教えてくれと言って話を聞くのさ。大抵相手は自慢げに話してくれる。そんなことを二、三人の自称専門家に聞くと、だいたい中身が分かり機会を捕らえやらせてもらう。電気にしろ機械にしろ、最初は誰でもやったことがないのは当たり前で、要はやる気の問題だ。そのうちあれができるこれができるとなれば引っ張りだこになる。なにもその道の名人になって一筋三十年の名匠になろうというんじゃないから、それでだいたいやっていけるし、やってきた」
彼は続ける。「いちばんいけないのはな、それはやったことがないからやれませんという奴だ。そんな否定的で消極的な奴はその姿勢からして、失敗するに決まっている。むしろそれはやったことがないけど面白そうだからやらしてくれ、ついでにちょっと教えてくれと言うんだ。これでしばしば新しい職業を身に着けることができる」
それは私が小さい頃から、「人間いくつになってもつぶしがきくよう、何にでも興味を持ちなさい」と母が良く言っていたのと妙に合っていた。彼はトゥールーズ生まれのトゥールーズ育ちで、南仏といっても西寄り、正確にはトゥールーズからスペイン国境側に三十キロほど行った、小さな村の大地主といったところか。その後彼の家には四度ほども遊びに行き、フランスの田舎の良さを知った。この地方の人たちはよく喋る。
確かに彼もよく喋る。しかも南仏のアクセントに近いアクセントで、少しなまっている。彼らに対する一般的フランス人の評価としては、たいそうよく喋るが、口ばかりだということだ。
事実彼もいろんな口約束をしたが守られたことはあまりない。そういった人をフランス人の間では、ガスコーニュ商人とか、ガスコーニュの約束といって軽蔑している。残念ながら彼もこの癖は抜けきれず、最後には皆、彼は夢を見ていると言って去ってしまった。
とはいってもそのときの実力者で、皆一目も二目もおいていたし、彼が我々講師を呼ぶときは『みんな子供たち!集まって』といった具合で、皆も彼を慕っていた。
週に一、二度は必ず仲間の誰かを夕食に招待していた。そこでは自家製の豚のレバーのパテが出され、豚製品が手に入りにくいイスラム圏の国では、これはなかなかのご馳走だった。奥さんがご馳走でもてなしてくれれば、彼は持ち前のスピーチで食卓を盛り上げた。それはとどまるところを知らず、たわいない会話から体験談、はては小話にいたるまで、深夜一時を過ぎるのは毎度のことであった。そういった体験談の中から、いくつか記憶に残ったものを書いてみた。
エピソードその一
「俺がいたジャングルの奥地ではな、コンビナートを作るときはもうすごい。まるで戦争でもおっぱじめるんじゃないかと思うくらいでな、まずはヘリコプターか飛行機で、空からナパーム弾を落とすのさ。そうすれば直径二百メートルくらいに渡って森は火事になり、もうもうと辺り一帯を焼き尽くすのさ。一週間も経って鎮火したところでな、鉄条網を張って囲いをし、それから必要資材をどんどん空輸する」
このときの彼は、あたかも彼自身がグリーンベレーか特殊部隊の隊長のような雰囲気で、話は盛り上がる。
「諸君、ここからがすごいんだなー。ある現場ではな、すぐ近くに凶暴な原住民がいて、その部族はなんと人間狩りをするという。しかも芸術的になんだな。鉄条網を張りめぐらした柵の外にじっと待ちかまえ、柵に近づく白人に、毒のついた吹き矢をあびせ一発でしとめる。その毒が強力なやつでな、ちくりと来たらまずころりと死んでしまうんだ。死体は処理に困って柵の外に放り出すだろう。すると待ってましたとばかりにその首を切り、彼ら伝統のやり方で処理して、リンゴ大に縮め、しかるべき市場に卸すのさ」話は続く、
「白人の首は特に高く売れるので、彼らの収入源となっているんだな。ただそれを知った会社の方では、その従業員の首がそうやって市場に出回るのは後々問題になるからということで、市場に捜しに行って買い戻したらしいがね」
話としては面白いが本当だろうかと思う。自社の従業員が殺されたとき、遺体は本国に送還すると思うが、腐乱その他の問題があっても柵の外にそのまま放り投げるはずはない。
次はこんな話もある。
その二魔術師
アフリカの少数民族の中には、いまだに酋長と魔術師がいて村を統治し、守っている。ある時白人の一隊が、村に立ち寄り、現地の娘に無礼を働いた。なあに少しからかっただけらしいがな。それがたまたま魔術師の逆鱗にふれて、おまえの右手は使えなくなると言ってその右手を軽く触ったんだ。本当にさわっただけなんだ。そうしたらな、その明くる日から右手が全く上がらなくなった。
彼は焦ったね。まがいもんの魔術師が、たわごとを唱えてさわったくらいでどうなるものかと多寡をくくっていたのが、どうにもならない。あちこちの医者や大学病院にも行ってみたらしい。ところがレントゲンを撮ろうが精密検査をしようが悪いところはない。薬を飲もうにも処方箋はないし、針治療をやったが一向に良くならない。
結論としては魔法をかけたその魔術師でないとそれは解けないらしいと言う結論に落ちつき、謝罪することになった。お詫びの品として、羊数頭に色々供物を持って謝ったところ許してもらい、治してくれたようだ。その治し方がな、魔法をかけたときと同じように軽くさわって何か言ったら、あら不思議あっと言う間に手が元のように動きだしたと言うのだ。
その三キュラソー
カリブ海に浮かぶ小さな島だが、ここの気候は非常に特殊で、暑いとか湿気があるとかいうだけでなく、人間の脳を一時的に撹乱させるだけの一種異様な環境がある。ここに派遣された人間は初めの一ヶ月は頭がボーとして意識朦朧、毎日が半分寝ているような生活でほとんど大したことをしないし、また会社としてもさせないことになっている。というのも、重要な仕事や、重要な判断が伴う業務は、どんなにその人間が優秀でもその気候に慣れないと、とても危なくてまかせられず、会社もそれに気づくまで、さんざん痛い目にあってきたらしい。
彼もそこに行くまではそんな馬鹿なことがあるかと信じなかった。ところが着任後、三日目には熱が出て、朦朧となり、夢と現実が交錯した期間がひと月も続いたらしい。その後ある日、霧が晴れたように目の前がすっきりして正常に戻ったという。キュラソーといえばその名のリキュールがあるように、カリブ海の情熱的な島とだけ思っていたが、幻想の島でもあるらしい。一度行ってみたい。
その四 コンビナートの泥棒
ある石油精製コンビナートで、ムッシュ・ガリッグが統括責任者であったが、その下に中国人の補佐をおいていた。補佐の仕事振りに関しては特に問題はなく、几帳面な男だったらしい。どの現場もそうであるが、工場建設、試運転は現場も大詰めで、毎日が戦場である。
人の動き、建設機械、資材の運搬など、朝から晩まで騒然としている。その現場の片隅に二十リットル入りのポリタンクがずらりと並ぶ高価な薬品があった。ある日ふと見ると、なんだかその位置が数メートルずれているような気がする。おかしいなと思ってその後注意してみていると、毎日ポリタンク一列分ずつ移動している。これはおかしいと思いよくよく監視していたら、その中国人補佐がポリタンクを、毎日一列づつ、最前列のものを最後列に持っていく。
その先に塀があって、そこからうまく外に出し、トラックでどこかに運び、売り飛ばそうという魂胆だったらしい。危ういところでムッシュ・ガリッグはそれを見つけた。その後どうしたかというと、彼を呼びつけ、ポリタンクがもとの位置まで一人で戻させ、即座に解雇した。
運ぶのに丸二日かかったらしい。
