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僕は女の子になりたい。  作者: 立田友紀
4. 若葉ガール、始まりの時
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46.「『僕』の終わり、『わたし』の始まり(後編)」

「……でも、ちょっとだけ待ってて。まだ家事とかやらなくちゃいけないことが残っているから」

 そう言って秋奈は、部屋を出た。

 「ちょっとだけ待って」という言葉。それは本当に言葉通りの意味で、秋奈にとってはどうしても残ってしまった家事を片づけるだけのつもりだったのだろう。だけどそのわずかな時間さえも心細くて、それでも兄として、姉として気弱になっていられず。だけれどもやっぱり……。

「――っく」

 気弱な感情が、涙としてあふれて再び枕を濡らすことになってしまう。

 男だったときはこんなこと決して無かったのに。最近はこんなのばっかり。その事実が、さらに僕自身のことを無意識のうちに責め立てた。

「……ハル姉?」

 その言葉に振り返る。そこに居たのは、タオルを持った秋奈だった。

「……やっぱり」

「どうせ僕は、泣き虫だよ」

 自虐だ。朝から続く情けない行動や振る舞い。年上として本当はいけないことだというのに、そんな姿を妹に見せることになってしまって。お昼にも同じことを思って、でもその時は「僕は病人なんだから仕方ない」とどこかで割り切れていたのだが、今となってはそれが惨めでしょうがなかった。恥ずかしくて情けないということもあるし、そういうのをせめて秋奈には悟られたくなかったのに。

 でも現実には、そんな弱い面まで彼女は見通している。彼女の手に握られたタオルが、何よりもの証拠だ。

 だからこそ続く彼女の言葉が怖かった。秋奈に限って僕を責めるような、あるいは僕に失望したという言葉は言わないのだろうけど。それでも何を言われるかが分からなかったのだ。

「……だから、見ないでよッ」

 ――男らしくない。

 ――もっと声を出せッ。

 ――そんな女々しいことばっかり言って、お前は女か?

 まぶたの裏にかつてのトラウマが蘇る。クラスメイトは情けない僕に失望して責め立てて、でもそれは彼らの言う通り僕が情けないからそう言われているわけで……だから言い返すというのも不条理な話で。

 だけども、それは分かってるけど……。


「僕が情けないってことは、もう分かってる。でも、もうやだよ……」


 これ以上、僕を悪く言わないでよ。

 本当はそんなこと言える身分でも無いクセに。

 枕に顔を再びうずめる。秋奈にさえ見せられないから。秋奈だからこそ、こんな姿を見せたくなかったから。

 それなのに彼女は――。

「だったら、こうすれば見えないよね」

 そう言って背中をやさしく撫ででくれる。その言葉通り、ベッドに座ってお互いに背が向き合う。彼女の手のひらは、冷たさで震えている僕の身体を暖めてくれるかのように。

「あたしからハル姉は見えない。でもハル姉が壊れそうになってることは、見えなくても分かるんだよ?」

「……まだ、壊れて無い」

「そう。だけどもそれはあたしのため。あたしの前では、常にしっかりとした姉ちゃんであってくれるから」

 あたしのため。その言葉が、僕の胸に刺さる。

「だから、今だって無理をしている。そうだよね?」

 うなづきたくはなかった。だってそれを認めてしまうことは、どこか恩着せがましいような気がしたから。だけども彼女は、そんな僕の気持ちの揺れに構わずさらに言葉を続けた。

「あたし、知ってるんだよ? あなたはどれだけ辛い思いをしても、心が壊れかけても……あたしのことだけは『妹』として大切にしてくれた」

 そっか、そうだよね。秋奈は賢い女の子だ。だから、分かってくれていたんだ。

 例え僕がどんなに辛くても、せめて秋奈の前では年上の兄であり姉として振る舞おうとしていたことを。それがしっかりできているかどうかは別問題としても。

「でも、だからこそ今は……見せられない。本当はしっかりとした姉ちゃんで無いといけないのにね」

 なのに僕自身が痛みに負けて気持ちに負けて、どうするべきか分からない状態で。秋奈に迷惑ばっかりかけてしまって。

 それって言いかえれば、僕の存在価値が無くなってしまうことになるんじゃないか――? そしてそれを認めてしまうってことは、もう僕の居場所なんてこの世から無いわけで……。

