52.「母娘の決意」
家族会議が始まってしまった。
議題は言うまでも無く、わたしの女性化。いつも座っている席に三人が腰掛けて、互いににらみつけるかのような表情でお互いを見つめる。それは、昨日の夕飯の延長戦のようで見ているだけで胃が引きつるような心地だった。
もちろん、母さんや秋奈と喧嘩したことが無いわけではないからこういうピリッとした空間がダメというわけではない。しかし、そうは言ってもここまで張り詰めた雰囲気を漂わせることが未だかつてこの家にあっただろうか。
わたしだって、喧嘩をしたいというわけではない。出来れば母さんに本音を伝えたいし、この場を丸く収めたいのだ。
でも、そんなことができる器量がわたしにあるとは思えなくて……。
「……話が、あるんだ」
それでも、いつまでも逃げているわけにはいかない。
わたしは、自分で決めたんだ。女性として生きることに。
「――分かってるわ。言うまでも無いことよ」
そう言い、母さんは机に両肘を立てて寄りかかった。両手を口元に持ってきているのは、わたしの言葉を拒絶しているからなのか。あるいは、母さん自身の本心を無理に抑え込むためのものか。
「そうだよね。でもわたしはあえて言うよ――」
母さんの気持ち。秋奈の気持ち。色々あると思う。
でも、そんなことに遠慮をしてまるで分かったかのように意思の疎通をしても意味が無いのだ。わたしの意思を、はっきり伝えないと。
「わたしは、女性になる。女性として、生きたいんだっ!」
そう、言い切ってやった。
人間、不思議なものでこんなとんでもない言葉でも、いざ言ってしまうと胸の奥でつかえていた感情がすっと解放されたような気がしたのだ。
なんで今まで言えなかったんだろう。なんで今まで、この事から逃げ続けていたんだろうか。言ってしまえば、こんなにも楽になれるのに。
「それって……」
とはいえ、言われた方としてはたまったものではないというのも事実。だって母さんは、明らかに動揺しているようだったから。偉そうに、動じないように振る舞っていたとしてもショックなのはわたしが考えても当然のことだ。
秋奈もまた、顔には少し驚いたという表情を見せていた。秋奈ならば驚かないと思っていただけに、それだけの言葉を言ってしまったんだと妙な感慨にふけってしまう。
だけどもいつまでも感傷に浸るわけにも行かず。
「……そうなんだ」
戸惑いながらも、何とか声を振り絞る母さん。それを見て、なぜかわたしはものすごい罪悪感を覚えた。でも、今さら引き返すことなんか出来ない。
動かないと思っていたこの場が、ものすごい勢いで動き始めた。
「何でそう思ったか、一応説明するね」
そう言い、どこから話そうか思案する。だけど、返ってきた一言は非情なものだった。
「――春樹には悪いけど母さんには、理解できない」
「お母さん、それは……」
秋奈が、母さんの言葉に抗議の声を上げた。だけど、母さんは言葉は止まらない。
「春樹。あんたの言いたいことは分かる。その立場になったことが無いから、中途半端な理解しかできないだろうけど。でもね……」
「あたしは、あんたを男の子として育てた。息子として見ていた。それが急に変わってしまうのは……やっぱりちょっと受け入れられない」
――そうか。
変な表現だけど、母さんの本心が分かったという意味では安心した。母さんがどうしてそんなにわたしの女性化を嫌がるかの気持ちの一端を知れたわけだから。
だけども、そうはいっても母さんの言葉は僕の心情としては……やっぱりクるものがあった。
もちろん、わたしの価値観のすべてを受け入れてくれるとは最初から思ってはいない。最初から受け入れてくれるのなら、こんな会議なんてしないで済むわけだし。でも、だからと言って全てを否定されるとは……予想はしていたけどやっぱりキツい。しかもそれが、実の母親となるとなおのことキツいものだった。
「確かに、お母さんの言うことはもっともかもしれない。息子が急に娘になって、上手く受け止められるはずもないってことは、あたしでも分かる」
静観を決めていた秋奈が、静かに口を開く。
「それでも、母親として息子の、子供の『思い』には応えるべきなんじゃないの?」
嬉しいことだ。わたしの気持ちをしっかりと受け止めて認めてくれるわけだから。だけども、それが逆に自分一人じゃ何もできないことを見せつけられているようで複雑な気持ちだった。
「……秋奈。この問題は『思い』とかそんなもので語れる問題じゃないのよ?」