当然小話も面白い。人をくったような話や、隣国の人々をからかったものが多い。
「ある時フランスの有名な海賊が、とうとうイギリスの海軍に捕まったそうな」
イギリス海軍提督曰く『おまえさんがた海賊は、少しは恥ずかしいと思わないのか、金銀や宝石、女を得るためにのみ戦っているが、我々の戦いは名誉のためである』そこで海賊の頭領がすかさずこう反論した『んだけどムッシュ、人は皆自分にないものを求めて戦うべ。おらどもは金もねえし、女もいねえ、だけんど名誉はあり余ってるべさ』
話は英仏のことになったので私も口を挟む。「そういえば英仏海峡を渡るフェリーではフランス人は皆紅茶を飲むし、イギリス人は皆コーヒーを注文するって知ってるかい?」
そこにいたフランス人一同目を丸くして、そんな馬鹿な、という顔をしている。というのも、フランス人にとってのコーヒー、イギリス人にとっての紅茶は、我々の緑茶同様、国民的飲み物である。
「なぜかといえばね、そのフェリーの喫茶店ではコーヒーも紅茶もすごく不味かったからなんだ」
一同ニヤリとする。ムッシュ・ガリッグのことに話を戻す。彼の発案で、スイスに口座を持つと有利だという話は、滞在の初期の頃よく聞かされた。その頃フランス人が外国に預金口座を持つのは禁止されていて、例外的に、外国に赴任中の場合のみ許されていた。有利な点は、中長期的に価値が下がりつつあった仏フランの目減り防止である。今回の契約事務所の所在地であるスイスで口座を作り、給料振り込みと同時に、スイスフランになる。第二に、口座を持てばフランスの銀行と同じように個人に小切手が発行されるが、これは西側ヨーロッパではスイスフランに限らず、ポンドでもマルクでも預金を引き出せ、旅行にはとても便利であった。彼のもう一つの発案は、車をフランスで購入し、アルジェリアで使おうと言うことだった。
「我々フランス人を含め、ここで働いている者は皆フランスでは非居住者扱いだから車に限らずだが、免税で買える」という。しかも車は三割強の税率であったから、このメリットは大きい。当然会社としてもその分負担が少なくて済み、むしろ歓迎である。以前私がいた日本の会社で車を買ってアルジェリアに持っていったら犯罪者扱いされたがここでは全く違った。むしろ大歓迎されるのである。そしてガソリン代は全て会社持ちである。
当時パソコンと呼ばれるデスクトップコンピューターがはやりだすころ、我々出張者用にはポケットコンピューターがモテモテであった。ムッシュ・ガリッグは日本に行くことがあったらそれを買ってきてほしいと私に頼み、興味があった私も、自分用とあわせ二台買った。
買ったのは良いが、プログラムを組まないと電卓と同じである。数カ月放ったらかしにしていたが、時間の余裕ができてきた頃、付属の四色プロッターで簡単なグラフィックを描いて見せたところ、これで工場の図面いわゆるプロセスフローダイアグラムを描こうと言うことになった。
幅わずか六センチメートルのテープに赤青緑黒でポンプや炉、蒸留塔、反応塔などを描き、それらを張り合わせてひとつの行程図にしようという構想である。これとは別にポンプやコンプレッサー、タンク、タワーの設計計算をやらせようとアイデアは尽きない。彼がその下絵、計算式を書き、私がそれをプログラミングしていく。
それを彼の知り合いの石油会社、エンジニアリング会社に売り込もうと言うのだから、いささか滑稽である。片や数十億円のスーパーコンピューターを持つ大会社相手に、当時四万円ほどで買ったポケットコンピューターを引っ提げ、ある日彼はパリに乗り込んだ。もちろんその前に彼とは綿密な打ち合わせを行い、リハーサルまでやって準備万端整えていったものだ。
結果は、コンピューターが目の前で図面を描くどころかエラー表示ばかり出て話にならなかったそうだ。そんなはずはないと、彼のコンピューターをチェックしたら、なんと信じられない彼の操作上の初歩的ミスが見つかったのだ。ムッシュ・ガリッグは昔からの友達でもあるその会社社長と、自慢のポケットコンピューターを見せながら雑談し、たぶん自慢であろうが、ところでいったいどうやって動くんだと訊かれ、簡単な計算をやって見せた。
八〇足す六〇は、とキーを叩いたところ、計算モードとプログラムモードを間違え、計算ができなかったどころか、大事なプログラムの八〇行目に『+六〇』という意味のない文字が入ったため、数百行に及ぶ精密蒸留塔のグラフィックプログラムが、ほとんど最初の段階でエラーを起こして先に進まなかったという事である。私もがっかりと言うより唖然としてしまった。
その後は彼とプログラムを組む作業をする度に「えー!、マックス!今度はちゃんとスイッチが入れられるようになったじゃないか!」「・・・」「わーお!計算モードとプログラムモードの区別がつくようになったなー、すごいな!」とからかうことしきりであった。その後ここのプロジェクトが終わってからもこの作業は続いたが、結局商売にはならなかった。
マックスの愛犬サム
フランス人は犬好きである。どこにでも犬を連れていくし、日本とは比べものにならないほど犬の出入りは自由な場所が多い。レストランでも、見本市会場でもホテルにも市役所の中にも連れてはいる。子育てはとうに終えたガリッグ夫妻であるが、彼らの子どもともいえるような犬をいつもつれていた。図体はでかく、顔はブルドッグに似ているが雑種であろうか、とにかくちょっと見たところかなりどう猛な犬と思ってしまう。ところがこれが未だ子どもで、遊びたい盛りである。猫を見ると追いかけ回し、子どもを見ると遊んでほしくて前足から飛びかかっていく。大人でも飛びかかられると支えるのがやっとなのに知らない子どもにとってはもうライオンに飛びかかられたようなもので、遊びどころか、身の危険を感じる恐怖であろう。そんな恐怖に駆られ逃げまどう子を一度見たことがある。サムとしてはじゃれているのだが、その子にするとたまったものではない。しかも大きな口をあけ、ねばねばしたよだれをいっぱいに垂らしながら向かってくる有り様は獰猛で、それに慣れるまでは受けとめるのに相当の勇気がいる。私も彼の家に一週間ほどお世話になったとき、サムと散歩をした。暑い夏の夕方で、猫を追いかけ、私のジョギングにつきあったため帰ってきたときは息が荒くあたかも蒸気機関車である。「ハッハッハッハッハッッハッッハッハッッッハ」とまあ可哀想なくらいである。猫を追いかけ回した時は私も怒った。「こら!猫を追っては駄目だろが、メッ!」と叱ると顔をそむけ、知らん振りをしている。両耳をつかみ目をしっかり見てまた叱ると、今度は上目遣いにこちらを見て、明らかに彼は自分が叱られているのが分かるようで、そんなところが可愛かった。ある時ムッシュ・ガリッグと散歩に出かけ、また悪戯をしたらしい。帰ってきたらガリッグ氏は片手に小枝を持ち、床をピシッピシッと叩きながら盛んに怒っている。「このならず者が、懲らしめてくれる」サムは叱られた子どものように、大きな図体を可哀想なくらい小さく縮こめ、頭は前足で覆い、あたかも『お父さんご免なさい、もうしませーん。えーん、えーん』と泣いているかのようで、まるで漫画である。私もおかしさをこらえながらそれに加わる。「マックス、マックス、ちゃんとサムに謝ってお許しを乞うんだよ!」ガリッグ氏は困った笑い顔で私に答える。「おいおい、あのなあ、俺はマックスで、俺の犬のほうががサムだ」「ああ、そうだったね、ごめんごめん」一同爆笑そしてサムはその後もアルジェリア滞在のいい思い出を足してくれる存在ともなった。
日本人宿舎(塀の中の人々)
