69.「体育祭が、始まった!」
体育祭前夜の夜7時過ぎ。
明日に備えて買い物をして帰ってきたわたしの前に広がる光景は、正直今まで全く見たことの無いもので……。
「そしたらフライパンから上げてまな板に載せてみて。そんでもって、タテに切っていく。手を添えるとやけどするから、菜箸をこうやって……」
「なるほど……意外に難しいのね」
おそらく料理をしているであろう二人の様子を眺め、言葉を失う。
というのも、母さんが台所に立って何か作業をするというのはここ数年ぶりの出来事でありさらに言えば秋奈が料理を教えているというところに至っては初めて見る光景だったからだ。いや、二人が台所で作業をするってだけならば、たぶんここまで大げさな反応はしなかったかもしれない。
「二人とも、ただいま」
「あ、春奈。おかえりなさい」
「ハル姉おかえり」
「珍しく母さんが台所に立ってるけど……」
そう言いながら、ダイニングに乗っている重箱を見つめる。重箱の中身にはまだ何も入っていないけど、こんな重箱を使う機会なんて限られているし、ましてこのタイミングで出てきたとすればわたしの予想は確実に当たる。
「あぁ、明日のお弁当はあたしが作ろうと思ってね」
「でもお母さんが作るのは不安だったから、あたしがレクチャーしてるってわけ」
そう言って笑いながら二人は再び台所作業に戻る。
明日に備えてお弁当を作る。料理が得意でない母さんのために、秋奈がレクチャーする。別になんてことはない、いたって普通の当たり前のことだ。それなのにその様子が、わたしには信じられなくて――。
「どうして?」
つい、そんな声を掛けてしまった。
嫌だってわけではない。母さんがお弁当を作ってくれるなら、そのぶんだけわたしは楽をできるから。
でもどうしてそんな質問をしたかが、わたし自身でも分からなかったのだ。
「……ごめんね、変な質問だよね。でもさ」
スーパーで買って来た食品をダイニングに置いて、話を続けた。
「今までそんなこと、一度として無かったじゃん! そりゃお弁当を作ってくれるのは負担が減るからありがたいよ? けど――」
今まで、体育祭の準備はぜんぶ僕がやっていた。母さんは仕事で忙しいから邪魔は出来ないし、秋奈は小学生なのに弁当作りなんてさせるわけにいかない。
そもそも友達だってそんなに居ないから、お昼休憩だって一人で重箱のご飯を食べるのが当たり前で――。それが当たり前だったはずなのに……。
「今さら、なんだよ……」
分かってる、母さんが悪いわけじゃないって知ってる。それなのにわたしは、ワガママを言って困らせようとしているのだ。
「……ごめんね、困らせるようなことを言っちゃったよね」
理不尽なことは分かってる。でも何だか――腑に落ちないというかモヤモヤとした気持ちばっかりが浮かんできてしまうのだ。
そしてこの言葉が母さんを傷つけたのかもしれない。再びの無言が、キッチンを包み込んで食材が煮込まれる音ばかりが空間に響いていた。
だがその空気は――。
「ホントだよ、今さらなんだよ」
秋奈のたった一言によって崩された。
「うん、今さらだよね」
「いや、今さらなのは『ハル姉』のほう!」
その言葉に、わたしは固まってしまう。
正直に言おう。口では母さんのことを心配するようなことを言っていた。でも本心では、気に食わなかったのだ。今さら母さんに母親面されたことに。和解したつもりだったけど、本心ではやっぱりどこかで納得できてはいなくて……。
「……」
口を一文字に結ぶ。
秋奈の言うことは間違いなく正論だった。でもこういうのは理屈では解決できないものだ。
「……ハル姉さあ、もう過ぎた過去を見つめるのはやめようよ」
「過去を見ているわけじゃ……」
「見てるじゃない!」
そう言って彼女はわたしの頬を手のひらで固定して、目を無理やりにでも合わせて続けた。
「もう、あなたが思っている過去は終わったの! あなたは応援団を引っ張るリーダーで、お母さんはあなたの晴れ姿を見たいって。だからこうやって今も苦手なはずの料理を頑張ってるっ!」
「その気持ちを汲んであげれないほど、今のハル姉はゆとりがないの?」
秋奈の言葉が耳に突き刺さる。
「そのゆとりが無いのだとしたら、それはもうハル姉じゃない。昔の『兄ちゃん』のままだッ」
耳どころじゃない。胸に突き刺さった。
秋奈の言うことは正論で、言い返す言葉も出なかった。
