44.「『僕』の終わり、『わたし』の始まり(前編)」
◇第3章までのあらすじ◇
バラバラになってしまったみんなが再び仲直りすることを願い、眞子と結衣を夏祭りに誘いだした春奈。屋台や花火を楽しみながらも、3人の気持ちを素直に打ち明けたことで3人の関係は元に戻りかけたのだが――その直後に不良グループに絡まれてしまう。眞子と結衣を守るために、彼らに立ち向かった春奈だったが不幸にもそれが原因で2人を傷つけてしまうことになる。
自責の念に駆られる春奈。どうにもならないと半ば諦めながら街を歩く彼女の前に、クラスの番長格である宮川正輝と遭遇する。話を聞けば実は3年前の夏祭りの日にも、同じようなことがあったようで……。
眞子や結衣とダブルデートの行った日の翌朝。それは、ここ最近の中で最も最悪な目覚めを迎えた朝だった。
「……うっ」
目が覚めたと同時に、お腹に刺すような痛みが走る。いつもだったらお出かけした次の日なんて寝坊するくらいに気持ちよく寝ているというのに、今日に限ってはそれどころでは無い。それくらいの腹痛に襲われているのだ。
どうしてこんなにも痛むのか。原因はいくつか思い浮かぶ。まず、昨日の夕立に打たれたこと。そして、顔を包む冷気。まだまだ残暑が厳しい8月だというのに、外の霧雨のせいか気温は以上に低くて肌寒い。
「風邪……なのか?」
それならば十分にあり得る話だ。客観的にみれば、昨日の出来事や今の気温の低さで風邪をひいたとしても不思議ではない。だけどもそれならば、昨日の朝の時点で腹痛があったのはどう説明つければいいのだろうか。そもそも、おでこを触ってみても熱が出ているというわけでもないしお腹に来る風邪だとしても、今の痛みはそれとは性質が明らかに違っているようだった。
ともかく、腹痛を抑えるためにはまず薬を飲むべきだ。そのために身体を起こしたものの、痛みはさらに増していく。それに薬を飲むには薬箱がある1階へと降りないといけない。
「くっそ、最悪な朝だっ……」
痛みが激しく、いつもにないくらい口調が荒くなっていた。でも、女の子らしい、いわゆるおしとやかな言葉を使う余裕なんか今の僕にはとても無い。
痛みと戦いながら、手すりを伝って階段まで歩く。刺すような腹痛のせいで身体を支えることさえも辛くて、階段の手すりを掴みながら何とか1階へとたどり着いた。そこまで行けば、誰かが何かをしているだろう。そんな淡い期待を胸に、リビングにつながるドアを開ける。だがそこには……。
「……まあ、夏休みだしな」
いつもは誰かが起きているのだろうけど、夏休みで学校が無い以上秋奈が早起きをするわけがない。母さんだって必ずしも家にいるわけでは無いし、なんなら夜勤に出かけている可能性だってある。言い換えれば、頼れる人間はどこにも居ないということだ。
その事実が突きつけられて、不安で仕方が無くなる。だけども中学生にもなってたかが腹痛で人になんか甘えていられるだろうか。世の中には、風邪でも仕事に行く人だっているくらいなのだ。たかが腹痛で周囲に迷惑なんて掛けてはいられない。
とりあえず、冷蔵庫の中にあるゼリーを一口だけ食べて胃薬を飲む。そしてそのまま休もうと、再びドアのほうへと歩みを進めた。
いつもだったら、せめて秋奈の朝ごはんくらいはと思って何か用意をするのだが、今日に限ってはさすがに厳しい。せめて彼女に一言伝えてから休もうかと考えていたその時だった。
「……ッ!」
それは、お腹を裂かれたと言うべきか。それ以外の言葉が見つからず、あまりの痛みにうずくまることしか出来なかった。
「な、何……ッ!?」
自分自身に何が起こっているのか、もはや僕自身でも把握が出来なかった。だけど、床にぽたぽたと落ちて広がる赤黒い液体に、僕はただおののくことしか出来なかった。
「なんで……なんで……っ?」
どこからそれが出ているのか、もしかして本当に包丁で刺されたのかと思いながら恐る恐る下腹部を眺める。
「……うそ」
赤黒い液体が出ていた場所は、僕の想像とは全く違うところだった。だけどもそれは、僕が知る限りその液体が出て良い場所では無かった。震える右手で、パジャマの上から股間を触る。手のひらに着いた温かいその液体は赤黒くてかって、鉄臭い。おそらく、その液体の正体は……。
「ち……血っ……?」