「ごめんね。なんか姉ちゃん、もうダメなのかもしれない」

 その事実を悟った瞬間、全てが怖くなってしまった。

 だって彼女の温もりは、何をやっても上手く行かない情けない姉である僕では無く、何でも(・・・)できて(・・・)頼れる(・・・)ハル姉(・・・)に向けられているのだから。

「……なんかもう分からない」

 気弱で心細くて、だから秋奈の温もりを頼ったはずなのに。それさえも今は頼れる気がしなかった。止めどなく涙はあふれて、それは枯れる気がしなくて。もう僕には、どうすれば良いのか分からなかったのだ。生きる気も場所も無くなって、今後どうやって生きれば分からなくて。秋奈のために頑張ろうにもこんな僕では彼女の足手まといになって。

 そう、思っていた。なのに彼女は。

「……なんでそんな小さなことで悩んでいたの?」

 背中に暖かい雫が落ちる。それがパジャマに染みて、すぐに冷めてしまって。何事かと思って慌てて振り返ると、そこにはさっきまで笑顔だったはずの秋奈の瞳のほうが決壊していたのだ。

「……そんなの些細なことだよ! しっかりとした姉ちゃん? そりゃ確かに、そっちにほうが良いのかもしれない」

「だけど僕は」

「だけどもっ! それでもっ!」

 良いのかもしれない。いや違う、良いに決まってる。そう言い切る前だった。


「例えどんなにダメなお姉ちゃんだとしても――あたしはハル姉が大好きなの。家族とか姉妹とかそんなの関係ない。好きで好きでしょうがないのッ!」


 秋奈はそう言って、僕の背中に覆いかぶさるように身体を重ねる。その事実に半ばパニックになりつつも、続く言葉が頭に中に無理やりにでも書きこまれてしまう。


「今度はあたしが姉ちゃんを守る。だから、そんな悲しいことを言わないでよッ!」


 その言葉と共に、僕は彼女(・・)に押し倒されてしまった。


 ◇


 数分程度の時間が過ぎた。さっきよりもお互いちょっとは冷静になったのか、無言が続く。それでもちょっと気恥ずかしくてお互いの顔が見られず、僕は布団にくるまって壁のほうを向く。秋奈もまた気まずいのか、ベッドに腰掛けて僕とは反対方向を向いていた。

 秋奈の言葉というか行動は、とてもすごいことだった。だってあそこまで僕のことを大切に思ってくれる人なんて居ない。自分に存在価値は無いから。そう思っていたはずなのに、秋奈は僕のことをものすごく大事にしてくれていて、しかもそれを直球で伝えられてしまったのだから。

 だけどもその気持ちを改めて言葉や行動で伝えられると嬉しいという感情よりも恥ずかしいとか戸惑いという感情が優先されてしまうらしくて……。

「……」

「……」 

 お互いの距離は近い。現に彼女のお尻と僕の腰はさっきから密着している。それなのに、その二つは毛布で遮られている。秋奈のあの言葉を最後に、お互いに言葉が出ない。

近くて遠い、それが今の僕と彼女の距離感を体現するようだった。

 だけども、ここで何かつながりを持たないと再び気まずい関係になってしまう。

「……驚いて、僕の涙も引っ込んじゃったよ」

 だから僕は、頑張って言葉を紡いだ。

「あたしも。何か気持ちが行き過ぎちゃって……」

「いや、僕も止めなかったからそれはお互い様だろう?」

 そう呟く。だけどもそれは秋奈にとっては否定的なニュアンスに伝わったらしく。

「……嫌だった?」

 静かだけど、それでもどこか悲しい。そんな言葉に聞こえてしまった。

「それは、違う」

 違う。でも、分からなかった。

「どうして、そんなに僕に秋奈は優しいの?」

 僕だって秋奈のことは好きだ。だってそれは、血がつながったたった一人の妹なのだから。血がつながった家族なのだから。親が子供に無償の愛を注ぐことと同じで、兄や姉が弟や妹に愛情を注ぐなんて当然の話だ。だからこそ、僕だって自身に出来る限りの愛情は注いできたつもりだ。

 だけども秋奈から見た僕はどうなのか。僕は兄としても姉としても、秋奈のための役割を満足に果たせなかった。なのに秋奈は、僕のことを受け止めてくれている。こんな僕でも認めてくれるっていうことが。

