45.「『僕』の終わり、『わたし』の始まり(中編)」
「ハル姉に、生理が来た」
それは、僕が本当の意味で「女性」になってしまったことを表す、決定的な一言だった。
その言葉に、母さんは言葉も出ない。いや、言葉を発することができなかったのは僕だって同じだ。だって僕だって、生理という現象がそれだけの重みを持つことを。その現象の意味を正確に把握していなかったわけなのだから。
逆を言えば、秋奈の一言は何とも言えない悪夢から目を覚まさせて。そして、現実を突きつけるには十分過ぎる言葉だったのだ。
「……春奈、今の話は本当なの?」
母さんの口調は重々しかった。
「うん」
だからどう答えるべきか。悩んで悩んで、やっと出せた言葉は肯定を意味する「うん」という言葉だけ。そしてその言葉を聞いた母さんは、ただ静かに「そう」と返すだけだった。
その一方で、秋奈は静かにお赤飯を食べ進めていた。それが当然だと言わんばかりに。
「……よく平然と食べられるわね」
その様子が気に食わないのか、母さんは嫌みったらしく秋奈に声を掛ける。
「夕飯なんだもの、食べない方がおかしいでしょ?」
そう切り返す秋奈は、静かに食事を進めていた。お皿に盛りつけられていたおかずやごはんが、次々と秋奈の口に運ばれて消えていく。その様子は、あまりの衝撃的な出来事で食が進まない僕たちとはずいぶんと対照的な様子だった。
「ええ、まあ」
母さんは腑に落ちないと言わんばかりの声で言葉を返す。嫌味が効かなかったということもあるし、秋奈が平然と食事を進めていることが納得の行かないことだったからなのだろうか。
「そう。秋ちゃんにとっては、願ったりかなったりな状況だからかしらね」
母さんはさらに秋奈を責めるかのように言葉を続けた。その様子を見ているだけで、辛い。本来責められるべきは、彼女では無くて僕なのに。
「秋ちゃんは、『お姉ちゃん』大好きだから。良かったわね」
母さんの鋭い言葉が、僕の心を切り刻む。
もう、やめてほしい。そんな言葉が、のどまで出かかったところで。
「……食べないなら下げるよ?」
秋奈もまた、冷たくて辛らつな言葉を母さんに返した。
「親に向かってなんて口を訊くのかしら?」
「別にそこまでの意図はないよ。ただ、お母さんさっきからイライラしてばかりだしもう休んだほうがいいって思っただけ」
そう言い、彼女は立ち上がってラップを取り出した。そして本当に母さんの膳にラップを掛け始めたのだ。母さんが抵抗するが、それを手で跳ねのけて無理やりお皿を下げ始める。
「イライラしているのはあなたじゃないの? まだ食べても居ないご飯を下げるだなんておかしいんじゃない?」
「おかしいのはどちらかしら? 本当なら、ハル姉のことを祝ってあげてやさしく見守るべきじゃない。なのにあなたは、現実から逃げてばっかり。たまには、親としてハル姉を見守ってあげてもいいんじゃないの?」
両者ともに声が徐々に高く、そして大きくなる。母さんの性格が秋奈にも遺伝したのか、その剣幕は両者ともに相当なものだ。だからこそ、気があまり強くない僕にはそれが毒でしか無いし、ますます心が痛む。ただでさえ辛いのに。二人には仲良くしてほしいのに。
「見守っているじゃない! だから今も、どうしてこうなったか聞いているわけでしょ?」
「ええ、嫌みったらしい言い方でね」
どうしてこうなったんだ。その言葉が、頭の中でひたすら脳内でぐるぐるする。
「だいたい、親ならもう少し優しくハル姉を受け止めてあげなよ!」
その言葉に、母さんは言葉を返せないのか黙りこくってしまう。だが秋奈は堰を切ったかのように言葉を続けた。
「そもそも今の状況で一番辛いのは誰だ? 言うまでも無くハル姉でしょ!」
それは……どうなんだろう。確かに今もお腹はちょっと痛いし、不意に何か漏れてくる感覚は残っている。男だったらそういうことは絶対に経験しないはずのことだし、これが今回に限らずこれからも続くならきっと辛いことなのだろう。
「たたでさえ生まれつきの女じゃないんだよ? それでも必死にもがいて苦しんで、今だって辛いの我慢してこうやって生きている」
元男だからこそ、そういうことを経験しないで良いはずなのにこの辛さが続く。確かにそれはある種の拷問なのかもしれない。でも、こんなに辛いのは何も本当に生理だからなのか。