そうこうしている間に、再び体液があふれ出す。床に赤黒い液体がぽたっ、ぽたっって広がっていって。
「いやだ、こんなの……」
そう言って股間を抑えた。それでも血は太ももを伝う。その現実に耐えきれなくて。
「いやあああああッ!」
そこから先は、僕自身も分からない。数分くらいの行動の記憶が無くて、気が付いたら――僕は、トイレでうずくまっていたのだ。太ももを赤く濡らしたまま。
◇
「姉ちゃん! ハル姉ッ! 返事してッ!」
ドアがドンドンと叩かれる。何事かと思って顔を上げると、外からは秋奈の張り裂ける様な声が聞こえてきた。
「返事が無いなら開けるからねッ!」
その言葉と共に、鍵が開けられてドアが開いた。ドアの先には、血相を変えた表情の秋奈がまるで鬼のような形相でこちらを見つめてきた。
「ハル姉っ、大丈夫!?」
そう言い、彼女が僕のことを抱きしめる。彼女の息は荒い。きっと僕自身に何かがあったと思って気が気でなかったからなのだろう。だけれども、自身の身に何が起こっているかさえ分かっていない僕にはそれがなおさら恐怖にしか映らなくて……。だからこそ僕は、恐怖のあまり秋奈のことをつねるように強く抱きしめてしまったのだ。
「ハル姉……」
「なんなの、これ?」
そう秋奈に問いかける。
だって、そうじゃん……。理由も無いのに股間から血はあふれてしかも止まらないし。お腹は刺すような痛むし、どう考えても普通の風邪っていえる状態じゃないのだから。それとも、内臓でも破裂しちゃったということなのか。
「もしかして、死んじゃうってこと?」
そんなの――嫌だよ。こんな形で死ぬだなんて、いくらなんでもあんまりすぎる。いつの間にか太ももは赤く染まっているし、トイレの水も赤く染まっていて、まるで今にも断末魔が聞こえてきそうな状態。それとも地獄から迎えが来たってことなのか。
「ハル姉大丈夫だから! まずは落ち着いて!」
そう言いながら、秋奈は僕の背中を優しく撫でてくれる。だけどもそれで恐怖心が和らぐのか。寒さもあって、震えが止まらない。
「よく聞いて。それは女性なら当たり前のことで、だから怖くないんだよ?」
そう言いながら彼女は僕の背中をさする。
女性なら当たり前で怖くないこと。それは、女性としては先輩の秋奈が言うことなのだからたぶん事実なのだろう。
だけども、その一言で恐怖心が全く無くなるかと言うと、そんなことは無いわけで。
「それは……でもだってこんなに血が出てるのは……?」
現に床には僕が出した血がぽたぽたと垂れたまま残っている。そしてそうこうしている今もまた、血が漏れて出てきている。お腹は刺すように痛むし、血だってこんなに出ているのにどうして大丈夫と言えるのか。
「……秋奈は大丈夫って言うけど、それでも怖いよ」
最後の言葉は、涙声になっていた。それは、痛みのせいでもあるし精神的におかしくなっているというのもあった。もうどうすれば良いのか、僕自身でさえも答えが出せなかったのだ。
「……そうだよね。ハル姉は男子だったから、そういうの習わなかったのか」
男子だったから、それが意図する言葉が分からなくて思考が止まる。だけども直後に続く彼女の言葉は――。
「要するに、ハル姉に『初経』。生理が訪れたってこと」
本当に、僕の想像を絶するような言葉だったのだ。
◇
それからは色々な意味で酷かった。
股間からひたすら血はあふれるし、それが断続的に流れて止まらない。ティッシュでふき取って何とかなったかと思ってもまたすぐにあふれてしまう。その度に床を血で汚してしまうし、下着も血でベトベトになってしまった。
秋奈はすぐによく分からない当て布がついた替えの下着を取ってきてくれたが、その間にも血はとまらなくて最後は秋奈に僕の股間を拭いてもらうという始末。おまけに腹痛が痛すぎて僕は動けないから、僕が汚した床だというのに秋奈に拭かせてしまうことになってしまった。
「秋奈……本当にごめん。薬も飲んだし手伝うよ……」
せめてもの罪滅ぼしに、と出来る範囲でやろうと身体を起こす。だけども、やっぱり身体は言うことを聞かないし。
「良いから病人は寝てなさいな」
さらに秋奈に言葉で止められてしまう。
病人って言うけど、話を聞く限り月経って女性なら誰にでも起こりうることだそうな。それなのに僕だけこんな楽な思いをしても良いのだろうか。
