4.「爆誕、安藤春奈」
瞳を開けて、身体を起こす。
顔に掛かるのは、太陽からの柔らかい光。肌に触れるのは、初夏らしい暖かく乾いた空気。今日も、僕が住む町はいい天気のようだ。
「うーん。朝だなぁ」
布団から抜け出して、身体を伸ばす。昨日の夢みたいな出来事がよほど疲れたのか、恐ろしく熟睡してしまったらしい。その分、いつもに無いくらいに目覚めが良い。
ラジオ体操でお馴染みの、「新しい朝だ希望の朝だ」とはこういうことを指すのだろうか。しかしそうはいっても……。
「あぁ、夢オチを期待してたんだけどなぁ」
身体を伸ばし終えると、肩に髪が掛かる。相も変わらず胸はわずかに膨らんでるし、下半身にあったそれはきれいに消えてしまっている。3か所を手のひらで触っては見たもののそれで現実が変わることもなく――残念ながら、「希望の朝」という言葉はすぐに撤回しないといけないらしい。
もちろん、こんな生々しい夢が夢扱いされてしまうのもそれもそれで困ってしまうところだが……それにしたって性別が変わるだなんて出来事は夢で終わってくれないとなかなか困ってしまう。
男らしさとかそう言う点はさておくにしても、今まで男として生きてきた分女性に求められることなんてテンで分からない。それでもなってしまったものは仕方ないし……。
「あぁ、とりあえず考えないでおくか」
いろいろ頭が痛いとはいえ、とりあえず今日も休み。無理に外に出る必要は無いのだから、ゆっくりと家の中で解決案を練ればいいのだ。そうと決まれば、話は早い。すぐにパジャマを脱いで、いつものTシャツとチノパンに着替える。
だいたい女になったからと言っても、服は存外違和感なく着れたんだ。言うほど大した問題にはならないだろう――そう高を括ってはいたのだが……。
◇
「――この格好は一体何だっ⁉」
朝っぱらだというのに、僕の悲鳴というか怒声というか――その二つが混じったものが家全体にとどろく。
「女の子のだけど」
「僕は男だぞ?」
「じゃあ、男の娘?」
「上手くないわ!」
わなわなと身体を震わせながら、視線を姿見へと向ける。姿見に写る僕の姿は、着る前の時点での予想よりもはるかに女性っぽいもので、それゆえに思わずため息をついてしまう。
……記憶が確かであれば、僕はTシャツとチノパンを着て居間に降りてきたはずだ。しかし今のこの服装は何だ? 黄色のトレーナーというかTシャツというか、そこはまあ良い。しかしその上に着てるのは、デニム地の吊り下げるタイプのスカート。完全に女性が着る服ではないか!
しかも胸元には、わずかとはいえしっかりとした膨らみが二つもついている。これを見て、誰が僕を男だと考えてくれるのか。どう考えても、女としか見られないことだろう。
「あら、似合うじゃない」
「ホントそれ! てか、悔しいけど買った当人であるあたしよりも着こなせている感じさえあるんだよね」
「いやそうじゃなくて、これは何だ?」
「エプロンスカートでしょ」
「あたしのだけどね」
「そういうこと訊いてるんじゃないよ!」
とりあえずこの服がスカートと呼ばれる女の衣装であることなんか見ればわかるし、これが誰の所有物なんか秋奈以外に誰が居るというのだ。まあ母さんの持ち物だとも考えられなくは無いけど、ぶっちゃけこの状況で誰の持ち物かなんてはっきり言えばどうでもいいことだ。
そんなことよりも。
「なぜこれを着せられたんだよ?」
百歩譲ってさっき僕が来てた服があまりにまずかったというなら仕方ない。けどTシャツにチノパンってそこまで変な服装だろうか? というか、見えていないけど何故下着まで女物にさせられたんだ。
「なぜって、今の春樹は『女の子』でしょ? だったら女の子らしい服を着るのが当然じゃない?」
「いやいや、ちょっと待ってくれ」
うーん、そこだけ切り取れば確かに母さんの言うことはもっともなように思えるけどさ。しかしちょっと待ってほしい。そもそも僕の実生活では、学校以外でそうそう外に出かけたりはしない。ということは、自ずと制服以外は服の必要性が無いというのが実情になってくるのだ。もちろん、女性の服に抵抗を感じているというのが最大のポイントではあるのだが。