「嘘よッ! そんなの、お母さんが逃げてるだけッ! そんなの……春樹と向き合うことを、春奈と向き合うことを恐れてるだけだよッ!」
「……逃げている、のかしら」
「じゃないの? お母さんは、ハル姉の葛藤とか一切聞いたことがないからそう言えるのかもしれない。でもね、あたしは知ってる。兄ちゃんが、ハル姉がどんな葛藤や苦悩を抱えて今まで生きたかを。安藤春奈の覚悟を――ッ」
徐々に声を大きくしていく秋奈。最後のほうは、喉を枯らしてまで声を上げてくれる。
「受け入れろ、とはあたしは言わない。でも、せめて向き合ってあげてよ!」
「……」
秋奈の言葉に、母さんは静かに頷いた。
普段は、こういう時こそ売り言葉に買い言葉といった感じで怒鳴り声を返すはずだ。だけども、今の母さんはただ静かに頷くのみだった。秋奈が徐々に声のトーンを挙げていることと比べて。あるいは、いつもとは違う母さんの様子が、こういう時に限ってちょっとひどいけど不気味に思えた。
「で、春樹はどうなの?」
母さんは、僕にその言葉をぶつけた。
「――そ、それは……」
今こそ、わたしはそう思った経緯を伝えるべきだ。それなのに、口が開かない。母さんの表情は、脅すものでも何でもない。そんなはずなのに……。
「秋奈は言っていた。あたしは現実から逃げている。――確かにその通りよ。でもね、それ以前にあなたが言う『女性』になるということがどうしても現実に落とし込めないの」
母さんは、素直に認めた。彼女自身が逃げているということに。
だからなのだろうか。逃げたことを、弱さを認めた分だけ……。
「秋奈の言葉から察するに、春樹にそれ相応の覚悟があることは分かる。春樹だってその目線から嘘はついていないということはあたしにだって分かる。でも、やっぱりあたしには分からない」
「なぜそうまでして女の子に拘るの?」
母さんのその一言は、やはり残酷で恐ろしい言葉のようだった。
「……」
「どうして黙るの? 言いたいことがあるなら、答えは返せるんじゃない?」
「それは……」
まるで答えの出ない問題に無理やり答えを出させようとしているみたいだ。答えが出なかったら叱られ、適当に答えをひねり出してもやっぱり怒られる。圧力ではないか。
……いや、そこで圧力と思っちゃうからダメなんだよね。女性になりたいと思った理由はちゃんとあるし、それに対しての覚悟だってある。
もちろんそれが母さんの。世間も認めるところかというのは別問題だろうけど、それでも、言うしかない――。いつも助けてくれている秋奈の前だから、姉としてしっかりしないと。
「単純な話。女性のほうが生きやすいからだよ」
ふざけた理由。そう斬り捨てるには簡単な一言だった。でも、わたしにとってのそれは重大な要素が含まれていた。
「ふざけた理由だとは、わたしも自覚してる。でもね、男だったときのわたしはすごく生きづらかったの」
身長が低くて、華奢で、声が高い僕は……男性として求められることが何一つ出来なかった。それが原因で、クラス行事や色々なことで足を引っ張ってばかり。そんな僕を疎んで、みんなは僕をいじめた。それが辛かったというのもあるけど、それ以上に数少ない親友にまで当たってしまって。それがあまりに辛惨めで、ついにはこの世から居なくなろうとまで考えて……。
でも女性になったわたしは、どうか。背負わされていたハンデが無くなった分、ちょっとだけ素直に人と接することが出来るようになった。
「母さんは知らないかもしれないけど、男だったときのわたしはすっごく生きづらかった。でも、女の子になったことでわたしは変わった――」
友だちが出来て、今まで知らなかった世界を見ることができて。それは物理的な意味でなく、気持ち的な意味でもそうだ。
いや、もしかしたらわたしは、そもそも男として生きることが向いてなかったのかもしれない。身体能力という意味では無くて、男性世界の理というものを受け入れられなかったから。人と競争して蹴落として、そんなことが出来なかったから。
でも、女性世界にはそんなことは無かった。競争なんてしなくても、意地を張って無理をしなくて受け止めてくれる友人がそこに居た。辛いときに、後ろから背中を押してくれる妹が居た。
そんな人たちが居たから、わたしは今までよりもずっと強くなれた。気持ちの面で。
「いろんな人と関わりをもって、知らない世界へと出ていって。危ないこともやったし、いろんな人に心配を掛けたことだってあるかもしれない」