前の現場では、日本人が数百人の規模で滞在し、一つの日本人街で、それを管理するのも大変である。いや、それを管理しなければならないと思うから大変である。管理事務局のことをアドミと呼ぶ。アドミニストレーションの略である。
一棟二十から三十室がある長屋が数十棟並ぶ宿舎がある。同コンビナートでも日本人に限らず、協力会社として外国の企業と契約し、フィリピン人、イタリア人労働者をこの宿舎に住まわせている。彼等はそれぞれ別々のブロックに暮らしている。それら宿舎は廻りを鉄条網に囲まれ、中と外を隔てている。出入口には門番がいて、夜中でも監視員がいる。もちろん我々の出入りは自由だが、部外者、特にアルジェリア人の出入りは厳しくチェックされる。現地のアルジェリア人も現場で相当数雇っているが、仕事の効率、というよりはコストの点でフィリピン人、イタリア人がいいらしい。日本人の数分の一だ。
外国人労働者と我々はほとんど接触する事はなく、彼らの事情はよく知らない。また現地人を雇うと国内の雇用法で保護され、解雇や退職など、人事管理が面倒である。その点、外国人であれば、会社間の契約に基づき、仕事量に応じて、必要な人数を必要なとき送り込めるから便利である。
いずれにしろ、この規模の現場では、まず仕事第一で、個人の生活や休日の楽しみなどほとんど配慮されていない。飯場である。これはなにも会社のみの責任ではない。職場単位では何らかの懇親会や親睦会をおこなっているが、宿舎にいる労働者の所属や身分、職種、趣味など多様で、皆で一緒に何かやるとすれば、コンビナートの建設以外、共通点が見あたらない。その国に溶け込む必要も特に感じないし、駐在員ではないから営業に回ることもない。
言葉の壁が大きく、町から離れた宿舎では移動が難しく、交通手段が限られている。もちろん個人の車などなく、個人所有は許可されない。会社の車は数台しかなく、まして業務以外では使えない。そうした事情から現地の人たちや職場のアルジェリア人との交流は、ごく限られた通訳や、活動的な日本人だけだった。ただ別の利点もある。自分の時間がたっぷりある。仕事は朝八時から夕方五時。その後は寝るまで、全く自分の時間である。
テレビも家族との団欒もない。アルジェリア東部のスキクダでは一年間に本を二百冊読み、手紙を二百五十通書いたものだ。読書や勉強には最良であるが、飲み屋、歓楽街、映画鑑賞、その他、人との交流が必要な活動は無理である。職場の同僚と言っても所詮ここだけの関係である。不便なのは、友人、家族など話し相手がいないことだろう。いずれにせよ宿舎の生活は、制約が多く、その反動だろうか、三日以上の休みの時、私は必ず旅行に出た。この現場も似たようなものであろう。きっと昔一緒に仕事をした通訳で、知ってる顔がいるはずと思い、生活も落ちついたある休日に、ぶらりと訪ねてみた。
やはり何人かいた。話を聞いて、その滞在条件のきびしさに驚いた。帰国休暇は九ヶ月に一度、しかも休暇後、さらに滞在が半年以上の者だけがそれを取得できる。ということは、一年くらいは全く帰れない人もいて仮に一年以上いて、そこから滞在が少し延びても帰国は出来ないこともある。親や家族、友人、恋人と離れ、毎日仕事のみで暮らす。唯一の楽しみは、後何日で業務が完了し、帰国できるかである。一方食事の楽しみはあまりない。理由は、日本人用の食堂があり、味噌汁、ご飯が毎食出るとは言いながらも、問題はどこも同じく、滞在後二週間もすると、味付けに飽きてくる。社員食堂と同様である。しかし、ここでは他に行くところがなく選択の余地はない。メニューなど無く、カレーとか、ラーメンなどの麺類、丼物と分かれているわけではない。全員が同じ物を食べる。唯一の選択が、食べるか食べないかである。
以前スキクダにいたときの現場はもっとひどかった。ご飯にはコクゾウ虫という黒いごま粒大の虫がいて、それが一口に一匹程度の割合で黒ゴマのように混じっている。碗の中には、よって二、三十匹はいる。それらを箸でつまみ出しながら食べるのである。はじめいやなものだったが、慣れるとどうという事もない。ある日、よそで真白いご飯が出てきたときには感激したものだ。その御飯と共に出される野菜も清潔とは言えない。新鮮なのは良いが、カレーの人参やじゃがいもは皮が剥いてない。しかも米にはコクゾウ虫がいるから、はじめ虫をよく取りだした後にカレーをかけないと、虫まで食べてしまう。現場で日本人の食べる弁当を見たアルジェリア人が、「日本人は人参やじゃがいもの皮は剥かないのか」と訊いたことがある。
「もちろん普通は剥くが、ここのコックはそこまでやらない」と答えるしかない。朝の卵焼きが無味である。せめて塩か醤油か下味をつけて欲しいと言ったが、返ってきた答は、「人それぞれ好みがあり、塩だけの人もいれば、砂糖を入れたり醤油やマヨネーズやと、とても対応できない」だから何もしないと言うことだった。でもレストランでオムレツや卵焼きを注文すれば味がついている。何も入れないほどまずい卵焼きはない。結局手抜きの言い訳にしか聞こえなかった。
そんな日々が一年、二年と続く。それが永遠に続いたある日、待ちに待った業務完了日が来る。それまでのつらかった日々はあっという間に過ぎたような気がするのは不思議なものだ。さて日本に戻り、なにが待っているか。海外手当とボーナスが貯まり、今までの苦労が報われた気がする。おまけに日本では非居住者扱いであるから、所得税は免除されている。独身者であればまず車を買う。それも即現金で。妻帯者ならそれを頭金に家を買う。他人から見れば、一年か二年、海外に行ってたくらいで、とたんに羽振りがよくなり、色々買うのが癪にさわるらしい。日本で仕事をしていた者にとっては、その間仕事をしていたのは同じで、どうして待遇がこうも違うのかと思ってしまう。従業員組合の中でも不満が出てくる。
又、人事や総務といった海外赴任とはほとんど無縁の部署では不公平感が募り、挙げ句の果ては帰国時は他に寄らず、真っ直ぐ帰れといいだす。これは会社側が言うのでなく組合から言ってくる。アルジェリアから日本に帰るときは、必ずパリを経由する。誰もがせっかく立ち寄るパリをもう一日あるいは二、三日と思うし、人によっては隣のドイツ、イタリア、英国にもいってみたい。しかし、他の組合員の反発を考慮するとそうなってしまう。結局夢にまで見たパリは、二年間の現場滞在の後、一晩を過ごし、帰国の便に搭乗する。いずれここの生活を詳しく書きたいが、退屈な日々の連続で、その繰り返しを人に話すのも退屈だ。その苦労は滞在の長さとともに聞く人に理解されることはない。さて久しぶりに再会した昔の仲間は、楽しく過ごしていたので安心した。そして宿舎の生活が、いかに退屈かを知っていたので、私はときどきドライブに誘い、食事に招いた。
断食月・ラマダン迫る
当時ラマダンは初夏の頃だった。毎年十日ほどずれていく。というのもイスラム暦は三百六十日なかったと思うが、西洋暦や季節に調整してずれないようにすることはなく、ずれはひどくなる。だから夏のラマダン、春のラマダン、冬のラマダンと年を経るにしたがい、ラマダンの季節もずれていく。この断食月は我々から見ると、苦行のひと月で大変だと思う。冬は冬で大変らしいが、夏も厳しい。しかしそれは仕事の面から、我々が想像するだけで、彼らにとってはお祭りのひと月らしい。というのも、日没の合図と共に彼らの大宴会は延々と夜中から明け方まで続き、夜明け前に最後の食事をすると、その日は半分終わったようなもので、力仕事は朝十時頃になると目立ってのろくなり、たとえ授業中であっても午後は、半分以上の生徒が寝るし、全く授業にならない。ただしそれは前年、日本の会社でアルジェリア人生徒を教えていた別の現場でのことで、今年は事情が違っていた。