「そんなハル姉のためにあたしたちが出来ることは何だ? 嫌味を言うことが、ハル姉のためになるのか? んなわけないでしょ!」
今本当に辛いのは――きっと二人のせいだ。二人がこうして言い合って、罵声という名の武器でやりあっていて。
僕たち家族はたった3人しかいないんだ。それなのに、そのうちの2人がこうやって喧嘩していて。もちろんその原因は僕がこうやって女の子になったことにあることは自覚をしているけど。それでも、ただでさえ気持ちが弱くなっているのに、二人の喧嘩ばっかり見せられて……。
「あたしたちに出来るのは、ハル姉の居場所を作ってあげることなんじゃないの? なのにあなたはハル姉から目を背けてばかり」
「目を背けているわけではないわ」
居場所を作るって何だよ。矛盾してるじゃないか。
「じゃあどうしてお赤飯を見て露骨に嫌がったの? それはあなたがハル姉を女の子として見ていないからじゃないの?」
「……ええ、そうよ。でも、子どもを産んだことも無いあなたに何が分かるの? 息子だと思って育てた子供が急に娘に変わるだなんて――。まだ接し方だって分からないのに、精神面だけでなく肉体面まで変わってもうどうしろっていうのよ!」
僕の頭上で言葉の刃が行き交ってばかり。こんなこと、僕は望んでいないのに。秋奈は僕をかばってくれていて、母さんは急に性別が変わった僕との接し方に悩んでいて。両者ともに僕のことを悩むあまり、僕を置いて喧嘩まではじめて。
「あなたバカなの? そんな言い訳いつまで通じるって思ってるの? それでも子供を見守るのが、本来の親の務めじゃないの?」
「親にバカって言うだなんて、そんな娘に育てた覚えはないわ!」
こんなこと……僕は望んでいない。
「いい加減にしてよ!」
我慢が出来なくなって、遂に机を叩いて立ち上がってしまった。
「分かったよ。二人の気持ちは。きっと知らず知らずのうちに、僕が女になったことで二人に負担を掛けていたんだよね。それについては謝る。ごめん」
僕の言葉に二人は、ぱたりと言葉の応酬を止める。
「母さん、僕が女の子になることに内心複雑だったんだよね。なのにその気持ちを考えてあげられなかった。僕自身でいっぱいいっぱいで。本当にごめんなさい」
「……」
「秋奈も。こうやって僕のことをかばってくれて。初めての生理で迷惑ばかりかけているのに、嫌な顔一つせず面倒を見てくれて今だって矢面に立ってくれてる。なのに僕は何もしてれあげられなくて……」
言葉が詰まる。どうすれば良いのか、僕自身気持ちの整理がついていないのだ。
そんな時、空気の読めない乾いた無機質な着信音がこの場を包んだ。鳴っていたのは、母さんの携帯だ。さっきまでの剣幕が嘘のように、彼女は静かに電話口の先の人と淡々と話す。そしてすぐに会話は切られて。
「……仕事行ってくる。あとで食べるから、ラップ掛けて置いておいて」
「そう。気をつけて」
その言葉と共に、母さんはソファに置いてあった鞄を取って出て行ってしまった。取り残されたのは僕たちだけ。だけどもあんな大喧嘩のあとでご飯なんて食べれる気力があるわけもなく。
「ハル姉、ご飯食べれる?」
「……ごめん。僕も今は」
「気にしないで。あたしもひどい言い方をしたわ。あなたの前で」
そう言い、彼女は静かに僕のご飯にラップを掛けて行く。その後姿が、急に小さく見えてしまった。
「いつまで立ってるの。体調悪いのだから、少し休んできなさい」
顔も見せず、彼女は僕へそう言った。
最悪だ。本当なら、年上の僕がこの場を取り持つべきだというのに。こうやって妹にばっかり気を遣わせてしまって。
本当に、兄として。姉として情けない話だ。だけども今の僕に何かできるわけもなく……心のモヤモヤを抑えきれないまま僕は自分の部屋に戻るのであった。
◇
少し休みなさい――秋奈はそう言っていたが、布団に入ってもどうにも寝つけない。理由は単純で、やっぱりさっきの家族喧嘩が頭から離れないからだ。それに加えて、この「生理」という現象がなかなか僕を寝かしつけてくれない。