「ゆーて女の服装をする必然性が無いのだが?」
「でも男の服を着る必然性も無いじゃない。というかそっちのほうが可愛いし、あたしたちの目の保養になるからこれで良いの!」
よっぽど女性の服を着せたいのか、母さんに続いて秋奈まで追撃してくる。しかも理由が目の保養って――もはや僕の言い分など聞く気なしと言ったところか。
「それと勘違いしないでね。目の保養とはいったけど、実際のところ男物と女物はちょっと服の作りが違うのよ。だからその点でも、女物が良いってだけ」
ただ最後のところだけは、現実味のある一言だ。まあ認めたくは無いが、確かにさっきのチノパンはちょっと僕の身体に合っていないとは薄々感じてはいた。あまり認めたくは無いけど……そう言われると女物の服を着るしかない気がしてきた。
「困った話だなぁ」
立ってるのも疲れたし、その場であぐらをかいたものの。
「あと春樹、スカートであぐらは止めなさい」
「何でだよ?」
「……見えるからだよ、兄ちゃん」
「はぁ? うわーもう、めんどくせぇな!」
慌てて立ち上がって膝を合わせる。さすがにこうすればパンツは見られないだろう。
「と言いつつもその仕草は女の子ね」
「うっせぇしばくぞ!」
くっそ、どうあがいても秋奈のやつ煽って来やがって。
いや確かに精神的に男だからとは言っても、さすがにパンツは見られたくない。しかしそれを避けようとすれば女らしいと言われてしまう。まあそれが自然なことなんだろうが、それにしたって屈辱的だ。しかも秋奈はダメ押しとばかりに死刑宣告をかましてくる。
「あっ、そうそう。下着で思い出したけど、下着も女物をつけようね」
「はあ? それじゃ完全に変態じゃないか!」
「そう言ってると、体育の時間で泣きを見るよ?」
「知るかそんなもん! つか、男の制服でブラなんかつけて見ろ。どうあがいても変態だよ!」
ブラが必要って言うけど、今のところ必要性を全く感じない。1万歩譲って胸が大きいならともかく、ぶっちゃけこのサイズなら男だって押し通すことだってできると思うんだ。というかいきなり性別が変わっただなんて表ざたにしたらますます面倒な事態になるに決まっている。
「これ以上大きくなるようなら……ブラの着用も検討するが。今はつけなくて構わん!」
これ以上面倒事は起こしたくないのだ。ただでさえクラスで針のむしろなのだからさ。ところが、この一言が事態をますます厄介な方向へと進めさせてくれる。
「そういえば、連休開けると学校があるのよね。――実際、本当にどうするの?」
母さんが、いつになく真剣なまなざしで問いかけてくる。最悪だ。せっかく後回しにしようと思ったのに、一番の問題がいきなり目の前で重くのしかかってきたのだから。
「……まあ、今まで通り通うしかないだろ」
運が良いのか、姿かたちはそんなに変化していないので最悪男としてゴリ押しすることは不可能では無いと思う。どうせ元から男らしく無かったんだ。女になったところで誤差の範囲内だろうし、そもそも女になったわりに女らしい体つきでも無い。
「髪だけバッサリ切って、あとはいつも通り。以上だ」
仕方ないから、この服は今日は着とくがな。そうとだけ言って、話題を切り上げようとした。
まあ実際、女になった以上は女として生活できれば男性であることがバレることも気にしないで良いし、正直やりやすいのだけど――それを言えばこの二人から何を言われるか分からない。
ところが、この僕の宣言が秋奈にとっては不服だったらしい。
「……本当に? それでいいの?」
秋奈は、まるで睨むかのような鋭い目線で僕を射抜く。
「それでいいかといわれても……そうするしかないだろ?」
「本当に? 必ずしもそうと言いきれるの?」
今日の秋奈は、というか昨日からこいつは妙に変だ。さっきまで僕のことを着せ替え人形にしてみれば、今度は心にグサグサと刺さることを言う。いつもは、年頃らしく反抗してはバカなことばっかりやっているというのに昨日あたりから急に妙に真面目で真っ当なことばかり言い出すのだ。
振れ幅があまりに大きすぎて、付き合うこっちまで疲れてしまい。