わたしは、一旦そこで切ると息を吸って続けた。
「……でもね、それって全部男の頃には体験できなかったこと。女性にならなかったら知ることができないことだ。今さら男に戻る利点なんて、どこにも無い。身体も女性化しつつある。だからこそ、わたしは女の子で居たいんだ!」
わたしが言いたいことは、結局のところそれだけだった。
今さら男に戻って、一体どう生活をすればいいんだろうか。せっかく作った友達も、楽しみも――全て消えてしまうじゃないか。
そもそも男に戻れるという保証だって無い。生理も来て、わたしの身体はもはや止められない勢いで女性化が進んでいる。
「確かに、母さんにとってのわたしは、男の子かもしれない。簡単に割り切れる問題なんかじゃないことなんて、百も承知だよ。でも……」
あえて最後の一言は言わなかった。言わずとも、二人にはわたしの言いたいことが分かるはずだから。言いたいことは言ったつもりだ。ここで否定をされたときは、もう仕方が無いことなのかもしれない。
「言いたいことはそれだけ?」
「ええ。それだけ」
その言葉を最後に、母さんは頭を抱えて悩み始めた。当然だ。こんな話を聞かされて、動揺しないわけが無いのだから。だからわたしも、彼女がどういう結論を出すか見守る。それは秋奈も同じ考えだったのかもしれない。
ピリッとした雰囲気から一転して、静寂がこの場を包む。肌に刺さるような雰囲気でなくなっただけまだマシかもしれないけど、それでも審判を下されるような雰囲気はやっぱり緊張してしまう。緊張で、心臓の動きが早くなり始めた頃のことだった。
「……そっか。初めて聞いたかもしれない。春樹の――いや、春奈の気持ちを」
ようやく口を開いた、彼女の言葉は意外なものだった。
「……今、春奈って?」
恐る恐る尋ねる。秋奈も今の一言には驚きを隠せないようで、思わず姉妹で顔を見合わせる。
母さんは、そもそもわたしが女になることを認めたわけでは無いはずだ。だから今の今まで、ずっとわたしのことを「春樹」と呼んでいた。だけども今、この場において母さんは初めて「春奈」という言葉を使った。
「お母さん、それって――」
秋奈もまた恐る恐る尋ねた。でも、母さんの返す言葉は……。
「確かに、言ったよ」
そう言いながら、顔を上げる母さん。だがその目には、普段見せない母の姿があった。
「じゃあ、認めて……」
そう言いかけて、気が付いた。母の目に、涙があふれていたということに。
「母さん、もしかしてわたし……」
辛かったのは、わたしだけでは無かった。そのことに、今さら気づいてしまったのだ。
今までわたしは、母さんのことをどこかで意思を認めてくれない頑固者だと思っていた。わたしの気持ちなんか見てなくて、常識を笠に着てわたしを男を戻そうとする。ある意味では敵とも思える存在。
でもそんなのは、わたしの。秋奈とわたしの勝手な思い込みでしかない。
「あたしは、あんたを男として育ててきた。男の子なんだもの、そうしたほうが幸せになれるって信じていたから。でもね……」
母さんの涙は、恐ろしいほどに静かなものだった。
「それがあなたには、逆に重荷になっていたのよね。なのにあたしは気づけなかった。仕事を言い訳にしてばっかりで、親としてあなたに向き合えていなかった。ダメな母親だったのかもしれない」
本当に母さんだけが悪だと言えるのか。違う、母さんは母さんなりにわたしの幸せを願ってくれていた。
確かに、常識を笠に着たところもある。でもそれは、やっぱり常識がこの社会で生きるうえでは圧倒的な正義だから。だからこそ、男として生まれたわたしを男として育ててきた。
それに、忙しくてわたしたちと向き合ってくれなかったことは事実かもしれないけど……。
「だってそれは、仕事が忙しくて。そうしないとわたしたちは生活できないから……」
母さんにそこまでのゆとりを求めるのは、あまりに酷じゃないだろうか。そもそも、わたしたちのほうが母さんに相談をするべきだったのだ。
今さらながら、わたしが放った言葉の影響力をしみじみと噛みしめる。だけども今さら、その言葉を取り消しできるわけも無くて。
「とりあえず、あなたたちの気持ちは分かった。今すぐは難しいけど、あたしも頑張ってあなたを受け入れる。だから……」
そう言って、母さんは席を立った。もうこれ以上この場に居たくない、というのもあるのかもしれない。だけどもその足元は覚束ないし、目には明らかにクマが出来ていた。
「あんたは幸せになること」
