51.「母帰る 」
家に帰ってきた。
靴を脱いで手を洗ったらすぐに買ってきた食べ物や日用品を、二人で手分けして所定の位置に戻す。それは、今日に限らずいつもの買い出しでも姉妹で協力してやること。それなのに今日に限っては、その雰囲気がいつもとは違う。
端的に言えば、さっきまでのやりとりが嘘だったみたいに沈黙のうちにその作業が行われていたのだ。
いつもだったら、多少は雑談なんかもしつつ作業をするのに。いやそれは、何もこの作業に限った話では無い。
「……お茶でも入れようか」
「そうだね」
そう言って、秋奈はやかんに火を掛ける。いつもなら、やかんに火を掛けながらでも雑談をするだろうに――それさえも今日は無かった。同じ部屋の同じダイニングに向き合って座っているのに、何も会話が無いというのが何だか居心地が悪くて。
『あのさっ!』
同じことを、秋奈も思っていたのかもしれない。ゆえに、全く同じタイミングで二人の呼びかけが重なってしまう。
「あっ、いや。秋奈からでいいよ」
「いやいや、ハル姉こそ何か言いたかったんでしょ?」
お互いに話の切り出しを譲り合ってしまう。だけども、譲り合ったところで言葉が上手く出てこなかった。
「……」
「……」
再びの沈黙。本当は、お互いに何かを話したいはずなのにどうしてこうなるのだろうか。
原因は一つ。たぶん、今この状況で何を話すべきか戸惑っているから。
だってそうじゃないか。会長からあんな話を聞かされて、のんびりと気楽に振る舞うことができるだろうか?
「ハル姉さ。生徒会長の言葉……」
わたしだけじゃない。秋奈だって気づかされたのだろう。性別が変わるということの、本当の意味での難しさや大変さを。そしてそんな話を聞いたうえでなおも「女の子で居て欲しい」ということは、軽率で何も考えていない言葉だということにも。
「気にしてないよ。やると決めたのはわたしだもん」
もちろん、秋奈がそんなことを何も考えないほどに愚かなわけもなく。だいたいこういう事態を招いたのは自身のせいでもあるわけで。
「自分の言葉には責任を持たなくちゃね」
そう笑いかけた。秋奈に責任意識を持たせないようにするために。だけども秋奈は、そういう表面的なことばかり気にしているわけでも無く。
「でもさ、会長の言葉。やっぱり無視できないよね」
彼女もまた、見抜いていたのだろう。
「……母さんのこと?」
「うん」
わたしの意思とは別の問題。
母さんの気持ち。母さんの考えに、わたしが向き合わないといけないということに。
「話し合うべきだ、とは思ってる。でも……」
上手くいく自信が無い、と言うつもりだった。
「あたしは、嫌だ」
それなのに、わたしが言葉を言う前に。わたしが言葉選びに悩んでいることを押し退けるかのように、彼女はそう言い放ったのである。
秋奈の言葉は、相当に強かった。というよりも、ここまで強烈な『否定』の感情を見たことが無かったぶん、わたし自身にも戸惑いの気持ちが生まれてしまった。
「どうして?」
それでもわたしは、秋奈の姉だ。姉である以上、妹の言葉には向き合う義務があるしそれが不適切であれば諭さないといけない。頭ごなしにではなく、努めて冷静に。でも威圧をしないように穏やかに問いかける。
「だってあの人は、ハル姉から逃げたじゃん」
それなのに、秋奈の言葉遣いが穏やかになることはなく、むしろさらに厳しい言葉で母さんの行動を批判したのだ。
「でもそれは仕事だから、仕方の無いことで……」
秋奈の言うことも一理あるとは思う。
確かに母さんは、結局わたしの気持ちを聞いてはくれなかった。秋奈がわたしの代わりにいろいろとわたしの気持ちを伝えようとしてはくれたけど、その途中に緊急の仕事が入ってしまいこの家を慌てて飛び出していった。
そうでなくとも、彼女はわたしを庇う秋奈に当たっているようなそぶりを見せていた。わたしに言えない分、というのもあるのだろう。
見ているのが辛くなかった、といえば嘘にはなる。
だけども、そうは言っても母さんが仕事をしているからこそ我が家の生活は成り立っているわけでそれを考えれば逃げたというのは正しいとも言えず。
「生活のためだもの。わたしが我慢しないと……」
腑に落ちない、というのはあるのかもしれない。けど、わたしは姉なのだ。正しいことを妹に伝えなくちゃいけない。
わたしは、正しいことを伝えたはずなんだ。
「じゃあ……自分がお腹を痛めた子供より、仕事のほうが優先されるの?」
それなのに、わたしの言葉はまるで響かない言葉であり、秋奈の言葉のほうがかえってキツくわたしに刺さった。
「あの人は親なのに、子どもよりも仕事を取ったんだよ? その意味が、ハル姉には分からないの?」
「でもそれは、わたしたちの生活のためで……」
「んなこと分かってる。分かってるよ……」
「でも、それでもあたしは納得できないんだよ! だって一番つらい思いをしたハル姉がどうしていつも我慢してるの?」
秋奈は怒っていた。わたしのために。正論じゃない、そんなこと百も承知で。
「お母さんも会長さんも勝手なことばっかり言って、姉ちゃんの気持ちなんて誰も分かってない!」
机を叩いて、感情的になっている妹。普段大人びている彼女だからこそ、そういう一面を見て驚いてしまう。そしてそんな時に限って……。
「――ただいま」
火種の原因となった人物が。母さんが……帰ってきたのである。