いきさつは良く分からないが、ラマダン月の間、われわれにはバカンスが与えられた。まだここに来て二ヶ月にもならないのにひと月間もの休暇をくれるのである。しかも有給である。日本ではまず考えられないが、ここではそれが起こる。不思議なのは、日本企業の下請け企業なのにである。それでも幾分気兼ねしてか、それとも最初から予定されていたのか、イギリスの研修センターで教育学のトレーニングを一週間行うということになった。いずれにしろその期間は、非生産的期間だからなにをやっても元請けの日本企業とは関係ない。
またラマダン明けのお祭りがすごい。町中が羊の臭いと、あちこちで羊を殺した血の跡が見られる。その頃には多くの食料品が店頭から姿を消す。バター、卵をはじめ、基礎食料品に肉、野菜と、おおかた羊料理の材料である。ラマダン中、多くのレストラン、食料品店が休みとなる。開店しても時間が限られる。羊の丸焼きを中心に、クスクスという硬質小麦の細かい粒に、羊や野菜を煮込んだスープをかけて食べる、こってりとした料理や、肉とピーマン、タマネギの串焼きでお馴染みのシシケバブ(シシカバブーともいう)、豆をつぶしたスープ「ハリラ」、もう一つ代表的なスープとして「ショルバ」がある。それらは、我々が招待されると決まって出てくる定番料理である。
ところであるとき、羊の丸焼きパーティーに招待されたことがある。日本人十人ほどと彼ら合わせて十二、三人いたと思うが、そこに出された羊は小柄で、むしろ痩せていたが、太った羊は脂が多すぎ日本人向きではないという。まだ生きている。家の前の野原で料理する。二人で引き倒し、喉を鋭利なナイフで切る。当然血がほとばしるが、下には洗面器が置かれ、その血を集め、料理に使うらしい。
不思議なことに、この場に至っても羊はおとなしい。引き倒され、喉を切られても、暴れる様子はない。三分も経った頃、羊の目がとろんとしてくるが、そのまま寝てしまいそうである。彼らは慣れたもので、用意の水を喉元にかけ、血に汚れた喉を洗う。さすがにそれがしみるのか、ばたばたと暴れるので、三人掛かりで押さえつける。それも一分と続かず、やがて静かに息を引き取った。
そこからが興味深い。前脚のくるぶしあたりに穴を開け、ストロー状の管を差し込み、一人は息を吹き込む。もう一人は、膨れた皮をぱんぱんとたたき、膨らみを全身にまんべんなく広げる。しまいに、羊全体が風船のようになり、腹の皮をたてに裂くとしぼんでしまう。これで毛皮と肉を剥がす為の準備をしているのであろう。首を切り落とし、腹の皮を縦に裂いて、そこから剥がしにかかる。
毛皮を引っ張りながら、拳で肉と皮の間をうまく剥がすように押し込みながら、手際よくやっていくが、これは重労働である。つるりと皮が向けたら、後ろ脚を揃えて縛り、近くの枝に掛ける。いよいよ腹を縦割りにし、手を突っ込んだかと思うと、腹膜に包まれた内蔵がベロンと外に出てくる。
その頃には、もう一人は深さ三十センチ、直径一メートルの穴を掘り、火を起こす。ここで丸焼きをするのだなと思っていると、そこから二メートルほど離れたところに石を積んでいる。一方では内蔵を取り出し、その場で料理して食べるレバー、もう一つは睾丸を切り出している。それにレースの布のような物を持っているが、これはよく見ると、羊の脂肪である。適当な広さに切って、レバーに巻き付け、バーベキューにする。
睾丸は四つ切りで焼く。柔らかくて香ばしく、どちらも日本人の味覚に合うと思う。味付けは塩のみで、これがいける。さて丸焼きは、三メートルほどの丸太に、前脚、後ろ脚を伸ばしてくくりつけ、先程用意した火のそばに置くのかと思ったが、二メートルほど離し、積み上げた石に丸太の両端を、地上三十センチほど浮かして置く。火からはかなり遠いが、それほど離さないと表面だけが焦げ、中は生煮えとなるらしい。
五分毎に少しずつ回転し、一時間も経った頃には表面がキツネ色になる。その頃になると、香ばしい丸焼きの匂いが漂ってくる。その場でテーブルをこさえ、こんがり焼けた羊を丸太から外し、テーブルの上にスフィンクスの像よろしく据え、回りを皆で囲んだ。表面が茶色に焦げ、かりかりとした部分がとても旨い。結局皆で半分も食べきれなかった。
美味ではあったが、アラブ料理は羊の丸焼きに限らず、日本人にとっては少々脂っ濃い。クスクスにしろスープにしろ、こってりとして、一度味わえば、ひと月は腹の隅に残っている。
着任してまだ二ヶ月にもならないのにひと月間の休暇が与えられた。つい数日前に赴任したばかりの講師数人を残し、皆はオランを発った。講師研修のためのイギリスに行くまで、数日の余裕があったので、ムッシュ・アミエルと一緒に、まずトゥールーズに飛んだ。機内でノートに、このフライトが今まで通算百回目近くになることや、使った航空会社も十数社になることをメモした。しかしそれも百五十回目くらいで馬鹿馬鹿しくなって、やめた。食事の回数と献立を記録する者はいない。それと同じで無意味な気がした。搭乗券をとっておくのも随分前にやめた。
ただし、そのフライトが終わり、預けた荷物を受け取るまではちゃんと持っている。荷物が来なかったときやスーツケースが破損したときにはこれが役に立つ。その後の旅行では実際二度スーツケースが破損し賠償してもらったことがある。
フランスのポーに着いたら車を買うことにした。あのときは皆、新車を買うことがブームになっていた。非居住者扱いで免税だから、三割安く買える。飛行場のそばにHONDAのディーラーがあり、そこに注文しようとしたら、在庫はないが近々入荷するという。そのとき改めて注文することにした。
なぜポーかといえば、私の荷物の大半はまだポーにあった。一年以上も住むムッシュ・ペレの地下倉庫に本を中心とした私の荷物が多数有ったのである。
ロンドンに行く前、マルセイユを経由し、ヤイの家に寄る。そこからパリに行ってロンドンの予定であるが、そうすると結構忙しい。ただ旅行も慣れたし、それくらいの行程であれば東京、大阪、鹿児島に行くようなものだから移動は苦ではない。マルセイユも久しぶりで、とても懐かしい。港町はどこも良く似ている。大きな船が数隻とタグボート、その他小さな漁船が行き交いクレーンが並ぶだだっ広い倉庫の区画と市場を中心とした活気溢れる中心部。そこから街が広がっていく。
この町も港を取り囲むように擂り鉢状に山々が連なり、シンボルともいえる大きな像が高台に聳え、いたるところから見える。この町の特徴としては、他のフランスの町と比べ、アラブ人、特にアルジェリア移民が多い。アルジェリアから船でやってくる最初の町がここである。しかも以前はアルジェリアはフランスの植民地で、一つの県であったことからアルジェリアとの関係は深く、この街に来るともうアルジェリアに来たような気になる。
アルジェリア移民もさることながら仏領、旧仏領のアフリカ移民も多く見られる。ヤイ自身、ギニア系フランス人で彼の妻はセネガル人である。子供と一緒に、郊外の高層アパートに住んでいた。高層と言っても高級住宅街ではない。移民や労働者が住む、治安も問題ありそうで、夜は出歩けない。
ただ彼らは気さくな人たちで、あまり気を使わなくてすむ。初めて会っても、何年も前からの知り合いのような気がするが、そんなところが私の性格に合っている。少し早い夕食を済ませ、ヤイは一緒に出かけようと私を誘う。