「僕は秋奈に何もしてあげられなかったのに……どうして?」

「そこに理由は必要かな? あたしがハル姉を好きになる理由が」

 その言葉と共に、僕の左手がぎゅっと握られる。秋奈の温もりが伝わってくる。

「ハル姉があたしを好きでいてくれていることと同じことだよ。その気持ちは」

 姉妹だから。だから例え出来が悪くても構わないということなのだろうか。逆なら分かるけど、僕が弟や妹の立場になったらそう思えるのだろうか。そう思ってしまう。

「……って思ったけど、やっぱり違うのかも」

 何が違うの? そう問いかけようと壁側から寝返りを打った時だった。

 僕の目の前に、秋奈の顔があった。目と目が合う。思えば、兄妹としてこんなに近くに顔を合わせたことて、あっただろうか。秋奈は僕の顔をまじまじと見つめる。そして静かに続けた。

「女の子なのに、眉間にしわよっちゃって……」

「そんなこと……さすがにっ」

 そう言おうにも、彼女に頭を撫でられたせいか続きの言葉が出なかった。

「……不器用なんだよ、姉ちゃんは。『人のため』にって気づかないうちに苦労ばっかり背負って、いつもそれで苦しんでばかり」

 不器用、なのだろうか。それは僕にはいまいちピンと来ない話だった。

「不器用なのかな?」

「不器用だよね? だから、この前だって同じクラスの子を守るためにってあんな大傷を負って帰ってくるし。その子の恋愛を実らせようと頑張って、結果上手くいかなくて。それは仕方ないにしても、それで傷ついたのはハル姉で……」

 秋奈の一言一言が、僕の頭の中で鮮明に浮かび上がる。確かに、それら一つ一つは秋奈の言う通りだった。

「女の子になる前だってそう。ハル姉は悪くないのに、同じクラスの子に酷い言葉を掛けられて。それでも自分のせいって思いこんでばかり。ハル姉だって責任感強いから、そういうの真に受けちゃうし」

「真に受けてなんか……」

「無い、って姉ちゃんは言うよね。だって姉ちゃんは、本当は誰にでも優しいから。たとえそれは『ハル姉』から『兄ちゃん』に。そして、『ハル姉』に戻っても変わらない」

 最初は否定しようと思った。でも、秋奈の言うことは概ね正解だと思った。だからこそ今も、辛い記憶が頭の中に刻み込まれているわけで。責任感が強いかとか優しいかとかはともかくにしても、本当なら放っておけばいい悪口の一つや二つを丁寧に聞き入れて。そして気づかないうちにパンクしちゃって。

「そんなの見てたら放っておけないじゃない。あなたのことが心配で。いつか壊れちゃうんじゃないかって。あなたは決して認めないけど」

 だから秋奈は僕に優しいのか? 僕のことを見守らなくちゃいけないっていう、いわば母親が子供を見守るようなそんな感情が芽生えたからってことなのだろうか。

「でもそれだけだとしても、ここまでする必要が……」

 それが分からなかった。ここまでする必要が、って自分の主観で考えてしまったから。

 だからこそ、続く秋奈の言葉は僕にとって衝撃的だった。

「そうね。だから言いかえるよ。結局あたしは好きになっちゃったの。あなたのそういう『優しい』ところが。ハル姉は、わたしのことしか守れなかったって言ってるけど、確かに守ってる。あなたの周りの人を」

 きっとそれは真実なんだろう。確かに秋奈には出来る限り年上としてしっかり接してきたつもりだ。それが優しさとして受け止めてくれたのなら、それは嬉しいことだ。

 でもそれ以外は……正直分からない。分からないというよりも、実感が湧かないという方が正しいのかもしれない。だってそんな守るだなんて大それたことを僕はしてないし。むしろ意図したことが裏目に出ることばっかり。それでたくさんの人を傷つけた。

「上手くはきっといってない。それで結衣や眞子を何度傷つけたか」

「傷ついたのはあなたでしょ? それが責任感が強すぎるってことなの!」

 秋奈の語調が、急に強くなった。その言葉に、背けていた目線を合わせる。そこには、涙こそ止まっていても悲しい顔をした秋奈が僕をにらみつけていた。

「ハル姉のことは大好き。でもあなたは、負わないで良い責任を負ってばっかり。姉だから、家族だから放っておけないってのもある。好きだから優しくしてるってのもきっとあるよ。でも……」