「今のハル姉は、ハル姉が嫌う『兄ちゃん』それそのものだよ」
……そうだ。その通りだ。
今のわたしは、応援団だけじゃない。色々な出来事に巻き込まれて辛い目や大変な目にあいつつも一歩一歩前に進んでいる。出来ることが、頼れる仲間が少しずつ増えているはずなんだ。
それなのに母さんに対してだけ過去の嫌なことを楯にきつく当たるだなんてそっちのほうが間違っている。
母さんは、わたしや秋奈に歩み寄ってくれている。だったらわたしだって、歩み寄る姿勢を見せるべきでは無いだろうか。
「母さん……あのさぁ」
どうやって言葉を紡げばいいのか。そうやって考えているうちに言葉が詰まって……。
「いや、春奈の言う通りよ。私は今まで、親らしいことなんか何も出来なかった。今さらなことは、十二分に分かってる」
その間にも、母さんのほうが言葉を紡ぎ始めて。最初はただ彼女の気持ちを聞くだけだった。だけども……。
「だけども私はなりたいッ」
「あなたたち姉妹の母親に、私はなりたいっ!」
その言葉と共に母さんは少しずつわたしたちのもとに近寄ってきて……。
「母さん」
「お母さん」
わたしたち姉妹は、ぎゅっと抱きしめられる。
決定的な言葉だ。
夏の終わりにも、母さんは同じようなことを言っていた。お互いに折り合いが付けられないことは山のようにあるけども、それでもこの3人は家族であるってことを。そして今まさに母さんは、それをしっかりと行動で証明していた。
「今すぐに信頼が戻ってくるとは、私だって思ってない。だけども……」
「……分かったよ。もう、十分だよ」
母さんの抱擁を振りほどいて、母さんが作った料理を見つめる。
正直に言えば、決して出来は良くはない。まだ秋奈やわたしが作った方がよっぽどきれいな出来になるはずだ。だけどもその料理には、間違いなく不器用な愛情が詰まってる。それだけは確かなことだ。
「……しょっぱいよ」
1つつまんで口に含む。見た目だけじゃない、味だって酷い出来だ。だけども何でだろう――頬に一筋の涙が流れていた。
「あっ、ごめん。でも、明日はもっと美味しくするから」
「うん」
「……楽しみにしているからね。絶対だからね」
過去はもう変えられない。でも未来はきっと変わる。いや、絶対に変わる。
変えて見せるんだ。今年はきっと一生の思い出に残る、体育祭になりそうなのだから。
◇
そして久しぶりに、家族3人の全員でご飯を食べることになった。食事中は秋奈がずっとこの1か月の出来事を話してて、普段は頑張って大人っぽく見せてるけど本当は寂しがりな分良かったなって思った。いや、寂しがり屋は秋奈だけじゃないかもしれない。
「そっか、聞いてはいたけど春奈は今年大活躍しそうね」
「プレッシャー掛けないでよ!」
わたしだって、積もる話がたくさんあってついつい色んなことを話してしまった。
ついさっきまで母親面するなって怒ったくせに、そうはいっても母さんはやっぱりわたしたちの母さんなのだ。
そして本当はもっといろいろなことを話したいけど、それでも体育祭前夜ってことはあまり夜遅くまで話すわけにもいかなくて……。
「じゃあ、わたしはもう休むね」
「あたしもー!」
「はいはい。ゆっくりね」
そう母さんに伝えて、秋奈にもまたお互いを励まして自分の部屋に戻る。部屋にはすでに明日の準備が整っており、後は本当に明日を待つだけ。寝具に身を預けて、照明を消すと月の光が顔に掛かった。
「……はぁ、明日か」
ついため息をついてしまう。普段なら疲れですぐに寝てしまうのに、今日ばっかりは緊張のせいか目が冴えてしまう。寝なくちゃいけない時に限って眠れないというのはどうしてなのか。人間、こういう時はうまくいかないものだ。
「……緊張するなぁ」
考えはしないようにしていたつもりだった。
でもわたしなんかに出来るのか――それは今この瞬間にも考えていることだ。
考えてみればわたしは、いつだって教室の中の目立たない存在。イベントの時なんて居るか居ないかさえも分からないって暗い影が薄くて、そう居られればまだ良いものも去年なんかみんなの足を引っ張ってばっかり。
そんな人間が急に応援団の副団長までやらされているだなんて、経験も無いのに上手く行く自信がない。
そんな時だった。突然、携帯電話が震える。
「誰……?」
暗い部屋で白い光が放たれる。こんな時間に珍しいと思いつつも誰かと着信元を見てみると……。