夜のマルセイユも面白いと思う。しかも彼の行くところはどんなところだろうという興味もあるし、彼が立ち回るところはかなりいかがわしそうな予感がしてドキドキする。まず車で街の中心まで行って適当に停め、すぐ近くの歓楽街に足を運ぶ。バーに行くが、酒が目的ではない。かりに飲んでも運転は気にしないのであろう。迷わずに車で出かける。
入ったのは港の傍のとある安居酒屋、そこにはこれまた店に似合った安っぽいホステスが二人、一人はフランス人、もう一人はアラブ人である。ヤイはアラブ娘をしきりと口説く。彼女の脚の美しさをほめるが、ミスカートをはいている大柄の娘の脚は長いだけでどうということもない。もう一人のフランス娘は小柄で、美人でも可愛くもなく、むしろ貧相である。五分も話すと話題がなくなりそうなほど、退屈な女の子達である。彼のようにああだこうだと大した話題でもなく喋り、しつこくほめると、滑稽であるが、この努力が必要らしい。
こんな所で、しょうもないホステス相手に口説いても、時間の無駄で、もうどうでも良くなった。ヤイは相変わらず口説いてるが、連れ出そうとしたところで店のママが許可しなかった。当たり前である。これからが稼ぎ時なのに、二人しかいないこんなバーで、女の子がいなくなれば何の面白味もない。
そこで白けてもう一軒行く気には彼もならなかった。あきらめて今晩は帰ることにした。家に着くと奥さんがいう、「今日は駄目だったみたいね、とにかく毎晩ああやって狩りに出るんだから」全部お見通しである。
フランスのパスポート所持者とはいいながら、彼ら両親から受け継いできたアフリカの生活習慣、考え方の方が、たとえイスラム教であったとしても、かれらの行動を左右している。中途半端ではあったが面白かった。翌日マルセイユの飛行場まで送ってもらい、パリに着いた。
パリでは特に用事はないが、ポーでは車を注文できなかったので、価格を調べる意味もあって、ディーラーを捜し、値段を問い合わせてみた。興味深いことに、パリの方が高かった。大都市の方がフランスの田舎町より安いはずだと思っていたがそうではなかった。ちなみに同じ商品の値段が場所によって、店によって違うというのはフランスでは当たり前で、車の保険も保険会社によって三、四倍違うこともざらである。
社会主義国アルジェリアではどうかと言えば保険料については知らないが、野菜、肉の値段は社会主義とはおよそ無関係と思わせる程、店によって値段が違う。しかも客によって、時間によって、日によって、交渉の仕方によって違う。結局車はポーで買うことにした。ロンドンはヒースロー空港に着く。ここでは私の頭は、相当混乱していた。空港のどこかに荷物をおいて、サービスカウンターで問い合わせをしていたら、荷物をおいた場所を忘れ、荷物が見つからない。おまけに英語もしどろもどろになって、フランス人の若い婦人がフランス語と英語の通訳をやってくれるという、私にとっては情けないことになった。取りあえずその親切には、ありがとうといって、なんとか見つかった荷物と共にロンドンの街に行く。
研修はあさってからだから、以前勤めていた会社の先輩を訪ねた。その先輩は英仏独スペイン語ともちろん日本語を合わせ五カ国語を話す。ある人いわく、『彼は日本語が一番下手だ』だがそんなことはないとおもう。母国語以上に上手に話すなんてあり得ないとそのときは思っていた。ただ日本では、口数が少なくてもおかしくない。その点ヨーロッパでは、いつも自己主張または自分の意志の明確化と図々しい程の度胸が必要である。自己主張と言えば大げさだが、日常茶飯、言葉で自分の考えを説明し、伝えないと生きていけない。というより評価されない。日本に帰って同様に振る舞うと、皆にはなんとしつこく理屈ぽい奴だ、とうつってしまうが、ここが文化の違いだろう。
ロンドンの三日間
ロンドンは三度目の訪問になる。しかし今度は観光ではなく、仕事である。まず先輩の家に行き、週末をのんびり過ごす。日曜夜には、いよいよ明日ロンドン南部の研修所に行くので、その前に必要なところに連絡し、久々に実家に電話をした。そしたら訃報である。なんということだ。すぐに帰らなくてはならない。とはいってもすぐに帰国便の予約はとれない。というのも夏のバカンス時期がはじまり、予約は一杯だ。
ビジネスクラスに席はあるが、それでは三倍ほどの金がかかる。いらいらしながら二日待ち、やっと切符を手に、せっかくのロンドンではあったがそこを後にした。それからは目まぐるしく、ロンドン、成田、福岡まで休みなしのフライトを続けた。そして博多から特急に乗り、佐世保に着いた時は、夜も十時を過ぎていた。
佐世保には一週間もいたろうか。旅の疲れも抜け、アルジェリアでの騒然とした環境から離れ、ボーと過ごした実家での日々を終え、出発する日が来た。結局休暇となったひと月は帰国休暇となってしまったが、それも運命であろう。そう思い立ったら飛行機の予約をして、翌日家を出た。
途中大阪、名古屋と寄って、出国の前日には東京に一泊した。海外生活が長いと、日本の友人、知人がどんどん減っていく。単に連絡がとれなくなっていくのみでなく、住む世界が違ってきて、話が合わず、いつしか疎遠になってくる。
数少ない友達の一人フランスのDijonで知り合った麻由美と、新宿の隣駅、新大久保駅のホームで待ち合わせる。一年近く会ってないが、連絡したら、まさか突然こうやって帰ってるとは思わなかったらしく、しかも駅のちっぽけなホームが待ち合わせ場所で、本当に来るのかと疑ったらしい。私も東京は詳しく知らない。ただ親類が近くにいて、よくその駅を利用していたし、新宿駅と違い、小さな駅なので迷うことはない。まずは再会を喜び、私は仕事の状況が変わってスイスの企業と契約を交わしたことを話したが、ここまで書いたようなことは説明できない。話しても退屈なだけだ。色々話をしたようでもあり、でもまずは口づけを交わす。一年前の愛し合った記憶が甦ってきた。
この駅のいいところはその手のホテルがすぐそばにあることでもあった。ホテルに入るとあたかも時間を惜しむかのようにお互い自分で服を脱ぎ抱き合った。二時間も愛し合っただろうか、私がそれとなく訊くと、「も、もう堪忍して」十分に堪能した合図とみて体を離した。あっという間の時間だったような気もする。再会を願って別れ、翌日は飛行機に乗り日本を後にした。彼女とはそれから一年後に再会する。
ポーからの出発
そんな事情でひと月のラマダン休暇は私の帰国休暇になってしまった。成田・ロンドン・パリ間の往復航空券だったので、何の用もないロンドンを経由してパリに飛んだ。
パリでは手荷物が到着していない。私も含め日本人三人分が出てこない。特に急ぎはしないが、空港で足止めされるほど無駄なことはないと思っている。
手荷物クレームのため受付に行くと、すごい美人のフランス人がいた。これだと怒鳴るわけにもいかんなと思う。やおら切り出す
「うちら三人、ロンドン経由で日本からきたんだけど、荷物が来ないんだよね」事情を説明する。
「それは大変、すぐ調べてみましょう。取りあえず喫茶店のクーポンを差し上げますからお茶でも飲んでいて下さい」と丁寧に対応してくれる。「なに、お茶が出る。それは悪くないなー。ところで私達は機内で大したものを食ってない。世界でも一流のブリティッシュ航空会社だからまさかこんな事が起こるとは思わなかった」受付嬢は黙って聞いている。