「傷ついてばかりのハル姉を守れるのは誰? それってきっとあたししかいない。あたしに課せられた義務なの。あたしがやりたくてやってるの!」


 その言葉と共に、秋奈のほうが僕を抱きしめたのだ。

「あたしだってもう何が正解なのか分からない。でも、あたしはあなたを守りたいの。好きな(・・・)人が壊れるところなんて、もう見たくないのだから」

「それは……」

 その行動が、かつての秋奈の全ての行動を思い起こさせる。僕が初めて女になったとき。初めて自分の意思で女の服を買おうとしたとき。母さんに問い詰められて何も言えなかったとき。

 思えばその全部が、「僕を守る」という意味で共通した行動だった。

「ハル姉が好きで好きでしょうがないんだよ。だからあたしはこうするしかないの」

 だから秋奈は僕が例えどれだけ情けない兄であり姉だとしても、こうやってそばにいてくれる。そういうことなのだ。それは、同じ家族として嬉しくてこれ以上に無いくらい心強いことなのだろう。

 だけどもその「好き」という言葉は一歩間違えれば破滅の言葉ともなりかねない。

「……秋奈。よく聞きなさい」

「うん」

「僕を守ってくれることは嬉しいよ。今のような辛いときでも味方で居てくれることも嬉しいし、ありがたい話だと思う。本当に、ありがとうね」

「うん」

「でも……」

 言いたくはなかった。僕のためにこうやって矢面に立ってくれている秋奈の意思を背くようなことを。

「僕だって秋奈のことは大好きだよ。でも、それで終わりにしよう」

 はっきり(・・・・)とした言葉では言えなかった。でも秋奈が言う「大好き」って言葉はもしかしたら……。

「秋奈は僕のことを好きでいてくれている。僕だって秋奈のことは好きだよ。でもそれって……姉妹としては持ってはいけない感情のほうの『好き』なんじゃ無いかな?」

 何となくだけど、僕はそう思ってしまった。杞憂であればいいのだけど、それ以上の感情だとしたらそれは兄妹としては間違いなく超えてはいけない一線だ。でも秋奈が言う「僕を守る」ということのなかには、きっとそれが入っている。

 もちろんそれが嫌だというわけではない。むしろ事実なら例え妹だとしても嬉しいし、その気持ちを受け止めてあげたい。でも世間はそれを許してくれるわけもなく、姉である以上本心とは別にそれを諫めるしかないのだ。もうどうするべきなのか……それは僕のほうにも重なる気持ちだった。

「もちろん今のは僕の想像だし、事実と違ったらそれで大丈夫。守ってくれることは嬉しいし、秋奈が良ければ今後も僕を守って欲しい。でも、それと『好き』って感情は混ぜちゃダメだよ」

 最後のほうは、本当に擦れ声になっていた。だって本当は、そういうことを僕自身が言いたくなかったから。だからこそ……。

「どうしてなの? それは、姉妹だから?」

 続く彼女の言葉が耳に痛かった。

「『姉妹』じゃ、好きになっちゃいけないの?」

「そういうわけでは無いけど……」

「……なんて、分かってる。あたしもその一線はマズいって自覚はあるから」

 その言葉と共に、秋奈は笑顔を見せる。そうか、こいつだって分かってるんだ。本当はそれはいけないことだって。だからこそ叶わない気持ちが、甲斐甲斐しく世話を焼くって形で発散されているのだろうか。

 そうやって秋奈はいつも何かを犠牲にしてばかり。こいつは僕のことを「世話焼き」と表現するけど。こいつだって同じじゃないか。そう考えたその瞬間だった。再び腹部に激痛が走り、そして熱い何かが漏れ出る。

「ゴメン、例のやつかも」

 そう言ってトイレに立つ。だけどこの時の僕は、秋奈を直視することができなかった。

 ……今の僕は、秋奈の言葉を良いことに己の弱さ(・・・・)をぶつけてしまう。そんな気がしたからだ。

46話です。本当は「平成」のうちにこの小話だけでも終えたかったのですが叶いませんでした(苦笑)。

というわけで、半年ぶりの姉妹の話です。


この話で、秋奈のこれまでの行動の意図をお伝えすることができたかと考えていますがその一方で春奈の複雑な内心を描くことになり作者としても複雑な気持ちになりながら書き進めることになりました。苦しい展開が続きますが、春奈が立ち直っていく課程を見守っていただければ幸いです。

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