「……まあ余程ヘマをやらなきゃまずバレ無いし、大丈夫だろう」
神妙な顔で答える。しかし秋奈はその言葉が気に食わないらしい。
「……バカなのかな?」
そう毒づいて黙り込んだのである。
「バカとは何だ!」
「バカに対してバカと言って何が悪いのさ? 兄ちゃん、今の状況本当に理解してる?」
「分かってるさ。しかし波風が立たないやり方と、僕の身体の現状とを天秤にかけた結果このままがいいと判断しただけさ」
「へー。それは大した頭脳をお持ちですこと。あたしは、素直に女子生徒として学校に通った方が後々楽になると思うんですケド」
そう言って、ふてくされる。当事者は僕だというのに、変なやつだ。
もちろん、秋奈の言い分も一理ある。このままの状態。秋奈からいうところの「男装」の妥当性はいったん置くにしても、実際にこのまま学校に行くという事はかなりリスクの高い行動だ。表面上は一番波風が立たないというのは確かなことなんだが、もしも正体がばれてしまったときどうする? その点のリスクが大きいのは事実だ。
しかし現実問題として、学校での性別変更っていうものはそう簡単には出来ない。それを連休中のこの一週間でできるわけも無いし、ましてこんな不可思議な事態を前に特例なんて出るはずが無い。
「現実を考えろ。残念だけど、これしか手段は無い」
秋奈の言うことがあとあと楽になるとは言っても、世の中って意外に融通が利かないものなのだ。案の定秋奈は黙り込んでしまい、そっぽを向くことしか出来ない。今は不機嫌だがしばらくしたら機嫌が戻るだろう。取りあえず今はこれで一件落着としておこうとするが。
「だったら、女の子として学校に通えばいいんじゃない?」
母さんが放った言葉は、あまりに斜め上のもので。
「人の話聞いてた? 戸籍変更が難しくてそれが無理だから、男のままにするって話にしているんでしょうが!」
斜め上の提案に、思わず大声でツッコミ返す。
確かに女の子として通うことが出来れば、この問題はすぐにでも解決する。だけど、そうするには超えなくてはならない壁があまりにも高すぎるのだ。
「いや、無理ではないでしょ? 事情を話せば何とかなるんじゃ……」
母さん、今の話を本当に聞いていたのだろうか?
「それで何とかなったら、『お役所仕事』なんて言葉は無いでしょうよ。ともかく、正規の手段を踏まないと編入は難しいってこと」
それ以前に、なんで僕が女の子になってしまったかもわからないのにうかつに行動を起こせないというのもあるけど。なんで女の子になったのかを説明出来ないと、こういう手続きは出来ないわけなのだから。信じてもらえるかは別として。
ところが母さんは、おもむろに携帯電話を取り出してとんでもないことを言い始めたのである。
「大丈夫。私の知り合いに、市の偉い人が居るから。その人に取り成しをお願いすれば」
「無茶でしょ?」
さすがにこの時代に、コネは通じないと思うけど。
「無茶かどうかは、やってみないと」
いやいや、そんな軽いノリで言われたところで出来ないことは出来ないから! でも彼女は、僕の言葉なんかまるで耳を傾けずに電話を掛け始めた。
「もしもしお疲れさん、休日にゴメンね~。今暇だったりする? ちょっとお願いしたいことがあるだけど、大丈夫かな?」
随分とフランクな口調で、とても頼みごとをするようには思えない話し方だ。それに、相手は市の上役っぽい人らしいけどそんな人といつコネを作ったのか、そっちのほうが子供心に気になってしまう。しかし、挨拶を終えるとさすがの母さんも急に真剣な顔をして……。
「……実は、うちの親戚の子がいじめを理由に転校を希望していてね」
あぁ、それらしい妥当な理由ではあるけどそれを聞くと心が痛む。もちろん僕自身がいじめられていたのは……まあ半分事実だからそう言う意味では傷ついてないけど、しかしそれを認めるのもまた嫌な気分になってしまうのである。
「で、うちの息子と入れ替わりにさせてあげたいのよ。……え、何無茶ですって? そんなの気合で押し通すのよ」
先ほどと打って変っていきなりの根性論。こんな人がいじめを理由に親族を転校させようとしてるのである、とても信じられない。