私は続けた。「ああ、花の街、おお、グルメの街、あこがれのパリにやってきて、最初の出来事がこれだとはもう信じられない!お宅の会社を信じてたのにどうしよう。でも、少なくとも君の航空会社を選んだぼくが間違ってたなんてことだけは言わないで欲しい」
そのあたりになると私もアルジェリアで鍛えた、かなり芝居がかった話し方になり、オーバーなことこの上もないが、自然にそうなってしまう。
彼女は笑いだし「あなたもうまいことおっしゃるわね。私も何も言えないわね。取りあえずはこれでがまんしてね」といって食事のクーポンをくれた憶えがある。
さて八百キロメートル離れたピレネー山麓の街、ポーにはその日飛行機で行ったと思うが、今では思い出せない。予約しておいた真っ赤なホンダのシビック、三ドアサンルーフ付きのヨーロッパ仕様車を受け取り、それまで一年間ほど間借りしていた大家の地下室の荷物を全部積み込んだ。その頃まだ日本車はフランスでは珍しく、サンルーフなどもシビックでは初めて見た。初めて買った新車のにおいとフランスでの日本車はシックで、乗っていても嬉しくて鼻が高かった。今では珍しくもないのだろうが、それから四年以上経ったパリでも、妻がその車をとても気に入って、そのためすぐ運転免許を取得し、ファッションデザイナー『ジャンシャルル・ド・カステルバジャック』の職場まで、数度の駐車違反をものともせず、毎日車で通ったぐらいだ。ポーの荷物を積み込んで、これでフランスとも当分お別れだなと思った。後部座席を前に倒しトランクルームとして、本、衣類、その他全てが丁度載った。
助手席の足下の空間も利用し、荷物を詰め込んだ、とはいっても、運転席と助手席のシートには空間を残し、助手席は横になるための場所として確保した。これから延々千五百キロの一人旅が始まるかと思えば気が遠くなりそうで、ハンドルを握る前に大きく深呼吸をして、出発の決心と共にアクセルを踏み込んだ。旅程はここから二百キロメートルほど離れたトゥールーズを経て、ピレネー山中の観光小国、アンドラからスペインに入る。地中海側のバルセロナまで南下し、海岸に沿って、ジブラルタル海峡を見渡す港町まで一気に走る。フェリーで対岸、アフリカ側の町セプタに渡る。町外れにスペインとモロッコの国境が待ちかまえ、そこを過ぎるとモロッコ横断である。
アルジェリアとの国境まで約六百キロ、陸の国境は二つある。モロッコ、アルジェリア双方の国境を通って、その後また二百キロ走り、オランに着く。旅程をざっと話しただけでも、うんざりするが、初めての道が大半で、せいぜいアンドラからバルセロナしか行ったことはない。ポーを後にしたのはその日の午後だった。新車の慣らし運転では、回転数を制限されているが、五速では毎時百二十から百三十キロくらいになる。だからのろのろ走ることはない。ただフランス、スペインとも、これは速くも遅くもなく、高速道路ではむしろやや遅いが、私には丁度良い。トゥールーズでは町の外環道路から、ピレネー山脈のまっただ中にあるアンドラへの道に挑戦する。アンドラ国境ではフランスの警官に止められた。
「良い車だな。どこで買った」
「ポーで買いました。スペイン、モロッコからアルジェリアに帰るところです」
パスポートとそこにあるアルジェリアのビザを見せながら話した。
「ところでこの車の支払はどうした」と訊ねられる。
「もちろん小切手で払いました」
「残高不足ならどうするのかね」
「それは毎回小切手にメモして確認してますから大丈夫です。それ以上のことをここでは証明できませんが・・・」
まじめに答えることが大事で、理論的かどうかは二の次だと思った。
「まあ良い、ボン、ボワイヤージ」といって解放してくれた。
アンドラは観光国で、一流のホテルがところ狭しと建ち並び、目抜き通りには土産物店が軒を連ねる。しかしながらこの時間ではもうどの店も閉まっている。ひっそりと静まり返った街並みを抜けるのに、五分とかからない。十分も走ったら国境を抜けスペインに入った。寝静まった繁華街を一人通り抜けることほど寂しいものはない。
あの有名な町バルセロナも迂回して、先を急いだのは夜中の二時か三時頃だった。さすがに少し疲れた。しかし道端に停め三時間ほど寝たろうか。起きたらもう回りは明るい。すぐさま走り出した。走る走る、ひたすら走る。エンジンの回転数を気にしながら、一定に保つ速度で、淡々と進めていく。
地中海もスペインの街並みもほとんど目に入らない。名物料理のパエリャもトルティーヤも味わうことなく、ジブラルタルの近くまで来たのはポー出発の翌日、夜遅くで、話に聞いたジブラルタルはすぐそこなのに、あたかも鎖国のような、高い金網の門がそびえ鉄条網が張られ、ここからは通行禁止のようである。
今はそれにさしたる疑問をもつ余裕もなく、とにかく海峡を渡りアルジェリアに戻るという意志だけである。しかしここは旅行客であふれ、結局海峡を渡るフェリーに乗れるのは翌日の便しかないと分かった。切符売り場では多くのモロッコ人がほとんどアルジェリア人と見分けのつかない格好としぐさでごった返し、スペイン人の予約担当者がその相手をしている。しつこく食い下がるモロッコ人に忍耐強く、繰り返し、フェリーの空席はもうないこと、次の便は明日の朝まで待たなければならないことを説明していた。同じ事を繰り返すだけだが、妙に説得力がある。モロッコ人もこれまた同じ事を繰り返すがそれがしつこく、彼らの性格をよく表している。スペイン人担当者は、怒るでなく、声を荒げるでなく、淡々と同じ事を、来る者来る者に言う。なるほどこういう手もあるなと思った。さてそうなれば待つしかない。待ちながら車のなかで横になり、ラジオを聴いているといつのまにか寝てしまった。起きたら回りがざわついている。急いで切符売り場に行くと、すでに数百人を越す人々でごった返す港町は、朝の活気が私に活力を与えてくれる。さあ今日こそはアルジェリアまでひとっ走りだと気力がみなぎる。ようやくフェリーに乗り込み、ほんの一、二時間で対岸のセプタに着いた。その頃には昼を少し過ぎたころだった。
モロッコ入国できず
フェリーがセプタに着くと皆一斉にモロッコの国境めざして走り出す。アフリカではあるがセプタという小さな町は、スペイン領である。来て初めてそのことを知った。ただしスペイン人、モロッコ人にとってはそれよりも、この地理的特殊性と観光客の多さがビジネスの種になる方が重要である。街中には闇の両替屋がたむろし、彼等を横目に見ながら町外れの国境に向かう。
国境よりずいぶん前から、車の列が延々と続く。船が着くたびに列ができ、しばしばその列は二、三百台になる。いよいよ私の順が回ってきた。税関あたりは車がところ狭しと並び、検査を受けるための積み荷の上げ下ろしや、押収品のうず高く積まれた一角にはありとあらゆる電化製品、家具その他があったりして、雑然としている。
旅行者の右往左往と人々の怒鳴り合う声が混ざり合って異様な雰囲気である。パスポートを見せ、モロッコは観光ではなく、アルジェリアで働いていて休暇から戻る途中に通り過ぎるだけだと言った。これを書いている今でも、なにが問題だったのか理解できないが、そのとき係官が言ったのは、モラル的入国許可がいるとか通過ビザはどうしたとかいうことである。確か日本人にはモロッコのビザは必要ない。
最初冗談かと思ったが相手は真顔である。そんな馬鹿なことがあるか、これは何かの間違いだ、あの係官が賄賂を欲しくていちゃもんつけているに違いない。もう一度試してみよう。