「芦原?」
普段は絶対に掛けて来ないであろう人物からの電話だった。
普段ならば気づかなかったって体にしてそのまま寝ちゃうのだろうけど。
「もしもし……」
どうせ眠れないんだ。だったらちょっとくらいなら話してもいいかなと、携帯電話の通話ボタンをタッチした。
「あ、春奈ちゃん? 芦原だ!」
「うん、画面見れば分かるよ」
相変わらず鬱陶しい話し方で、つい溜め息をついたつもりだった。だけども窓に写るわたしの顔は、不思議とどこかで笑っていて。
いつもだったら適当な対応を取るであろうに、今日は眞子や結衣に話すのと同じような話し方をしていた。
「それもそうだ、アハハハ! ……ってもしかして寝てた?」
「いや、これからって感じ。……どうしたの?」
「あーいや、なんか眠れなくてさ。春奈ちゃんの声を聞きたかったんだ」
「お前もかよ!」
何だよ、そんな余裕そうな話し方なのに眠れないって言うの!? 思わず素でツッコミ入れちゃったよ。
「ってことは春奈ちゃんも?」
「まあ、そうだね。うん」
「そっかー。似たもん同士だな!」
「アンタとは似た者同士になりたくないなぁ」
確かに緊張で眠れないという感情は共有してるけどな。
でも……。
「ただ、アンタと今話してるとなんか不思議と安心する気がするよ……」
今の言葉は、正直な本心だった。
正直芦原という男はそこまで好きではなかったけど、この1ヶ月で色んな一面を見てきた見方が変わったというのもあるのかな。こいつに対しての警戒心が薄れたというか、ちょっと信頼の気持ちが生まれたのは事実だった。
「ど、どうした急に? いつもつっけんどんな春奈ちゃんがそんな優しい言葉を話すなんて」
「ちょっと失礼だな! わたしそんなにいつもキッツい?」
「超キッツい。ハバネロ級だよ」
「えぇ……わたしこれでも女の子なのに」
「だって見た目と話し方のギャップがね。見ただけだったら本当にお人形みたいなんだぞ?」
「あれ、もしかして褒められてる?」
「おうよ」
「そっか、じゃあそれは受け取っとく。ありがとうね!」
……何だよ急に女の子らしいだなんて。元は男だっていうのに。
でもそう言われると、例えお世辞だとしても何だか嬉しかったりして。
「……で、なんだっけ。眠れないから電話かけてきてくれたんだっけ?」
「まあそうなんだけど、春奈ちゃんが嫌ならやめておくぞ?」
「いや……良いよ。眠くなるまでお話しよっ」
褒められたことに気をよくしたのか、それとも本当に芦原と話したかったのか。
答えは分からなかったけど、ただ芦原と話すのは不思議と気持ちが落ち着く気がして――だからわたしたちは眠れるその時までついつい話し込んでしまったのであった。
◇
そして翌朝。まぶしい光が差し込んで、その光で目を覚ます。夜遅くまで話した割に、目覚めはいつも以上にすっきりとしていた。
真新しいシャツに身を包み学校へと向かう。応援団のテントには既に芦原や葉月さんが本番直前の最後の準備をしていた。そして本番直前の作業をしているうちにあっという間に開会の時間が訪れてしまう。
わたしと芦原は、それぞれ団長として団旗を持って入場する。今までは嫌だなという気持ちを抱えながら、それでも端っこで適当に校長先生の話を聞き流せば良かっただけなのに……。
「凛々しいよ、二人とも!」
「かっこいいとこ、見せてちょうだいな!」
結衣と眞子が励ましてるんだか煽ってきてるんだか、私たちに声を掛けてきてくれる。前回までは、周りに合わせて動けば良かっただけ。でも今回は、副団長としてみんなの前で入場しないといけない。誇らしいこととはいえ、正直なところ緊張で押し潰れそうな心境だった。
「うぅ……緊張するよ……」
そんなこと言っても緊張が収まるわけじゃないのに。それなのに……。
「大丈夫だ、もっと気楽でいいんだよ」
芦原が肩を叩いて抱きしめながら声を掛けてくれる。
「練習通りやれば行けるから。それに何かあったら俺がフォローするから」
「……ありがと」
つい、そんな言葉を言ってしまう。いつもならつんけっどうなことを言うのだろうに。だけども不思議と今は、芦原の存在がとても頼もしく思えてきたのだった。
体育祭編、残り3話で完結予定です。はたして年内に終えることが出来るのか。出来ればクリスマス会もやりたいのですが……本当に間に合うのか笑