捨て台詞を残して母さんは立ち去ろうとする。そんな様子が、どうしても見ていられなくて。
「それじゃダメだよ!」
わたしは、立ち去ろうとする母さんの手を掴んだ。
「ハル姉……」
わたしの行動に、秋奈が驚きの声をあげる。でも、母さんをそのまま行かせるわけにはいかなかったのだ。
「それじゃ、今度は母さんが我慢して辛いだけじゃん!」
そういってわたしは、後ろから母さんを抱きしめた。前に秋奈がわたしにやってくれた時と同じように。
だってわたしは、今までたくさんの人に支えられてここまで来た。折れそうなときは、いつだってたくさんの人が真っ直ぐ立ち上がらせてくれた。それなのに、わたしのために周りが犠牲になってどうするというのだ。
「母さんは、自分が我慢すれば丸く落ち着くって考えたんだろうけど――それは違う。別に、わたしの全部を受け止めなくてもいいんだよ」
母さんは無言だ。それでも、わたしは続けた。
「誰が何と言おうと、わたしは安藤佳奈の子供。それは絶対。でもね、子どもは親が思うようには育たないし、親だって子どもが思うようには育ててくれないんだよ。だから全部理解なんて最初からしなくてもいいんだよ!」
確かにわたしは、女性として生まれ変わりたいと思っている。でもそれは、わたし個人の問題であって誰かに強制をするようなものではない。母さんだって、わたしを育てるうえで考えはあるだろうけどその全てをわたしが受け止めているわけではない。
「……わたしも、母さんの気持ちを考えずに散々酷いことをやったと思う。そこは反省してる。ごめんなさい」
でも、母娘ですれ違うなんてそれは当然のことなんだ。だってわたしたちは、同一人物じゃないのだから。ただそれでも、わたしが母さんの子どもであること。それだけは確かなこと。
「それでもわたしは母さんの子ども。だから、わたしだって母さんに寄り添わないといけない」
「……バカね。子どもがどうして親の心配を」
「するに決まってるじゃん! だって、わたしの幸せには母さんと秋奈の幸せが入っているんだから」
わたしが幸せになったとしても、母さんや秋奈が辛い気持ちになるならそれは本当の意味では幸せとはいえない。当たり前の話だ。
「……あたしも、だよ。ハル姉とお母さんには幸せでいて欲しい。あたしだって、お母さんの辛い顔を見たくないよ」
その言葉と共に、秋奈も母さんとわたしのもとへ駆け込んできた。母さんのぬくもりと、秋奈のぬくもりが伝わってくる。
「わたしは、母さんから見たら姿かたちをどう変えてもやっぱり息子なんだと思う。でもさ、息子だろうが娘だろうが、母さんの子どもには変わりないよ」
「あたしも同じ。ハル姉について思うところはあるけど、それでもあたしたちは親子で家族なんだよ」
気がついたら、秋奈も泣いていた。わたしもつられて、目頭が熱くなって。泣くつもりなんて全く無かったし、秋奈の手前で「泣く」という行動はしたくなかったけど。それでも涙は止められなくて。
そしてわたしたち家族は、身を抱き寄せてお互いの気持ちを伝えあった。
「……あんたたちに言われるほど、あたしは立派じゃないのに。立派な母親じゃないのに、どうして?」
「だってわたしは。わたしたちは、母さんの子どもなんだから」
「そこに、理由なんて要る?」
だいたい、ダメな母親って言うんだったらわたしたちだって……。
「ダメな母親っていうけど、わたしたちもバカな子供だよ」
わたしも秋奈も、母さんを泣かせるようなバカ娘だ。それでも、母さんは世界でたった一人の母さんだし、たとえどんなに迷惑を掛けてもわたしたちは母さんの娘でありたい。
「だから、ダメな母親なんて言わないで。そして、わたしの母さんになって欲しいんだ」
もう、言葉にはならなかった。ただ、わたしの幸せと母さんの幸せを叶えられるであろう、そんな言葉しか言えなかった。
「何を言ってるのよ。当たり前じゃない。あなたたちは、あたしの大切な……」
「娘たちなんだから」
そうか。わたしは、なれたんだ。
秋奈の姉に。母さんの娘に。そして――
安藤春奈に。
お待たせしました。この話を持って、第3章もついに完結です。
長いことシリアスな話がつづいてしまいましたが、春奈の気持ちが、身体が女性になっていく様子を丁寧に掘りさげることが出来たのではないでしょうか。
次回からは、第4章。夏休み明けの学園生活へと戻っていきます。春奈の日常生活に、さらなる出来事。出会いが舞い込んできますが、春奈はどのように乗り越えていくのでしょうか。