「……出来ないなんてことは聞きたく無いわねぇ! 別にそれなら、あなたを次の選挙で落とすだけよ。代わりはいくらでもいるわけだし」
……あれ、なんか相手側からの悲鳴が聞こえる気がする。てかこれ、相談でも説得でもないよね? ただの脅迫だよね? しかも選挙って、なんか段々とカタギは触れてはいけないようなことを言い出したんだけど。
「ええ、時間は無いわ。出来ればこの連休で環境を整えてあげたいのよ。これ以上だと冗談でなく心が壊れちゃうわ」
どう考えても、僕よりも電話口の人の心のほうが折れてそう。
「名前? えーっと……」
そこで母さんは口ごもる。名前を訊かれるってことは、まさかこの話通ったわけじゃないだろうな? しかし仮に通ったところで僕の女性としての名前なんて……。
「『安藤春奈』で、って」
と思ったらいきなり秋奈が母さんに耳打ちする。しかも、僕の意向なんか聞かずに勝手に言い出すのだ。
「えっ? 『安藤春奈』? えぇ、安藤春奈で。ああ漢字? 季節の春に奈良の奈、で」
「ありがとうお母さん!」
……何でだろう。僕の知らないところで、着々と外堀が埋められているような気がする。
「ありがとう。ええ、次は議長席のポストね。分かった、社長には取りなしておくから。お願いね」
そう言うと、お母さんは電話を切った。なんとも壮絶な三分間だったが。
「結論から先に言うと、あなたは『安藤春樹』の親戚の『安藤春奈』として学校に通ってもらいます」
「うん、聞いてたから分かる」
相手方に同情したくなるくらいごり押ししてたもんね。お母さんに敬意を表するよ。ごり押しの凄さ的な意味で。
だが、僕はすっかり忘れていた。うちの母がこの程度の暴走では止まるはずがない……ということを。
「ああ、そうしたら本格的に『春奈』用の服とかが必要ね」
その瞬間、僕の思考は止まった。母の奥にいた秋奈もまた、思考停止して……あれ? なんかご満悦って表情だぞ!?
「それ、面白そう! 良いね、行こ行こ!」
「ちょっと待て! まさかとは思うけど……やっぱり女物の服?」
しかも買う前提って。しばらくは、秋奈の服でも借りてやり過ごそうと思ったのに……。
「だって今のあんたは女の子でしょ? 戸籍ももう完全に女の子なんだから、男物を着る理由も無いでしょ?
「そうだそうだ! ってかだいたい、あたしの服を貸すだけではどう考えても回しきれないし。何なら姉ちゃんに可愛い服着せてみたいし」
「いいわね、面白いことになりそう」
「でしょお母さん? あたし天才だと思ったもん」
ああ、無情。僕に拒否権は無いみたいだ……。しかし、お母さんと秋奈はご満悦らしい。おかしい、こんな現実が。
「何だか、気にくわないって表情ね」
お前らのせいだ。
「そりゃそうだ! なぜ女物の服に限定するんだよ! なんかもうちょっと中性的なものとかあるでしょうが! せめてジャージにしようぜ」
「それは今どきのJCとして問題ある発言ね」
「JC言うな! なんか犯罪臭感じるわ」
はあ、さっきから斜め上すぎる返事ばっかり返しやがって。正直ツッコミ入れるだけでも精一杯だよ。
「ああ、もういいよ。とにかく買い物行こうよ。何なら無理やり連れだす」
「そうしましょうか。そっちの方が早い」
「早くないから! それ、体のいい誘拐だから!」
それでも必死に抗う。当たり前だけど、こいつらの着せ替え人形だけはまっぴらごめんだ。しかし、こんな状況では僕の拒否権など微塵の効力も発動しないわけでして。
結局、うちの女子ズの暴走を元男子一人で止めきれるわけもなく、そんなわけで僕は、二人によって無理やり駅前のデパートへと引きずり出されることになったのだった。
読んでいただきありがとうございました。
私事ですが、私の元にメッセージで感想をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。また、その際いただいたメッセージで主人公が見ていないところでの家族の会話が気になるというご意見をいただきました。第一章終了時点での閑話で、タネ明かしをしようと考えていますのでもう少しお待ちいただければ幸いです。