だいたい月経の処理だって本当は自分でやるのが当然だというのに。それなのに、お腹が痛いとはいえ僕はソファーで横たわって毛布まで掛けてもらって反対に秋奈を働かせてしまうことになって……。
それに、落ち着いて考えれば秋奈と僕はこの前の夏祭りの一件から微妙に仲が悪い。もちろん秋奈の言うことは正論なわけだが、それを素直に認めれば僕のプライドがズタボロになってしまう。そんなわけで仲直りもロクに出来ていないのに。自分勝手は承知だけど、仲直りもしていないはずの妹が僕のために代わりに面倒を見てくれることに、罪悪感で胸が痛い。
「今回だけだよ。だいたい今まで男だったハル姉が生理なんて言葉知るわけ無いのだから仕方無いじゃない」
「そうかもだけど……」
それでも、兄の不始末を妹の処理させるだなんてそれは兄として失格では無いだろうか。逆なら分かる。たった一つとはいえ僕は秋奈よりも年上で、その分だけ人生の先輩。秋奈よりも人生経験が多いのだ。それなのに現実は、秋奈に叱られて面倒を見てもらってばかり。
今日だって、いくら初めての出来事だったとはいえトイレを開けさせてまで秋奈に面倒を見てもらうとは……それが情けなくて辛かった。
薬のおかげで痛みは少しずつ引いてきたけど、代わりに罪悪感がどんどん増していく。
「ナプキンはテーブルの上に置いておくから勝手に使ってね。勿体ないとかそんなことは気にしないで、トイレに行くたびに変えるんだよ」
その言葉に従ってトイレに行くたびにナプキンを変えていく。最初はおどろおどろしかったけど、3回目くらいになると作業自体には慣れたらしくて何とか一人でもできるようになっていた。だけども、トイレに入るたびの眺めることとなるナプキンの血は何度見ても気が滅入ってしまうシロモノだ。
まさかとは思うけど、秋奈は。母さんもだけど、毎月毎月こんな思いをしているのだろうか。全世界の女性が、生理のたびにこんな辛い思いをしているのだろうか。そんな辛い思いをしているのに、何事も無いように振る舞っているというのか。
正直それは今でも信じられないし、受け入れがたいことだった。そもそも僕が女の子になりたいって願ったその理由も、女の子になれば男だったときみたいに何かちょっと出来ないことがあっても酷いことを言われない……そう思っていただけだったのだ。
確かに僕は女の子になることを望んだけども、その代償としてのこれはあんまりだ。
「……いや、自己責任だよね」
だけども、その代償がどれだけ厳しいとしてもこうなることを望んだのは僕だ。知らなかったから、では済まされないしそう願った以上はその責任を受け止めるしかあるまい。
泣き腫らした顔を両手で叩き、己に喝を入れる。かつて初めて女の子になった時と同じように。
手を洗って、リビングに戻る。秋奈は相変わらずリビングで雑誌を読んでいた。いつもだったら、さっさと自分の部屋に戻って読むだろうに。
「……心配掛けたよね。もう僕は大丈夫だから、部屋でゆっくりしても大丈夫だよ」
「別に? ただ今日はここで雑誌が読みたい気分なのよ」
秋奈は素っ気なくそう答えた。
だけどもそれは本意では無いのだろう。ならばどうして彼女は長く座っていると腰が痛くなるようなダイニングの椅子なのにずっと座っているのか。それはきっと……。
「ハル姉こそ体調悪そうだし、ちょっとは寝たら? 痛いなら薬出してあげるよ」
きっと、ではない。僕のことを心配しているから。ただそれだけなのだろう。だってこいつは、口こそ悪いけど本当は心優しい女の子なのだから。素直には言わないだろうけど、僕のことをずっと心配してくれているから。そういうことなのだろう。
「それくらい自分でやるよ」
だけども僕は、素っ気ない言葉しか返せなかった。
「秋奈こそ、僕のことを気にせず、戻ってもいいんだよ?」
そう言い、布団にくるまる。本当はもっと優しい言葉を掛けるべきなのだろう。でも。こうでもしないと秋奈はいつまででも僕のことを看病するだろうし、そのために自分のやりたいことだって捨ててしまう。
僕だって、秋奈にとっての理想の兄にも姉にはなれないけどそれでも秋奈の兄、姉を長いことやっている。あいつの考えることくらい、お見通しなのだ。
「分かったよ。そこまで言うなら、あたしも退散するわ」