そして一度Uターンしてまた列の最後尾についた。それから一時間ほどしてまた自分の順番が回ってきたが、結果は同じだった。途方に暮れたが取りあえずセプタの町にとって返し色々考えた。まずは連絡だ、電話局に行ってそこからアルジェリアに電報を打つ。
パリに電話して事情を話し、とにかく最善を尽くすと伝える。そして問題の解決にあたるが、誰に相談したものやらそれさえよく分からない。
海外における日本人のトラブルといえばその国の大使館だろうと気がつくとマドリードの日本大使館に電話する。その日は休日で日本人は誰もいない。スペイン人の秘書らしき者が対応したので片言のスペイン語で事情を説明したら状況は分かったらしいが、マドリードからはどうしようもない。とにかく明日以降にまた電話してくれという。
そのとき、はたと気づいたが、問題が起きたのはスペインの入国管理事務所ではない。というのもスペイン側には国境警備隊らしき者も税関らしい施設もない。拒否にあったのはモロッコ側である。ようやくモロッコの日本大使館に電話するが、ここに至るまで半日を費やした。日本人の秘書官がいたときにはほっとしたが彼も着任してあまり長くなく、私も彼もさっぱり状況は分からないし、そんな問題で入国できない日本人の話も聞いたことはないという。
私も不思議に思ったのは、私が入国するのは問題ないというが、車は置いて行けという。そんな話は聞いたことがない。ただ車と一緒に入国できないことは事実なのでどうしようもない。さっぱり埒があかないし、時間はどんどん経っていく、手持ちの現金は減っていくしで少しずつ不安になってくる。
こうなったら仕方ない、一大決心して単身モロッコに入り、そこから三百五十キロメートルほど南下した、モロッコの首都ラバットの日本大使館に行くことにした。車とその中にびっしり詰め込んだ荷物のことが心配なので、セプタに宿を取り、荷物を倉庫に預け、豚肉、ハムの類を冷凍庫、冷蔵庫に入れ私は手提げ一つにパスポートと、残りわずかな現金を手に、国境に戻った。今度はすんなり通してくれた。そこからの交通手段はなにもなさそうである。仕方なくヒッチハイクを始める。これがなかなか停まらない。とぼとぼ歩きながら車が通り過ぎる度に手をあげる。途中道ばたで野菜を売っている行商からトマトを三個、二十円ぐらいだったろうか、買う。そうして一時間も経った頃、ようやく一台の古びたベンツが止まってくれた。聞くところによれば、モロッコではヒッチハイクはヨーロッパと違い、相当難しいらしい。私の災難を話し、これからラバットに行くと言うと、それは気の毒にと近くの長距離バスターミナルまで連れていき、お金を恵んでくれた。これは嬉しかった。手持ちの現金はほとんど底をついていた。バスターミナルで聞いたところ、ラバット行きのバスは深夜に出るという。取りあえず予約を済ませ切符を買って夜まで待つことにした。三百五十キロの長距離とはいえ、モロッコのバス代は安い。それにしても切符を買ったらもう一文無しになってしまった。その待合室にも多くの旅行者がたむろして、みやげ物屋が怪しげなタバコ、薬草、はては得体の知れない、もしかしたら覚醒剤ではなかろうかと疑うようなものをひそひそと話しかけながら売りに来る。私は買う気はないし、金もない。また闇屋もやってきては好奇心から話しかける。こちらは疲れと連日の長距離運転で頭は朦朧としていて、気分も投げやり、まともに相手をする気はなかった。それからどんな話になったかよく憶えていない。闇屋のねぐらで休めることになった。七月半ば、真夏のうだるような暑さの中で、この数日間に起こったことが非現実的な悪夢の連続で、ぼうっとした頭と、異国で初めて嗅ぐ乾いた空気のにおいが、鼻から肺にはいって身体全体が自分のものでなくなっていくような気がした。暑いとはいっても日陰にいると涼しい。汗をかかない分、暑さは肌ではなく、頭にぼうっと上がってくる。いつのまにか夕方になっていた。四、五時間も寝たろうか。いや半日寝ていたような気がする。またバスターミナルに戻ってバスの時間を確認した。夕食をとったかどうかもおぼえていない。たぶん朝、道ばたで買ったトマトを三個だけだと思う。バスの切符を買うのに恵んでもらったお金と手持ちを合わせようやく買えた。ほとんど深夜の十一時か十二時頃の出発だったと思う。バスも満員で、いつもの事ながら誰かが持ち込んだラジオカセットの割れるような大きな音で、アラブ特有の音楽が流れる。北アフリカの、果てしなく雄大ではあるが、平坦な埃っぽい大地を走るには、あのいつまでもいつまでも続きそうな単調な曲のメロディーが合ってるのかもしれない。その騒がしさの中でも、やはり疲れのため、うとうとしたが、寝付く前にはラバットの駅に着いた。朝の六時過ぎくらいだろうか、夏とはいえまだ暗い。そういえばその頃スペインとモロッコの間には時差が二時間もあったのを憶えている。もともと一時間の時差があるのに、スペインでは夏時間のため一時間すすんでいる。だからその二時間が自分の体内時計の感覚を狂わせる。ラバットには着いたが、まだ早すぎてどこも閉まっていて、道を聞くこともできない。タクシーで大使館に行く金もない。どうせ開館にはまだたっぷりある。歩き出した。朝七時頃だったか、ようやく目的の大使館に着いた。もちろん閉まっている。近くの芝生に寝転がって開くのを待った。うとうととした頃、運転手が芝生に水をやっている音で目が醒めた。日はすっかり昇り、大使館も開いたので、中に入って事情を話す。そのとき初めて国境には入国管理事務所という法務省管轄の事務所と税関という大蔵省管轄の組織があるのを知った。私がこうして来れたんだから入国の問題ではなく、税関の問題であろうという事になった。それならカサブランカの事務所にテレックスを送ろうとなって、念のためその写しをもらって帰ることにした。お金も底をついていたので確か日本円で五万円ぐらいを借りた。このときほど日本大使館のありがたみを感じたことはない。三日振りにまともな食事ができた。すぐバスターミナルに戻り、またセプタに帰るバスの切符を買って乗り込んだ。帰りの長い行程の間、いろんな事を考えた。アルジェリアのオランからトゥールーズ、ポーと行って、パリ、ロンドンそしてすぐ日本に帰国。ロンドン、パリ、ポー、アンドラ、スペインと目まぐるしかった。もうへとへとに疲れたが、まだ終わってはいない。いやこれからが大変だ。セプタ近くの町に着くとそこからタクシーで宿に戻り、国境でテレックスの写しを見せて話をしたが、そんな連絡は受けていないという。
取りあえず荷物を預けていたホテルに泊まる。車も無事でほっとした。いよいよ明日最後の試みをして、それで駄目ならスペインに戻る決心をした。パリの事務所に連絡し、明日モロッコを横断してアルジェリアに行くと伝えた。
そのとき電話を受けたのは採用担当で、アラブ人によく似ていると言っていたあのジャン・ジャックであった。彼は少しいらいらした様子で私にこう告げた。「ムッシュ、皆あんたの帰りを待っている。問題が長引くようなら自分だけでも飛行機で行ったらどうかね」しかしその言葉を聞いて逆に安心した。まだ待ってくれる人たちがいる。忘れられてはいないのだ。
最後の試み
さて翌日、朝早く起き、ホテルの朝食をとって荷物を車に詰め、豚肉、ハムを冷凍庫と冷蔵庫から取り出し、勘定を済ませ、国境を目指し急いだ。祈る思いであった。入国管理事務所では相変わらず旅行者でごった返している。それらの間を行き来して、入国手続きを手伝う業者がいる。業者といっても実体は観光客相手の便利屋みたいなもので、もし自分でやるより彼等を使ってうまくいくようならしめたものと思い、手続きを頼んだ。何とか最初のステップはうまくいった。次に荷物を調べるからもってこいという。車一杯の荷物である。しかしここで反論しようものならまたどんな意地悪を受けるかわからないと思い、まず本を詰めた箱を二、三個持っていく。