所詮は血が出るだけだ――きっと男の人はそう言うだろう。正直、男だった頃の僕もそう考えるに違いない。でも当事者になった今だから分かる。ただ血が出るってだけじゃなくて、精神的にも脆くてしんどいということに。情けない、とは分かっている。でも、なんでも無いはずのことが気になって落ち着いて寝るに寝れないというのが実際のところなのだ。
こういった時は誰かに相談するのが一番だ。だから身近にいる女性として、眞子か結衣に相談しようとスマホを開く。だけども……。
「いや、こういうの聞かれるのは嫌か」
少し考えて分かったが、こういうのはかなりデリケートな話題だ。まして僕は元々は男性で、いくら今は女性であるとしても二人にとってその点は決して拭えない。相談された二人のほうでも回答に困ってしまうだろう。それを考えれば、こういうことは自己解決するしかない。
スマホで「生理」と検索する。確かにその手の情報は多く掲載されており、必要そうな情報があふれるばかりに入ってくるのだが……。
――何かが違う。
それが、調べてからの正直な気持ちだった。僕が欲しいのはただの情報や事実ではない。誰かにこの気持ちを聞いてもらうってことだった。だけどもそれをお願いする相手がいるわけもない。だとしたら、眠って時を稼ぐしか無いのか。
そう思いながら毛布をかぶる。だけど部屋が明るくて眠れないことに気づいて、照明を消すために再び立つ。そしてスイッチに手を掛けたときそのとき、タイミングよくドアがノックされた。ドアの隣がスイッチなので、ついででドアを開ける。
「あっ」
ドアの前に立っていたのは、秋奈だった。
「秋奈か、どうしたの?」
「いや、そのお腹空くかもだからって買って来たの」
そういい、コンビニの袋を手渡される。中に入っていたのは、パウチに入った飲むタイプのゼリーだ。
「ありがとう」
受け取って扉を閉めようとした。だけども、その瞬間「さびしい」という感情が舞い降りた。誰かと気持ちを共有したい。今のこの何とも言えない感情を、誰かに聞いてほしい。そんな気がして。
「秋奈、今って暇かな?」
僕はそう言って、彼女の腕をつい掴んでしまった。
「いいけど……どうして?」
掴まれた腕を見て、彼女は問いかける。どうして腕を掴まれているのか、分からないと言わんばかりに。
その言葉に、どう返せばいいのか分からない。今さら、相談したいだなんて僕が言っても良いのかって。あれだけ妹に迷惑を掛けたのに、これ以上に妹に迷惑を掛けて良いのか。
「ごめんね、迷惑だった?」
なのに、理性では相手に迷惑だってそう思っているはずなのに身体が、秋奈のぬくもりを欲していた。
「迷惑じゃないけど、珍しいね。ハル姉がそうするのって」
その言葉に恥ずかしさと理性がふと戻ってきた。慌てて手を戻す。
「すまん! ……もう寝るから、秋奈もさっさと寝るんだよ」
そう言って、さっきのことを無かったことにして扉を閉めようとする。だけども今度は、秋奈のほうが僕の左手を掴んできた。
「……どうして?」
思わず問いかける。数テンポ遅れて、彼女の顔を見つめる。お互いの顔を見つめ合う。すると秋奈は、急に何かを悟ったのか急に笑顔を見せた。
「どうしてだと思う?」
「質問返しをしないでよ」
「だってハル姉、本当は分かってるんでしょ?」
秋奈の問いかけは、時に哲学めいている。そしてその問いかけが意図するところは、本当に難しくて僕には分からなかった。
「……ごめん、本当に分からない」
「ハル姉、その鈍感さは変わらないのね」
「心細いんでしょ? だったら素直にそう言えばいいのに」
秋奈はなんでも知っている。僕よりも年下のくせに。
兄と妹の立場が変わってしまう。それは本当なら兄としてとても情けないことではないだろうか。だけども今日くらいは……甘えてもいいのではないだろうか。そんな気がしたのだ。
45話です。前回から引き続き、シリアスなお話になってしまいました。
春奈の精神も身体が急速に女性化している、ということもあるのですが今回はそれ以上に家族の反応が主軸となった回でした。保守的な母である佳奈と、柔軟な発想を持つ秋奈の価値観の違い。春奈の精神的な混乱の様子が伝わればと思います。
次回は、半年ぶりの(作中では一か月ぶり)の姉妹のお話です。二人は無事この試練を乗り越えられるのでしょうか。




