78.「彼は勉強ができない」
それは、本当に偶然の出来事だった。
「あ、芦原っ!?」
「春奈……ちゃんっ?」
それは、本屋の学習参考書コーナーでの出来事。わたしの目の前に、本来そこに絶対居るはずのない人が立っていた。
「なんで、あんたがここに……?」
思わずそう訊ねるものの。
「春奈ちゃんこそ、なんでここに?」
芦原も同じことを考えたようで、質問返しをされてしまう。
お互いに答えも出ないまま立ちつくす。
……そもそもなんで、こんなことになったんだろう。それを伝えるには、ちょっと前まで時間をさかのぼらせることになる。
◇
彼がどうしてここに来たかは分からないけど、わたしは好きな漫画とファッション雑誌を買うために来ただけだった。もともと買うものは来る前に決めてたから、買い物自体はものの数分もあれば終わってしまう。
ただ、もともと本を読むことが好きなわたしにとってたった10分で本屋さんを出るというのもなんだかもったいない気がして。そんなわけでついついどんな本があるかと物色してしまっていたのだ。こういうところは、読書家とか活字中毒……っていうほどじゃないかもだけど、本好きの人あるあるじゃないかな?
そんなわけで、はやりの小説とか雑誌とか。今はさほど興味ないけど昔は死ぬほど読んでたゲーム雑誌を立ち読みして……こんな感じのノリでつい学習参考書コーナーへと足を踏み入れてしまったのだ。
そこまではまあ、わたしにとってよくあることだから別に変ではない。
問題なのは……いや別に問題ってほどでは無いんだけど、そこにクラスの3バカの筆頭格と名高い。名高いってのは矛盾かもだけど、要するにバカなはずの男芦原がいたということなのだ!
……ともかく。
「ど、どうしてここに?」
「それは、わたしの言葉なんだけど……」
そう言いながら、ついつい右手で触れていたスカートをつまむ。
正直、芦原がキャラに無い参考書コーナーに居たことはまあ驚きではあったものの実は重要ではない。むしろ問題は、わたしの女性服姿を眞子や結衣以外の人に見られたということ。ぶっちゃけていえば……何だかちょっと気恥ずかしいのだ。
別にクラス会やら応援団の打ち上げでわたしの女性姿は既に見られているから、それは気にしすぎなのかもしれない。でもわたしとしては、女性になると誓ってはみたものの本当に自身が女性らしく振る舞えているか、実は今も自信が無いわけで。
結衣と眞子。生徒会長であるならば別に問題無いのだ。わたしが男だったことや、今に至る経緯を全て知っているから、仮に男に戻っても特に違和感を持たれない。けど、最初からわたしが女の子だったと信じて疑わない彼にこれを見られてると……。
ただまあ、そんなことを気にしたところで出会ってしまった以上は今さら出会った事実が覆るわけも無いし。
「俺は、来週の定期テストの前にさすがに今回はやばいなって思ってさ」
姉ちゃんに参考書代貰って買いに来たんだ、と彼は言う。
ちょっと意外な話だと思った。
「あんたそんなに勉強に興味無さそうなのに、意外ね」
お小遣いをもらったってのもあるだろうけど、勉強嫌いそうな彼が参考書とは。わたしだって参考書なんてさらっと見る程度で買ったことなんか無いのに。でも確かに、芦原が手に取っている参考書の中身はカラーイラストが結構多くて、文字ばっかりの教科書よりもずっと分かりやすそう。
まあ、本当に参考書を買って勉強するかは疑問だけどさ。
「まあ参考書を買おうとするのは感心なんだろうけどさ……でも君、本当に勉強するの?」
どんなにしっかりとした参考書でも使わないと宝の持ち腐れよ? と続けたのだが返ってきた言葉は意外なもので。
「ひどいな、俺だってたまには勉強くらいするさ」
その言葉に戦慄が走る。
あの芦原が勉強、だって⁉
「……明日雪でも振らないだろうね?」
「春奈ちゃん? 可愛い顔してグサッと刺さること言うのやめてくれない?」
思わずそんな冗談を言ってはみるが、意外にもいつものおちゃらけモードとは違い今回ばっかりは本気も本気らしい。