彼らが興味を持ちそうなカセットデッキや電化製品は後回しにする。案の定本の後、衣類を見せていたらもういいと言い解放された。意外にあっけなかったので拍子抜けしたが、早く去らないと、いつ彼らの気が変わるかも知れないと思い、早々に荷物を積み直し、そこをあとにした。
確か朝の十一時頃国境を通ったが、モロッコでは午後一時になっていた。これは前に述べたように、スペインでは一時間の夏時間、それに元来の時差を足すと二時間の時差があった。次の問題は、その日のうちにアルジェリアに入国しないとアルジェリアのビザの期限が切れる。地図を買い行程を検討すると、どうも地中海に沿って北部の海岸線を走る方が近いような気がした。
これが実は大きな間違いで、一旦南下し、モロッコ北部を横断する幹線道路を走ると、道も広くて整備されており、ずっと速く走れるが、そんなことを知るはずもない。
人に訊けばよかったが、そのときは自分しか頼れないと信じていた。走り出して間もなく山道の連続となる。時間は刻々と過ぎていく。曲がりくねった道のためスピードは出せない。おまけに目一杯の荷物を積み加速も思うにまかせない。三時を過ぎたというのにまだ山道は始まったばかりである。スピードを出しすぎ、危うく谷底に落ちそうになりながらも行程は進まず、焦るばかりである。
午後四時頃になったらガソリンが残り少なくなった。しかしガソリンスタンドはこの二百キロメートルほど見かけない。ひょっとしたらこの先ずっとないのかも知れない。いよいよ焦ってきた。
どうしよう、このままガス欠で立ち往生するのだろうか。とにかく今は走り続けるしかない。町や村どころか、誰も住んでいないし、他の車も全く見かけない。うわっ、カーブだ!崖だ!あー危ない!そうこうするうちに小さな町らしい看板が目についた。
この町にガソリンスタンドがなければもうアウトだ。果たしてそれはあった。さっそく飛び込み満タンにしてくれと頼む。
ところがなんと五リットルしかだめだという。どうしてだと訊くとそういう決まりだという。五リットルではせいぜい五、六十キロしか走れない。あと四百キロはあるというのにそれでは話にならない。必死に頼み込んでなんとか十リットル入れてもらった。
なんだか米びつにお米が半分ほど入ったような充足感がして、少し余裕がでた。それから数十キロ走ると平坦な道となり、ぽつぽつ民家も見えてきた。ガソリンスタンドもいくつもあり、もう問題ない。ここまで来るとようやく先が見えてきた。
あと二百キロも走れば幹線道路と合流する。思えば今日はホテルで朝食をとったきりなにも口にしていない。そんな余裕も暇もない。なぜか空腹も感じない。山道を終え、平坦な道路を走りだしたときは夕暮れが迫っていた。
国境に一番近い最後の町はウジュダといって何の変哲もない殺風景な町だが、ここも五分で通り過ぎた。アルジェリアの国境に辿り着いたのは、夜も十一時に近かった。国境はそれぞれの国の国境警備兵がいて、入国管理事務所がある。その間数百メートル離れていて、それが緩衝地帯となっている。ここでも一時間の時差がある。
モロッコでの出国審査を終え、アルジェリア側に着いたのはほとんど十二時近くであった。ようやく間にあった。
アルジェリアの税関はもう何度となく通った。しかし今回は車一杯の荷物である。しかも大型のラジカセやポケットコンピューターが二台もあり、問題にならなければと思う。
税関をうまく通るには要領がいる。うまく隠すか懐柔するかだが、まずは前者で行く。一見正直にやる、モロッコでも使った手で、本の詰まった箱を見せ、商売や密輸をやるたぐいの人間ではないとアピールする。それから日用品雑貨、衣類を見せ、少々うんざりさせる。ラジオカセットは、幸いスピーカーが分離するタイプなので、別々に、タイミングもずらして見せる。そういった段ボール箱や数多くの荷物の中に混じって、ポケットコンピュータを紛らせ通す。
結局半分ほど出したところで思った通り、もういいとなった。あとは通貨の両替であるが、社会主義国の多くが自国通貨の持ち出しを禁止していて、たとえ持ち出せたとしてもドルや円のように西側の国の通貨と交換はできないし、もちろん西側では使えない。闇市や闇ルートはあるが、交換レートは悪く、見つかったときの罰は重い。ただ出国の時、税関にアルジェリア通貨であるディナールを預けていける。その引換証を見せればまた入国の時お金を引き出せる。
それを受け取って出発しようとしたら、デンマーク人の、ヒッチハイカー二人が、係官ともめていた。国境から街まで行くのに交通手段がないらしい。だから明日また出直してこいといわれている。かわいそうに、それなら私の車の後ろにでも乗せるかといったが、税関員に止められた。正確には入出国管理の係官だが、そんなのはあんたの問題ではないだろう、といいたかった。もっとも私の車は荷物一杯で、せいぜいハッチバックのドアを開けてわずかな隙間とバンパーに乗って二、三キロ進むのが精いっぱいである。彼らもあきらめてモロッコ側に戻った。
そのときアルジェリア人係官が私に教えてくれたのは、彼らは一銭もお金を交換しなかったということだ。つまり既にどこかで闇で通貨を交換し、持ち込もうとしていたらしい。それ以後国境や税関でのお節介は身内以外の人にはしないことにした。
終わりに
この体験談は一九八二年頃のことで、もうあれからかなりの年数が経つが、振り返っても昨日のように思える部分と、遠い昔のような部分があって、衝撃的な体験はいまだに鮮明に憶えている。これだけのことが、わずか一年足らずの間に起こったのも信じられないが、この経験はその後いろんな場面で活き、私に大きな糧となった。
決して良い影響ばかり受けたわけではなかったが、総じてプラスになったと思う。最後のクラスの授業では、やれやれこれで終わりという安堵感と寂しさが入り交じって複雑だったが、その後生徒たちは専門教育を受け、コンビナートの仕事に就いた。色々あった生徒たちの何人が、実際工場に従事するようになったかは分からない。しかし巨大プロジェクトを建設した人たちの満足感以上に、我々教師には、人造りと、国造りをした充足感があった。きっと彼らがこの国の発展に役立つのだろう。コンビナートはせいぜい十五年か二十年だが、人は何代にも渡って続く。やがて彼らが後輩に、その知識と経験を受け渡すことだろう。
この契約のあと、元請けの日本の会社と契約を結び、その後半年ほど教育プロジェクトの面倒を見た。そのときは講師という立場ではなく、彼らと直接のふれあいはなく、今まで述べたような苦労もなかったが感動もなかった。それから一年ほど経ったある日、たまたまそこを通ったことがある。
あれほど活気があった広大な建設現場は、全く静かなもので、しかも昼休み時、事務所近くのバレーボールコートで、事務員たちがバレーボールやスポーツに興じているのを見たとき、私たちがいたあの時代が、はるか遠いものになったのを感じた。
初版 平成二十六年七月十三日
第二版 平成二十六年十二月二十五日
著者紹介
永尾良一 rnagao@mac.com
1953年生まれ。
国立佐世保工業高等専門学校を卒業後
プラントメーカーに勤務。
2000年〜設備調査会社経営
発行所:有限会社ユネット
〒195-0017東京都町田市金井町1886-13