そう言い、彼女は雑誌を閉じて立ち上がった。ここまで面倒見ておいてもらってなんてひどい言い方だとは思う。でも、きっとこれで良かったのだろう。リビングから出ていく彼女を見送りつつ目を閉じる。僕も寝よう、そう思ったからだ。
それなのに……。
「……ハル姉のばか」
部屋を出る際に放った彼女のその一言が、僕の心に重く沈んでいったのであった。
◇
少し休むつもりが、目を覚ましたらいつの間にか日は沈んでいた。
「あら、春奈。目を覚ましたのね」
僕が起きたことに気づいたのか、向かいのソファーでテレビを見ていた母さんが声を掛けてくる。というか、いつの間にか帰ってきていたんだ。
「母さん、お帰り」
「ただいま。っていっても2時間前には帰っていたけどね」
そうだったのか、と思ったけどソファーの間のテーブルにあるコーヒーと食べかけのお菓子が時間の経過をはっきりと僕に伝えていた。逆を返せば、それに気づかないほどに薬が良く効いていたということなのだろう。だけども今後は、生理のたびにああいう薬を飲むしか無いのか。それはそれで大変な話だ。
それに秋奈がこの薬を勧めたということは、もしかしたら秋奈もまた生理痛はこの薬で痛みに耐えながら生活しているということなのだろうか。そう考えると、実妹の生理事情を知ってしまった気がして元男としては何だか複雑な気分だ。
ともかく体調が戻った以上はいつまでも寝ていられない。いろいろ面倒を掛けた分二人においしいものを作ってあげようと起き上がるのだが……。
「あっ、ハル姉起きたんだ。ご飯食べれそう?」
おいしいものを作ろうとする前に、秋奈によってすでに今日の夕飯が作られていた。
「揚げ物とかじゃ無ければたぶん大丈夫」
「まさかそんなのは食べさせないって。普通のご飯だよ」
そう言いながら、彼女はダイニングの上を指さす。確かに、ダイニングの上に広がっていたのは里芋の煮転がしやおひたしといった病人食では無いけど消化に良さそうなものばかり。ぱっと見れば何の変哲もない普通の夕飯だ。
「ごめんね、当番じゃないのに」
「いいのよ。病人は休むのが仕事でしょ? まあ病人じゃないけど」
「え? 春奈風邪引いたから布団被って寝ていたのでしょ?」
「まあそうね。……体調を崩していたのは事実なんだけど」
そう、秋奈は言葉を濁した。
「まあいいわ。春ちゃんもご飯食べたらさっさと休みなさい。とりあえず食べましょう」
そう言い母さんは席に着いた。僕もまたいつもの席に座る。あとは、ご飯がよそわれるのを待つだけなのだが……そのご飯の香りがいつもと気のせいか違う。
「秋ちゃん、気のせいかご飯いつもと違う匂いしない?」
同じことは母さんも気づいたらしい。母さんもまた不思議そうな顔で秋奈に尋ねた。だが彼女はその質問には答えず、ご飯をよそう。
そして……。
「はい。これはお母さん。これはハル姉。ごま塩はテーブルに居ておいたから勝手に使ってね」
そう言いながら出されたご飯は……よりによってお赤飯だったのだ。
「ちょっと秋奈、どういうことなの?」
あまりに予想外なメニューに、母さんは目を白黒させながら問いかける。いや、目を白黒させているのは僕だって同じだ。
「ごめん、今日って何かのお祝いでもあったっけ?」
だってそうじゃないか。お赤飯って基本的におめでたい日に食べるご飯だ。なのにどうして今日? そもそもおめでたいことなんかあっただろうか。いや、むしろ僕からすれば散々な日だったくらいなのに。だが僕は知らなかった。このお赤飯の、本当の意味を。
「お祝いって言うべきかは分からない。でも慣習だからね。あたしの時もそうだったし」
「……ちょっと待って。それってまさかッ!」
母さんの言葉は、いつになく鋭かった。まるで刃物のように、人を刺し殺せそうな剣幕で。だけど秋奈は、そんな剣幕をものともせず静かに答えた。
「そのまさかだよ。でしょ、ハル姉?」
そう言い、秋奈は一瞬だけ僕を見つめる。そして続けた。
「ハル姉に、生理が来た」
44話です。リアリティを重視するか、デリケートな話題だからこそ控えめにするか悩みました。
だけども、きっと男の子で事前知識が無かったら相当なパニックになるだろう。それに、元男の子だからこそ月経という出来事にどう反応するのかを突き詰めた結果こうなりました。
内容としては残酷ですが、春奈にはこの逆境を乗り越えるしかありません。春奈はどうやってこの出来事を乗り越えるのか、次回に続きます。