「だいたい俺もそんな好き好んでこんな本買おうとはしないさ。ただ――」
ため息をつきながら彼は参考書を棚に戻す。続けて彼が言うには、わたしも想像しないけっこう切実な問題があるみたいで。
「春奈ちゃんは知ってるだろうけどさ、俺、そんな頭良くないんだわ」
「まあ……そうだろうとは察しはつくよ」
クラスの3バカって、みんなに言われてるくらいだもの。もちろんそれは、親愛の気持ちとかも交じってるからこその呼び方だろうとは分かるけど、そうはいっても授業中も先生に茶々を入れてみたりかと思えば寝落ちするような彼がとても成績上位になれるわけもなく。
むしろその逆で、テストのたびに赤点を出してはみんなで大騒ぎ――それがいつもの彼だったのだが。
「で、まあ今までも赤点を何度も出しては来たんだけど。今回はそれは無しだって監督に言われて……」
さすがに何度も赤点を出す様子についに先生方も堪忍袋の緒が切れたようで。監督――つまり芦原の部活の顧問に、成績の件できつく叱られたそうなのだ。
「そんでな、次の定期テストで一つでも赤点出したら、再試で合格するまでは部活に出さないって監督に言われてて……」
「なるほど。だから参考書を、か」
藁にもすがるって言葉があるけど、その藁が彼の場合は参考書というわけなのだろう。何せ今まで赤点ばっかりの彼が、次のテストに普通に挑んで赤点を回避できるはずがない。けどそれが最低限のノルマとなってしまったならば、それはもう死活問題だ。
でも、それは芦原から見ればの話。わたしから言わせれば、それで参考書に走ったところで――果たして意味があるのだろうか。
「気持ちは分かるよ。でも、参考書を買ったところで今分からないところも分からない状態ならその参考書はお金の無駄遣いにならないかな?」
つい、そんなことを言ってしまう。別に、頑張れって適当に言ってスルーしても良かったはずなのに。
それなのに、どうしてか今のわたしは彼を見捨てることができない。
「というか、参考書は足りない高度な知識を補うためのものであって教科書の代替品ではないから」
むしろ余計なアドバイスまでして、芦原が持っていた参考書を元の棚へと戻してしまう。
「それは……姉貴にも言われたんだが」
「だったらなおのこと、普通にテス勉したほうが良いと思うよ」
「でもさ。……正直俺、勉強なんかまともにしたことねえからどうすりゃいいか分からなくて」
その言葉に、わたしは黙り込む。それは、いつも突き抜けたハイテンションとポジティブがウリの彼が初めて見せたネガティブな一面だったから。
「今までは勉強なんか出来なくても、サッカーさえ出来ればと思ってたんだ。だけどさ、やっぱりこうやって勉強する機会から逃げられないとなると――」
そっか……。
今までこいつのことを、ただのサッカー部部長とか大のサッカー好きとかその程度の認識だったけどそれは間違い。彼にとってサッカーは生きがいなんだ。
それなのに、そんな大切なものをたかが定期テストくらいで取り上げられるだなんて……。だいたい「好きこそものの上手なれ」って言うでしょ? それなのにこんなつまらないことでそれが奪われるなんて、もったいない話では無いか。
それを聞いて、わたしは彼を見放すことが出来なくなった。だからこそ――。
「分かった。だったらさ、わたしが勉強を教えるよ」
普段のわたしなら絶対に言わないことなんだけど、ついそんなことを提案してしまう。
「えっ? ……春奈ちゃん今なんて」
「だから、あんたに勉強を教えてあげるって」
そう言いながら、芦原が服の袖をつかむ。
だいたい、落ち着いて考えればこいつには先日の風邪の件での借りもある。いつまでもこいつに借りを持っていられるのも何だか嫌だし、いい機会だからチャラにしておきたい。
「この前の借りも返さないといけないからね」
「借りって?」
「わたしがダウンした時に面倒見てくれたでしょ? だからそのお返し。ついでにお姉さんから預かったそのお金はしっかり返すかお姉さん孝行に使ってあげなさい」
「でも……春奈ちゃん、今から良いのか? なんかいつも以上にオシャレしてるし、この後に予定とかあるんじゃ」
さりげないその一言に、なぜか恥ずかしさがこみ上げてきた。
別に変な気持ちとかはないのだ。服だって特別気合を入れたわけじゃない、普通の白いニットに茶色のロングスカート。靴だって普通のハイカットスニーカーだ。いや、服の種類なんてどうだっていい。重要なのは、3バカのくせにさりげなくわたしのことをオシャレとか言ってみたりしやがったってこと。しかも顔だけはイケメンだからなこいつ。
「まあ予定なんか無いし。強いて言えばアンタとの勉強会が、予定よ」
何だよ。わたしは元男だ。こんなことなんか全然楽しみでもなんでもないっての。それなのに、どうしてなんかちょっと楽しくなってるのよ……わたし。
「ああもう! さっさと帰って勉強道具を持ってきなさい! 今からうちで勉強会よ?」
「お、おぅ。……ありがとう、春奈ちゃん!」
そう言って彼は、帰って行く。
こうして、一人やることもなくて退屈だった週末に突然予定が入ったのだった。
◇
そんなわけで、急きょ予定が入ったわたしはダッシュで家に帰って芦原が過ごすであろう場所を大急ぎでお片づけ。別に芦原が来るくらいでそんな気合を入れる必要なんて無いはずなのに、なぜかわたしのだらしない一面を見せたくなくて、ついきっちりと整えてしまった。
ついでにコーヒーメーカーとお茶っ葉も準備していつでもお茶を入れれるように。我ながらどうしてだろうと準備し終えてから思ったけど、かといって片づけるのも忍びなく……そうこうしている間に芦原が我が家にやって来た。
「おじゃま……します」
「いらっしゃい。リビングで良いかな?」
「あ、うん。ありがと」
そう言って、彼をリビングへと案内する。だけども彼自身はさっきから何でか落ち着かない。勉強をしに来たはずなのに、何をそわそわする必要があるのだろう? ってか、君は前も来たことあるでしょ。
「なんか、いやぁ……何気に女の子の家に来ることになるとは思わなくてさ」
「あんたのことだろうからどーせ慣れっこでしょうが」
「春奈ちゃんは俺を何だと思ってるんだよ?」
「別にぃ?」
どうせこいつのことだ。いっつも女にモテモテで、すぐに女の子の家についてっちゃってやることやっちゃってるんじゃないのかなって。そう考えて、すぐにひがんだりやらしいことばっかり考えちゃう自分自身の浅はかさにため息をついてしまう。
だいたいわたしはこいつの彼女でも何でもないはずだし、そもそもわたし自身が本物の女の子でもないはずなのに。……そもそもなんでこいつに対してこんなにもやもやした気持ちを抱いているというのだ。
ダメだダメだ。変なことを考えるとロクなことにならないんだから。
「さてさておふざけもここまでにして、お勉強タイムだよ」
そんなわけで、芦原を座らせて彼に1枚の紙を差し出した。
「これは?」
「今回のテスト範囲。それをいくつかブロック分けした表だよ」
全国的にたぶんそうだと思うけど、基本的に中学校の定期テストというものは事前に範囲とかテストに出す問題を先生から教えられるものだ。ただそうはいっても、その情報を目でパッと見れるようにしておかないとその情報は意味がない。
そこで、先生が指定したテストの範囲とか頻出の問題を表にしておくことにした。そうすれば、テスト勉強をするうえでどの分野は十分勉強出来ていて、どこが出来ないかが丸わかりというわけ。もとは自分用に作っておいたんだけど、どうせこの人のことだから、そもそもその情報すらまともに持って無さそうだしね。
「すっげぇ。俺がくるまでの間によく作れたな?」
「わたし用に作ってたものをそのままコピーしただけよ? で、教科ごとにこの項目がテスト範囲で……」
指でさし示しながら、具体的なテスト範囲を教科書を開いて説明する。
今回のテストは、国数理社英の5教科。1教科当たりのテスト範囲は20ページくらいだけど、5つもあればさすがに量がかなり多めだ。
まあ国語は、最悪知識が無くても文章さえ読めれば答えはそこから持ってくれば良いだけだし、数学も解き方さえ押さえちゃえば最悪ゴリ押しができるとは思うのだけど――問題は暗記が基本の理科と社会。まず理科は、化学と天体という全く毛色の違う範囲が同じテストの中で出題される。社会は歴史というジャンルしか出されないからまだマシかもだけど、範囲はかなり長く室町時代から明治維新までのかなり長い時間を扱うことになるうえ、問題のほとんどが論述問題ときた。
「……うっそ、やっばいわこれ」
「だな」
お互いにテスト範囲を確認してはみるものの、芦原はあまりの量の多さに今にも口から泡を吹きだそう。かくいうわたしでさえ、想定外の事態に血の気が引いていく。
何がまずいって――今回はあんまりに芦原に教えるべき問題があまりに多すぎるのだ。
「待ってくれ! これ全部やるのか?」
「まあ、理想を言えば……ね」
おそらく結衣であれば、確実に5教科全てで9割5分以上の得点は叩き出せることだろう。そして実際に、たぶんオール100点ってことを現実にやってのけるんだと思う。そこだけ切り取れば、まあ不可能では無いねとは思う。思うけどもね。
「……うわぁ。俺にこれ全部できるか不安になってきたよ」
だろうね。というかそもそも、毎回定期テストで赤点をさまよっている彼にこれを全部抑えるのは――どうあがいても無理でしかない。それに、無理やり全部やらせようとして結局訳わからない状態のまま本番になってしまったらそれこそ本末転倒な話だ。だからわたしは、ある提案を彼にした。
「うん。だから全部とは言わない。半分だけにしよう」
そう言い、とりあえず各教科の基礎問題のところにだけチェックを入れる。
「えっ? ……半分で良いのか?」
「うん。今回の目的は、あくまで『赤点回避』だから」
もちろんベストは、全教科でオール100点だ。
でもそれを叩きだすには、この範囲の内容を完全に理解していることが絶対条件となる。そこまでのコストを掛けるのと、現在要求されている赤点回避というノルマを天秤にかけたとき、どっちが現実的な選択肢になるかと言うと――言うまでも無く後者なわけで。
「そ、そっか! ……なんか春奈ちゃんって、先生みたいに厳しいこと言わなくて良いなぁ」
半分って言葉に安心したってのもあるだろうけど。それにしたってこのニヤニヤ顔。きっと楽できて良かった、とか思っちゃってるんだろうけど――さてはお前、本当にこの危機的な状況を理解できているのかなぁ?
「その代わり、その半分は。というか基礎の部分は完璧にしてもらうからね?」
念のため釘を刺しておく。案の定、半分で良いって言葉を楽しても良いと曲解していたようで。
「えっ……? さっき半分で良いって」
「まあ、確かにそうは言ったけどね」
この人分かってるのかなぁ? 半分で良いって言ったのは純粋に勉強する範囲を、基礎基本だけに絞って難解な部分や応用問題は切り捨てたってことに。特に数学の一次関数に関する問題は、主題は一次関数だけどその問題を考えるにあたって方程式の知識も図形の知識も必要なんだよ?
言い換えればそこが抜けてしまったらもう手も足も出なくて自動的に0点になっちゃうわけなんだけど。
「その半分も適当だったらどっちみち赤点ってことは覚えておきなさい」
同じ赤点でも、0点に限りなく近い赤点か30点に限りなく近い赤点か。後者だったら苦労した割に虚しいだけだからね。
その言葉にはっと目が覚めたのだろう。
「……俺、本当に赤点を出さずに終えられるのか?」
「それは、今後のあんたの頑張りしだいね」
こうしてわたしたちの勉強会が、始まった――。
生徒会長に続いて次はクラスメイト芦原クンのターン。
芦原は自身の気持ちに素直みたいですが、対する春奈は自分の気持ちに気づいていないのでしょうか?
次回に続きます。




